春寒次第に緩む頃。そんなふうに表現する時期が、今年も近づいてきた。冬休みに入る前から三年生は進路に合わせてまばらに登校するようになっていたけれど、年明けからはとうとうほとんど姿を見なくなった。
会長――今となっては元会長だが、僕は会長と呼び続けている――はセンター試験の結果で進路が決まり、もう学校にはあまり用がないはずなのに、生徒会室に入り浸っている。水無月先輩の試験がこれからなので、追い込み講習に合わせて一緒に来ているらしい。
「会長、答辞の原稿はもうできました?」
「まだだなー。在はもう送辞できたのか?」
「完璧にはまだ。先生に添削してもらいながら進めてます」
卒業式が近づいている。新年度の生徒会長となった僕には送辞を読むという大仕事が待っていて、学年末テストの勉強と並行して原稿を作らなければならない。昨年、会長も同じことをしていたのかと思って、訊いてはみたけれど、例によって「憶えていない」らしい。あがり症で、人前に立つ場面をいつも勢いで乗り切っていたという会長は、送辞の原稿も放り投げていたようだった。そうして本番、自分の想いをそのまま伝えたのだろう。
会長はそれでいいけれど、僕はきちんと用意しておかなければ何もできなくなってしまうから、生徒会室で送辞を書いては職員室へ持って行くということを繰り返していた。いつかとは違って水無月先輩を頼ることはできないし、読む前に公開する気もないので、これは僕が完成させなければならない。
会長を、水無月先輩を、この学校を巣立っていく人々を思って。
「卒業式、楽しみにしてるよ」
「そんなに期待されると、僕が緊張してしまいます」
たいしたことは言えない。ただ、会長には感謝している。この一年、僕を、僕らを守ってくれたことは、けっして忘れない。
年度の始まり、僕らの生活を大きく変えてしまった事件の容疑者は、未だに捕まってはいない。岡林律人に関して、一時は目撃情報もあって捜査がなされたものの、その足取りを正確に掴むことはできなかった。とはいえこの町に戻ってくる気配もなく、僕らは至って平和に年を越せたので、少しだけほっとしていた。
元日、黒哉が初めて僕の家を訪ねてきた。正確にいえば黒哉の意思ではなく、彼の保護者である樋渡さんたちが、うちに挨拶をしたいと言ってくれたのだ。着物姿の集団が普段着の黒哉を囲んでいる様子はなかなか面白く、つい思ったことをそのままこぼしてしまった。
「黒哉、なんだか若様って感じだね」
「うるせー、殴るぞ」
黒哉は顔を顰めたけれど、樋渡さんたちは笑っていた。「若様」とわざと黒哉を呼んで、肩をつついたりした。その光景があんまり楽しかったので、大助君と亜子さんにもメールで報告したほどだ。冬休みが明けてから、二人は黒哉を「若様」とからかって遊んでいた。
ただ、黒哉たちはうちに遊びに来たわけではない。まもなくして、母と祖父母、樋渡さんたちは、岡林について情報を交換したり、対策を話し合ったりし始めた。話のなかには黒哉のお母さんが書き残したという日記も出てきて、黒哉がどんなにお母さんから愛されていたかを窺い知ることができた。
「岡林が年内に捕まってくれれば、こんな面倒な正月にはならなかったのにな」
「どうかな。捕まったら捕まったで、樋渡さんなら黒哉を連れてきて、これまでの苦労を話してたと思うよ。……良い保護者を持ったよね、君は」
僕と黒哉は端で大人たちの話の断片を拾いながら――さすがに中心には据えてくれなかった――正月を静かに過ごした。夕方になってから祖父母の提案で、全員に神社に詣で、今年の平穏と事件の解決を願ってきた。願ったところで、神様があの人を捕まえてくれるわけではないのだけれど。
初詣は年を越してすぐに行ったから(それが常田家の伝統だ)、その日のうちに二度も神社に足を運んだのだけれど、やはり僕は礼陣にいるという鬼のことを全面的には信じられないし、これからも信じないと思う。ただこれでみんなの気が済むのなら、この石段を何度も上るのも、そう悪くはない。黒哉は鬼の存在に救われているそうだし。
そんなふうに始まった新しい年。まもなく冬休みも明け、昼休みを生徒会室で過ごしながら、僕らは年度の終わりが近づくのを感じていた。誰も何も言わないまでも。会長と水無月先輩があまり顔を出さなくなってから、特に亜子さんが僕に申し訳なさそうに尋ねるようになった。
「ね、生徒会役員じゃないのに、わたしたちが出入りしてていいの?」
「何を今更。俺たち、一年のときから生徒会室に入り浸ってるじゃねえか」
僕が言葉を発する前に、大助君が言う。備え付けの電気ポットを使うのも慣れたものだ。彼の言う通り、会長が許していたために、亜子さんと大助君は高校に入って間もない頃からこの部屋を使っていた。片づけを手伝ってもらったこともある。一年生のときからそうしているということは、僕よりも長く生徒会室を使っているのだ。亜子さんが、そして素行さえ良ければ大助君が、生徒会役員であってもおかしくない。
「流さんはフリーダムだったからわたしたちがここに来るのを許してくれてたし、他の役員の人たちも流さんが言うならって黙認してたけど……」
「僕じゃ他の役員への影響はあまり期待できないですしね」
「あ、ごめん、そういう意味じゃない」
亜子さんは否定してくれたけれど、たしかに僕では、生徒会役員ではない人々をこの部屋に出入りさせること、そして春になったらまた屋上を開放することを許してもらえるかわからない。今のところ何も言われてはいないけれど、もしかしたら不満を持っている生徒がいるかもしれない。先生も会長がいなくなることで、もともとあったはずの制限をし直す可能性は十分にあった。
「そろそろ弁当も自分で作るか……。どうせいつまでも在に頼るわけにはいかないし」
黒哉までそんなことを言いだす。それは僕が黒哉とのつながりを一つ失ってしまうことになるから、非常に困るのだけれど。
「頼ってもいいんだよ。母も黒哉にお弁当を作ることで安心してるんだから」
「でも負担だろ。オレも生活にちょっとは余裕出てきたし、お前が卒業したらそうしなきゃいけないんだから、それが一年早まるだけだ」
「そんな……」
その一年が貴重なのに。僕があからさまな落胆を浮かべたので、黒哉は呆れたように溜息を吐いた。
「わかった、わかった。あと一年頼ればいいんだろ」
「うん。だからちゃんとお弁当を渡せるように、生徒会室と屋上の出入りについては何とかしようと思う。僕は会長みたいにはできないけど、会長のやってきたことを引き継がなきゃいけないんだからね」
そうでなければ、僕は黒哉や亜子さん、大助君と過ごせる大切な時間を失ってしまうことになる。僕だけが話についていけずに寂しい思いをしたこともあったけれど、たしかに昼休みは、僕にとってかけがえのない時間になっていた。
会長がいなくても、水無月先輩がいなくても、僕はこの時間を守らなくてはならないのだ。
年末のアルバイトと年始に在の家に行ったことで、冬休みは休む間もなく終わった。在の家に行くということは、大晦日に樋渡さんから突然言い渡されたことで、正直なところ焦った。在の家族とまともに顔を合わせるのは、これが初めてだ。
「お弁当作ってもらってるなら、お礼も言わないとね。私ができないことを、常田さんがやってくれてるんだから」
