幼い頃から、僕はピアノを習わされていた。家にアップライトのピアノがあり、僕がその鍵盤を叩いていたのを見て、母はすぐに町のピアノ教室に僕を連れて行ったのだ。それから中学を卒業するまで、十一年くらいピアノを弾いていた。

 幼い僕は、たぶん、位置によって違う音が出るのが珍しくて鍵盤を叩いていたのだと思う。子供向けの歌に親しみがあった覚えはないし、現在も音楽にはほとんど興味がない。ただ、ピアノ教室で習う曲を、言われるままに、楽譜に忠実に弾いていた。それを見ていた母が喜んだから、先生が褒めてくれたから、十年以上も続けていたのだ。

 それにピアノは、一時期は荒れた心をごまかしてくれもしたのだ。小学生の頃、ちょうど母が離婚をしたあたりは、勉強をしているかピアノを弾いているかして、気分を紛らわせたものだった。

 高校生になってからは、ほとんどピアノを弾いていない。だから一年半以上まともに鍵盤を叩いていないことになるのだけれど、今でも僕の指は曲を奏でられるだろうか。――高校二年の初秋、僕は久しぶりにアップライトピアノの蓋を開けた。

 

 事の発端は、夏休み明けの昼休み。屋上に集まって昼食をとる日々が再び始まった日、野下会長が持ち込んだ音楽プレーヤーから始まった。

「欲しかったアルバム、やっと手に入ってさ。さっそく取り込んで、繰り返し聴いてるんだよ」

「昨日からこればっかりなんだよ、流ってば。それよりリスニング教材聴いたほうが良いと思うんだけどね、模試もあるし」

「これだって似たようなものだろ、洋楽なんだしさ」

 呆れる水無月先輩に、会長は口をとがらせて言い返していた。どうやら会長は音楽が好きで、邦楽も洋楽も、ポップスもロックもはてはクラシックまで、良いと思ったものは何でも聴くらしい。持ってきた音楽プレーヤーにも、様々な曲が入っているようだった。

 聴くだけではなく演奏するのも趣味の一つなようで、去年の学校祭や、町の祭りのステージでも、ギターを弾いて歌っていたという。学校祭のほうは聴いたことがあるけれど、たしかに上手だった。会長の演奏だけでなく、水無月先輩の歌も。二人とも趣味や特技が多い。

「アルバムって何てアーティストの?」

 亜子さんが身を乗りだして尋ねる。洋楽に関しては亜子さんも興味があるようで、たまに英語や、僕には聞き分けられないが他の言語の歌を口ずさんでいるのを聴く。僕が聴いていたことに気づくと、「やだ、今の聴いてた?」と恥ずかしそうに笑うのが可愛らしい。

 会長がアーティスト名を言うと、「流さん好きだもんね」と頷いていた。僕は全く知らない名前だったけれど、亜子さんにはすぐにわかったらしい。大助君も「前も聴いてたやつか」と相槌を打っていたので、僕が興味を持たなかっただけで、会長はずっとそのアーティストのファンだったのかもしれない。

 会長が何を聴こうと、僕にはあまり関係がないので、会話は聞き流そうと思っていた。「特に三曲目が良いんだよ」と語る会長をよそに、僕は黒哉を見る。きっと彼も興味のなさそうな顔をしているんだろうと思いながら。黒哉はこの町の歴史や文化、弁当のおかず、それから剣道の話題以外には、あまり興味を示さない。いや、これだけ興味を持つことがあれば十分だ。

 けれども僕の予想に反して、そこにはそわそわしながら会長の方を見る黒哉の姿があった。――まさかと思ったが、黒哉は会長たちの音楽話に、耳どころか全身を傾けているようだ。僕が驚いていると、視線に気づいた黒哉が、いつものように眉を顰めて「なんだよ」と言った。

「何か言いたいことがあるんなら、さっさと言え」

 黒哉は以前と比べると、随分僕の話を聞いてくれるようになった。不機嫌そうな表情は相変わらずだけど、それが黒哉の普通なんだと思ったら僕もかなり楽になった。夏休みに話をして以来、僕は黒哉とのちょうどいい距離を掴みかけていた。……と、勝手に思っている。

「あ、ええと……黒哉も音楽に興味あるのかなって。なんだか、会長の話を真剣に聞いてるみたいだったし」

「お、マジで?!」

 僕が思っていたことを正直に話すと、今度は会長が大きく身を乗りだした。黒哉は少し身を引きながら、でも顔を少し赤くして、小さく頷いた。

「……まあ、わりと。ていうか、それ、オレも好きなヤツ」

 本当に、よく耳を澄まさなければ聞こえないほど、かすかな声だった。それでも黒哉はたしかに、「好き」と言った。自分の好みをめったに言わない黒哉が言うのだから、本当に好きなんだろう。

「へええ、黒哉もか。好きになったきっかけは? 深夜ラジオとか?」

 僕とは少し違うところで、会長も感動していた。いつもテンションは高いけれど、さらに嬉しそうに、黒哉に質問している。僕も黒哉の答えに興味があったので、そのやりとりを見守った。

「いや、母親が働いてた店で。初期の曲をジャズアレンジして演奏してたのを聴いたのが最初」

「ジャズ! いいな、それ! 聴いてみたいんだけど、どこの店?」

「門市だし、未成年は基本的に入れねーぞ。オレは身内だから出入りしてただけだ」

 そういえば黒哉の亡くなった母親は、夜の仕事をしていたのだった。ホステスというから派手なイメージがあったのだけれど、もしかしたら実態は想像とは全く違うものだったのかもしれない。だって、身内とはいえ子供が出入りできたのだから。そもそもホステスが派手だというのだって、僕の勝手なイメージに過ぎない。

「原曲も聴かせてもらって、それから母親がCD買ってくれた」

「前から思ってたけど、黒哉の母さんって良い人だよな」

 会長の言うことが全てなのだろう。黒哉の母親は、黒哉を独りで育てるために朝も夜も働いて、息子に金銭的な不自由はさせないようにしていた。今もまだ貯金が残っているはずだ。黒哉のために貯めたものが。

 たぶん彼女は、その金のために殺されたのだ。忌々しくも僕らの父である、あの男に。

 それはともかくとして、好きな音楽のことを話し、母親を褒められている黒哉は、笑いこそしないけれど嬉しそうだった。話題を提供したのが僕でなかったのが残念なくらいだ。でも、相手が会長だと、不思議と水無月先輩に感じるような嫉妬心はなかった。

