その日、わたしが濡露さんに連れられてやってきた場所は、大きなガラス窓が並ぶ部屋でした。
窓を背にして立つ長身の女性に、濡露さんは親しげに挨拶をします。
「ルーシー、元気だった?」
「こっちが訊きたいわね、濡露。もう具合は良いの?」
ルーシーと呼ばれた女性は、緩やかなウェーブの黒髪を払いながら言いました。
濡露さんはそれに、困ったような笑みで頷きます。
「もう大丈夫。それより、この子を」
わたしの背中を軽く押し、濡露さんは続けます。
「とわこ、というの。アタシの見つけた時渡」
「あぁ、例の子ね。よろしくね、とわこ。ワタシのことはルーシーって呼んで」
艶かしく口角を上げて、ルーシーさんはわたしに右手を差し出しました。
わたしはそれをそっととって、軽く握りました。

ルーシーさんは、この窓の部屋に住んでいるわけではないといいます。
ただ、ここに来ると満たされるのだそうです。
「外を御覧なさい」
ルーシーさんに促されて、わたしは初めて窓の向こうを見ることができました。
向こう側には男性と女性が一人ずつ。男性は女性に向かって正座をしています。
「意識して、向こうの音を拾おうとしてごらん。とわこにも聞こえるから」
ルーシーさんの言うとおり、窓の向こうに耳をすませてみます。
甲高い声が、単調な罵声を奏でているのが聞こえました。
こういうものが苦手なわたしは、思わず眉を歪めます。
「辛いかい? ごめんね。でも、同じことばかりを繰り返し唱えていたでしょう」
……はい」
ルーシーさんはいつの間に用意したのか、上品な装飾が施されたグラスに水を注ぎます。
そしてわたしに手渡してくれました。そっと口に運ぶと、ほんのり甘い味がします。
「あれはね、足りないのさ。色々なものがね」
ルーシーさんの言葉に、わたしは首を傾げます。
「色々って何ですか?」
「傍から見ていて、まず語彙は足りないね。ワタシならもっと上品な罵り言葉を、数多く吐けるさ」
けらけらとルーシーさんが笑います。わたしは笑っていいのかどうかわからず、首を傾げたまま黙っていました。
そんなわたしの態度をどう思ったのかは解りませんが、ルーシーさんは少し落ち着いて続けます。
「あの女はね、劣等感を抱えているの。自分が劣っている、足りないと思うから、上位に立ちたくて人を罵る。あの足りない頭で考えた貶し言葉を一生懸命吐き続ける」
それでは一方的ではないでしょうか、男の人が可哀想です。わたしがそう口にする前に、ルーシーさんはそれから、と言いました。
「男の方もね、女に嫌われたくなくてそれを止めない。聞き続けることが受け入れることであり、彼女を愛することだと思い込んでいる。全くばかな話さ」
それではどちらもあまりいい人ではありませんね。
わたしが俯いてしまうと、ルーシーさんはぽつりと呟きました。
「でも、ワタシの役にはたってくれてるんだよ、あれ」

ルーシーさんの言葉の意味が解らないまま、わたしは濡露さんと共にそこを離れなければなりませんでした。
最後にルーシーさんに、また来ても良いですか、と訪ねると、にっこり笑って「歓迎するわ」と言ってくれました。
わたしの異世界の知人が、また一人増えました。

*
 * *

とわこが去った後、濡露は再び「窓の部屋」を訪れた。
窓の外を食い入るように見つめるルーシーの邪魔をしないよう、静かに椅子に腰掛ける。
やがて息の荒いルーシーが、窓から目を離し、濡露を見止めた。
「濡露、おかえり」
「相変わらず酷い趣味ね」
「最低って言わないところが濡露ね。好きよ」
頬を紅潮させたまま、ルーシーは濡露の正面に着席する。
彼女がぱちんと指を鳴らすと、真っ赤なワインの入ったグラスが二つ現れた。
「最後までとわこに見せなくて良かったの?」
「見せたくないわよ、変態モードのルーシーなんて」
「確かに、ワタシもあの子に見られるのはちょっと嫌だわ」
ルーシーはワイングラスに口をつけ、ほう、と息を吐いた。
窓の向こうに男の姿はなく、ただ女が血と吐瀉物と目玉と歯を撒き散らして死んでいた。

あの後、男は立った。そして、喚き散らしていた女を突然殴り始めたのだ。
一発頬を殴れば、呆然とした後また口を開こうとする女。
二発目、三発目と続けていくと、やめてと叫ぼうとする女。
抵抗しようとした女の腹に男の膝が入ると、女は床に倒れた。それからはもう止まらない。
美しかったはずの女の顔は、男の手によって醜く歪む。
白く細い手足は、男の足によって様々な方向に曲がる。
女が傷つけられる光景を眺めることこそが、ルーシーの悦楽だった。
傲慢だった女が蹂躙されていく姿は、彼女の気持ちを高揚させる。
女が完全に壊れてしまうと男はどこかへ去っていくが、それは放っておく。
ルーシーは女にしか興味が無いのだ。
自らの傲慢によって、他人の手で壊れていく女にしか。

「とわこには手を出さないでね」
濡露が真剣に言うのを、ルーシーは一笑してあしらった。
「出さないわよ。あの子、全部自分が悪いつもりだもの。傲慢の中でも、ワタシが扱いにくいと思う種類だわ」
「絶対よ」
……あの子のこと、閉じ込めておきたいのね」
ルーシーの言葉に、濡露は何も応えなかった。