寒くなってきたからこたつの用意をした、という話が聞こえてきた。この町の冬は、山に囲まれているという地形のせいか、底冷えがする。外を歩いていると、山から下りてきた冷たい風が、無防備な顔に叩きつけられる。これが非常に痛いから、はたしてここより北の土地はどのくらい寒いのだろうかと、そこにいる人たちはどうやって冬を越しているのだろうかと、不思議になる。――そうだ、この町の外には、知らない世界が広がっている。

 僕はこの町で生まれ育って、やがてこの町で祖父の仕事を継ぐことを期待されている。それは僕が進路に悩まなくていいということでもあるのだけれど、自分で考えた道を持たないことには、多少のコンプレックスがある。僕はもっと、物事を考えなくてはならない。自分がどうしたいのかを。

 文化祭が終わり、将来について思い始めた矢先。そろそろここで昼食をとるのもつらくなってきた屋上に、僕らは相変わらず集まっていた。黒哉、水無月先輩、会長、大助君、亜子さん、そして僕が、車座になって凍えながら弁当箱をつつく。

「流さん、そろそろ生徒会室解禁してよー。屋上寒いー」

 学校指定のセーターベストの上に、厚手のカーディガン、さらにもう一枚大助君のブレザーを羽織り、前を掻き合わせるようにしながら、亜子さんはかたかたと震える。冬生まれだけど寒がりなんだ、と前に言っていた。たしかに彼女は、中学時代から冬は厚着だったように思う。

「生徒会室なら熱い茶も飲めるしな」

「大助、そのお茶は誰が淹れるの」

「あ? 和人か亜子だろ」

「人任せにしない」

 一方、シャツ一枚にネクタイなしという、あまりに薄着で、ついでに校則も無視している大助君だけれど、彼も温かい飲み物が恋しいらしい。きちんと制服のブレザーを着て、それでもときどき寒そうに腕を擦る水無月先輩が、大助君を叱りながらも「でもお茶は温かい方がいいよね」と呟いた。傍らには冷たいお茶のペットボトルが置いてある。まだ校内の自動販売機に、温かい飲み物が入っていないのだ。一応は申請しているのだけれど、入れてくれるのはもう少し先になりそうだった。

「だいたい、そろそろ僕らには生徒会役員権限はなくなるんだからね。流、君もそろそろ次の役員のことを考えないと」

「うーん……考えてはいるんだけどな」

 会長は指定ブレザーの前を開け、ネクタイを緩めている。服装は緩いけれど、人望の厚い生徒会長は、そろそろその任を辞さなければならない。生徒会役員選挙が近いのだ。引き継ぎと受験に向けての動きを同時に進めることを考えると、役目を引き継ぐのは会長が今までやってきたことをきちんと知っていて、運用できる人を、会長自らが選んで推薦するのが最も妥当だ。

 選挙をしても、実際に新生徒会役員が動き出すのは卒業式以降になる。その後、新入生からも役員が選出され、やっと新年度の役員が揃うのがこの学校の伝統だ。ややこしいシステムだけれど、長年それでやってきた。

 僕が生徒会役員になったのは二年生からで、一年生のときにクラス委員をやったのをきっかけに、何故か会長の目に留まった。一年生の秋の終わり、言われるままに選挙に出て、対抗馬が出ないまま流れで役員になり、影の薄い副会長として目立たない働きをしてきた。だいたいにして今の生徒会役員は、会長と副会長である水無月先輩が目立ちすぎているので、他はどうしても霞むのだった。あまり目立ちたくない僕としては、ありがたかったのだけれど。

「いいや、この機会に言おう。在、お前に次の生徒会長やってほしいんだけど」

「……はい?」

 あまり目立ちたくない僕を引き抜いたのは会長で、表舞台に立たせようとするのもまた会長だった。やっと少しだけわかってきた気がしていた会長の考えが、僕はまたわからなくなってしまう。震えたのは、枯葉を伴って通り過ぎた風のせいだけじゃない。

「会長、冗談ですよね」

「冗談なんか言うもんか。俺も和人も卒業したら、生徒会の仕事を一番わかってるのって在なんじゃないかってずっと思ってたんだ」

「でも僕は会長みたいにはできませんよ。ノリは悪いし、場を盛り上げるなんて絶対にできないです」

 あわてて首を振るけれど、会長と、それから水無月先輩にも通じなかった。水無月先輩なんか、無責任にも腕組みをして感心している。

「今までとタイプが違う人の方がいいんじゃないかな。在は仕事をしっかりするし、今いる役員の後輩たちも反対はしないよ」

「でも、選挙に出たら落ちる自信があります。僕のことなんか誰も気にしてないんじゃないでしょうか」

「そうでもねーぞ」

 名前のわりに存在感がない僕のことだから、誰も知らないし、生徒会長を任せたいと思わないのではないかと思った。でも、黒哉は意外にもそれを否定する。黒いカーディガンを羽織った黒哉は、こちらが戸惑っているあいだに、僕が知らなかった、というか特に気にしてこなかった事実を口にした。

「学祭のバンド、結構人気出たらしいからな。主将や流はまあ当然として、在もそこそこ注目されてた」

 ということは、黒哉もそうとうな人気者になったのだろう。いろんな人に声をかけられたに違いない。そう思っていたら、亜子さんが「じゃあ黒哉もモテてるんだね」とにやりと笑って言った。黒哉は「オレのことはどうでもいいんだよ」と、少し顔を赤くして返事をしていた。

「じゃあ、知名度も十分だな。どうだ、在。やってくれないか?」

 会長がもう一度問う。でも、僕にはすぐに返事ができない。この学校には会長の作った空気があって、行事も会長が引っ張ってきた。それを僕が引き継げるか、違うかたちにしてしまっても生徒は納得するのか、不安しかない。

 僕にはとても務まりそうもないけれど、会長の気持ちを無碍にしたくもなくて、曖昧な返事をした。

「少し、考えさせてください」

 考えてから断れば、会長も納得してくれるだろう。そんな僕の甘い期待を見透かしたように、会長は笑って頷き、「待ってる」と言った。

 

 一年生のときにクラス委員をやったのは、誰もやりたがらなかったからだ。あまりに決まらないので、担任が僕の入試の成績が良かったからというほとんど無関係な理由で、仕事を僕に任せたのだった。絶対にやりたくない理由というのは特になかったので、僕もそれを引き受けた。

 会長と出会ったのは、その後の生徒会役員会議でのこと。クラスの代表として出席した僕に、会議後、会長は今と同じ軽いノリで話しかけてきたのだった。

「常田不動産の社長さんの、孫の在君だよな。頭良いって聞いてたから、ヤシコー行くんじゃないかと思てたんだけど、本当にこっち来てくれたんだな」

 あんまり嬉しそうな笑顔だったので、面食らいつつも、僕もへらっと笑って返した。

「はい、常田在です。よろしくお願いします、生徒会長さん」

「改めて、野下流だ。堅苦しいから流でいいよ、よろしくな」

 そう言われながらもずっと「会長」と呼び続けてきたのは、この人とは距離があると思ってきたからだ。誰にでも慕われて、明るく華やかで目立つ存在である会長は、僕には雲の上の人に見えた。天上の人が僕の名前と顔を知っているというだけでも、とても驚いたのだ。

 あとで「役員やらないか?」と言われたときの驚愕がそれ以上だったことは、言うまでもない。でもやっぱり断る理由が見つからなくて、というよりは会長の推しが強くて、断れなかったのだった。そうして僕は突然、生徒会副会長になることになった。――この学校の生徒会役員は、会長が一人、副会長が二人、書記が二人、会計が二人という構成になっている。会長以外が二人体制なのは、ダブルチェックができるようにするためだ。けれども僕は今に至るまで、同じ副会長である水無月先輩の粗を見つけられたことがない。

 会長と副会長の一人が卒業するから、持ちあがりで僕が会長に、ということなのだろうけれど。やはり僕には荷が重いな、と家に帰ってから改めて思った。なにしろ会長の実績がとんでもなく、改革に近いレベルだったものだから、その後釜が僕では絶対に全校生徒から落胆されるだろう。目に見えている。

 ……ああ、でも。黒哉はそうは言わなかった。学祭のバンドで注目されていたと、そう言ってくれた。僕の背中を押すように。もしかしたら会長と水無月先輩の肩を持とうとしただけなのかもしれないけれど、僕には自信のあるなしに関わらず、黒哉の言葉が嬉しかった。

 黒哉が期待してくれているなら、それだけでも生徒会長をやる価値はあるのかもしれない。そんな気持ちが、心の隅のほうから少しずつ湧き上がってくる。荷が重いと、責任重大だと、知っているのに触れてみたくなってしまう。黒哉の言葉には、僕を動かす力みたいなものがあるようだ。

 少し迷った末に、メールを打つ。注目されていると言ってくれたことに対する感謝を短くまとめて、黒哉へと送る。まだアルバイトをしている頃だろうなと思いながら返信を待って、そのあいだに夕食も課題も風呂も予習復習も片付けてしまった。あとはもう寝るだけ、というところで、携帯電話が高い音で鳴った。黒哉からの返事が来たのだ。急いで画面を見る。