母親が亡くなってすぐの頃なら、オレはこの言葉に反発していただろうし、そもそも樋渡さんがこんなことを言うこともなかった。母親の死から八か月経って、やっと母親が望んでいたであろうかたちに落ちつけたような気がする。
あとは岡林が捕まってくれさえすればいいのだが、そう簡単にもいかないようだ。以前あった目撃情報は、結局空振りに終わってしまって、以来警察が大きく動いたという話も聞かない。事件の解決までは、まだ時間がかかりそうだった。
『まあ、今年は良いことがあるさ。私たちは引き続き、黒哉を見守っていくからな。もっとも、黒哉が私たちを見ることができなくなるかもしれないが』
年が明けて、在たちとともに向かった初詣で、子鬼に会った。参詣を終えたオレにまとわりついて、そんなことを笑いながら言った。
「見ることができなくなるって?」
周りに聞こえないように尋ねると、子鬼は頷いた。その顔は特に切なそうだということもなく、ごく当たり前のことを説明しているだけのようだった。
『基本的には、鬼が見えるのは子供のうちだけだからな。大人になれば、こちらから黒哉たちのことを見ることはできても、黒哉たちが私たちを捉えることはできなくなる。その必要がなくなるからな。人間は人間の世界を、人間のやり方で生きるのが正しい』
鬼が見えなくなれば、オレは大人として認められるということなのだろうか。けれども鬼がいるのがすっかり「当たり前」になってしまった今、急に鬼の姿が見られなくなると混乱しそうだ。そんなことを考えていたら、それも見透かされて、子鬼は続けた。
『大丈夫だ。見えなくなるときは、だんだんとぼやけるようになるらしい。私は力の強い鬼だから、たぶん最後の最後まで見えるだろう。私にも気づかないようになったら、それが黒哉が大人になったときだ』
「それってだいたい、いつ頃なんだ?」
『人によってまちまちだな。例えば大助は、もう私くらいしか見えないらしい。並の鬼を見ること、気配を感じることは、かなり難しいんだそうだ。だが、大助の姉である愛は特別な才能を持っていてな。すっかり大人であるはずの今でも、ほとんど全ての鬼がはっきりと見えるし、言葉をかわすこともできる。鬼の力と鬼の子の持つ力によって、鬼が見える期間というのは変わるんだ』
コトミさんに誘われて引いたおみくじを開きながら、子鬼の話を頭に入れる。オレには特別な才能なんてのはないと思うから、きっと大助のように、そう経たないうちに鬼を認識できなくなるんだろう。そして今度は、それが「当たり前」になっていく。ここに引っ越してくる前、母親が死ぬ前にそうだったように。
「うーん、末吉って微妙だわ……。これならいっそ凶でもでてくれればいいのに。黒君はどうだった?」
コトミさんに手元を覗き込まれて、ハッとした。それでようやく、おみくじの結果を確認する。――大吉だった。これまでの悩み晴れて、新たな気持ちで物事を始められる。そんなことが書いてあった。
「あら、よかったじゃない。ママ、ママはどうだった?」
おみくじの結果を聞きまくってはしゃいでいるコトミさんを見ていると、今度は肩を叩かれた。在が背後に立って、また微妙な笑顔を浮かべていた。コイツはおみくじだとかは信じない性質なんだろう、きっと。礼陣で生まれ育ったくせに、鬼だって信じ切れていない奴だ。
「どう、今年最初の運試しは?」
「大吉。悩みが晴れるってよ」
「本当に? 良かったね、良い結果で」
自分も引いたなら絶対に報告してくるはずだから、やはり在はおみくじなんか引いていないんだろう。その代わりに巫女(大助の姉さんだ)が配っている甘酒を貰ってきたようで、一杯をオレに差し出した。甘いものが苦手なオレだが、例えば御仁屋の和菓子なんかは食える。甘酒はそれと同じようなものだった。素直に美味いと思う。
「晴れそうな黒哉の悩みって何?」
甘酒の入った紙コップを両手で包み、手を温めながら、在が訊く。目下の悩みといえばあの男、岡林のことくらいだが、それは簡単に解決することじゃないだろう。だから在も「晴れそうな」と言う。それ以外では、周囲に負担をかけていることだろうか。独りで生きていけると、生活できると思っていても、生活するということが他人の存在を前提としている以上、本当にたった独りきりで生きるというのは無理な話なのだと学んだ。
それでも周りに迷惑をかけているのなら、いくらかはそれを減らしたい。それを踏まえて「今度から自分で弁当作ろう」と思ったのだが、あとでそうしてしまうと在が残念がるということを知る。
「すぐに晴れるような悩みはねーな」
「そう」
もし在がおみくじを引いていたら、どんな結果が出ただろう。当たるようなことが書いてあっただろうか。神頼みも宣託も信じなさそうな奴だから、どうであれおみくじのことなんか思い出さないだろうけれど。
年末年始を忙しく過ごした後は、日常が戻ってくる。つまりは部活とバイトの日々だ。初稽古の日にさっそく海とやりあって、現主将に呆れられてから、その日のバイト先へ。そこで新しいバイトを紹介してもらった。
「弁当屋ですか」
「うん、黒哉君の話は聞いてて、もし良かったらって。もちろん忙しければ断っていいってさ」
商店街の人々は情報を共有する。噂がすぐに広まる一方で、欲しい情報はすぐに、どこからでも手に入る。おかげでオレは、商店街の店を渡り歩いて、色々なバイトができる。この日働いていた事務用品店の仕事も、他の店で誘ってもらってするようになった。今やオレは商店街の名物になっているらしい。駅前のコンビニで働く日まで、ここの人たちには把握されていた。
「シフト調整して、入れそうなら」
「それは大丈夫。商店街の集まりで、黒哉君のシフトは話し合って決めてるから」
「……オレの部活の都合とかも考慮してくれてるんでしょうね」
「もちろん」
引っ越してくる前のオレなら、プライバシーとはなんなのか考え込んでいたかもしれない。けれどもそんな状況にも、とうに慣れてしまった。鬼のこともそうだが、礼陣とはそういうところなのだと受け入れている。ここに来て、意外に自分は柔軟なのだなと気づいた。
おそらくは、母親譲りなんだろう。あの人の場合は、そうしていかなければ生きていけなかったというのもあるのだが。中学を卒業してからできるだけの様々な仕事を経験して、その中で樋渡さんに出会い、成人してからバーに勤めるようになって。あの男に出会い、オレを産み、この町に越してくるまで育ててくれた。最期までオレのことを想ってくれた母親がいなければ、今のオレはない。
町の人に必要としてもらって、先輩や同級生、身内と悪くない付き合いをして。オレは腐らずに生活することができている。それはきっと、母親にも胸を張れる。
オレは母親の望み通り、礼陣の人間になれたのだ。たくさんの人に助けられたから、今度はオレが誰かを助けられたらいい。門市に住んでいた頃は考えなかったようなことが、今、頭にあった。
冬休み明け、センター試験が終わってから、同じ問題を解く特別講習があった。何の心配もなく進学志望コースを選択できることになったので、バイトのシフトを融通してもらって参加した。目指すは門市の教育大で、模試では今のところ悪くない結果が出ている。