「うん、俺もそれ好きだな。あとさ、これ」

「この曲いいよな。叩くのも楽しかった」

「叩く?」

 いつのまにか会長と黒哉はイヤホンを片方ずつはめて、一緒に曲を聴いていた。こんなに黒哉と会長の距離が近いのは、かつてないことなんじゃないだろうか。しかし僕の、いや僕らの驚きは、それだけにとどまらなかった。

「ドラム。母親の店の人に教えてもらってやってた」

「マジ?!」

 黒哉が音楽をやっていた。それは僕たちにとって、衝撃の事実だった。だって黒哉は今までそんなことは一言も話したことがなかったし、そんなふうにも見えなかったから。いつも黒哉のことをよく知っているような顔をしている水無月先輩も、これには目を丸くしていた。

「どれくらいやってた?」

「けっこう昔……小学生の時から。休みの日の昼間にやらせてもらってた」

「なるほどなるほど」

 会長はにんまりと笑って頷いた。それからイヤホンをはずしてやおら立ち上がると、高らかに宣言したのだった。

「今年の学祭もバンドやろう、バンド!」

 誰でも思いつきそうで、けれどもこのメンバーでは言いだしそうになかったことだ。だって、祭り好きな会長はともかくとして、あとは比較的そういったことに熱を入れすぎないだろうと、僕は思っていたのだから。でもそれはどうやら、僕だけだったようだ。

「バンドって……流と黒哉だけで?」

「何言ってるんだよ、和人。お前がベースとボーカルな」

「ええ、また?」

 そうだった。去年は、会長が人を集めて、秋の学校祭でバンド演奏をしたのだった。水無月先輩はそこにベースと歌で参加していた。本当に器用な人だ。そこに黒哉がドラムで加わるとすれば、また水無月先輩と黒哉は一緒に行動することになる。せっかく先輩は部活を引退して、黒哉との接点がちょっとだけ少なくなったのに。

「で、キーボードは在。たしかピアノやってただろ」

「え」

 拗ねていたら、突然名前を呼ばれた。不意打ちだったのでうまく反応できない。亜子さんと大助君を見て、水無月先輩を見て、黒哉を見て、それから会長に視線を戻した。

「……僕、ですか? でもピアノはずっと前にやめて……」

「また弾けないか? ピアノじゃなく、キーボードだから勝手が違うかもしれないけど」

 僕がバンドに参加する。それも、黒哉と一緒に。会長と水無月先輩は三年生だから、このメンバーで出来るのはこれが最初で最後だ。来年はこんなことをやると言いだす人がいないかもしれない。

 答えあぐねていると、黒哉が「待てよ」と言いながら、イヤホンを外した。律儀にプレーヤーも停止させてから、会長を睨む。

「なんでオレが参加することになってんだよ?! 学祭でバンドなんてできるわけねーだろ!」

「できるさ。実績もある」

「実績とかじゃなく、オレができねーって言ってんだよ!」

「だってドラム叩いてたんだろ?」

「不特定多数の前でなんかやったことねーよ! 身内にしか披露したことない下手くそなドラムで、まともなバンドなんか組めるか!」

「下手だと思うなら練習すればいい」

 黒哉の反論に、会長は食い下がった。そのあとも練習時間がとか、機材がとか、いろいろ言い訳をしていたけれど、黒哉はとうとう会長に勝てなかった。

「好きなんだろ、音楽」

 そんなふうに言われて、人好きのする笑顔を向けられたら、断れる人間はいない。黒哉が根負けして頷いたので、僕もキーボードを引き受けることにした。

 できるかどうかはやってみないとわからないし、黒哉がやるなら僕もやりたい。音楽のことでこんなに気持ちが高揚するなんて、初めての経験だった。

 

 

 最後にスティックを持ったのは、この町に引っ越してくる前だった。小学生の頃から、母親が夜に働いていた店に昼間のうちに行き、備え付けてあったドラムセットを触らせてもらっていた。それが結局中学を卒業するまで続いたのだ。

 教えてくれたのは、昔バンドをやっていたというスタッフだった。普段はしおらしいのに、スティックを持つと人が変わったようにリズムをとり始める、面白い人だ。――そうだ、学校や剣道場での人間関係がとても疲れるものだったから、人生経験の深い大人たちの中でそれなりにちやほやされるのは嬉しかったし、楽しかった。

 もちろん子供が酒を出す店に、たとえ営業時間外でも通っているなんてことが知れたら、たくさんの人に迷惑がかかることになる。だからドラムは秘密の趣味だった。幸か不幸か、話したくなるような人間はいなかったから、今までは本当に秘密のままだった。

 それを話す気になったのは、もうあの店から遠ざかってしまったからであり、屋上に集まるやつらがこんな話を吹聴するような人間ではないと知ったからだ。吹聴はしない代わりに、とんでもなく面倒なことにはなったが。

 学校祭でバンド演奏をする。そんなことが、本当にできるのか。あの会長にはやれるのか。屋上を開けたことといい、今回のことといい、多少無茶をしても許されてしまう人間というのが、世の中には少なからずいるらしい。変な話だと思いながら、放課後にバイト先へ向かい、終わったら自宅へ帰った。そのあいだ、ずっと夢を見ているような気分だった。

 そんな現実感のない頭で住んでいるアパートに辿り着いたら、ドアの前に誰かがいた。その影が小さくないので――小さいならいつもの子鬼のはずだった――心臓が大きく跳ねる。一瞬にして喉が渇いて、張り付いた。こんな時間に、どうして大人が部屋の前にいるんだ。

 この町には鬼がいる。それはオレのように親を喪った子供に見えるものらしいが、そいつらには共通して頭に二本のつのがある。だからそれとすぐにわかるはずなのに、あれは違う。つのらしき影はないから、人間の大人だ。

 もしかして、アイツかもしれない。オレの母親を殺したあの男が、またここにやってきたのかもしれない。なにしろアイツは、母親を殺しはしたが、そのあとうちにあるはずの通帳や印鑑といったものは盗り損ねている。いつ仕切り直しに来てもおかしくないというのが、オレ自身や警察の見解だった。