[注目されてるって事実を言っただけだ。礼を言われるようなことはしてない。でも修学旅行の土産の仕返しはしたかったかもな。]

 仕返し、にちょっと笑った。学祭のすぐあとで、僕ら二年生は修学旅行があったのだ。京都や奈良の寺社仏閣を見てまわるという、このあたりでは定番のコースだった。そのとき黒哉にと用意したお土産のことを、まだ気にしているらしい。

 彼に選んだおみやげは、御朱印帳だった。大助君と亜子さんと一緒にまわった神社で、一通り御朱印をいただいてきたそれを、帰ってきてから黒哉に渡すと、呆れたように言われた。

「こういうのは自分で貰ってこないとだめだろ。オレの楽しみ奪いやがって」

 ごめんと謝りながら、やっぱりこういうの好きなんだなと、僕はほくそ笑んだ。続きは黒哉が埋めてよ、と言うと、彼は「当たり前だろ」と返事をしてから、気をつけないと聞こえないくらい小さな声で「どうも」と呟いた。――つまり今日のフォローは、お土産のお礼だったということか。

 出会った頃に比べれば、随分と心を開いてくれたと思う。黒哉の「身内」になれて、少しは信頼してもらえるようになって、僕は今が一番幸せなのかもしれない。何も持たない僕が、特別だと思える存在を手に入れられたのだ。

 もう一度黒哉に、ありがとうとおやすみを伝えるメールを送ってから、布団に潜った。さて、会長への返事を改めて考えなければ。会長もまた、僕を見つけてくれたという意味では恩人なのだから。真剣に受け止めなければならないと、思い直した。

 そういえば、屋上で黒哉と会えるようにしてくれたのも、元はといえば会長が屋上を開けてくれたからなのだ。

 

 

 修学旅行の土産といったら、何か食べ物でも買ってくるものなんじゃないのか。少なくとも中学の修学旅行でのオレはそうしていた。母親と、その職場仲間の人たちに、行った先の銘菓らしいものを適当に見繕ったものだった。だから在からの「土産」は、やっぱり変わっていると思う。

 神社に行って、お守りならともかく、どうして御朱印なのか。それをオレの代わりに貰ってきてどうする。心底呆れたけれど、在らしいといえばそれまでで、貰えるものは貰っておくことにした。

 誕生日の際にもプレゼントを持ってアパートに押しかけてきたし、在はとりあえずオレが喜びそうな何かをしたいんだろう。それは鬱陶しいといえばそうなのだが、厭ではない。もうオレは、在を拒絶するのをすっかりやめてしまっていた。完全に吹っ切れたのは、たぶん学祭で、「保護者」らをアイツに会わせてからだと思う。あの瞬間、在は本当の意味でオレの「身内」になった。漠然とした感じから、たしかな立ち位置になったのだ。

[アルバイトお疲れさま。今日のことだけど、昼休みに僕が次の会長をやるかやらないかって話になったときに、注目されてるって言ってくれてありがとう。僕は自分なんて生徒会長なんかやれるような存在感はないと思ってたから、黒哉の言葉にはすごく勇気づけられた。役員選挙のこと、もう少し考えてみようと思う。そう思えたのは、黒哉のおかげだよ]

 相変わらず無駄に長いメールにも、とうに慣れた。もっと短くしろって言ってもきかないところを見ると、これがアイツの限界なんだろう。余計な言葉を混ぜなければ気が済まないらしい。そういうところがうざったいのに、オレの言葉で良い方向の心境の変化があったようなのは、悪い気はしない。

 在がいて、水無月主将や流、大助と亜子がいて、それから町の人、鬼たち、いろんなものが周りにある今の生活が当たり前になってきている。周囲から遠ざけられ、こちらも遠ざけていた昔とは違う。いや、母親の知人たちは今も昔も変わっていないか。ずっとオレに良くしてくれているし、大事なことはきちんと伝えてくれる。

 長ったらしい在のメールにもう一度目を通してから、簡単に返信する。今日は課題はないし、授業の準備は前もってしてあるからやることはもうない。遅くなった夕飯は、いつも通り、うちを訪ねてくる子鬼と一緒に食べて、後片付けも済ませた。もう、本当に手をつけることが何もなくなってしまった。ということは、目を逸らしたいことについて考えなくてはならない。

 在からのものとは別に、もう一通メールを受け取っている。母親の仲間であり、オレの保護者達の一人でもあるコトミさんからのものだ。この内容を在にも伝えるべきかどうか迷ったのだが、今日は結局やめておくことにした。せっかく在の気分が良さそうで、他に考えることがあるのなら、知らない方がいい。

 オレの母親を殺した男で、オレとアイツが兄弟になる原因になった男――岡林律人のことなんて、きっと聞きたくないだろう。まして岡林が、県内で目撃されたなんて情報は。

 

 そもそも初めの頃、オレが在を認めたくなかった理由は、この岡林という男にある。岡林は昔、在の母親と結婚していながら、オレの母親とも不倫関係にあった。この男は婿養子として常田家に入り、家業でやっていた不動産屋から着服した金で遊んでいた。そんな二重生活を送っているうちに、やがて常田家とオレの母親との両方とのあいだに、子供ができることになる。つまりそれがオレと在が生まれたいきさつだった。在とオレが兄弟であると認めることは、岡林を父親だと認めてしまうのと同義だったから、在の言葉――「君の兄にあたるんだけど」という最初のあの言い方が、癇に障ったのだ。

 オレは岡林の顔を、写真でしか知らない。それも、母親が殺されたあとに初めて見た。オレが生まれたときには、あの男はすでに母親と別れていたからだ。原因は、オレができたから。すでに常田の家で子供が生まれていて、表面上は父親でいなければならなかったあの男にとって、不倫の子供は邪魔だったというわけだ。

 そのことはコトミさんたちに教えられたわけじゃない。コトミさんたちはいつだって、オレを気遣って何も言わなかった。全ての事実は、母親が死んでから、犯人の手掛かりを探す段階で明らかになったことだ。――母親の日記を、生前から「あたしに何かあったら見なさい」と言っていたそれを、オレが読んだから。

 母親は俺が生まれてからずっと、その日記をつけていたようだった。日々あったこと――主にオレの様子だった――の他に、岡林と出会ってからのことを、思い出しながら書きつけていたらしい。その頃から、今後自分に何かがあるかもしれないという予感があったのだろう。コトミさんたちも、「サヤカちゃんは変なところで勘の鋭い子よね」と昔からよく言っていた。今になって、そんなに勘が働くならどうして岡林なんかと付き合ったのかと疑問が湧いてくる。

 とにかく日記は、母親の人生と事件の容疑者をオレに教えてくれたのだった。オレが母親の遺体を見つけて警察に連絡がいったときには、オレも容疑者の一人だったのだ。むしろ一番疑われていた。第一発見者で、そこそこでかい息子なら、それも仕方のないことだったのだ。当時はかなり腹が立って、コトミさんと樋渡さんが駆けつけてきてくれるまでは、ずっと警官に悪態をついていたのだが。ショックで混乱していたのもある、とも言い訳しておく。

 オレの容疑を晴らしたのは樋渡さんとコトミさんの口添えと、事件当時一緒に部活をしていた顧問や部員たちの証言、そして母親の日記だ。三つめが一番効いた。なにしろ、死者本人の証言だ。――私はいつか、岡林に殺される。

 

 門市のバーで働いていた日暮清佳に、岡林、いや、常田律人は、初めて店に来たときから目をつけていたらしい。すぐに清佳を呼びつけて、自分の身の上話を始めたそうだ。どこまで本当かはわからないが。なにしろ自分はとある会社の重役だと言ったのだ。本当は、片田舎の不動産屋の婿養子だったのに。

「結婚はしてるんだけど、あんまりうまくいってないんだ」

 あの男はそう言ったらしいが、うまくいっていなかったとして、そうしているのは自分だ。けれどもあんまり切なげに言うものだから、若かった清佳はすっかり騙されてしまった。その男が不遇な目に遭っていると信じ込み、言葉にほだされ、何度か会ううちに惹かれるようになってしまった。頻繁に品物が贈られるのも嬉しかった。まさかそれが、妻の実家から持ちだした金で購入したものだなんて夢にも思っていない。

 バーの「ママ」、樋渡さんは清佳を心配したが、若い清佳は耳を貸さなかった。ちょうど思春期の娘と母親のような関係だったという。実の親とはうまく関係を築けなかった清佳にとっては、成長において必要な段階ではあったのかもしれないが、そのまま男に入れ込んでしまったのは良くなかった。妻がある身だと知っていながら、付き合うようになってしまった。そのあいだに男の妻が身籠ったことも、そのときは知らなかった。知ろうとしなかったし、男は「妻とはうまくいっていない」としか言わなかったから。その子供が産まれてからも、清佳はそれとは知らずに男と関係を続けていた。

