私の目の前には、たくさんの十字架がありました。野原一面に刺さるようにして並ぶ無数の十字架は、細い枝を括っただけの簡素なものから、金色に輝く立派なものまで、さまざまなものがありました。
十字架といえば、私が思い浮かべるのは西洋の宗教です。もちろんそれは私の住んでいる世界の、私の知りうる範囲での概念に基づいています。ですからここでそれらがどんな意味を持つのか、今の私にはわかりません。わからないからこそ、ここを調べに来たのです。それが私の役目なのです。
私はまず、この世界を歩いてみることにしました。十字架たちの間を縫うようにして、てくてくと進みます。いいえ、「進む」というのは正しくないかもしれません。私はいつでも、来た世界をあてもなく歩き回り、情報を集めているのですから。
今にも壊れてしまいそうな粗末な十字架と、眩しいほどに飾り立てられた十字架の隙間を、何度も何度も通りました。そうしてやっと、私はこの世界の住人らしい者にめぐりあうことができました。
「こんにちは。何をしているんですか?」
私はその人に尋ねました。
彼は穴を掘っていました。泥まみれになりながら、その膝ほどまである深い穴を、大きなスコップで作っていたのです。
ですから私がした質問の意図は、「どうして穴を掘っているのか」ということです。行動は見たままわかるのですから、理由が知りたいのです。
「墓を作っているんだよ」
その人は私の尋ねたいことを、上手に汲み取ってくれました。彼の答えに、私は「なるほど」と思います。彼の掘っている穴の傍らには、木を丁寧に削って作ったと思われる十字架が置いてありました。
「誰のお墓ですか?」
行動の理由がわかったところで、私は次の質問をします。すると彼は、首を横に振って答えました。
「誰の、じゃないんだ。僕が作っているのは、捨て去られた心の墓なんだよ」
「捨て去られた心?」
彼の言葉を、私は喋ることのできる鳥がそうするように返します。彼はうなずき、けれども穴を掘る手を止めないまま、教えてくれました。どうやらここにある十字架は全て「捨て去られた心」とやらのお墓らしいのです。
「ここには他の世界から、たくさんの心が集まるんだよ。何かになりたいと思う心、何かを知りたいと思う心、何かをしたいと思う心、何かを手に入れたいと思う心……いろいろあって、その質や重さもひとつひとつ違うんだ」
ふと彼は手を止めて、手のひらを私に見せました。スコップ以外何も持っていなかったはずの彼の手には、どこから現れたのか、ほのかに光る丸いものがありました。話を解するに、おそらくはこれが「心」なのでしょう。
私が「心」をじっと見ていると、彼はゆっくりと「心」を持った手を握りました。すると光は見えなくなり、彼はその手でまたスコップを持ち直したのでした。
再び穴を掘りながら、彼は話を続けてくれました。
「いろいろな心の、質や重さによって、そのために作る墓が違うんだ。元の持ち主にとってとても大切な心だったなら、その分墓も立派になる。捨てるのに大変苦労しただろうから、手厚く葬ってあげるんだ。逆に大したことがないようなものなら、とても簡単に穴を掘り、簡単な墓をたてる。それが僕の仕事なんだよ」
「大切な心って何でしょう?」
「そうだな、例えば夢がわかりやすい。長いこと叶えたくて努力していた夢があって、けれどもそれを捨てなければならなくなったとする。この場合、捨てられたものは大切にしていた心だ。だからそれなりの墓を作ってあげなくちゃならない。一方、叶ったらいいなあと思いながらもそうするための行動をせず、ただただ思うだけの夢があったとする。これは何もしなかった分、捨てるのも簡単だ。だからそれなりの墓を作ることになる」
それなり、と言いますが、その程度は「心」に対してどれほどのことをしたかなどによって変わるようです。これでたくさんの種類の十字架があることへの疑問は解けました。
ですが、あらたな疑問がわきあがってきました。私は率直にそれを口にします。
「どうして、とてもとても大切にしていた心を捨てなければならなくなるんでしょう。持ち続けていることはできないんですか?」
彼は手を止めました。私の質問に答えるためではなく、穴がちょうどよい深さに達したからでした。そうして私に見せてくれたときのように、そっと手を開くと、そこに現れた丸いものを足元に落としました。
穴を抜け出ると、今度は土をかけて埋める作業が始まりました。手を動かしながら、彼はまた答えてくれました。
「強い心も、捨てなければならないときがあるんだよ。他の何かを手に入れる必要が出てきたとき、心をひきかえに捨てなければならない。そんなことが、たくさんの世界で、山ほどあるんだ。きっと君も、知らず知らずのうちに、何かを選んで何かを捨てているはずだよ」
現実、という言葉に、私は胸がずきりと痛みました。
私はこの「時渡」という仕事を、自分でやると選んでしています。それとひきかえに、何を捨てたというのでしょう。
それこそ、「現実」ではないでしょうか。私が住む世界にいる、とてもみすぼらしくて情けない私を、「時渡」をすることによって少しずつ、もしかしたら数多く、捨てているのかもしれません。
……
かもしれない、というのは、「現実」に戻ればやはりそこにはみすぼらしい私がいるからなのですが。むしろどんどん「現実」の私は壊れているようにも感じます。
「ああ、私、行かなくてはなりません」
私は彼に言いました。痛む心を覚られないよう、彼に背中を向けました。
「それはなかなか捨てられないかもしれないね。君が今の君でいる限り」
彼のそんな声が聞こえた気がしました。