 緊張しながら、様子を見る。その影はオレの住む部屋の前で、あたりを見回しながら立っていた。警察を呼ぼうか迷ったが、あんなに怪しいのだからもう誰かが通報しているかもしれない。携帯電話をポケットの中で握りしめ、鞄を振り回して武器にすることができるだろうかと考えながら、そっとアパートに近づいた。

 向こうもオレに気づいたようで、こちらを見て動きを止める。オレは素早く携帯電話を取り出し、開いた。――というところで。

「黒くーん、おかえりー!」

 ハスキーな声が、この時間帯に配慮した音量で響いた。影はこちらに向かって大きく手を振っていて、そうしていない方の手でケーキの箱を持っている。その人の顔がはっきりと見えて、オレは脱力してしまった。

「……コトミさん、なんでここに? 店は?」

「あたし、今日お休み。そろそろ黒君がどうしてるか見てきなさいって、ママから仰せつかってきたのよ」

 ぱちん、とウィンクを決める、睫毛の長い美女。……に見えるが、この人は生物学上は男だ。母親が生前から仲良くしているニューハーフの、コトミさん。オレがずっと世話になっている人の一人だった。

 何を隠そう、母親が死んだ後に色々な手続きをしてくれたり、オレが独り暮らしをするための準備を手伝ってくれたのは、この人をはじめとする母親の元同僚だ。昼間の仕事の関係者よりも、夜の仕事で一緒だった人たちのほうが、オレを助けてくれた。もちろん生活上の都合のせいであって、昼間の仕事の関係者たちに非はない。ただ、オレが懐いていた度合いと動ける時間帯の都合で、コトミさんたちがとても頼りになったのだった。

「元気にしてた? 黒君」

 優しげな笑みで、だがどこか心配そうに、コトミさんはオレの顔を覗き込む。母親と深い関わりのあった人たちはオレに良くしてくれたが、だからこそあれ以上は頼れないと思っていた。もう、一生分頼ってしまったものだと考えていた。

 でも、時間を置いて、オレ自身も人間関係を少しばかり広げられた今ならわかる。オレを放っておいてくれていたあいだ、この人たちはどれだけオレを心配していただろう。強がっていた子供のことが、どんなに気がかりだっただろう。それでも今まで様子を見に来なかったのは、もしかしたら見に来ようとしてタイミングが合わなかったのかもしれないし、オレを信じてくれていたからかもしれない。

 コトミさんたちは援助を拒んだオレに、「いつでも連絡してくれていいんだからね」と言ってくれていた。でもオレが連絡をしなかった。それだけのことなのだ。

「元気です。バイトもしてるし、剣道も続けてます。勉強もそれなりに」

 そう返事をしたら、コトミさんは安心したように息を吐き、それから明るく笑った。

「なんだ、思った以上にうまくやれてるんじゃない。あたしたちが心配するまでもなかったかしらね。黒君、昔からサヤカちゃんに似てしっかりしてるもん」

 久しぶりに母親の名前を聞いた。日暮清佳。仲のいい人からは、サヤカちゃんとかサヤちゃんとか呼ばれて親しまれていた。自分自身も訳ありだったせいなのか、それとも根本的に人間が好きだったのか、色々な人と繋がりを持ち、信頼されていた。オレはその人間関係に、幼い頃から助けられてきた。

「コトミさん、上がっていってください。今鍵開けるんで」

「そのつもりで持ってきたのよ。黒君とサヤカちゃんが好きだった、甘くないケーキ」

 鍵を開けて人間を部屋に迎え入れるのは、いつ以来だろうか。今日は気を遣ったのか、子鬼は現れない。本来なら人間は人間同士で関係を作るものらしいから、これが子鬼の思う「あるべきかたち」というやつなのかもしれない。

 明るい場所でオレの顔を見たコトミさんは、「なんだか表情が明るくなったんじゃない?」と嬉しそうに言った。一番暗かった頃のオレを知っているから、余計にそう思うんじゃないだろうか。でもたしかに、オレは変わっていると思う。

「オレも、いつまでも暗くしているわけにはいかないんで。バイト中はそれなりに愛想よくしてなくちゃいけないし、学校で気遣われすぎるのも疲れるから」

「それにしては表情が自然よ。サヤカちゃん、こんな黒君見たら喜ぶだろうなあ」

 もしそうなら、母親が生きているうちに、もっと愛想良くしておくんだった。ほんの少し後悔しながら、インスタントコーヒーを用意する。本当はドリップのが良かったが、あまり待たせるのも悪い気がした。

「それにしても、すごいタイミングでした。今日、ちょうど学校で、ドラムの話をしたんです」

「あら、あの話できる相手がいるのね。良かったあ」

 いつもはしおらしく綺麗な、女性らしさの際立つニューハーフ。けれども一旦スティックをもってドラムセットの前に座ると、激しいドラマーに変身する。それはコトミさんのことだ。この人がオレに、ドラムを教えてくれた師匠だった。今日現れるなんて、まるで用意されていたみたいな展開だ。こんなこともあるんだなと感心する。

 コーヒーとケーキを少しずつ減らしながら、オレは今の学校のことを、ドラムの話も含めてコトミさんに語った。オレに同年代の知りあいができたことをコトミさんは喜び、学校祭での演奏も是非やるべきだと強く推してくれた。師匠にこう言われては、もう断れない。

「学校祭いつ? 見に行きたいんだけど」

「いや、無理しなくていいですよ。コトミさんたちの貴重な時間だし」

「貴重な時間だから見に行きたいんでしょ」

 しばらく顔見れなかったし、みんな会いたがってるんだから。コトミさんはそう言ってオレを急かした。なんだか今日は圧し負けてばかりだと思いながら、日程を確認する。この日までにまだ決まってもいない曲を仕上げなきゃならないのか。

 そういえば、オレは他の奴らの実力を知らない。会長の流はギターができて、水無月主将(もう主将ではないのだけど、なかなかこの呼び方が抜けない)はベースが弾けるらしい。流はともかく、主将は本当に多才だ。神が二物も三物も与えている気がしてならない。

 そして在は、ピアノが弾けるからという理由でキーボード担当になった。アイツにも楽器が扱えたんだなと感心してから、それがピアノということに妙に納得した。お坊ちゃんらしい習い事だ。