 だが、清佳の妊娠が発覚したとき、男の態度はがらりと変わった。子供ができたら男は妻と別れる決心がつくのではないか、自分と幸せな家庭を築けるのではないかと思っていた清佳の気持ちは裏切られた。

「馬鹿を言うなよ。僕は子供なんかいらない。常田の子供だって、その腹にいるのだって、邪魔でしかない。そんなもので縛りつけられるのはごめんだね」

 男に愛されていたと思っていた、子供もきっと愛してくれると思っていた、だから清佳は男の本性に愕然とした。常田の家に子供がいるなんてことも、このとき初めて知った。言葉も出ないまま立ち尽くしていると、男は用意していたかのようにメモを投げてよこした。どこかの住所が書かれていたそれに手を伸ばそうとしたとき、男は言った。

「子供はいらないけれど、君との関係は悪くないと思っている。そこで子供を処分してきたら、今までどおりの付き合いを続けていこう」

 言葉を放ったその口で、いつも清佳に向けるのと変わらない眼差しで、男は笑った。だが、清佳の眼にはもう今までの優しかった男は映っていなかった。そこにいるのは清佳がやっと得られた宝物を捨てさせようとする、恐ろしい人間だった。実の両親よりもたちが悪い。彼らは一応は清佳を産み、名前をつけ、中学までは家に置いた。でも、この男は子供を産ませようとすらしないのだ。

「……ママやコトミちゃんたちの言う通りだった。ちゃんということをきいて、あなたとの関係を切るべきだった」

「僕と別れようっての? 今まで君が生活できてきたのは、誰のおかげだと思ってるわけ?」

「ええ、あなたはあたしにたくさんお金を使ったわ。あたしもそれに甘えた。だからこんなことになったのよ。悪いのはあたし。だからあたしは、ちゃんとけじめをつけなきゃいけない」

 やっと家族ができると思った。夢に見たような、周りの人々が育ってきたような、温かい家庭が築けるのではないかと期待した。それを引き裂こうとするこの男とは、もう付き合っていけない。――温かい家庭なら、こんな男がいなくても、自分と子供がいればつくっていける可能性がある。

「子供は産んで育てます。あたし独りでも。さようなら、律人さん」

 清佳はそのまま男と別れて、二度と会わないつもりだった。逃げて縋った樋渡さんに、男が来てもとりあわないように頼んだ。泣きながら謝る清佳を、樋渡さんはただただ抱きしめてくれていた。

 それからしばらく男は店に現れなかったが、そのかわりに、別のところで事態は急転した。偶然礼陣から来たという客が、常田不動産のことを話したのだ。樋渡さんが詳しく内容を聞いたところ、その不動産屋の娘婿と常田律人が同一人物であるということがわかったのだった。そこにはたしかに生まれて一年も経たない子供がいるということも。

 それを聞いた清佳は、突発的に行動に出た。常田不動産の住所と電話番号を調べ、翌日の昼には礼陣にやってきた。常田不動産までの道は、人に訊けばみんな親切に教えてくれるので、すぐに分かった。勢いで乗り込み、娘と文通をしていて会いに来たという嘘を吐いて、会わせてもらった。そんなことは嘘だと本人が一番わかっているはずなのに、常田律人の妻である遥は、不思議そうな表情を浮かべて清佳の前に現れた。

 遥はいかにも良い家庭で育ったお嬢さんといった風貌の、大人しそうな女性だった。夫が吐いた嘘も真に受けて、仕事や付き合いだから夜に帰ってこないのも仕方がないと思い込んでいる、何も知らない女性。その腕には赤ん坊が抱かれていた。父であるはずの男に邪魔だと思われながらも生まれることを許された子供が。

「あの、日暮さんでしたかしら。私はあなたを、たぶん知らないと思うのですけれど……」

 それならどうして会ったのか。あまりの無防備さ、暢気さに苛立ちを覚えながら、清佳は遥に詰め寄った。

「知らないのは当たり前でしょう。どうせあなたは、自分の夫のことをなんにも知らないんでしょうから。どうして夜に夫が帰らなかったか、疑ったこともないの?」

「主人はうちの家業の他にも、色々な方とお付き合いや取引があると……。あなたは、主人のお仕事に関係した方なのですか?」

 その「付き合い」がどんなものなのか、このお嬢さんは本当に何も知らないし、知ろうともしていないのだ。世の中に、こんなにも世間知らずな女がいたとは。……いや、それは自分も同じだ。清佳は自嘲し、それから遥に、これまでのいきさつを伝えた。

「あたしは常田律人の愛人です。このお腹には、彼の子供がいます」

 そこから始まった説明を聞くうちに、遥の顔がだんだんと血の気を失っていった。顔面蒼白とはこういう状態をいうのだなと、清佳は心の冷静な部分で感心してしまった。

「……すみません。あなたのお話、とても信じられません。彼が、そんな……他の女性と……」

「でも、事実ですから」

 きっぱりと言い切った清佳に、遥はまだ「嘘よ、嘘よ」と呟いている。これ以上は言っても無駄かと、諦めてその場を去ろうとした。結果が無駄でも、本妻に会いに行ったと知られたら、樋渡さんに叱られるだろうか。あの男がこのことを知ったら、どうするだろう。そんなことを考えながら向けようとした背中を、けれども遥は引き留めた。

「待って。突然のことで、私は全く理解できていません。もっと詳しくお話を聞かせてください。主人にはあなたのことは言いませんから。……連絡先を、教えてくれませんか」

 震える手で、清佳の服の裾を掴んで。もう片方の腕で、しっかりと子供を抱いて。遥は真実に目を向けようとしていた。今まで信じていたものを、疑おうとしていた。

 清佳は遥に向き直り、彼女と連絡先を交換した。こっそり見た赤ん坊の寝顔は、まだ何も知らないまま、安らかだった。

 二人が連絡をとるのは、遥が電話をかけてきたときに限られた。それも時々で、夫がいないときを見計らってのことだった。そのわずかなあいだに、清佳は自分と男のことを話せるだけ話した。月日が流れて子供たちも順調に育った。清佳は遥の子供に一度きりしか会っていないが、その成長は遥を通して知っていた。そして清佳自身も、宣言通りに独りで子供を――オレを産んだ。「何物にも染まらないように」という願いを込めて「黒哉」と名付け、その日から日記をつけ始めた。日記には鍵をつけ、解除するための四桁の番号をオレの誕生日に設定した。宣言通りに、オレを独りで……いや、樋渡さんやコトミさんたちの力を借りて育て始めた。

 仕事を掛け持ちして、オレが保育園や小学校といった集団の中で生活するようになってからは、その関係者たちの誹りを受け流し、オレに剣道を習わせ……自分が両親から愛されなかった分を埋めるように、清佳は、母親は、オレを大事にしてくれた。

 オレが大事だったから、父親が誰なのかは話さなかった。けれども事態は、オレが何も知らないうちに変わっていたのだった。オレが小学生になって間もない頃に、母親に遥から連絡が入っていた。

「全てが父に知れました。あの人が我が家のお金を勝手に持ちだしていたことも、結婚してから今まで、あなたや他の女性とお付き合いをしていたことも。父が不審に思って調べていたので、私が話したんです。あの人とは離婚しました」

 随分と遅い展開だったようだが、それだけあの男が上手く取り繕っていたんだろう。しかし綻びは暴かれ、あの男は常田家を追い出された。もう常田は名乗れなくなって、岡林律人として生きていくことになった。

 だが、それで全てが終わったわけじゃない。それはむしろ、再開の合図だった。あの男はよりによってオレの母親につきまといだしたのだった。樋渡さんたちが母親とオレを守ってくれていたけれど、いくらかの金をとられた。一度成功すれば味を占める。その後もあの男は幾度となく母親に金を無心し、奪っていた。オレはそんなことも知らずに、ただ毎日に不満や小さな喜びなんかを持ちながら生きていた。

 けれども、母親はオレに何も教えなかったわけではない。小学生だったオレを呼んで、鍵をかけた日記帳を見せて言った。

「黒哉、あたしに何かあったら、これを見なさいね。ここに大切なことは全部書いてあるから、きっと黒哉の役に立つはず。鍵は黒哉の誕生日に、こうやってダイヤルを合わせたら開くから」

「今見るんじゃだめなのかよ」

「うん、今はまだだめ。あたしが黒哉になんにも伝えられなくなるような、それくらい大変なことが起こったら。もし忘れちゃっても、日記の存在はコトミちゃんたちにも伝えてあるから大丈夫よ」

 そのときは縁起でもないことを言うなと思った。けれどもそれは、母親が岡林との関係を続けるうちに持つようになった予感で、保険だったんだろうと、今ならわかる。ことはすでに起こってしまって、もう取り返しがつかないのだけれど。

「だから黒哉、あなたは何が何でも生きなさいね」

 そう笑った母親は、もうこの世に生きてはいない。

 だが、岡林は、母親が死の前日までソイツに殺されるだろうと予感し覚悟していた当の男は、生きて県内をうろついているのだ。警察から樋渡さんに目撃情報があったということが伝わり、それを聞いたコトミさんがオレにこっそり教えてくれた。

[黒君も気をつけてね。あいつがまだサヤカちゃんのお金を狙っていたら、今度は黒君が危ない目に遭うかもしれない。なるべく一人にならないように!]

