目を閉じて、開くだけ。「時」を「渡る」のに必要なのはそれだけ。

誰にでもできそうで、それなのに多くの人にはできなくなってしまうこと。

それが「時渡」なのだと、濡露さんは言いました。

「こうして私たちが出会えたのも、あなたに『時渡』ができるからよ」

あの人は、あのとき、そう言って白く美しい手を伸ばしたのです。どこか寂しげな瞳で私を見て。

 

私は何の特徴もない女子学生でした。少なくとも、私自身はそう思っていました。ただ、一人で静かに本を読むことが好きなだけの人間だったのです。

けれども世の中は、そんな私の存在を許してくれませんでした。「ひとりでいる」ことは、殊に集団生活の場では異質だったのです。クラスメイト達は陰から私を指さし、嗤っていました。たぶん、そうだったのでしょう。

私はいつも、自分に向けられる悪意を感じていました。「ひとり」は「悪いこと」で、私は人々にとって「悪い人」でした。求められる「正しい」振る舞いは、「みんなと一緒に笑い、みんなと一緒に悲しみ、心を同じくして過ごすこと」なのです。しかしながら、それは私にはなかなか難しいことで、だからこそ幼い時分からつまはじきにされることが多かったのです。

それは高校生――私が入学したのは家から近い女子校でした――のときも変わりませんでした。あっという間にいくつかのグループができ、行事のときには「クラスの一致団結」が求められましたが、私にはそれがうまくできませんでした。「ひとり」でいる私は、それまでそうだったように、クラスメイトから冷ややかな眼を向けられるようになりました。

かろうじて、図書室で本を読むときだけは、その痛い視線から逃れることができました。物語の世界に入ってしまえば、私は現実のことを忘れて、旅をすることができたのです。

いつか、『果てしない物語』のバスチアン少年に憧れたことがありました。物語の世界に入り込んで、「何でもできる私」になれたら、どんなに良いかと。現実の「不器用な私」を捨てて、いっそ還ってこられなくなってもいいとまで思っていました。

それが「私のいる世界」の「私」だったのです。

 

ですから、私が「時渡」になったのは、ある意味で不思議なことであり、またある意味では必然だったのかもしれません。

 

それは何の前触れもなく訪れました。ある夜、また朝が巡ってくることを思い悲嘆にくれていた私の前に、その人が現れたのです。

いつの間にか私は、群青色をした空間にいました。頭上は半円形をしていて、夜の闇に星が一つもないような、そんな場所でした。きちんと立てているのが不思議なくらい、天と地の境がわかりませんでした。

そこにぽつりと浮かぶ赤は、とてもよく目立ちました。自然と私の目はそちらへ吸い寄せられ、――その人と、出会ったのです。

「はじめまして」

美しい人でした。切れ長の目は瞳が赤く、長く真っ直ぐな黒髪は艶やかでした。真っ赤な着物がよく似合っていて、おそらくこの人以外の誰にも着ることができないだろうと、私はすぐに思いました。

私は目の前に現れたこの人に見惚れてしまい、「はじめまして」を言うのが遅れてしまいました。しかも人と話したことがあまりないので、たった一言なのにつっかえてしまいました。

それでもこの人は、私を嗤ったりはしませんでした。ただ静かに、口元で微笑んでいました。

「私は濡露」

その人は言いました。じゅろ、という響きが何のことだかわからずに、何も答えられないでいると、「私の名前よ」と教えてくれました。そしてこうも言ったのです。

「死神をしているの。魂を回収するのが仕事なのよ」

その時、私は「もしかして私を迎えに来たのだろうか」と思いました。なにしろ、私は世界から悪意を向けられる存在です。もうこの命が終わってしまっても、きっと誰も気にも留めず、日常が続いていくのでしょう。そのために濡露さんは私の前に現れたのだと、そう思ったのです。

けれども続く言葉は、それを否定しました。

「でもね、アナタの魂は回収しないわ。アナタにはまだ命が残っている。残っているものを奪うことは、私にはもうできないの」

どうやら私は、まだ生きなければならないようでした。それを聞いた私の心には、落胆と安堵が混ざり合って存在していました。一応、私にも未練というものがわずかにでもあったようです。

「アナタに会いに来たのは、頼みごとをしたいから。……ねえ、アナタの名前を言って頂戴」

濡露さんは、私の頬にそっと触れました。私はその手の冷たさにびくりとしましたが、何故でしょうか、怖いとは思いませんでした。それどころか、久しく感じていなかった「優しさ」のようなものを感じたのです。