「コトミさん。……今、オレ、常田在と会ってます。それも学校のある日は毎日のように」

「……そっか」

 コトミさんたちは、常田家のことを知っている。オレの母親がかつて例の男と付き合っていたことも、オレがそのときの子供だということも、あの男が常田家の婿だったことも、全て伝え聞いていたという。母親が殺されたときに、あの男が容疑者らしいという証言を一緒にしてくれたのも、コトミさんたちだった。母親は、夜に働いていた店のスタッフに、かなりの信頼をおいて、抱えている事情や起こりうる事態を話していた。

 だから在の母親がオレに接触しようとしたとき、コトミさんは一度それを止めようとした。それはもうすごい剣幕で、「黒哉に余計なことをするな」と怒鳴りさえしたらしい。けれども結局、在の母親が粘り勝ちした。コトミさんに勝てるんだから、あの人も相当だ。

 その結果、今のオレがある。常田家から弁当を施され、関わる人が増えた。在は本当に、どうしようもないくらい面倒なヤツだけれど、それでも身内なんだな、くらいには思えるようになった。

「在を兄だとはやっぱりまだ思いたくなくて、でも何かを一緒にやっていて不快ってわけではないです。アイツもあの男のせいでそれなりに苦労してるわけだし、頭から拒絶するのもどうかと……最近ようやくそう思えるようになりました」

「黒君、すごいわねえ。自分で人と関わろうとするようになるなんて、門市にいた頃は考えられなかったわよ」

「よっぽど低評価だったんですね、オレ」

 そういうわけじゃないわよ、とコトミさんは笑うけれど、実際そうだった。中学までのオレは母親の知りあい以外との関わりを絶とうとして、周囲を信用しなかった。相手もどうせオレのことなんか嫌っているだろうと思っていた。

「今周りにいる奴らは、どうしてかオレにかまいたがるんです。在も含めて。この町全部がそういう空気で、とても無視できない」

「ふうん。サヤカちゃんがこの町で店を開きたがった理由がわかった気がするわ。きっと黒君のためだったのね。ここにいる限り、黒君は他人と関わらなければならないし、関わりたくなると思ったんでしょう」

 母親が生きていたら、鬼は見えなかった。けれどもこの町の人間とは必ず関わることになっていた。きっと違うかたちで、オレは在とも、他のやつらとも、出会っていたんだろう。

「演奏、期待してるわね。黒君がどんなパフォーマンスしてくれるのか、今から楽しみだわ」

「勘弁してくださいよ……」

 コトミさんが見たいのは、演奏だけじゃない。きっとオレがどんな人間と関わって、どんなふうに生活しているのかを知りたいんだ。オレはコトミさんたちに大丈夫だと認めてもらって、安心してもらわなければならない。きっとそれがすぐにできる恩返しだ。

 気がついたら、コーヒーカップは二つとも空になっていた。淹れ直そうかと立ち上がる前に、コトミさんが「ちょっと待って」と呼び留める。

「今日来たのはね、単に黒君の様子を見るためじゃないのよ。今日、ママのところに礼陣高校の先生だって人から連絡があったの。ええと、たしか瀬川先生だったかしら」

「瀬川……ああ、進路指導の」

 一年生を直接担当しているわけではないが、全く関係がないわけでもない。いつも屋上で一緒に昼食をとっている、一力大助の叔父でもある。名前はよくあがるし、評判も良い教師だ。でも、わざわざ名目上の保護者に連絡するなんて、オレは何かしただろうか。

 疑問に思っていると、コトミさんが真剣な表情で尋ねた。

「黒君、あなた、高校卒業後の進路はどうするの?」

 

 

 最近人気があるらしい邦楽を一曲と、洋楽を一曲。アンコール用にもう一曲だけ邦楽。それが会長の決めた、学校祭で演奏する曲目だった。洋楽が入っているのは会長の趣味もあったけれど、先生方からのお達しでもあったそうだ。

「英語の勉強のために、洋楽を一曲は入れろってさ。これだけは俺が歌う」

「流の英語の勉強のためだからね。僕が歌っちゃ意味がないよ」

 会長から渡された楽譜を見て、頭の中で再生してみる。弾けないことはなさそうだ。黒哉もそう思ったようで、というよりやりたい曲だったらしくて、譜面を見る目が輝いている。

 先日から思っていたのだけれど、会長も水無月先輩も、そして黒哉も趣味や好きなことが多い。楽しいと思うものがちゃんとあるのだ。そこに僕が参加してもいいものなのか、なんだか不安になってしまう。だってピアノは弾けるけれど、好きというわけではなかったのだし。

「スコアがあると、いよいよ練習するんだーって感じするね。わたしは応援してるだけだけど。特に在と黒哉に興味あるなあ」

 傍から見ている亜子さんも楽しそうだ。趣味といえば、亜子さんも好きで語学をやっている。あとは映画を観たりするのも好きらしい。

「流と和人はしょっちゅう一緒に演奏したり歌ったりしてるから、新鮮味ねえもんな。上手いのは上手いんだけど」

 大助君も意外と映画はよく観るし、スポーツは何でも得意だ。さらに亜子さんにこっそり教えてもらったことには、好きなアイドルがいるらしい。見た目は硬派なのに。

 そうすると僕は、あまりに無趣味だ。何をやってものめりこむことはないし、何が好きかと問われるとはっきり答えられない。高校進学は好きな女の子が行くからという恥ずかしい理由で決めたけれど、これから先は興味関心ではなく、必要そうだからという理由で目標を定めている。

 大学には進学する。志望しているのは隣県の国立大の、法学部だ。そこは水無月先輩も行くつもりの大学だけれど、学部が違うので気にしないことにした。法律を学び、家業に必要な資格の勉強をして、祖父のやっている不動産屋を継ぐつもりだ。それが僕の前に敷かれたレールだと思っている。

「流が結構強引に決めちゃったけど、黒哉と在は本当に大丈夫? 黒哉はバイトと剣道もあるから、無理だと思ったら断っても良いんだからね」

「いや、それがいつのまにか、商店街のバイトが学祭まで楽器屋に集中してました。コンビニの日は練習は難しいけど、楽器屋の店長が『手が空いてたら学祭の練習してていいから』って……」

「……流、商店街にこのことふれまわったね?」

「ちょっと世間話しただけだ」

 僕と違って、会長は程度が過ぎるくらいに大胆だ。誰かに用意された進路をそのまま行くのではなく、自分の好きな道を好きなように作って進んでいく。そうしてできた新しくて面白い道に、どんどん人を呼び込む。こんなに僕とは対極にあるはずなのに、思っていることが少しだけ僕と似ているところがあるのだから、おかしなものだ。