 オレの身を案じながら、オレについててやれないことを、コトミさんたちは悔しがっている。一方で、オレがコトミさんたちから離れている今の状態を、ほんの少し安心してもいると思う。母親の残した財産のほとんどは、今は樋渡さんが預かってくれているのだから。

 オレは自分の身だけ守っていればいい。守れるようにしていればいい。幸いなことに、礼陣には味方がたくさんいる。むしろ味方を作るために、母親はオレを連れて礼陣に引っ越したのだ、きっと。

 

 

 まともに眠れた覚えがないまま、朝が来てしまった。結局会長への返事はまとまっていない。ただ、断る理由を探すのはやめようと思うまでに留まった。けれども早めに決着をつけなければ、生徒会役員選挙の立候補期間を過ぎてしまう。過ぎてしまったら、どうなるのだったか。

 何にしろ、僕の意思を聞かないことには、会長は安心して役目を退けない。それは避けなければ。これまでの恩を仇で返してしまうことになる。

 会長には、というか、会長と水無月先輩には、いつかはたくさん来ていた新聞や雑誌の記者たち、ニュース番組の取材などを追い払ってもらったこともあった。黒哉のお母さんが亡くなって、容疑者がかつて僕の父だった人だと判明してから、しばらくは随分追い回されたものだった。でも僕なんかはましな方で、きっと黒哉はもっと大変な思いをしたんだろう。

 会長はこの学校の生徒代表として、僕らをできる範囲で守ってくれていた。そのお礼を、僕はまだできていない。けれどもお礼ができるほど力を持っているとも思えない。会長のように、生徒を守り、助けることが、僕には到底できるとは思えないのだ。だから僕は、生徒会長には――。

「在、おはよう。目の下真っ黒だよ、大丈夫?」

 気が付けば僕はちゃんと制服を着て学校に来ていて、自分の席に座っていた。顔を覗き込む亜子さんに少し焦りながら、なんとか返事をする。

「おはようございます、亜子さん。僕は大丈夫ですよ。それより大助君は……」

「今日も遅刻じゃないの? わたしが迎えに行ったときに起きてきたし。寒いと眠いじゃんって言うけど、あいつが眠くなかったことなんてないよね。せっかく寒い中迎えに行ってやってるのに」

 そうは言うけれど、亜子さんと大助君の家は向かい同士だし、亜子さんは好きで大助君を迎えに行っているのだ。自分のほうが寒さに弱いのに、それをさておいて。この二人の関係が、僕は羨ましい。何の遠慮もなくて、互いに助け合えて。これくらいできたら、僕も少しは生徒会長を引き受けられるような気になったかもしれない。

「……ってそうじゃなくて、わたしは在の心配をしてるの。在こそちゃんと寝るべきだと思うよ。一限目さ、保健室でサボっちゃえば? ノートはわたしがとっておくから」

「本当に大丈夫ですよ。サボるなんて生徒会役員として許されないし」

「あ、やっぱり意識してるんだ。在はあんまり副会長って肩書にこだわってないのかなって思ってたけど、そうでもないんだね。それとも昨日の流さんのせい?」

 これは誘導だろうか。亜子さんはこういうのが得意だ。僕は苦笑いしながら、「両方ですよ」と正直に答えた。

「目立ってはいないけれど、副会長っていう肩書を持っているからには、生徒の代表だということを意識して振る舞った方がいいでしょう。もちろん、会長に次の生徒会長を、と言われたことも気にしてはいますけれど」

「なるの? 生徒会長」

「……どうでしょうね。僕には向いてないと思いますよ。会長みたいに人をまとめる力は、僕にはありませんから」

「そうかなあ。わたしは在に生徒会長やってほしいけど」

 やっぱり誘導だった。僕が迷っていることを、亜子さんはちゃんとわかっている。こんなに鋭いのに、どうして大助君とはまだ付き合っていないんだろう。それとも僕がわかりやすすぎるんだろうか。いや、そんなことはないと思う。亜子さんはきっと、自分のことに関しては鈍くあるようにしているんだろう。

 僕がそんなことを考えているのに気づかずに、亜子さんは僕に話しかけ続ける。大助君はまだ来ない。

「流さんはたしかにみんなを引っ張っていくのも、盛り上げるのも得意だけど。あれはあの人の才能だからね。在が同じになる必要なんてないし、むしろわたしは和人さんと同意見。流さんの時代とはがらっと雰囲気を変えて、全然違うタイプの生徒会長が出てくるのは良いことだと思う」

「違いすぎますよ。いきなり頼りない生徒会長が出てきて、新入生はともかく、在校生は納得するでしょうか」

「在は頼りなくなんかないよ。現に黒哉が助かってるじゃない」

 亜子さんはにっこりと笑う。でも僕には、彼女が言っている意味がわからない。黒哉が助かっているって、何のことだろう。けれどもそれを尋ねる前に予鈴が鳴って、それから大助君が教室に駆け込んできた。予鈴前に校門を抜けてきたのだから、今日は遅刻にカウントされない。

 授業中は眠さを堪えて、休み時間にほんの少しだけ目を閉じる。それを繰り返して、昼休みになった。大助君と亜子さんに心配されながら教室を出て、屋上へ。今日は山からの風が特に冷たくて、亜子さんはコートも持参していた。この寒さじゃ大助君のブレザーは借りられないだろうと思っていたら、大助君はこともなげに亜子さんにブレザーを放って、自分はシャツ姿で座り込む。やはり大助君が起きられないのは、単に朝に弱いからなんだろう。

 続いて黒哉が「寒い」と文句を言いながら駆け込んできて、僕から弁当を受け取る。会長と水無月先輩は、珍しく遅いようだ。たしか生徒会役員で何か集まりがあるわけではなかったはずだから(もしそうなら僕はここにいられない)三年生に関係する用事なんだろう。

「先に食っちまおうぜ。今日は姉ちゃんが熱い紅茶用意してくれたんだけど、お前らも飲むか?」

 大助君が持ち歩いていた魔法瓶を軽く振る。たっぷりしたそれは学校に持って来るには少し大きすぎて、よく目立っていた。

「飲む! コップは?」

「持ってきてる。在と黒哉も飲むだろ」

 亜子さんが震えながら返事をする。僕と黒哉も頷いて、順番に大助君から湯気を立てる紙コップを受け取った。まだ自動販売機に温かい飲み物が入っていないので、熱い紅茶はありがたい。普段はコーヒー派の黒哉も、飲んで一息ついていた。

「大助の姉さんって、すげー気が利くよな。屋上で飯食ってること知ってんの?」

「知ってる。『社台高校ではできなかったなあ』だってよ。そりゃそうだ、ここももともと立ち入り禁止だったんだし」

 黒哉を助けているというなら、僕よりも大助君の方が助けになっているんじゃないだろうか。僕にはわからないけれど黒哉には見えるという鬼のことも、大助君なら同じ目線で話すことができる。この町に来て間もなかった黒哉にとって、どれだけ心強かっただろう。黒哉だけじゃない。大助君はみんなから一目置かれた存在で、何か問題が起これば大助君を呼びに来る生徒も多い。問題は主に、喧嘩だとか、他校との揉め事だとか、そういうことだったりするのだけれど。

「……大助君は、生徒会役員やらないの?」

「は?」

 思わず出た一言に、大助君は怪訝な顔をした。亜子さんも。黒哉は紅茶をもう一口啜った。

「なんで俺がそんな面倒くせえことすんだよ」

「それ以前に、遅刻常連で宿題は忘れるし試験は赤点すれすればっかりの大助に、生徒会役員は無理でしょ。そりゃあ、ちょっとは人望あるかもしれないけど、それは喧嘩が強いからで……まあ、舎弟が多いっていえば良いのかな」

「俺は舎弟なんかもった覚えはねえ。つーか、俺の悪口言いすぎ」

「悪口じゃなくて事実でしょ」

 大助君と亜子さんの言い合いになってしまった。そんなつもりはなかったのだけど。僕が止める前に、黒哉が空の紙コップを置いて鼻で笑った。

「たしかに大助じゃ無理だな。この学校が不良だらけになりそうだ」

「いや、ならねえよ。真面目なやつらは絶対ついてこねえ。この学校の生徒って、流の影響で祭り好きに見えるけど、なんだかんだいって真面目なやつが多い。だから部活も真剣に取り組んで、結果出してくるんだろ」

「ああ、そういう見方もあるな。うちの部も、たまにふざけたりするけどだいたい真面目だし」

 どこもそうだよな、と頷いてから、黒哉は僕を見た。それに気づいた亜子さんも、にんまりと笑う。大助君は「人をだしにしやがって」と呟いて、腕を振りかぶった。それから、ばん、と僕の背中を叩く。