勉強でわからないところがあれば、昼休みに教科書や参考書を持って行って、主将や亜子、在に教わっていた。特に在に訊くと、こちらが引くほど喜んで説明を始める。だがそれがわかりやすいので、いつのまにか聞き入っている。昼休みが終わる頃には悔しくて、もっと自分で頑張ろうと思っていたら、成績が上がっていた。
道を示してくれたのも、手伝ってくれたのも、在だった。本人はそうは思っていないだろうけれど(自己評価が低すぎるんだ、在は)オレは助かっていた。そのことを在が席を外している間に主将と亜子に言ったら、「本人に言えばいいのに」「言ったら喜ぶよ」と返ってきた。簡単に言えたら、言えるような性格だったら、在とあんな出会い方はしていないんじゃないか。
「黒哉、数学何点だった?」
自己採点が終わってぼんやりしていたら、海に話しかけられた。コイツも進学志望で、同じ教室で試験を受けていたのだ。進路は進学ということ以外は全く違うらしいのに。本人から聞いたわけではなく、主将と大助がそう言っていた。
「……お前には言いたくねーな。そっちこそ国語の点数どうだったんだよ」
「お前が言わないなら言わない」
どうせ数学は海のほうが点数が良いんだろう。「理数系科目に強いのは羨ましいよね」と主将も言っていた。だが、文系科目は負けていない自信がある。もともと得意だし、昼休みの講師は全員文系だ。
「ていうか、和人さんたちに教わったんだったら半端な点数とるなよ」
「うるせーな、全力だ」
一年生のうちに解ける問題しかやっていないから、今できるだけしかできていないけれど。たぶん、これが今のオレにできる全力だ。悪くはない。少なくとも主将に顔向けできなくなるような点数ではない。来年の今頃には、もっとできることが増えているだろうか。
「これ、主将と流も受けたんだよな」
「和人さんなら完璧にできたんだろうな。受かったら町を出ていくのは寂しいけど」
流はセンター試験の結果で合否がほぼ決まるらしい。主将はこのあと、前期試験がある。来年の今頃、今度は亜子と在がその立場にいる。その次の年はオレたちだ。この一年があっという間だったように、その時が来るのも早いんだろう。
主将が、たぶん在もそうするように、オレや海も礼陣を離れる日がくる。その日、この地でのことは、どんなふうに思い出されるのか。
会長が合格通知を持って学校に来た日、水無月先輩はまだ受験勉強をしていた。志望校が水無月先輩と同じ僕は、来年の自分が見えた気がした。
「瀬川さんにめっちゃ背中叩かれた。お前が決まって本当に良かったってさ」
そう言って苦笑いする会長に、僕らは拍手を送った。大助君は「まあ、流だからな」とおまけもつけた。会長は人望と知名度はあるけれど、成績はそれほど良いわけじゃないらしいので、先生たちは少しばかり心配していたという。生徒会長を務めあげたのだから内申はそれほど悪くないはずで、だから僕はほぼ間違いなく受かるだろうなと思っていた。
「あとは和人か」
「主将は大丈夫だろ。頭良いし、素行もいいし。だから先生たちも心配してないんだろ?」
「黒哉の言う通り、和人は当たり前に受かるって信じられてるんだよなあ」
会話を背に、僕は亜子さんと一緒にお茶を淹れる。生徒会室で昼休みを過ごすようになってから、スティックタイプの、粉末をお湯に溶かすカフェラテやティーラテが常備されるようになった。亜子さんが薦めてくれるものを僕が揃え、バリエーションが豊かだ。
「流さん、進路決まったならそろそろ答辞の準備しなきゃいけないんじゃない?」
甘いものが苦手な会長と黒哉にはコーヒー。机にカップを置きながら亜子さんがにやりとして言うと、会長が額を押さえた。
「だよなー……。生徒会室通って書くかな」
それからだ、会長が冬休み前までと同じように、生徒会室に入り浸るようになったのは。
そして僕が、送辞の原稿について、卒業式について、常に考えるようになったのは。
今日も僕は送辞の原稿を考えながら合間に試験勉強をして、会長は唸りながら原稿用紙を見つめている。相変わらず真っ白だ。卒業式まで、あと二週間というところまで迫っていた。
「水無月先輩、もう試験終わったんですよね。学校には卒業式まで来ないんですか?」
会長は水無月先輩とセットで、しばらく一緒にいるところを見ていなかったけれど、試験さえ終わればもとに戻るだろうと思っていた。けれども水無月先輩がなかなか姿を見せない。僕にとっては苦手な人でも、会長の幼馴染で親友なのだから、一度くらいは生徒会室に顔を出してもおかしくないはずだ。
「ああ、和人は……俺と会いたくないのかも」
「水無月先輩に限って、それはないでしょう」
あんなに一緒にいて、会いたくなくなるなんてことがあるんだろうか。首を傾げる僕に、会長は無理やり作った笑顔で言った。
「なあ、在は今、好きな人っている? 恋愛って意味で」
「え? 何ですか、急に……そんなことより早く答辞の原稿書かないといけないんじゃないですか。本番で使わないにしても、用意しておかないと先生に言われますよ」
「お、狼狽えてる。やっぱりいるんだな」
僕は冷静でいるつもりだったのだけれど、会長にはすぐ見抜かれる。咳払いを一つして、「好きというわけでは」とだけ返した。本当に、会長が思うようなほどのことではないのだ。
「まだ亜子のこと好き?」
「……会長、いい加減にしてください。亜子さんには大助君がいるじゃないですか」
「でもまだあの二人付き合ってないし。在が亜子のこと諦めてるっていうなら、今気になってるのは莉那ちゃんか?」
どうして突然こんな話を始めたのかはわからないけれど、会長の指摘は驚くほど当たっていた。僕がかつて亜子さんを好きだったということも、最近少し気になっている相手のことも。
正確には秋の暮れからだ。学祭が終わってしばらくしてから、校内清掃がきちんとなされているか、生徒会役員で月に一度のチェックをしていたときのこと。一年生の教室を見回っているはずの一人がなかなか戻ってこないので、会長に言われて僕が見に行ったのだった。
彼女は、誰もいない教室に佇んでいた。窓から射し込む沈みかけの陽の光を受けて、背筋は真っ直ぐだったけれど、瞳は虚ろに並ぶ机を見ている。それが一枚の絵のようで、声をかけるのが一瞬躊躇われた。もともと彼女は校内で美少女ということで有名だったこともあってか、本当に良くできた空間だったと、後になってもしみじみ思う。
「葛木さん」
意を決して呼ぶと、彼女は弾かれたように振り向いて、それからにっこり笑った。どこか亜子さんに、それから水無月先輩にも似ているような気がして、変にどきどきした。
「常田先輩……もしかしてみんな待たせちゃってます? ごめんなさい、今戻りますね」
駆け寄ってきた彼女と生徒会室まで歩くうちに、ふと彼女の目元が赤くなっていることに気がついた。擦ったのかなと、そうなら目に良くないなと、そんなふうに自分に言い聞かせて、僕はハンカチを差し出した。そう思わなければ、評判の美少女に話しかけるなんてことは、僕にはとてもできなかった。
「これ、使います? 目が痛そうなので」
「え……あ、ありがとうございます」
彼女は僕の手からハンカチを受け取って、そっと目に当てた。「洗って返しますね」と言ってくれたけれど、僕はそんなことは気にしなくていいと、生徒会室に着く前にハンカチを返してもらっていた。少しだけ濡れていた理由は聞かなかった。