 会長の卒業後の進路は、この町にある公立大だ。中身を知っている人からは「公務員養成学校」と呼ばれている、特に地方公務員育成に定評のあるその学校に行くのは、会長の家族が公務員だからなのだそうだ。お祖父さんは町議長で、お父さんは町役場の上層の人と、実はこの町では有名な筋金入りのエリート家系だったりする。

 自由なようでいて、実は見えない縛りの中で生きているというところが、僕が会長を疎ましく思わない理由の一つなのかもしれない。

 それに比べると水無月先輩は、何でもできる上に聞き分けの良い優等生のようなのに、家業とは全く関係のなさそうな進路を選んでいる。それとも実家で扱っている衣料品と人文科学を結びつけるようなことを、誰にも言わずに考えているのだろうか。真意を読ませないのに、人のことはよくわかっているような彼の態度が、僕は好きではないのだと思う。

 亜子さんは得意な語学をより深く勉強するために、この町にある私立の女子大を目指している。授業も必修以外はそのためのものを選択していて、この先の展望がはっきりしているようだ。

 大助君は就職希望。両親がいない彼は、早く独立したいのだという。高校に入ってすぐに始めたアルバイトなどで、卒業後の進路に関わるコネクションを作っているのだとか。学業成績は正直なところあまり良くはないのだけれど、実は計画性のある人なのだ。

 そうすると、黒哉はどう考えているのだろう。この学校は二年生以降の選択授業を一年生の、ちょうど今頃の時期に決めなければいけないから、もう進路の希望をほぼ確定させていなければならない。大助君と同じく両親がいないけれど、就職する道を選ぶんだろうか。

「……じゃあそういうことで、よろしくな」

「はい?」

 考え事をしていたら、話をまるっと聞き逃した。僕の間抜けな反応に、会長と亜子さんは目を丸くし、黒哉と大助君は呆れ、水無月先輩はただ穏やかに微笑んでいた。先輩は僕が上の空だったことに気づいていて何も言わなかったらしい。性質が悪い。

 謝ってから聞き返すと、練習の日程について話していたようだ。全体での練習は黒哉の都合に合わせて、あとは各自で。学校祭までは時間があるけれど、生徒会は生徒会で準備や物品などの管理といった仕事があり、黒哉はもちろんバイトと部活、クラスでの活動がある。とすると、実際に全員で合わせられる機会は少ないはずだ。本当に発表できるようなものができるんだろうか。

「会長、ちょっと無茶なんじゃ……。せめて曲数を減らすとか」

「曲短縮してあるけど、やっぱり無茶か。じゃあ最後のを削って、二曲だけでも」

「それでもちょっと……」

 いくら個人に能力があるからといって、合わせられないのでは曲にならない。演奏は失敗してしまう。やっぱりこのメンバーでやるのは無理なのでは、と僕が言いかけたときだった。

「なんとかするために、楽器屋に協力してもらってるんだろ。本当に話聞いてなかったんだな、何考えてたんだよ」

 黒哉が真剣な表情で言った。彼はこの無茶な行程でやる気らしい。そして僕は、大事な部分を聞き逃していたのだった。

「黒哉が楽器屋でバイトする日に、僕たちも行って練習させてもらうんだよ。去年もそうやって協力してもらってたんだ」

 水無月先輩の説明で、僕はやっとここまでの話の全貌を理解した。商店街の楽器店は音楽教室や小さなスタジオを持っていて、町で音楽をやっている人はよく世話になっているのだということも、初めて知った。そこを使わせてもらうことを、会長はすでに楽器屋の店長に頼んでいたのだ。

「そんなこと、できるんですね……」

「一応な。こういうのは利用してないとわからないから、もっと知ってもらえるように、こういう時期に宣伝活動兼ねて使わせてもらってるんだよ」

「宣伝活動?」

「そう。俺たちの練習は町の人に見られる。俺たち自身が楽器屋の広告になるんだ」

 なんだか、思った以上に大変なことになっている。焦る僕を尻目に、会長と水無月先輩、そして黒哉はどんどん話を進めてしまう。また僕だけ置いてけぼりだ。口を挟めないでいると、僕の横に亜子さんがやってきて、「ねえ」と割り込んできた。

「流さんと和人さんは人前での演奏に慣れてるし、黒哉もなんか気にしてないみたいだけど、在は結構責任感じちゃってるみたいだよ? 広告になるって、そう簡単なことじゃないとわたしも思うんだけど」

 やっぱりよく見てるな、と感心してしまう。まさに、宣伝活動に関わるのなら下手なことはできない、僕には自信がないと思っていたところだった。それを汲んでくれた亜子さんが、僕には天使に見える。金髪が陽に透けてきらきらと輝いているせいもあって、彼女はとても神々しかった。

「ああ、それで在は固まってるのか。大丈夫、そういう活動をするのにも使えるっていうのが周知されれば良いんだ。失敗も仲間割れもどんとこいだって店長が」

「仲間割れは色んな意味でまずいだろ、バカ」

 大助君も話に入ってきてくれる。僕を置き去りにして走っていたリズムが、少しずつ追いつける程度にゆっくりになっていく。それを感じていたとき、会長が突然頭を下げた。

「悪い、在。ついはしゃいで、先走りすぎた。そうだよな、こういうのは慣れてないやつがいたら合わせるべきだった」

「あ、いえ、会長が謝るようなことではないです。僕がぼうっとしてたのが、そもそもいけなかったので……」

 改めて落ち着いて考えると、会長がはしゃいでしまう気持ちは、僕にもわかるものだった。だって僕も、黒哉と一緒に何かができるというそれだけで、この話に乗ったのだから。どうやって練習を進めるのかとか、そんなことは考えずに。会長が手回しをしてくれているだけでも、僕らの活動は随分と楽になる。それを忘れてはいけない。

「学祭まで、僕も頑張ります。人に見られるのも大丈夫です。ピアノをやっていた頃は発表会だってありましたから。僕たちの練習が宣伝になって、それが楽器屋さんを手伝うことにもなるんですよね?」

「ああ、そういうことだな。ごめん、在。もう置いていかないから」

 会長が伸ばした手を、僕はそっととって、握り返した。緊張はするけれど、大丈夫だ。会長がもう置いていかないと言ったら、そうしてくれる。

 