「痛っ!?」

 痛いけど、丸まっていた背筋が伸びた。自然と顔が上がって、三人の顔がよく見える。この屋上と、その向こうの景色も。秋が終わり冬へ向かおうとする山々を越えれば、この町とは比べ物にならないくらい広い世界がある。――僕が今、心の中にある躊躇いを乗り越えたら、どんな世界が広がっているんだろう。会長が見ていた景色は僕には見られないかもしれないけれど、僕の目に映るものがあるはずだ。

「しゃんとしろよ、在。どうせ役員選挙があるんだから、生徒が認めるかどうかはそれで決まるだろ。在がそこに出るかどうかだけ決めろ」

「悩んじゃうのは在の性分だから仕方ないけどさ。まあ、わたしはそこがなかなか好きではあるんだけど」

「うじうじしてんの見るとイライラするんだよ。流と主将に認められてんだから、胸を張れ」

 大助君、亜子さん、そして黒哉にそこまで言われて、僕はまだ躊躇うのか。いや、もう時間がない。眠れないほど悩むより、腹を括ってしまった方がいい。それに認めてくれているのは、会長や水無月先輩だけじゃない。僕には味方がついている。どんな結果になっても、彼らは僕を励ましてくれる。

「で、この学校でも特にくそ真面目な在は、役員選挙出るのかよ?」

 黒哉は僕をそんなふうに思ってるのか。たぶんそこには、融通が利かないとか、ちょっとのことで悩みすぎるとか、そういうマイナスな意味も含まれているんだろうけれど。今はたぶん、応援してくれているんだろう。

「会長が推薦してくれるなら、出るよ。来年度は今年までのお祭り騒ぎはできなくなるかもしれないけれど、それでもいい?」

「そこは安心しろ。生徒のほうで勝手に盛り上げるから」

「生徒会長はどーんと構えててよ」

「どーんってほど在に威厳はねーけど」

「黒哉、やっぱりちょっと酷いよね」

 やっと僕も笑えた。決めてしまったら、肩にのしかかっていた重いものがなくなった気がした。僕は決めるまでが遅い。人に背中を押されてやっと一歩踏み出せる。でもその一歩の大きさは僕にとってはとんでもないもので、それだけで達成感がある。案外、僕は単純なのだ。

 と、屋上の扉が開いた。そこにはキャップがオレンジ色のペットボトルを抱えた会長と水無月先輩が立っていて、嬉しそうな顔でこっちを見ていた。もしかして、全部聞かれていたのか。会長はともかく、水無月先輩にはそういうずるいところがあるのを、僕は知っている。

「流さん、いつから?」

「えーと、大助が生徒会役員になるとか、そういう不安な話をしてる辺りから」

「僕が行こうとしたら、流が止めたんだよ。あいつらに任せておけば大丈夫だ、だって」

 会長が苦笑し、水無月先輩が微笑む。僕の予想は外れだったらしい。むしろ逆だったとは。なんだか気まずく思っていると、会長が僕の目の前に立った。そして満面の笑みで、右手を差し出す。

「ありがとうな。在が決めてくれたなら、俺は全力で推薦する」

 これほど心強い支援があるだろうか。僕は会長の手をとり、握りあった。その脇で、水無月先輩がペットボトルを掲げる。

「そういえば、これ、どうしようか。人数分買ってきちゃったけど」

「温かいお茶? 和人さんたち、学校の外まで行ってきたの?」

「学校を抜け出すのも、なかなかスリルがあって面白いね。結局帰ってきたときに、玄関で平野先生に見つかっちゃったけど。生徒会役員が何やってんのって呆れられた」

「……この学校で一番真面目なの、マジで在かもな」

 また少しだけ、僕がこの学校の代表になっていいのかな、と不安になった。

 

 その日放課後に、僕は会長に連れられて生徒会担当の先生のところへ行き、役員選挙に出る意向を伝えた。先生は「常田なら問題ないだろう」と頷いてくれ、それから「野下より安心できる」と付け加えた。僕が知っているよりも、会長はもっと多くのことをやらかしてきたのかもしれない。思えば学祭の出し物だって、会長だから許してもらえたようなものなのだ。

 だけど会長が残した熱は、この学校に残る。僕だけが無理に動こうとしなくても、この学校の生徒は自分で動く。それが常識の範囲に収まるように調整するのが、きっと僕の役目になる。

「他の人員については考えてるのか、野下?」

「一通り声はかけてます。なんと礼高志望の中三生までリサーチ済み!」

「そこまでやれとは言っていない。まったく、お前はいつもやりすぎる。だから水無月と組んでちょうど良かったんだがな」

 僕のこと以外も、会長はちゃんと考えていた。新しい生徒会役員の候補を聞いて、僕も納得する。持ちあがる者もいれば、役員経験はおろか、クラス委員すら経験したことのない生徒の名前まであがった。けれども会長がその人となりを説明してくれると、僕も安心できるのだった。

「あとは新一年生から書記を選べば、新年度の生徒会役員の布陣は完璧。俺は安心して卒業できる!」

「うん、野下はもう十分すぎるくらいやってくれたから、さっさと卒業しろ。常田、あとよろしく」

「あ、はい……」

 そうだ、もう十分すぎるほど用意してもらった。選挙で認められれば、僕は次の生徒会長になる。かなり周りの人に力をもらったけれど、自分でやると決めた。でも、いやだからこそ、これからのことは僕がちゃんと決めなければ。人に作ってもらった道ばかり歩いていたら、それは怠慢な気がする。

 選挙に向けてやらなければならないことがある。選挙演説用の原稿を作ること。それを選挙当日に、全校生徒の前で読む練習。今までは副会長でありながら、会長と水無月先輩がほとんど全てを片付けてくれていたためにやってこなかったことを、新会長としての意識を持ってやる。責任は重大だ。ここで失敗したら、推薦してくれた会長に申し訳ない。

「演説原稿、チェックしていただいてよろしいですか?」

「あ、それは推薦人の野下……よりは、水無月の方がいいな。そっちにきいてくれ。教師がやると贔屓だって言われるから」

 そうか、これから全く対抗馬が出てこないという保証はない。それにしても、会長はともかく、水無月先輩に教えを請うのはできれば避けたい。ここは無理にでも会長に見てもらわなければ。

 ……と、思っていたのだけれど。

「副会長選のときに、一回演説しただろ。あれじゃだめなのか?」

「あれは演説というより、簡単な決意表明ですよ。副会長として責任を持って務めますのでよろしくお願いします、としか言ってません」

「よく憶えてるな。俺、自分が何言って会長になったのか全然憶えてないんだよ。だから原稿のチェックは和人のほうがいい。俺も和人に見てもらって原稿作ったし」

 会長が先にそう言ってしまったので、そこをなんとか、と食い下がることもできなくなってしまった。けれども、水無月先輩に見てもらったというのなら、僕の記憶にある会長の演説は不自然だ。だって、あんなに会長らしい演説はなかったのだから。

 クラスと名前を呼ばれ、壇上に立った会長(当時はまだ会長ではなかったのだけれど)は、改めて自己紹介をした後、大きく息を吸い、マイクをスタンドから取り上げ、叫んだのだ。

「俺が会長になったら、この学校の生徒の誰もが、学校に来るのが楽しみになるようにする! とはいえ俺と考えの違う人はたくさんいるだろうから、いろんな意見を聞いて、行事や普段の生活にいいとこどりをしていこう。今学校がつまらないと思っているやつが、ほんの少しでも楽しいと思えるように、俺たちみんなで礼陣高校をつくりあげていこうぜ!」

 最後は拳を高く突き上げ、全校生徒の歓声を呼んだ。礼陣高校史上最も盛り上がった演説だったと生徒のあいだでは評判だったけれど、教員らからは賛否両論あったという。それから一年、会長は自分の言ったことを実現し、さらに人気を高めた。あの演説は、水無月先輩にはつくりあげられないと思うけれど。

 そんな感想を正直に水無月先輩に述べると、笑いながら種明かしをされた。

「原稿は書いたけれど、直前に放り投げてたよ。あの演説は、流の勢いで生まれたものだね」

「放り投げた?」

「用意した原稿を読んでるうちに、緊張してきちゃったらしくて。中学の時も、小学校でも会長やったことあるけど、選挙のために事前に用意した原稿とか挨拶は全部放り投げてたな。で、アドリブでその場を乗り切る」

 会長は意外とあがり症だったようだ。道理で本人は「憶えていない」わけである。それが数々の伝説をつくりあげてきたかと思うと、やはり会長は天才なのではないか。なににしろ、原稿の作成を会長に手伝ってもらうことはできなさそうだ。

「在は流と違って、きちんと言葉を用意してきてその通りに発言するから、在自身が納得できる原稿を作ったほうが良いね。どうする? 先生や流に言われた通り、僕に見せてみる?」