そのことを会長が知っているはずはないのに、どうして彼女の名前が挙がったのだろう。無意識のうちに見てしまっていただろうか。
「僕が葛木さんを気にしていようといまいと、会長に関係あるんですか?」
わざと冷たく尋ねると、会長は「ごめんごめん」と言いながらペンを指で回し始めた。まだ原稿を書く気にはならないようだ。
「ちょっと恋バナ? したかっただけ。在とそういう話したことなかったし」
「他の人とはしてるんですか」
「亜子と大助からは別々に話聞いてたな。黒哉は話さないけど、たぶん亜子のことちょっと気になってただろ」
どうしてそんなことがわかるんだろう。僕は考えもしなかったのに。でも、もしそうなら、黒哉も亜子さんのことは諦めているだろう。あんなに大助君と仲が良いのだし。
そもそも会長は、いったい何が言いたくて、こんな話をするのだろうか。
「水無月先輩ともよくこういう話はするんですか? 会長も先輩も、人気ありますよね」
黒哉の気持ちを先に言われてしまって、少しだけ悔しさを込めて投げた問いに、会長はペンを回す手をぴたりと止めた。そして困ったような笑みを浮かべ、僕のほうを見ずに言う。
「和人とは、そういう話したくなかったな。それでもし、和人に好きな人がいるってわかったら、俺はきっと立ち直れなかっただろうから」
会長が何を言っているのか理解できないまま、僕はその続きを聞いてしまった。
「俺さ、和人のことが好きなんだよ。ずっとそうだった。それをあいつの試験前に伝えちゃって、それもたぶんあいつは実験的な気持ちで受け入れてくれたものだから、なんかお互いぎこちなくなっちゃったんだよな」
「……へえ……?」
思考が追いつかない。会長が水無月先輩を好きで、水無月先輩はそれを受け入れた? おそらく怪訝な表情をしていたであろう僕に、会長は苦笑いのまま、もう一度謝った。
「ごめんな、こんな話して」
「いえ、それはかまわないんですが。どうして、それを僕に?」
「うーん、なんでかな。在ならただ聞いてくれるだろうなって、思ったからかな」
聞くことはできても、僕は何も言うことができない。大助君や亜子さんなら、何か気の利いたことが言えたかもしれないのに、僕は本当に聞くだけだった。会長は、それで良かったんだろうか。
結局今日も、会長の原稿用紙は白いままだった。僕には何も手伝えない。さんざん世話になっておいて、僕は何も返せない。
会長と水無月先輩のことを考えながら家に帰ると、夕食後に母が風呂敷包みをテーブルに置いた。
「在、これ黒哉君のところに届けてくれる? 試験勉強のお夜食にでもしてもらって」
祖母が大量に漬けていた漬物らしい。夜食に漬物を齧る高校生って、どうなんだろう。黒哉は好きそうだけど。とにかく母に言われたからには行かなければならないので、風呂敷を持って家を出た。たぶん、黒哉はもうアルバイトを終えて、家にいるだろう。
僕の家のある遠川地区西側から、黒哉の住む中央地区の住宅街までは、少し距離がある。とはいえ、学校に行くのとさほど変わらない。きちんと防寒をして、夜の町を歩く。黒哉のお母さんの事件があった頃は、夜に歩くのは危ないからと、昼間でも報道関係者に気をつけなければいけないと警戒していたのに、今では誰もがそんなことなどなかったかのように振る舞っている。
目的地のアパートは、一室を除いて全ての窓に明かりが灯っていた。空いている部屋は、もともと黒哉が引っ越してきた部屋で、殺人事件の現場だ。
その隣の部屋のチャイムを鳴らすと、しばらくして黒哉が出てきた。部屋からふわりと漂うのは、味噌の匂い。
「こんばんは。ご飯食べてた?」
「いや、今作ってるとこ。何の用だ」
「おすそわけに。祖母が漬けた……たぶん沢庵と、粕漬かな。食べる?」
「どうも。正月に貰ったの美味かったから嬉しい」
やっぱり好きみたいだ。風呂敷包みを手渡して、安心して踵を返そうとすると、黒哉が「待て」とマフラーを引っ張った。
「ちょっと、首絞まる……」
「オレも渡すものあるから。お前、甘いの平気だろ」
僕を引き留めて黒哉が部屋から持ってきたのは、紙袋だった。中にはクッキーやチョコレートがきれいに包まれて入っていて、僕は事情を察する。そういえば僕も、亜子さんから貰っていたのだった。もちろん義理で。
「黒哉、バレンタインこんなに貰ったの? 僕に渡していいもの?」
「いくらかは片付いたんだが、全部は無理そうだ。食える奴が食った方がいい」
「亜子さんに貰ったのはちゃんと食べた?」
「食ったけど。亜子はオレが甘いの食えないの知ってるし」
会長が、黒哉が亜子さんを気にしていたと言っていた。僕はとうに諦めているだろうと思ったけれど、本当にそうなのか、今頃気になる。マフラーを直しながら、つい訊いてしまった。
「亜子さんのことが好きだから、自分で食べたんじゃないの?」
「は?」
顔を顰める黒哉は、けれども怒ってはいないようだった。たぶんこれは驚いた顔だ。
「なんでお前がそんなこと」
「僕は気づかなかったんだけど、そう言う人がいたから」
「……単に美人だから見てただけだよ」
見ていたことと、彼女を美人だと思っていたことを認めた。僕が過去にそう思って、けれども口にできないまま忘れようとしたことを、黒哉は言った。
けれども不思議なことではない。黒哉はいつだって正直だった。町を見て感じることも、人とのやりとりも、僕に対する思いも。思えば彼は、嘘を吐いたことはなかったのだ。
「そうだよね。亜子さん、美人だよね。僕もそう思う」
「料理も上手いしな。なんで大助の奴、亜子と付き合わねーんだろ」
「本当にね」
笑いあいながら、僕は、いやきっと僕らは、失恋した。黒哉はともかく、僕は長い片思いを、ようやく本当の意味で諦めることができた。
久しぶりに主将に会ったのは、卒業式を一週間後に控えた日のことだった。それまで学校にも来なかったし、オレが商店街でアルバイトをしていても、姿を見かけることはなかった。
「考え事をしながら、家の手伝いをしてたよ」
いろいろな種類の茶を持って生徒会室にやってきた主将は、大助の「何してたんだよ」にそう答えた。それから在に話しかけ、送辞の原稿ができているかどうか確認していた。
「内容は教えませんよ。先輩を送るためのものなんですから」
「教えてもらおうとは思ってないよ。ただできてるかなって思って」
「会長に確認した方がいいんじゃないですか。先週の時点で少しも書けてませんでしたよ」
そういえば流は、今日はまだ来ていない。進路がとっくに決まっているアイツは、主将がいないあいだも毎日のように生徒会室に顔を出していたのに。主将が来た途端にこれだ。
「まあ、書けてなくても流はなんとかするでしょう。今までにもあったことだし」
主将は落ち着いた様子でポットから紙コップに湯を注いだ。生徒会室を眺めながら、ゆっくりと茶を飲む。オレたちのよく知っている主将だった。ここに頻繁に来ていたときと、何一つ変わらない。流が隣にいないこと以外は。
「そういえば和人さん、試験はどうだったの?」
「うーん、たぶん大丈夫。応援メールありがとうね。……僕はいつもここぞという時に力を発揮できないから、黒哉なんかは心配だったと思うけど」
「いや、全然……」
そんなことは思っていなかったが、主将はたぶんインターハイのときのことを言っているんだろう。県大会では勝てたのに、全国大会では個人でも団体でも入賞できなかった。あのときの主将の悔しそうな表情が、また脳裏によみがえる。