 個人での練習はさっそく始まった。そういうわけで、僕は今、久しぶりにピアノの前に座っている。キーボードはもっと鍵盤が軽いはずだから、楽器屋さんでの練習はまた感覚が違うものになるのだろうけれど、音は覚えられるだろう。

 楽譜は読める。一度頭の中で追っているから、音はするすると出てくる。指もちゃんとテンポについてきていた。

 珍しくピアノを弾いている僕を、母は驚いたように見て、それからいつかそうだったように、嬉しそうに笑っていた。かつてはあの笑顔のためにピアノを弾いていたのだ。

 でも、今はそうじゃない。もっとたくさんの人を相手にして、他の人と一緒に奏でる準備をしている。ただ楽譜をなぞっていただけのときとは、わけが違う。――それは、楽しいことなんだろうか。今の僕には、まだ分からない。

 

 

 かき氷のシロップをサイダーで割って、「トロピカルジュース」。安易だし体にあまり良くなさそうだが、それが一年二組の模擬店でのメニューに決定した。舞台発表は担当者が寸劇をするというので、オレは道具を用意する裏方にまわった。

 学校祭の出し物は、そうして案外簡単に決まったのだが、こちらはそうもいかない。来年度の選択授業を決めるための、進路希望調査。オレの調査票は、まだ真っ白だった。

 コトミさんに進路のことを「どうするの」と問われて、答えられなかった。身寄りのないオレは、大学に進学するのは諦めて、就職した方が生産的かもしれない。けれども遠い昔のことが胸で燻っていて、はっきりと決められずにいた。

 いつも忙しい母親との、ほんの少しのやりとり。忘れてしまっていてもおかしくなかったそれが、今になって克明によみがえっている。特に金曜日の放課後、「歴史愛好会」の活動で平野先生と話していると、その記憶は存在を強く主張するようになった。

「……つまり、今の商店街は、もともと北市地区で物をやりとりしていた人たちが移動してきて始まったのね。それで北市地区には『市』の名前が残ってるの。……どうかした、日暮君? 反応が微妙なようだけど」

「いえ、何も。むしろ先生の話に聞き入ってました」

「それは嬉しいわね。私の話を飽きずに聴いてくれる生徒、日暮君くらいだもの」

 この礼陣の町の歴史や文化について話すとき、本当に楽しそうにしている平野先生。相手はオレなのに、何も気にせず、会話をしてくれる先生。そんな人は、高校に入るまでいなかった。

 中学まで、教師というものは誰も彼も、オレを厄介者のように扱ってきた。片親で、しかもその経緯がよくわからなくて、他の生徒の保護者からもよくない目で見られている存在。それはきっと、扱いに困るものだったのだろう。だからこっちも、信用なんかしなかった。

 だが礼陣高校の教員には、全員とまではいかなくても、あまりそんな感じがない。オレの母親が死んだとき、担任は一時は対応に困ったようだったが、時間が経つにつれて他の生徒と変わりなく接してくれるようになった。親のいない子なんてこの町では珍しくない、というふうに割り切って。

「おっと、そろそろ日暮君はバイトの時間ね。今日はここまでにしましょうか。次回、北市で交易があった頃の礼陣の様子なんかを鬼に聞いてきてくれると嬉しいんだけど」

「そんな昔からいる鬼に、会えるかどうかわかりません。オレが今まで会って話せたの、神主さん以外では江戸時代末期からいるらしい鬼が最高齢だったと思います」

「それならぎりぎり聞けるわ、たぶん。会えたらでいいから」

 オレにこの町の陰の住人「鬼」が見えるということも、すんなり受け入れて。親がいないことなんか、気にしないで。オレの話を聞いて信じてくれる大人は、この町にきて急に増えた。大人だけじゃない、同年代も。中にはことあるごとにぶつかるヤツもいるが、それすらなかった頃に比べたら、環境はずっとよくなった。

 だから夢を見てしまう。現実問題、難しいかもしれないような夢を、叶えられるのではないかと期待してしまう。そんな場合じゃないと打ち消しても、すぐにまた現れる。

 歴史の話ができるように、またドラムが叩けるように、昔抱いた夢も実現できるのではないか。――たぶん、方法は探せばいくらでもあると、今周りにいる人たちなら言ってくれる。ひたすらに優しいから。

「じゃあ、失礼します」

「あ、ちょっと待って、日暮君。瀬川先生から伝言」

 社会科準備室を出ようとしたところを、先日も聞いた名前で呼び留められた。進路指導担当の。

「進路志望調査の提出期限までに気が向いたら、進路指導室に寄ってみろって。先に言うべきだったわね」

 頭の中で、色々な声が響いた。コトミさんの「どうするの」と、母親の言葉と、他にもここへ来てから貰ったたくさんの声。昔のオレなら不審がってはね除けていたような、そんな声。現実が許すなら、それに縋りたい。

 

 ちょうど楽器屋でのバイトの日だったので、仕事を済ませてから備え付けのスタジオに入った。防音を施してはあるがガラスばりになっているそこは、商店街を通る客がよく見える。向こうからもこちらの様子が丸見えだ。否応なしに人の視線を感じる。

 そこに流と主将、それから在が合流する。それぞれの楽器の音を確かめてから、音を鳴らした。けれども迷いながら叩くドラムは、うまくのってこない。リズムが合わなければ、他の音も狂う。

「どうした、黒哉? 調子悪そうだな」

「ちょっと休憩しようか。黒哉はさっきまでバイトしてたんだし」

「そうですね。思ったより進捗はいいですし、休む時間は必要かと」

 悪いな、と思う。流は思っていたよりずっとギターが上手くて、主将はやっぱり器用にベースを弾いていて、在はいつものぼけっとした様子からは考えられないくらいに手を自在に操っていた。そのペースを乱すのが心苦しい。こんなことを思うのは、コトミさんにドラムを教わっていたとき以来だ。上手くできなくて歯痒かった、コトミさんに無駄な時間を使わせてしまったことが申し訳なかった、あの頃に似ていた。

 休みながら、流たちは学校祭の準備の進捗を確認していた。オレ以外は生徒会役員なので、その役目がある。ゴミの片づけを美化委員と一緒にやるとか、どこのクラスが予算をオーバーするかもしれないとか、そんなことを話している。