だから、質問の答えもするりと出てきました。

「とわ子。央とわ子です」

「そう、とわこ。良い名前よね」

名前を褒められることはめったにありませんでした。それどころか、私には褒められたという経験がなかったのです。いつか昔にはあったのかもしれませんが、もう憶えていない遠いことでした。だから濡露さんの言葉には、大層驚きました。

目を見開いた私に、濡露さんは言葉を継いでいきます。

「とわこは、たくさんの世界を渡ることができるわね。アナタ自身は気づいていないかもしれないけれど、その素質があるの。だからそれを見込んで、アタシはお願いをしに来たのよ」

「世界? お願い?」

私が鸚鵡返しに単語を並べると、濡露さんは頷きました。そうして、私の役割を告げたのです。

「とわこは、『時渡』なの。数々の世界を渡り歩き、見聞することができる。まだ小さな力だから、アタシがもっと広く世界を渡れる力をあげるわ。そうして、数多の世界を渡って、そのことをアタシに教えてほしいの」

正直に言って、一息には理解しがたい話でした。「世界」が何なのかも、「渡る」ということも、これまでの私は意識したことがなかったのです。混乱している私に、濡露さんは困ったような笑みを浮かべて言いました。

「ああ、ごめんなさい。一気に言われてもわからないわよね。そうね、今は……とわこはたくさんのものを見ることができる人なの、ということだけわかってくれればいいわ」

「たくさんの、もの、ですか」

「そう。世界はアナタのいる場所に限らないの。もっとたくさんの、アナタの持っている常識が通じないところや、アナタの知っている『かたち』を持っていないところがあるのよ。多くの人はそれを『夢』や『空想』で済ませてしまうけれど、とわこはそれを見て、触れて、感じることができる人なの。アタシはそんな人を探していたのよ」

なんだか濡露さんの話は壮大で、私なんかが聞いていていいものなのかわからなくなってしまいそうでした。私は濡露さんがいうほど、すごそうな人ではありません。ごく平凡な、いいえ、もしかすると平凡という地位にも満たない存在である私に、この人は何故そんなことを言うのでしょう。

きっと私が泣きそうな顔をしていたのでしょう。濡露さんは私の頬を撫で、それからそっと手を離すと、今度は私の体をぎゅっと抱きしめました。手は冷たいのに、胸はとても温かく感じました。

「とにかく、アタシにはとわこが必要なのよ。『時渡』のアナタが、どうしても。……アタシの願いを、きいてくれるかしら?」

それはとても切実な声でした。「はい」という返事を心底願っていて、それ以外を口にしてしまえば何もかもが消えてしまうのだとでもいうような、そんな声。だから私は、その通りの答えを返しました。

私を求めてくれたこの人の、悲しむ顔を見たくなかったのです。

「はい、わかりました。私でよければ、あなたの、濡露さんの願いをききます。きけることなら、ですけれど」

「きけるわ。とわこだからできるの。……ああ、良かった。とわこがそう言ってくれて」

顔をあげると、濡露さんの表情が見えました。ホッとしたような、笑顔がありました。赤い瞳は潤んでいて、今にも雫がこぼれてきそうでした。

私の役目は、濡露さんの願いを叶えること。彼女のいう「数多の世界」を渡って、その様子を見聞きし、彼女に伝えること。その方法はとても簡単でした。

「目を閉じるでしょう。それから、開くの。それだけで、とわこは『時渡』ができるわ」

初めて言われたときはわかりませんでしたが、そこで試しにやってみて、その意味がすとんと胸に落ちてきた気がしました。

目を閉じる――そこにある世界から一旦離れて、目を開ける――別の世界へ渡る扉を開く。私にはそれが、何故か容易にできたのでした。

群青色の世界を閉じて、他の世界の扉を開くと、そこは建物の中でした。床の間、というのでしょうか。畳敷きの部屋に、いけた花が置かれ掛け軸のかかった場所があります。開けた障子戸から美しい日本庭園らしい景色が見えました。

思わず感嘆の声を漏らした私に、濡露さんが言いました。

「ここがアタシの部屋。ここにはアタシが呼んだときに来られるわ。そういう場所は他にもあるけれど、基本的には『時渡』で渡ることのできる世界にはその一度きりしか行くことができない」

「一度きり……」

例えば、この先「時渡」をして、どんなに素晴らしい世界に出会ったとしても。そこに辿り着けるのはその一度きりで、離れればもう二度と来ることはできないのだそうです。例外はこの濡露さんの部屋と、他にほんの少しだけある場所だけらしいのです。