「今度はちゃんと、できたから。僕はこの町を離れる。連休とか長期休みには帰って来る予定だから、その時はよろしくね」
あのときみたいな、静かで激しい感情を、この人は今持っていない。やりきったと、これで必ずいけると、確信を持っているのがわかる。ただ、良かった、と思った。
「お疲れさまです」
その気持ちを言葉にしたらそうなって、事務的すぎたかもしれないが、主将はこちらの気持ちを汲んでくれたらしい。穏やかに笑って、頷いた。
「うん。さて、そろそろ店に戻ろうかな。パートさんへの引継ぎもまだあるし」
「もう行くのかよ? 流に会わなくていいのか」
「会ってるよ。二人でこっそり屋上行ったりしてたし」
主将が紙コップを潰して、ゴミ箱に放るそのタイミングで、在が訝し気に眉を顰めた。オレが「なんだよ、その顔」と言いかけたとき、妙に厳しい声で言う。
「先輩、嘘ですよね。会長は会ってないようなこと言ってましたよ。ぎこちなくなったって」
「嘘じゃないよ」
「少なくとも先週までは嘘でした」
大助と亜子も顔を見合わせる。どうして在がこんなことを言いだすのか、誰も見当がついていないようだった。もちろん、オレも。主将は笑みを崩さず、「どこまで」と口にした。
「どこまで知ってるの? 流から聞いたんでしょう」
「はい。先輩は会長に会いたくないかもって、会長はそう言ってました」
「会いたくなかったわけじゃないんだけどね。それほどぎこちなくなったような感じも、僕はしてなかったし。向こうのほうが僕を避けてるんじゃないの、とは思ったけれど」
まあいいや、と主将は息を吐く。以前までよく座っていて、今でもそこは空けてある席に着いて、頬杖をついた。すぐに出ていく気はなくなったらしい。在の疑問にしっかり答えていくようだ。
「入試の直前まで、二人で屋上に行ってたりしたよ。終わってからは、僕が家を訪ねても、出かけてたりしてたみたい。在が知ってるってことは、ここに来てたんだね」
「はい。真っ白な原稿を持って、頻繁に」
「そっか。……自分で言っておいて照れるんだからなあ、流も」
まさか、と亜子が呟いて、大助も何かを察したらしく目を見開いた。オレだけがわかっていないようで、つい主将に注目すると、今まで見たことのない種類の笑顔がそこにあった。いや、どこかクラスの女子に似ていたかもしれない。バレンタインのときの。
「流に好きだって言われたよ。で、今は付き合ってるはずなんだけど、流のほうがなかなか僕と顔を合わせてくれないんだよね」
「は? え、流が、……はあ?」
狼狽えた。オレだけが主将の言葉を確認していた。亜子と大助は「やっぱり」と頷きあい、在は不機嫌そうなままだ。置いてけぼりをくらったオレに、主将が「びっくりだよねー」と言う。あまり驚いていなさそうな顔で。
「でも会長は水無月先輩のことを気にしてましたよ」
「だから、流のほうが、僕が気まずいと思ってるって思いこんでるんじゃないかな。それで会いにくいんじゃない?」
「笑って言うことですか」
在はずんずん主将に突っかかっていく。かつてコイツが人前で、こんなにも相手に噛みつくことがあっただろうか。それとも、もうこんな時間も終わりだから、ぶちまけているのだろうか。
きっとそれが正解だった。最後だと意識したから、主将も、流も、在も、自分の抱えていたものを広げている。卒業式が終わったら、こんな光景はもう見ることがないのだろう。少なくとも、この場所では。
「とにかく、会長とは一度ちゃんと話をしたほうがいいですよ」
「在に言われちゃ、そうするしかないね。じゃあ今から呼び出すか」
主将が携帯電話を手にした、そのときだった。勢いよく戸が開いて、よく目立つ大柄な、けれどもちょっと猫背になった、流が現れたのは。
「着信が廊下から聞こえる前に出てきたね」
楽しげな主将に、流が泣きそうな声で返す。
「……避けるつもりなんかなかった。俺は和人が……いや、和人に……」
「わかったよ。わかったから、落ち着きなよ。亜子ちゃん、悪いけど流にお茶淹れてあげてくれる? 僕はちゃんと話をしなきゃいけないみたいだし」
「はーい」
半数が役員でもないのに、こんな言い方はおかしいが。久しぶりに、やっとここに全員が集合した。約一年、オレを取り巻いていた人たちが。
それから昼休みいっぱい、いや、オレたちが午後の授業に出るために解散した後も、主将と流は何やら話し合っていた。休み時間のあいだは、亜子や大助、在までもが口を挟み、オレをときどき引き込みながら。いつもの、あるべき、光景だった。
卒業式当日はあんまりきれいに晴れていて、これも鬼の仕込みかと思ったほどだ。子鬼に訊いてみたら、どうやらそうではないらしい。
『天候は私たちにも操れないぞ。卒業生の日頃の行いが良いんだろう』
「主将とか流とかだしな……」
結局、答辞は書けたんだろうか。在はしっかりと送辞を完成させ、こっそり練習していたが。真面目な文章を何度も聞かされて、オレもすっかり覚えてしまった。――春寒次第に緩む頃。たしかに今日は、陽射しが気持ち良かった。
卒業証書授与式、と書かれた看板や、壇上の幕、式次第は、流が自分で書いたらしい。あれで書道を長いことやっているそうで、たしかに字は上手い。自分の卒業式まで自分で世話するのかよ、と呆れたら、これが卒業制作だ、と胸を張っていた。在は助かったようだ。
「こればっかりは僕には難しいからね」
「じゃあ、次から誰がやるんだよ」
「書道部」
前日までのそんなやりとりを思い出しながら学校に行くと、いつも以上に賑わっていた。保護者とかじゃない。いや、ある意味保護者でもあるのか。そこはまるで、鬼たちの集会所だった。
節目節目に、鬼たちは集まってくる。この町にはどれほどの鬼がいるのだろう、どこから湧いてくるのだろうと、不思議に思うくらいに。そんな視界が当たり前になってしまっていることを、一年前のオレが知ったら何て言うだろう。ファンタジーはもともと嫌いじゃないが、おそらくすぐには信じない。それまでのオレにとっては、当たり前ではなかったから。
そして今日を境に、今までの当たり前から離れていくことになる人々がいる。遠い町の当たり前を知って、そこに染まって、これからを生きていく人がいる。そうして変わっていく人もいるかもしれない。
式が始まり、挨拶や祝辞のあとに、卒業証書授与のために卒業生ひとりひとりの名前が呼ばれる。その中でも流の声はとりわけでかかったし、主将は凛としていた。卒業証書を代表で受け取りに行き、全生徒に向けて掲げてみせた流は、校長には注意されたが生徒からは称賛された。
いよいよ送辞を読み上げるために壇上に上がった在が、あんまりがちがちになっていたので、つい鼻で笑った。途端にアイツがすうっと目を細めたのは、偶然だったんだろうか。
「……送辞。春寒次第に緩む頃、卒業生のみなさんが新しい道を歩まれること、心よりお祝い申し上げます」
読み始めれば一瞬で、空気が変わる。流とは違うが、在もちゃんと場の空気を操ることができている。アイツが新しい生徒会長になるのは、間違いじゃない。これでいいんだ。読み終わる頃には、在の、在校生の、想いとかそういうものが卒業生に伝わっていたんじゃないか。実際、洟をすする音が聞こえてきていた。それ以外は、全く静かな送辞だった。