 さらにクラスでの活動もある。流と主将のクラスでは、執事やメイドの格好をして喫茶店をやるとか言っていた。在のクラスは、つまり亜子と大助のいるクラスでもあるのだが、そこではクレープを出すらしい。模擬店だけではなく、舞台発表の練習も進めなくてはならない。

 加えて三年生は受験勉強、二年生は修学旅行の準備がある。

 誰もが忙しい時に、オレのせいで時間を無駄にするわけにはいかない。スティックを握り直して、ドラムセットの前に座り直した。

「黒哉、もういいの?」

「いい。時間がもったいない」

 オレの個人的な悩みで、邪魔をするわけにはいかない。――ほんの少し前まで、そんなことは考えもしなかったのに、おかしなものだ。

 他のことを一切考えないようにして、スティックを振う。きっと今度は、ちゃんとできた。そのはずだったのに。

 

「黒哉、悩みでもあるの?」

 流ならもっと大雑把に尋ねるし、主将ならもっと遠回しな表現を使う。そう、これは在の問いだ。てっきりコイツは、オレのことになんか気づかないものと思っていた。

 けれどもよく考えてみれば、在は時々気持ち悪いくらいにオレのことばかり見ている。気づかれてもおかしくない状況ではあったのかと、認識を改めた。

「よくわかったな、気色悪い」

「え、もしかして僕のせいだった?」

「違えよ、バカ」

 在は一応先輩だ。一年次の進路志望調査も経験している。そして今、進路に合わせた授業をとって、一週間の時間割を組んでいるはずだ。コイツはどうやってそれを決めたのだろう。もちろんオレとは状況が違うから、ほとんど参考にはならないだろうけれど、一応訊いてみた。

「お前、進路どうすんの? 何目指して授業とってんの?」

 そうしたら、なぜかちょっと嬉しそうに答えが返ってきた。

「僕は隣県の国立で考えてるから、国公立大コースを参考に授業を決めたよ。法学部に進もうかなって思って、文系科目を多めにして」

「弁護士かなんかにでもなるのかよ」

「違うよ、家業を継ぐため。不動産屋だし、ちょっとは法律に明るくないと」

 そうか、コイツには継ぐ家があったっけ。そう納得していると、「でもね」と言葉が続いた。

「別に家を継ぎたいってわけでもないんだ。僕には夢とかそういうものがなくて、でも道だけは用意されてるから、それに沿って物事を決めてるだけ。行き先だって、成績がちょうど間に合いそうで、家計の負担も大きすぎないところに絞ったら、そうなっただけ。つまらないでしょう?」

 街灯に照らされた顔は笑っているのに、言っていることはちっとも愉快じゃなさそうだった。本当に、「つまらない」という言葉がぴったりの、なげやりな口調。オレが閉口しているあいだに、それはまだまだ続いた。

「おまけに無趣味で、やりたいこともない。ピアノだって、そもそもは弾いていれば母が喜んだから習ってたんだ。僕がやりたくてやってたわけじゃない。ああでも、ストレスのはけ口にはなったかな。暴れるより多少乱暴にでも鍵盤叩いてたほうが、無害じゃない?」

 いつのまにか在の家へ向かうはずの通りは、とっくに過ぎていた。もう、オレの住むアパートがある住宅街へ向かっている。でも在はそれに気づかないで、ずっとオレの隣を歩きながら話し続けた。

「こんなふうに自分がないのに、存在を認めてほしいなんて思って。君がいることで、特別な何かを得た気になって。僕はだめだね」

 夏休みに会ったときのことを思い出した。鬼にも神様にも、歴史にも文化にもまるで興味がない在が、オレに「認めてほしい」と言った。「僕には何もない」から、オレが「必要だ」と言っていた。在はまだその面倒な思考から抜け出していないらしい。

「……あ、ごめん。話しすぎたね。ええと、話を元に戻すと、黒哉は進路で悩んでたの?」

 オレのように悩むだけの進路も、コイツは自分では「持っていなかった」と思っているんだろう。そんなの、きっと気づいていないだけなのに。オレの持っていないものを持っているくせに、それには目を向けないで、持っていないことばかり気にする。

 それに比べたら、オレの悩みの、なんて明るいことか。少なくとも在よりは面倒じゃない。

「進学するか就職するかで、迷ってた。生きていくには金が必要だからさっさと働いたほうがいいと思ってたけど、それを選ぶ潔さがなかった」

 お前に気にされるようなことじゃないから気にするな、と言いたかった。お前も変なことを気にしすぎるな、と伝えたかった。でも、その範疇を越えて、口が滑った。

「小学校でも中学校でも、教師が信用できなかった。オレは他の子供と違って特別な事情があるから面倒だとか、不幸そうだとか決めつけて、こっちの話をろくに聞こうともしねーんだ。それをある日、本当に嫌になって母親に愚痴ったら、なぜか笑って言ったんだ」

――だったら黒哉は、自分がどうしてほしいか、何が人のためになるか知ってるよね。そういう先生に黒哉がなっちゃえば、その生徒は今の黒哉みたいな思いをしないで済むだろうなあ。

 聞きようによっては親のせいで迷惑してるというふうにも聞こえる愚痴を、あの人はそうして受け止めた。その言葉が妙に頭に残っていて、中学では目標を持って勉強ができたせいか、成績はそれなりに良かった。

 目標は、母親の言っていたような教師になること。いないなら、オレがなればいい。社会的にきちんとした職業だと認められているものになれば、母親にも楽をさせてやれるかもしれない。――母親が死ぬまでは、そう思っていた。

「でも、その母親はもういない。オレは独りで生きていかなくちゃならない。だったら大学なんて行ってる場合じゃないんじゃないかって思った。……だけど、気持ちを切り替えられねーんだよ」

 礼陣に来て、人と関わるようになって、なりたい人間像が具体的になった。そうしたら、やっぱり教壇に立ってみたいと思うようになってしまった。そのためには、大学に行って資格を得なければならない。塾講師で妥協することもできないこともないけれど、平野先生に会ってからは特に、学校に関わりたいと思った。

「大学に行きたい。でも生活できるかどうかが不透明だ。……それで迷ってて、進路を決められてない」

 こんな話を在にするなんて、思ってもみなかった。相談するなら主将あたりかと考えていた。だけど、今オレが話をしたいのは、隣にいるからという理由だけじゃなく、在だった。この夢も何もないというヤツに、持ち物はなんにもないけど夢だけはあるオレの話を聞かせて、どう思うかを知りたかった。