「行った先の世界を離れれば、とわこは必ずもといる世界に還るわ。それを繰り返して、たくさんの世界を渡るの。そうして見聞きしたことを、アタシに教えて頂戴。それがとわこの、とわこにしかできない、役割よ」

「私にしか、できない……」

私は自分の胸をきゅっとおさえました。これまで、「私にしかできないこと」なんてあったでしょうか。いつも「誰にでもできること」ができなくて、人の足を引っ張っては白眼視されてきた私にも、できることがあるのでしょうか。

濡露さんはできるといいます。私にしかできないといいます。――まるで、物語の主人公になったようだと思いました。ずっと憧れていたものに、私はなれるのでしょうか。

「あの、濡露さん」

「何?」

「どうして、たくさんの世界を渡るんですか? どうして私にそんな大きなことを頼むんですか?」

私は思い切って訊いてみました。濡露さんは願いこそ言いましたが、その目的をまだ教えてくれていません。

しばらく考え込むように黙ったあと、濡露さんはぽつりと、言いました。

「永遠を、探すの」

「永遠……?」

それはいったいどんなものなのですか。何故探すのですか。そんな問いがあふれそうになりましたが、言葉にはなりませんでした。口にすることを、止められたのです。

「ちょっと、濡露? 戻ったの?」

突然部屋に入ってきた女の子によって、遮られたのでした。

小学生くらいの、髪を頭の左側で一束結った女の子です。濡露さんより随分と年下のようなのに、口調に遠慮はありませんでした。その子は私を見て、驚いたように目を見開くと、濡露さんに問いかけました。

「……見つけたの? 時渡」

「ええ、とわこよ。彼女が最適」

女の子は私をちらりと見て、それからまた濡露さんへと視線を戻しました。何故でしょうか、睨むような目をしています。

「とうとう、始めるんだね」

「始めるわ。アタシはとわこに、『永遠』を探してもらう」

「……そう。それで濡露が満足するならいいけれど」

無表情になった女の子は、私をもう一度じっと見てから、部屋を出ていきました。首を傾げる私に、濡露さんが笑みを浮かべて言います。

「今の子はミトシっていって、歳神なの。アタシの……そうね、友達みたいなものかしら。とわこもそう、アタシの大切な友達よ」

物語の中で何度も出てきた言葉で、けれども現実の私にはなかなか縁のなかった「友達」という単語は、私の胸にじんとしみていきました。私は初めて「友達」を得たのです。

嬉しくて、胸から喉に、喉から目に、こみ上げてくるものがありました。それは涙となって私の頬を伝い、濡露さんの姿をぼやけさせました。

「また、会えますか?」

「何度でも会えるわ。だって、アナタはアタシの友達の『時渡』なんだもの。会う方法も簡単よ」

目を閉じて、それから、目を開く。それが私の得た力。濡露さんに必要とされている、私ができる「時渡」。

 

目を閉じて、目を開くと、そこには朝になった私の現実がありました。見慣れた部屋の天井があります。

「……夢?」

呟いてみますが、どうにもリアルです。体に、濡露さんの手の冷たさと胸の温かさがまだ残っているような気がするのです。

夢だったとしても、幸せな夢でした。私に友達ができたのです。私に役割ができたのです。何のとりえもない、疎ましがられるだけだった私が、私にしかできない力を得たのです。

現実でいつもどおりにそうしているように、重い体を引きずるようにして、学校へ行く支度をします。痛い視線を浴びながら午前の授業を切り抜け、昼休みに図書室へ行きました。

普段の私ならば、すぐに本を読み始めるところです。けれども今日は、試してみたいことがありました。

――目を閉じて、それから、目を開く。

「……あ」

そこに広がっていたのは、群青色の世界でした。昨夜見たものと同じ、天も地も夜空のような、どこまで続いているのかわからない空間でした。

そこに浮かぶ赤い色が、優しい声で言いました。

「さっそくようこそ、『時渡』のとわこ」

私は赤い着物の濡露さんに駆け寄り、思い切り抱きつきました。たしかに触れます。着物の滑らかな感触が手にあります。ああ、夢ではなかったのです!

「さあ、『時渡』を始めましょうか。初めてだから、アタシが行き先を決めるわね」

濡露さんに促されるまま、私は目を閉じました。

また開いたときには、別の世界が広がっていました。美しい花畑が広がっていて、私はほう、と溜息を吐きました。

濡露さんの姿は見当たりません。突然一人にされたので不安になりましたが、あの言葉が私を奮い立たせます。

――『時渡』で見聞きしたことを、アタシに教えて頂戴。それがとわこの、とわこにしかできない、役割よ。

物語の主人公になったつもりで、私は一歩を踏み出しました。