緊張して硬くなっていた僕を落ち着かせたのは、黒哉のこちらを馬鹿にしたような笑みだった。なんて言ったら、怒られるかもしれないけれど。いつも通りの黒哉を見たら、いつも通りにしていいんだと思えたのだった。
つっかえずに最後まで読めたことはもちろん、僕の言葉で誰かが泣いてくれているのが見えてほっとした。こんな僕の言葉でも、誰かに届くんだと思えた。役員選挙のときとはまた違う手ごたえだ。
安心して壇をおりると、今度は会長の番。目が合うと、証書を受け取ったときと同じ顔で笑っていた。以前の僕なら余裕だなと思うところだけれど、会長の本当のところを知ってしまった今では、あれが緊張を隠すための精一杯なんだとわかってしまう。
礼をして壇上に立ち、原稿を手にして体育館内を見回した会長は、一度だけ深く深呼吸をした。
「……答辞」
そして僕は、いや僕らは、とうとう目の当たりにすることとなる。
「を、読もうと思ったけどやめます。最後まで前副会長に原稿作成を手伝ってもらいましたが、やっぱり途中で言葉が出なくなりそうなので」
会長は本当に、言葉通り、答辞の原稿を放り投げた。呆気にとられる先生たち、保護者の方々をよそに、期待していた全校生徒の、きっと少しばかりは出ていた涙を引っ込めて。
「まず、素晴らしい送辞をくれた新会長に拍手! はい、卒業生一同!」
途端に沸き立つ一斉の音に、僕は圧倒される。どうしたらいいのかわからなくなってしまって、それまで保っていた平静を一気に失った。ただただ卒業生に向かって頭を下げる僕を、黒哉や亜子さん、大助君、他の在校生たちも、情けなく思っているんじゃないか。
会長の暴走はまだまだ続く。
「こうやって送ってもらえるのは本当に嬉しいことだよな。だからこっちもちゃんと応えなきゃいけない。ありがとう、在校生諸君! 卒業生諸君も、今までありがとうな。礼としてはささやかだけど、俺が看板とか書かせてもらった。それから、先生方もありがとうございました! 最後までこんなやりかたですみません。でも、今この場で引き摺り下ろさないで見守っててくれるあたり、やっぱり優しいなって思います」
先生たちのほうへ視線をやると、怒りと呆れと諦めが入り混じる中、瀬川先生がそれを宥め、平野先生が笑いを堪え切れずに顔を伏せていた。保護者席は……呆れる人と笑う人が半々といったところか。意外に許してくれそうな人が多いのは、会長が普段から公の場の有名人だからだ。何かやってくれるだろうと期待しているのは、生徒だけではなかった。
「保護者のみなさん、本日はご足労いただきありがとうございます。今日まで育てていただいた全ての方に感謝します!」
「いいぞ、野下の! もっとやれ!」
ついに保護者席からも悪乗りする人が出だした。そろそろ止めなければまずい。これは学校祭ではなく卒業式だ。いくら礼陣のお祭男が生徒会長を務める礼陣高校だからって、みんながみんな騒ぎを望んでいるわけではない。ハラハラしているのが僕だけであるはずがない。
壇上に行ったほうがいいか様子を窺っていると、そのあいだにすたすたと会長の脇にやってきた人物がいた。誰よりもこうなることを予測していたであろうその人は、会長の頭を音が聞こえるほど思い切り叩いて黙らせた。
同時にしんとなった体育館を見渡し、丁寧に頭を下げた水無月先輩は、しかし一言しか言わなかった。
「お騒がせしました」
そうして袖に消えていく。それを見送った後、会長は真っ直ぐに姿勢を正し、一礼してまた話し始めた。
「……こういう無茶苦茶に付き合っていただいて、心から感謝しています。礼陣高校で過ごした日々を、これから何度でも思い出して笑っていけたら、そうして日々を送れたら良いんじゃないかと思ってます」
緊張が解けたんだな、と僕にもわかった。僕らに話すときと同じトーンで語る、これが本来の会長なのだ。……と、僕がほっとしたのもつかの間。
「生徒諸君、高校生活は楽しかったかー?!」
マイクを取り上げ、叫ぶ。また混乱するのではと周りを見たけれど、しかし、さっきまでとは明らかに様子が違った。卒業生も在校生も、泣き笑いしながら返事をする。
「楽しかったー!」
「今まで盛り上げてくれてありがとう、野下!」
「流くーん! 大好きー! この学校も大好きー!」
「野下先輩、ありがとうございました!」
飛び交う声に、会長は満足そうに笑って、再び一礼した。壇からおりて、保護者席と教員席にそれぞれきちんと礼をする。予定通りの終わり。会長による最後の挨拶は、会場を沸かせ、泣かせ、笑わせて締めくくられたのだった。
やっぱり、僕には絶対に真似できない。あの人は全く参考にならない。だからこそ野下流という人物は、この学校の、この町の、生きた伝説なのだろう。
当然賛否両論あった卒業式が終わり、夕方の謝恩会まで時間があるというので、僕と亜子さん、大助君は屋上で会長たちを待った。黒哉は水無月先輩の見送りを、部活の仲間とするらしい。だから来るときは、水無月先輩と一緒だ。
「すごかったねー……。流さんとうとう雰囲気に耐えられなくて壊れちゃったし」
亜子さんもやはりわかっていた。大助君のジャケットで温まりながら、楽しそうに言う。
「どうなることかと思ったけどな。和人も目立っちまって」
「会長、本当にこれから大丈夫なんでしょうか。水無月先輩は町を出ていくのに」
「こっちにはわたしたちが残ってるから大丈夫。流さんもさすがに和人さんがいないところで暴れないでしょう。止めてくれる人がいるから、原稿も放り投げるし、暴走することもできる。こわーいお父さんの耳にこの話は絶対入るだろうに、それを気にせずにいることができる」
「……ああ、会長の家はお父さんが厳しいんでしたね」
ということは、本当に会長の大暴れはあれが見納めなのだ。卒業生が笑いながらも寂しそうだったのは、それをわかっているから。自分自身が町を離れたり、会長がもうあそこまで自由にすることがないと薄々でも知っているからだったのだ。
屋上にも、玄関周りで先輩たちを見送る在校生たちの声が響いてくる。運動部やノリが限りなく体育会系に近い文化部は声を揃えるものだから、よく通る。ああして花束や色紙を渡して、卒業生を荷物まみれにして送りだすのだ。……来年は、僕たちが送られる。
「まだしばらく来ねえだろうな。めちゃくちゃ花と色紙に埋もれてるところに、俺たちが追加で渡すのか。苦行じゃねえの?」
「大変そうだけど、流さんと和人さんは受け取ってくれるよ」
ここには僕たちが書いた色紙と、ささやかな花束がある。本当は僕はおりていって、生徒会役員と一緒に会長を祝わなければならないのだけれど、新しい副会長にすべて任せてきてしまった。これも会長のやったことと同じくらい前代未聞だと、さっき亜子さんには言われた。
案外、在も流さんみたいになったりしてね。そんな言葉を、素直に喜んで良いものか。苦笑いする僕の肩を、大助君が同情するように叩いた。
地上からの声がだんだん少なくなって、亜子さんが持ってきてくれたお弁当を開こうとしたころ、屋上の出入り口もようやく開いた。思った通り、贈り物をたくさん抱えた会長と、水無月先輩。少し手伝ったのか、黒哉も花束を持っていた。
彼らを迎える言葉は、ここが僕らの場所だから、たった一つだけ。
「おかえりなさい」
「ただいま!」