 水無月先輩は、僕が彼を苦手としていることをわかっている。さらに僕が一人ででも原稿を仕上げて演説をこなすだろうと、妙な信頼を持ってくれている。「なにも僕に確認しなくてもいいんだよ」と、僕に選択の余地をくれているのだ。

 それが余計に腹立たしくて、けれども自分に自信がない僕は、選べる行動が一つしかない。

「選挙までに何度か見ていただきたいです。今みたいに、講習の空き時間とか、昼休みをお借りすることになると思いますが」

「うん、わかった。在が原稿を持って来るなら、僕はそれを見るよ。嬉しいなあ、在に頼られるなんて」

 嫌味のない笑顔には、特に違和感はない。本当に喜んでいるのだ、この人は。たぶん、僕が苛立っていることもお見通しの上で。……この人には、かなわない。会長とは別の意味で。

 

 

 コトミさんからまた連絡があった。岡林が目撃されたのは大城市、この県の県庁所在地だった。人口が多いこの地域での捜索は、一見足取りを掴みやすいようで、混乱も引き起こしやすいのだという。岡林を見た、という証言自体も信憑性が疑われているという。けれども、捜査をおざなりにされているわけではないらしい。

 大城市から移動した可能性も考えられているというので、オレも気をつけるように、と改めて言われた。一人でいること自体が危ないから、できれば常田家の世話にもなれないか、とも。かつて在の母親の遥さんがオレの面倒を見たいと言ったとき、烈火のごとく怒った人とは思えない提案だ。

 在を通じて、常田家を信用したのだろう。母親の日記から、在の母親とずっと連絡をとっていたことは知っても、コトミさんたちは相手を信じ切れずにいた。岡林を野に放っておいて勝手なことを言う人だという認識が強かったのだ。でも、オレが在を「身内」と認めたことで、その考えが変わったのだ。

 けれどもオレは今のところ、常田家を頼るつもりはない。あっちには祖父母がいるとはいえ、住んでいる家は母一人子一人だ。在も、在の母親も、万が一の場合に巻き込むわけにはいかない。岡林がオレの母親の金を狙っているのなら、なおさらだ。

 だが、母親は生前、常田の家を頼っていた。だからオレは今、礼陣にいるのだ。――正確には常田家を通じて、礼陣を頼った。それを知ったのは、やはり日記でのことだったけれど。

 礼陣の町が子供への補助を手厚くしていることを、母親は遥さんと連絡をとるうちに知ったらしい。そこで岡林から逃れるためと、樋渡さんたちから自立して親子二人で生活していけるようにするため、そして自分に「もしものこと」があったときのために、門市から礼陣に移住することを考えていたのだった。

 それを実現する見込みができたのは、オレが中学生の時。たしかに憶えている。母親は、オレに提案をしたのだ。

「黒哉、高校に入っても剣道続けるよね? だったら、良い高校があるんだけどな」

 そう言って持ってきたのが、礼陣高校のパンフレットだった。部活に強い、特に剣道は全国大会に行けるレベルの学校。卒業後の進路も多様で、そのためのバックアップも十分にしてくれる。家庭環境と学力に応じて給与型の奨学金も出るという、公立高校にしてはできすぎている内容に、初めは混乱したものだった。けれどもそれは、礼陣という町では珍しくないことなんだそうだ。当時は信じられなかったが、今は本当だったのだとわかる。

「でも、礼陣って山一つ越えたところだろ。ここから通うには金が……」

「だから引っ越すの。黒哉の中学卒業に合わせて、あたしも向こうに店を持つから。こう見えて、コツコツ頑張ってきたのよ」

 こう見えても何も、母親はいつだって働き続けてきた。オレはそれを知っていたし、だからこそ母親に負担はかけまいとしてきた。塾には通わなかったが、勉強は人に負けないくらいしたつもりだ。どんな誹謗中傷も知らないふりをしてやりすごしてきた。剣道も月謝があるのでやめようかと思ったこともあったが、母親が「これは続けなさい」と言ってくれたのでやってこられた。オレが生きてこられたのは、母親の努力のおかげだ。

「実はもう、お店の契約も進んでるし、住む場所も相談中なの。だから黒哉が向こうの学校行ってくれたら、母さんはとっても助かるんだけどな」

「わかった、わかったから。礼陣高校は道場でも名前聞いたことあるし、興味はある。そうだな、剣道できるなら行きたいよ」

「うんうん。母さんもこの制服着た黒哉が見たいな。中学の学ランもかっこいいけど、このブレザーも大人っぽくていいよね。……ていうか、高校生になった黒哉が見たいんだ。あたしは高校行かなかったからさ」

 頑張ってきた母親の、このささやかな夢だけは叶えてやれた。礼陣高校を志望校にして、受験し、合格した。引っ越しをして、礼陣の町の人間になった。――このときは、母親が樋渡さんたちから離れたのをいいことに、岡林が全てを奪いにやってくるなんて、オレは思っていなかった。わかっていたら母親を守れたのかといえば、それもあやしいのだが。

 母親はそれを全て予想した上で、子供に手を差し伸べる礼陣の町に住むことを決めた。オレが独りになっても生きられるようにと考えていた。そしてそのとおり、オレは今、生きている。

 生きて、子鬼と飯を食っている。そこまでは母親も予想できなかっただろう。

『黒哉、今日も飯が美味いな! 唐揚げなんてよくできたな』

「電子レンジでできる方法を教わったんだよ。普通に揚げたほうが断然美味いけど」

 オレの作った飯を美味そうに頬張る子鬼を見ていると、母親を思い出す。甘いものは苦手だったが、オレの作るものは何でも「美味しい」と言って食べてくれた。食後にはコーヒーを必ず淹れた。それぞれの誕生日には決まってコーヒーゼリーを作って、二人で食べた。そんな日々が懐かしい。もう、懐かしくなってしまった。

「今度、ちゃんと揚げた唐揚げ食わせてやるよ」

『それは楽しみだ。食べることは鬼にとって良い娯楽だからな』

 子鬼は茶碗に盛ってやった白米をきれいに平らげた。鬼には本来食欲というものはないらしいが、娯楽として食べることを楽しんでいるらしい。こっちも独り寂しく飯を食うことがないので、子鬼が来てくれることは素直に嬉しい。独りの食事は味気ないものだと、知ってしまっている。

 鬼はこの町の住人であり、神であり、人間たちの親だという。こうしてオレのところにやってくるのも、オレがその姿を見られるのも、オレが親を亡くした「子供」だからだ。子鬼を含む鬼たちは、オレの面倒を見てくれている。そう思うと、オレは周りの大人たちに守ってもらっているのと変わらない。

 感謝はしている。一緒に過ごす時は悪くない。けれど、ときどき頭をよぎるものがある。

「子鬼。……アイツが、岡林が、県内にいるらしい。コトミさんたちが、礼陣にまた来るかもって心配してる」

『ほう、気をつけておこう。黒哉に手出しはさせん』

 そう言いきれるほどの力を持っている鬼が、どうして母親を救ってはくれなかったのだろう。ただ殺されていくのを放っておいたのは、何故なんだ。そんな疑問が生じるのだった。

「……鬼が救うのは、子供だけなのか?」

 礼陣の鬼は子供を守る神。この町を研究している平野先生も、鬼と交流がありコイツらについて詳しい大助も、そう言った。だからオレはその問いを、単純な疑問として――いや、いくらかは母親を助けてもらえなかった悔しさや恨みを込めて、投げかけた。すると誰もが、当の鬼でさえ、困ったようにこう答えた。

 鬼は何でもしてくれるわけじゃない。むしろそう思っていたら、人間も鬼も自らのあるべきかたちを見失う。だから、本来は見えないくらいがちょうどいい。

『すまん、黒哉。許してくれとは言わないし、私たちにはそれを言う資格もない』

 子鬼もまた、俯きながら言う。

『私たち鬼は、子供たちにとっての親の場所に着こうとする。親として居座ろうとする。実の親が亡くなり、空いた場所を奪う。過去にそれを厭い、鬼を恨んだ人間もいる。黒哉だって、そうしてもおかしくない。礼陣の外から来て、突然鬼の子になったのなら、なおさらだ』

 さっきまで笑って飯を食っていた口が吐き出す言葉は、痛々しい。子鬼もつらいだろうが、オレもそんな言い方は受け入れがたい。だって、そんなことを言われては。

「オレがまだ、礼陣の人間じゃねーとでも言うのかよ」

『違う! 黒哉は礼陣の人間で私たちが守るべき存在だ。だから今度は』

 それならいい。オレが礼陣の人間だというなら、それゆえに守ってくれるというのなら、オレは恨まずに感謝する。子鬼の頭を軽く叩いて、うまくできているかはわからないが、笑ってみせてやった。

「大丈夫だ、わかってるから。母さんのことも、オレのこれからのことも、お前ら鬼はちゃんと想ってくれてるんだって知ってる。だからもう、謝るな」

 鬼が救うのは子供だけじゃない。かつて子供だった大人たちも、こいつらは救いたいのだ。でも、それはとても難しいことで、なかなかできることじゃない。オレは母親のことを仕方ないと諦めるわけではないが、鬼を責めるつもりもない。