僕らの、最後の屋上での昼休み。大きなお重を囲んで、また明日会うみたいに他愛もない話をする、そんな時間が、今日もまた、始まった。
春休みはこの町の花見の時期で、バイトの予定がどんどん入った。部活の時間以外はとにかく働いている。忙しいけれど、楽しい。全身が充実している気がする。冬から始めた弁当屋のバイトで、町中を自転車で駆け回り、花見弁当を届けるのは体力づくりにもなったし、町の地理を確認することもできる。
越してきて一年経つのに、まだ知らない場所があるのには驚いた。だがよく考えてみれば、オレの行動範囲なんて、学校から商店街、駅前といったところで、例えば山の方などには行ったことがなかった。
去年は慌ただしすぎて眺められなかった桜の山も、今はその移り変わりを目に映して味わえる。母親が生きていたら、樋渡さんたちを呼んで花見をしようとしていたかもしれない。亜子からいつも屋上に集まるメンバーで花見をすればいいんじゃないかと一度は提案があったが、主将が引っ越しで忙しいので今年はお預けとなった。
「こんにちはー。弁当の花盛屋です」
来年にはできるんだろうか、でも来年は在たちが忙しいだろ、などと考えながら今日の配達先に辿り着く。病院の中庭という指定だった。
「あ、花盛屋さん。ありがとうねー。せっかくのお花見なのに、私がお弁当忘れちゃって」
照れたように笑う看護師(だと思う)に弁当を渡して、代金を貰う。そのあいだに得たのは、病院の中庭にある桜が見事だという情報と、ちょっと見ていかない、という誘いだった。さすがに仕事中なので断ろうとしたが、その前に看護師のほうから弁当屋に電話をしていた。
「花盛屋さん? お弁当受け取りましたー、ありがとうございます。それで、新しいバイト君ですよね? ちょっとお借りしてもいいですか? ……はいはーい、了解しましたー」
「あの、何を……」
「今日の配達、ここで最後だって? 十分くらいならいいよってさ」
改めて思う。礼陣の人は、自由だ。
花見は一部の長期入院患者と、看護師、ボランティアスタッフでやるのだそうだ。自慢の桜の木からは少し離れたところにシートを敷いて、すでにその上に何人かの患者が腰を下ろしている。その中にちょうど同じ年頃の女子がいた。
「雪ちゃん、この子花盛屋さんのバイト君。高校生だよね? この子も高校二年生になるんだよ。光井雪ちゃん」
「ちょっと吉井さん、勝手に紹介しないでよ……。ごめんなさい、この人わたしが男の子と話す機会ないからって、すぐこういうことを……」
同い年で、けれども同じ学校の同じ学年の女子より細い。色も白い。名前の通り雪みたいな子だった。元気印の子供たちが駆けまわるこの町に、こんな女子がいたんだと感心した。
「あ、バイトさんはお名前なんていうんですか? ……って、ええと、こっちも調子に乗っちゃだめですよね」
「いや、別に。礼陣高校二年になる、日暮黒哉です」
「礼高! わたしの先輩のお友達さんも礼高なんですよ! あれですよね、名物だった三年生が卒業しちゃったんですよね。その人の妹さんがわたしの先輩で」
名物はたぶんというか、確実に流のことだと思う。流には妹もいたはずだし。でもたしか妹って、北市女学院の生徒じゃなかっただろうか。ということはコイツも北市女の生徒ということか。そう思うと、身近な女子にはなかなか見られないような雰囲気にも頷ける。
「北市女っすか? 頭良いんですね」
「いえいえ、そんな! わたししょっちゅう入院しちゃうから、単位とか融通が利く北市女にいるってだけで……。ほとんど病院にいるし、学校は女子校だしで、世間知らずですよ」
謙遜しているのだろうけれど、オレにとっては「知らない」ということがありがたかった。去年、不本意な形で有名人になってしまって、この小さな町ではどこに行っても知られているという状況だ。「知らない」のは新鮮でいい。
「先輩って、野下?」
「そうです、そうです! で、お友達さんが皆倉さんっていう人で」
「やっぱり。すげー知り合いだ。テストのときとか、あと飯の作り方とかも皆倉亜子に教わった」
「ご飯まで? わあ、仲良しですね! 共通の知りあいがいるなんて、やっぱりこの町狭いなあ」
亜子以外の女子と話が盛り上がるのは、こっちに来て初めてかもしれない。つい話し込んで、十分を軽くオーバーしてしまった。いつのまにか携帯電話に登録してある連絡先が一つ増えている。あの看護師がしたり顔をしているのを横目に、病院を離れた。
弁当屋に戻って、店長にからかわれて知ったのだが、どうやらあの看護師は新しい男子バイトをよくああして捕まえているらしい。二度とそんなことがないように、雪とは頻繁に連絡をとるようにしよう……というところまで思って、自分の思考がちょっとおかしいことに気がついた。
そんなことがあったから浮かれていた。二年に上がるときにクラス替えがあり、海と同じクラスになってうんざりしたけれど、それもすぐにどうでもよくなった。新年度の滑り出しは順調だった。
だが母親の一周忌が近づいた四月半ば、久しぶりにあの男の名前を聞くことになった。
「偽名で詐欺やってたらしいのよ。でもそれが仇になったのね」
樋渡さんから来た連絡は、喜んで良いもののはずなのに、何故か気分が晴れなかった。桜の散りかけた夜、飯を食いに来ていた子鬼の制止も振り切って、外に飛び出した。急に湧き上がってきたやり場のない気持ちを、どうすればいいのかわからない。
携帯電話だけを握りしめて、大通りに出て、住宅街を抜け、川のほうへ走った。夜になると、さすがにこの町も鬼がいなくなって、仕事帰りの人間や暇を持て余した大学生がうろつくばかりになっている。そんな人たちに変に思われるかもしれないと、そう思ったのは立ち止まってややあってから。
遠川河川敷の桜の木の下で、川向こうをぼんやりと見ながら、在に電話をかけてからだった。
新入生を迎えて、少し静かな新年度が始まった。新しく礼陣高校の生徒になった子たちは、屋上がこっそり開放されていることも、生徒会室が時折生徒会役員以外の人に占拠されることも知らない。――結局僕は、瀬川先生に相談して、屋上に出入りし続ける許可を貰ったのだった。
会長と水無月先輩のいない昼休みは、しばらくは寂しかったけど、次第に慣れていった。僕自身、少しばかり心境の変化があった。それはいつか会長とした恋愛の話の続きでもあり、黒哉がどうやら北市女学院の女の子に一目惚れしたらしいことからも影響を受けていた。
生徒会長という立場になってみて、学校の見方が少し変わったということもある。ただ通ってきて数少ない友人や身内とやり取りをする場所ではなく、気付いたところから少しずつ居やすい場所にしていこうとしたら、もう少し視界が明るくなった。会長もこんなことを考えていたんだろうか、と時折思うけれど、あの人の場合は本能で何かを抱えている誰かのことを察知していた可能性もある。なにしろ、伝説の人だ。
変わらないのは亜子さんと大助君、そして黒哉の態度。黒哉は少しだけ僕に優しくなったかもしれないけれど、基本的には変わっていない。僕は相変わらず「身内」で、人に尋ねられれば兄だと言うこともあるらしいけれど、僕に向かってそれを言ったことはない。僕も以前ほど黒哉に「弟になってほしい」と執着することがなくなったんじゃないだろうか。主観だから、黒哉からすればまだまだなのかもしれないが。メールが長いとは、たまに言われる。僕からメールを送ることは度々あるけれど、黒哉からはめったになかった。
そんなことだから四月半ばの電話には驚いたし、その内容を疑った。いや、何があったとしてもこのことだけは、僕は疑わざるをえないのだ。何度か裏切られたし、その日を待ち望んではいたけれど、心のどこかで僕を無関係なままにして終わってしまうのはずるいとも思っていたから。
「在、どこいくの? 急ぐ用事? 今、樋渡さんから連絡があったんだけど……」
「知ってる。僕は黒哉に会ってくるから」
僕が家の玄関を出ようとしたときに、母はその連絡を受け取ったらしかった。それでもう、これは性質の悪い冗談でも何でもなく、ただの事実なのだと確認できてしまった。
岡林律人が捕まった。――ぜえぜえと荒い息をまぜながら話す黒哉の声が、夜の住宅街を走る僕の頭の中で何度も繰り返された。
遠川河川敷の春は、桜の花が舞い散る景色と川の流れる音が美しいと昔から評判だ。町議長が特にこの河川敷を好きで、孫にこの場所に由来した名前をつけるほどだということも、町で生まれ育った大多数が知っている。黒哉はこの話を聞いたことがあるだろうか。
知っていても、知らなくても、川沿いの夜桜の下に立つ黒哉は、妙に絵になっていた。
「黒哉」
「……悪かったな、こんな時間に。そっちには連絡いったか?」
「うん、出がけに」
黒哉の隣に立つ僕は、去年の今頃、まだ彼の存在すら知らなかった。父親の、それもろくでもない人の血で繋がった兄弟。血縁があることを、黒哉は初め否定した。否定したかったんだろう。彼にとって、親はお母さんただ一人だった。そして、僕にとっても。
けれども僕たちの存在に、あの人はどんなに憎くても、不可欠だった。だから、恨みや仇を抜きにしても、終わりには関わりたかったのに。たとえ僕たちには何もできなくても。
「結局、オレたちが何もしないまま終わったな。なんにもできねーことなんか、わかってたのに」
「意外とあっさり捕まったね。……詐欺だなんて、情けない」
口にして、何故か認められた。僕はたしかにあの人の、岡林の息子だった。情けないところはきっと父親譲りだったのだ。そしてこうやって自分の短所を人のせいにすることで、安心もできた。岡林もそうやって生きてきたんだろうかと、これまで想像するのが難しかったあの人の内面を考えた。
「もう、直接会ってぶん殴ることは不可能なんだな。殺してやるなんてもってのほかだ」
「考えたことあるの? 殺してやりたいって」
「できうるかぎりの妄想を尽くした。……何回妄想しても、辿り着くのは母親の死体だったけど」
僕らと関係のないところであの人が捕まるということは、あの人への復讐の機会は僕らから奪われたということでもある。これまで僕らが互いに口にすることもなく、密かに空想の中だけで行なっていたことは、実現されない。たぶんこれは貴重な、僕らの共通点だったのに。
「明日には、ニュースになるかな」
「たぶんな」
「また取材とか来るかな」
「今度は自力で逃げねーと。流も主将もいないし」
去年から、僕らは少しずつ認め合える部分を増やしていったつもりだ。認められないことを共通点にするより、それは地道でときに苦しいことだったけれど、それでも二人で会って話せるまで辿り着けたのだから、これまでのことに間違いはない。
でも、やっぱり、もっと別のかたちで出会えていたらとは、ずっと思っている。僕はそう思う。本当はこんな台詞を言わなくても済むような出会いだったら良かったんだ。
「僕がいるよ。今度は僕が黒哉を守る。情けないし頼りないかもしれないけど、会長や水無月先輩のようにうまくは振る舞えないかもしれないけど。……僕は、会長から託されたんだから」
けれどもあんな出会いだったから、決意しなければならなかった。僕は今度こそ、ただの身内じゃなくて黒哉の「兄」にならなくてはいけない。彼を守る一人にならなければならない。たとえそれを拒絶されたとしても。
黒哉には、もう守るものがたくさんできた。出会ったばかりの女の子のことや、二年生になってからできた新しい友達。随分と、もしかしたら生まれ育った僕よりも馴染んでいるこの町も。もちろん黒哉自身のことだって。僕はそんな黒哉を守る者になりたかった。僕のほうがきっと、守るべきものは少ない。
「自分のことは自分で守れる。だからお前はお前の家族を」
「黒哉も家族だ」
ちょうど風が吹いて、桜の木に残った花弁をさらっていった。宵闇にとけてしまって見えないけれど、花弁は川の流れに巻き込まれる。この言葉も一緒に流されていやしないかと、もう一度言った。
「黒哉だって、僕の家族だよ」
一年前のように、否定してもかまわない。僕の中でそういうことになっていれば、勝手に守る。これは僕が決めたことなのだから。
「何が守るだ。そんなひょろひょろで」
もうとっくに慣れてしまった声、態度。
「ひょろひょろでも、守る方法はあるよ。僕は君より頭が良い、と思う」
「どうだか」
鼻で笑われる。そこに悪意を感じなくなったのは、いつからだろう。
もう僕らは随分と昔から、一緒にいたような錯覚がある。
「とにかく僕は君を含めた家族と、友人だけは何が何でも守るつもりでいるから」
「そうかよ」
錯覚を作りだしてくれたのは、会長や水無月先輩、亜子さんと大助君であり。僕らの知らないうちに動いてくれていた黒哉のお母さんと、僕の母であり。そしてなにより。
「お前だけじゃ頼りねーから、オレも自分と在を守っとく。……家族だし、兄弟だし」
黒哉が僕を認めてくれたから、それだけで十数年の空白は埋まったんだ。
岡林逮捕のニュースが知れ渡ると同時に、一年前の凄惨な事件は蒸し返されて、予想通り僕らにも影響があった。けれども思いのほか日常に支障がないのは、町全体で僕ら家族を守ってくれているおかげだった。僕は大層なことを言っておきながら、結局役目を町の人々にとられてしまった。僕が頼りないのももちろんだけれど、黒哉自身が町の人々との関係をきちんと築き上げてきた結果だった。
学校でだけは僕が頑張っている、と言えたらいい。現に僕は学校までやってきた記者たちに、いつか先輩たちが言っていた台詞を自分の口でぶつけられたのだし。
「取材はお断りしているはずですが。解決した事件ですし、生徒には影響を与えたくないので」
本当はまだ「解決」には至っていないし、生徒が事件と全く無関係でいられるかといえば、情報という面から見るとそうでもないので、僕がとやかく言えることでもない。ただ黒哉の前で格好つけたかったから言ったのだ、ということは昼休みに素直に認めた。
「やっぱ、流くらいの体格か主将くらいの気迫は必要だよな。在が言っても効果薄い」
「わかってるよ、そんなことは。……でも、もうそろそろあの人たちも来なくなるだろうね。世間は事件であふれてるし、こんな田舎のことなんかみんな忘れていくんだ」
屋上で昼食を広げながら、僕と黒哉は一年前はできなかった言い合いをする。それを大助君と亜子さんが聞いてくれる。ときどき会長や水無月先輩がメールをくれる。そんな幸せな現実が、たとえ不幸と隣り合ってでもあるということを、認められればそれでいい。
幸せを認めさえすれば、僕らは不幸な子供たちではなくなるのだから。誰が何と言おうとも、それが僕らの真相だ。