『……黒哉は、優しいな。もっと責めてもいいのに』

「お前らを責めたところで、母さんは帰ってこないだろ」

 オレが恨むのは、あの男だけで十分だ。そうでなくては、きっと疲れてしまうから。在のことだってそうだった。

『ところで岡林のことは、在には話したのか』

「いや、まだ。生徒会役員選挙が近いんだ、邪魔するわけにいかないだろ」

 余計な情報を伝えて、混乱させると面倒だ。あの男のことはやはり黙っておこう。――そう思っていたのだが、オレの認識は甘すぎた。在は恨むべき対象ではないが、関係者であることには違いないのだ。

 

 

 夕飯の後に食器を洗いながら、演説の原稿について少し考えるつもりだった。半端なものは水無月先輩に見せたくないし、全校生徒の前で発表するなんてもってのほかだ。自分でも意外なほどに真剣に考えていることに、心の中で苦笑する。表情には出ていないだろう、たぶん。

 だから母も、こんな話を切り出してきたのだと思う。

「在、あのね。……あの人、律人さんが、大城市にいるかもしれないんですって」

 危うく、皿を落とすところだった。泡立った洗剤の、じゅわりという音が、妙に耳に残る。それを素早く洗い流して、僕は作業を中断した。

「あの人、県内にいるの? 行方がわかっているならなんで捕まらないの」

「目撃情報があったってだけだから……でも、警察が今、大城市を中心に捜索をしてくれてるわ。もしかしたら礼陣に戻ってくるかもしれないから気をつけてくださいって、万が一接触してくるようなことがあればすぐに連絡をくださいって、電話が来たの」

「いつ?」

「……今日。と、昨日も」

 昨日連絡があったなら、どうしてすぐに教えてくれなかったんだ。いや、昨日は僕がすぐに部屋に引きこもってしまったから、母に話をするタイミングがなかったのだろう。しばらくあの人については進展がなかったから、僕も油断していた。

 あの人が生きている以上、僅かでも忘れてはいけなかったのに。日常の中で、僕はすっかり憎むべき相手のことを頭の隅に追いやってしまっていた。あんまり、平和だったから。

「このこと、黒哉には?」

「もう伝わってると思うわ。樋渡さんにも連絡はしているみたいだから、黒哉君も……」

 母と黒哉の保護者である樋渡さんは、黒哉のお母さんが亡くなって以降、頻繁に連絡をとっていたのだということを最近知った。黒哉のお母さんは、何重にも自分に何かがあったときのための保険をかけていたらしい。黒哉のために、僕の母をも味方にしようとしていた。そのことは樋渡さんたちや黒哉にうまく伝わっていなくて、事件直後は混乱が生じたのだけれど。母が黒哉を引き取ろうとして、コトミさんたちと揉めたというのも、そのせいだった。

 黒哉のお母さんが門市の知りあいだけでなく、礼陣に常田家という味方をつくっておいたのは、正しい判断だったのではと僕は思う。初めのうちこそ拒絶されたけれど、今の黒哉になら、僕らは躊躇なく手を差し伸べられるし、それをとってもらえる自信もある。でも、それは僕らが気づいて動けた場合の話だ。そうでなければ、黒哉は今だって、危険なことを独りで抱え込む。そういう子だと、僕はもうわかってしまっている。

 黒哉はきっと、今回のことも知っていて、僕には黙っていたのだ。一人でなんとかするつもりで。もしかしたら、この町の鬼とかがいざとなれば助けてくれるなんて思っているのかもしれない。あれほどあてにならないものはないと、僕は思っているけれど、それが「見える」黒哉はそうではないかもしれない。鬼なんて、黒哉のお母さんを見殺しにして、その居場所に都合よく居座っているようなものなのに。そんなのは危険すぎる。もしあの人が礼陣に来て、今度は黒哉に手を出したなら……。

 いてもたってもいられず、僕は携帯電話を手にして自室に入る。今まで黒哉にはメールこそすれども、電話はかけたことがなかった。ときどき眺めるだけだった番号に、今日は迷うことなく発信する。呼び出し音が鳴るあいだ、黒哉が無事かどうかばかり気になった。もうあの人がこの町に来ていて、黒哉の住むアパートの部屋に近づいているところまで想像した。あの人の現在の姿なんかわからないし、ほとんど家に帰ってきたこともなかったから、想像する姿は顔のわからない、黒い影のようだ。

 そうだ、僕はあの人を憶えていない。両親が離婚したのは僕が小学生になってからだけれど、その理由を知ったのはずっと後になってからだ。それも、祖父と母があの人について少し話していたのを、こっそり聞いただけ。詳しいことは黒哉のお母さんが亡くなってから、ようやく理解したのだ。

 僕はいつも何も知らない。用意されたものを辿ってばかりだったから、いつだって出遅れる。気づいたときには全てが手遅れだ。でも、今度は、今度こそは、そんなことにはしたくない。大切なものの一つくらいは守りたい。

「……もしもし」

 待った時間はどれくらいだっただろうか。僕にしてみれば長かったけれど、実際はそうでもなかったのかもしれない。とにかく黒哉は、いつもの調子で電話に出てくれた。それだけで、ほっと気が抜けた。――でも、それで終わってはいけない。

「黒哉、僕、在だけど」

「表示されるんだからわかってるっつーの。なんだよ、こんな時間に。オレ暇じゃねーんだけど」

 今は無事かもしれない。でも、このあとはわからない。

「急にごめん。でも、どうしても確認しておきたいことがあったから」

「なんだよ。役員選挙のことならオレは知らねーぞ。流に相談してるんじゃねーのかよ」

「違うよ。……あの人のことだよ。岡林のこと」

 その名前を口にした途端、電話の向こうが見えるわけじゃないのに、黒哉の表情がこわばったのがわかった。そういえば僕たちは、あの人について、これまでちゃんと話をしたことがあっただろうか。互いに、あの人のことなんか憶えてない、ほとんど知らない、で終わっていたと思う。だって、他に話すことなんかなかったから。黒哉にとっては自分のお母さんを殺した相手だ、思い出したくもなかっただろう。

「……あの男がどうしたって」

 わかっているはずなのに、わからないふりをするのは、だからなのか。

「君も聞いてるよね。あの人が、大城市にいるって。今、警察が県内を捜索してるって」

 焦る僕の言葉に少しかぶせるようにして、黒哉の溜息が聞こえた。

「……聞いてる。大城市にいる、じゃない。大城市でそれらしい奴が目撃されたって話だろ」

 やっぱり知っていた。でも、そう話す声には緊張がない。むしろ呆れているようだった。どうしてだ、黒哉のお母さんに関わることなのに。黒哉が危ないかもしれないのに。

「あの人が県内をうろついているなら、黒哉独りでいるのは危ないよ。アパートじゃなく、うちに来たらどうかな。そのほうが安全だと思うんだけど」

 これが僕が黒哉を守れる、唯一の方法だった。黒哉を独りにしておかない。僕が彼の傍にいる。それしか考えられなかった。

「そう言うと思ってたから黙ってたのに。……オレはお前の家には行かない。ここにいる」

 なのに、黒哉は僕の提案を却下した。僕にできることを、僕が言う前から否定していた。

「どうして」

「オレ一人ならオレが自分で何とかできる。お前は余計なことを考えるな」

「余計なことって何? 僕が黒哉のことを心配するのが、余計だっていうの?」

 つい語気が強くなる。こちらのいうことを聞いてくれないからじゃない。黒哉に近づけたと思っていたのに、それが僕の勘違いだったのかと思ったからだ。僕のことを身内だと言ってくれたのに、また遠ざけられたと感じたから。

「身内だから心配するんだよ。それとも僕はもう身内じゃないっていうの?」

 必死で縋る。手を伸ばす。早くこの手をとってくれないと、また黒哉が遠くなってしまう。最悪、あの人に奪われる。そんな思いが僕をさらに焦らせる。

 けれども黒哉は、至って冷静に、返答した。

「身内だよ」

 いつかと同じ言葉が、はっきりと僕の耳に届いた。

「身内だから、一か所にかたまって全員やられるのを避ける。やられるならオレ一人でいい。それがオレの考えだ」

 僕の黒哉に対する認識は、ちゃんと正しかった。危ないことほど独りで抱え込んで、自分だけで何とかしようとして。僕はその黒哉に、身内として、――兄として、言わなければならない。

「そんなのは許さないよ。黒哉一人が犠牲になるなんて、絶対に駄目だ。君が嫌がっても家に連れてくるよ。せめてあの人が県内からいなくなったってわかるまでは」

「そうやってお前は、お前の母親を巻き込むつもりか」

 言わなければならなかったのに、黒哉のあまりに強い声に、僕は黙らざるをえなかった。

 黒哉は独りだ。彼は自分の身が守れればそれでいいし、自分だけが傷つくならそれもまたかまわないと思っている。けれども彼にとって、そして僕にとっても、僕は独りではない。僕にはまだ母がいる。生きている。

「お前は、お前の母親を守れよ」

 自分の母を喪ってしまった黒哉の、それが願い。彼は救えなかったから。これまでの僕と同じで、気がついたときにはどうしようもなくなってしまっていたから。だから僕に、託そうとしているのだ。きっとそんなこと、少し前までならわからなかった。黒哉が僕を身内だと言ってくれなければ、僕を認めてくれなければ、僕は黒哉に固執して、母のことに考えが及ばなかっただろう。実際、今がそうだった。

 黒哉のほんの少しの言葉で気づくようになった。黒哉の願いがわかるようになった。僕らは遠ざかってなんかいなかった。――近づいたから、互いに失いたくないんだと、そこにやっと辿り着いた。

「……黒哉は、独りで平気なの? まさか、鬼がいるから大丈夫なんて言わないよね」

「言わねーよ。頼っちゃいけないんだ、鬼には。そういうものじゃないからな」

 ああ、良かった。一番愚かなことは考えていないみたいだ。それなら、ほんの少しだけ安心できる。でも、少しだ。やっぱり僕は、黒哉を助けたい。

「ねえ、僕にできることはないの? 母さんを守れっていうのはわかったけど、黒哉のために、あの人をどうにかできない?」

 最初の案はなしだ。それなら他のことを、僕には考えつけないようなことを、黒哉に教えてもらうしかない。黒哉が求めることは、黒哉にしかわからない。けれども。

「何もねーよ」

 黒哉はただ、そう言った。僕が頼りないからかと思ったけれど、蔑んでいるようには聞こえない。諦めているようでもない。ただ、そう思っているのが伝わった。

「在だけじゃない。オレも何もできない。オレもいろいろ考えてみたけど、あの男に対してオレたちは無力だ。仕方ないだろ、ただのガキなんだから。どこにでもいる、普通の田舎の高校生だ。殺人犯に対して何ができるっていうんだよ」

 僕らには、あの人をどうにかするなんてことができるはずはなかった。僕には、黒哉にさえ、そんな力はない。それは、できる人に任せるしかないのだ。都合のいいフィクションのように、すぐに解決できることじゃない。この町で、この国で、この世界で起こっていることの多くは、そういうものだ。僕らでどうにかできるなんて、思い上がりも甚だしい。

 どうにかできる力が、少しでも欲しい。そんなことを考えたことがないわけじゃない。でもそんなものはどこにもなくて、せいぜい僕らができることといえば、持っている情報を専門家に渡すくらい。わかっていたはずなのに、改めて思い知ると、悔しくてたまらない。

 どうしてあの人を放ってしまったのか。どうしてあの人に殺しなんかさせてしまったのか。――どれも僕らには、どうしようもないことだった。それが現実だ。

「……大丈夫だよ、オレなら」

 黙っていた僕に、黒哉の声が届いた。

「お前が心配してくれてるのは十分わかった。でもオレは、ちゃんと守ってもらってるから。母親がそのために、何年もかけて頑張ってくれたんだ。オレはそれを、それからお前がお前の母親を守ることを、信じてる」

 どうしようもないことが現実なら、黒哉が僕を信じてくれているのも、現実だった。僕らは確実に、距離を縮めている。――そういえば、生徒会長選に出るために背中を押してくれたのも、黒哉だ。僕はちゃんと、黒哉の身内だ。

「わかった」

 そう答えるしかないじゃない。

「心配しない、なんてことはできないけど。僕も黒哉を信じることにする。僕は僕の母さんを、ちゃんと守るよ」

「そうしてくれ」

 それが黒哉の願いなら、叶えなくちゃ。だって僕らは、身内なんだから。もしかしたら僕は、彼の兄にだってなりかけているのだから。もっと気をたしかに持たなくては。

 大丈夫だ。黒哉にはたくさんの味方がいる。だからって僕が手を離してもいいとは思えないし、離したくないけど、信じることもできないで何が身内だ。何が兄だ。

「でも、危ないと感じたらすぐに逃げるんだよ。町の誰かのところでも、僕の家でも。場所は知っているでしょう」

「あー、わかったわかった。考えとく」

 うるせーな、と黒哉が言う。それは本当に鬱陶しがっているわけではなくて、照れ隠しの言葉なのだと、今の僕にはちゃんとわかる。わかるようになった。

 

 あの人――岡林の捜索が続く中、僕は自分がやるべきことをやることにした。家で母の様子を見ながら、学校では生徒会役員選挙の準備をする。つまりは、日常を過ごすことが、僕にできる最善手だった。

 それは黒哉も同じで、相変わらずの日々を過ごしている。やっと温かい飲み物が学校の自動販売機に入って、屋上でそれをカイロがわりにしながら、僕らはいつも通りの会話をする。そのあいだ、岡林についての新たな情報は入ってこなかった。

 今、どこにいるのだろう。どうやって生活をしているのだろう。少しは罪悪感を持っているんだろうか。そんなことも考えたけれど、よく知りもしない人のことはうまく想像できなくて、結局そのうちやめた。あの人のことは警察に任せて、一日も早く捕まることを祈るしかない。

 そうして迎えた生徒会役員選挙には、会長の推薦したメンバーが顔を揃えた。それ以上に立候補や推薦はなく――なにしろ最も信頼されている会長の人選だから、誰も対抗しようと思わなかった――演説も戦うものではなく、決意表明となった。あとはそれを、この学校の生徒たちに認めてもらえるかどうかだ。

 水無月先輩は僕の作った原稿を読んで、「在らしいね」と笑った。僕が少しムッとすると、「いい意味でだよ」と付け足した。

「これなら認められるよ、行っておいで」

 僕は水無月先輩のことは苦手だけれど、その言葉はどうしてか信じられた。

 選挙当日、立った壇上で、僕はきれいに整列した生徒たちを見る。そこには亜子さんが、大助君が、黒哉がいる。舞台袖には会長と水無月先輩が控えていて、こちらを見守ってくれていた。

「生徒会長に推薦していただきました、常田在です」

 もっと緊張するかと思っていたそこに、たぶんもう学祭で立ってしまったあとだからか、僕は随分と平静でいられた。これから話すことが、多くの人の期待を裏切ってしまってもかまわないとすら思っていた。実際、そんな堂々としたものではないのだ。僕は、そんな人間じゃないから。

「僕には、現会長ほど、学校を盛り上げるようなことはできません。ただ至極真っ当に、会長としての役目を果たすつもりです。学校生活の盛り上げ方は、おそらく僕よりも、これまで現会長のしてきたことを見てきたみなさんが、よりわかっていることと思います。僕は会長として、それを支え、後輩へと受け継いでいきたくて、ここに立っています」

 僕は僕でいいのだと、僕がするべきことをしていれば間違いはないのだと、背中を押してくれる人がいる。僕は無力かもしれないけれど、僕を支える力はある。貰った力で僕は立ち、力を蓄え、そうしていつかは誰かを支えられるようになりたい。

「生徒会長として礼陣高校を支えていくために、みなさんの力を貸してください。どうぞよろしくお願いします」

 頼られるようになりたいけれど、そこにはまだ何歩か足りないから、誰かの力を借りる。誰かに用意された道を歩くのではなく、僕が道を見つけるのを手伝ってもらう。そういうやりかたでいきたいと言ったら、会長は「そうこなくっちゃな」と頷いてくれた。亜子さんと大助君は「手伝う」と言ってくれた。そして黒哉は、「必要なら手を貸さないこともない」だそうだ。

 頼りない生徒会長は、なんとか生徒に認められ、新生徒会役員の中心に据えられた。これから、会長からの引継ぎが待っている。一番最初の大きなイベントは、卒業式の送辞だ。

「ああ、そっか。もうそんなことを考えなくちゃいけないんだ……」

 まもなく、礼陣に雪が降った。山々を白く染め、町を濡らす雪は、屋上にも薄く積もった。昼休みに屋上を使うことはさすがに躊躇われて、というより寒そうな亜子さんがとても気の毒になって、僕は自分の会長権限で生徒会室を開放することにした。

 他の役員が昼休みに来ることはめったにないから、ここは屋上と同じ、僕らだけの場所になった。でもそれも、雪が融けるまで。それから先は、……まだどうなるかわからない。僕はまた屋上を開けるかもしれないけれど、その頃には会長と水無月先輩はもうこの学校にいないのだ。

 水無月先輩が淹れてくれた温かいお茶を飲みながら、黒哉が会長に尋ねる。

「流が卒業した後も、屋上って使っていいもんなのか? 今は流と主将に責任があるんだよな」

「そこは在の申請次第だな。といっても、瀬川さんかよりちゃんに引き続き黙認してくれって頼むだけだけど」

「僕、一応真面目で通ってるから。できるかどうか……」

 これからのことは、これから考えよう。何かが変わるかもしれないし、変わらないかもしれない。地道に準備をしていれば、いつかそれが役に立つこともあるかもしれない。

 今はただ、この日常を、大切にしていこう。壊されないよう、気をつけながら。