 在はオレをじっと見て、首を傾げた。何を言っているんだというふうに。話が通じていないのかと諦めかけたとき、在は妙にはっきりと言った。

「できてるじゃない、生活」

「あ?」

「だから、今ちゃんと生活できてるじゃない。一人で。奨学金や遺児支援の手続きもちゃんとして、利用できるものはとにかく利用して、部活までやってる。バイトとの両立もできてる。それでどうして、今更迷うの?」

 今と同じだよ、と。在はさっきと違う笑顔で、言ってのけた。自嘲気味なそれではなく、相手を見ているものだった。

「たしかに忙しくはなると思うよ。いわゆる苦学生ってものに、黒哉はなるかもしれない。でも今からちゃんとしてるんだから、大学に行っても大丈夫だよ。……たぶん黒哉のお母さんも、それを見越してたと思うよ」

 うちの何を知ってるんだ、と思ったが、知っていてもおかしくはなかった。他でもない母親が、常田家と生きているうちに連絡をとっていたのだから。だからこそ在の母親は、独りになったオレのところに駆けつけ、援助を申し出てきたのだ。

「……行っても問題ないと思うか?」

「やりたいことがはっきりしてるなら、行くべきだと思うよ。……」

 君は僕と違うんだから、という言葉を、たぶんコイツは飲み込んだ。たしかにオレとコイツは違う環境で育ち、真逆の状況に置かれているけれど、それを重ねて言う必要はない。違って当たり前なんだから。

「あ、でもできれば余計な費用はかからない方がいいよね。この県だと、ちょうど門市に教育大があるから、そこを目指してみたら? それなら授業選択は国公立大コースだね。あとは専攻をどうするかだけど、考えてる?」

 ネガティブな台詞をなかったことにして、それから在が言ったのは、意外にもまともな提案だった。初めてコイツの先輩らしいところを見たかもしれない。普段からこうなら、オレもコイツを情けないなんて侮ったりしないのに。

「専攻は、社会科……」

「ああ、黒哉は歴史とか好きだもんね。倍率はかなり高いし、教員になるのも大変だって聞くけど、それでもなりたいと思う?」

 きっと母親も、進路指導の先生も、コトミさんたちも、同じことを言うんだろう。今度同じことを訊かれたら、もう迷わない。オレはオレが今まで思っていた以上に、物事を単純に考えられるようだ。自分自身のことに関してなら、在よりは前向きな自信がある。

 そして在は、自分以外の人間のことなら、冷静かつ前向きな思考ができるのだ。

 オレの家の前で、オレは在に向かって、頷いてみせた。

 

 

 少しは、兄らしいことができただろうか。黒哉は僕を兄と思えないかもしれないけれど、「身内」としての距離が少しくらいは縮まっただろうか。そんな自分本位なことを考えてしまうあたり、やっぱり僕は人のために無償で何かをできる人間ではないのだと思う。

 黒哉が僕に進路の話をしてくれたのは意外だった。そういうのは水無月先輩にでも相談して、そうして僕のところにまわってきたら良い方だと思っていた。そうやって僕は、また悔しい思いをするのだろうと。

 でも、今回のことはそうじゃない。黒哉は僕に話してくれた。僕の言葉を聞いてくれた。それがどうしようもなく嬉しかった。

 機嫌が良いと、物事は上手くまわるもので、学校祭の準備は順調に進んだ。色々な準備がいくら重なっても、苦にはならなかった。ちょっときついかな、と思ったときは、携帯電話を取り出して開けばいいのだ。

 進路の相談をしてくれたあの日、帰ってからメールが届いた。[今日はどうも]というたった一言を、僕は保護して、ことあるごとに眺めている。黒哉にばれたら、きっと気持ち悪いと思われるんだろうけれど、それくらい僕にとっては大切な一通だった。

 僕には何もない。存在すら忘れられることがある。よく人に置いていかれる。そんな僕が誰かの、特に黒哉の役に立てるということは、ここにいていいんだという許可をもらったようなものだった。

 特に好きではなかったピアノも、黒哉の叩くリズムに合わせていると、演奏するのが少しだけ楽しくなってきた。厳密にいえばピアノではなくキーボードなのだけれど、それでも楽譜が読めることと指を動かせることが、ちょっと誇らしかった。できなければ、一緒に同じことに取り組むなんてできなかったのだから。

 初めは不安要素だらけだったバンドは、いつのまにか聴けるものになっていた。楽器屋での練習中、外から覗く人々はどんどん増えた。もともと町で人気のある会長や水無月先輩が目当ての人も多かっただろうけれど、黒哉が気になる人もいたようだ。許されるなら、黒哉が認めてくれるなら、僕の弟だと自慢したかった。

 

 そうして迎えた学校祭当日は、校外の人も出入りして、大変な賑わいだった。もともと礼陣高校の学校祭は客が多いのだけれど、今年はさらに多い気がした。その分、警備についている人も、去年に比べると増えていたと思う。容疑者の捕まっていない殺人事件の影響は、まだ残っていた。

 僕らのバンド演奏は二日目に組み込まれているので、一日目は各クラスの舞台発表や、模擬店を見てまわった。舞台にはほんの少しだけ出たけれど、所詮はその他大勢だ。そう思って適当にやっていたら、あとで大助君に呆れられた。

「在、お前な、本番くらいもうちょっとノリ良くやろうぜ」

「後ろで手を振るだけだし、ノリといってもどうすればいいのか……」

「振りが小さかったから、逆に目立ってたと思うよ。みんな在は忙しいからって見逃してたと思うけど、わたしが同じことしたらすごく責められてたと思う」

 珍しく亜子さんが不満げだったので、僕は反省した。来年は最後だし、もう少し真面目にやろう。そう思いながら、二人と一緒に模擬店を巡った。

 一年二組を覗いたら、ちょうど黒哉がいて、嫌な顔をされた。でもそれは亜子さんたち曰く照れているだけだそうなので、僕はもう気にしない。

「黒哉、俺メロンな。亜子にはイチゴ」

「あ、黒哉、僕もメロンで」

「お前ら、売り上げに貢献するのはありがたいが、オレを指名するんじゃねーよ」

 周りからクスクスと笑い声があがる。けれども嫌な感じのものではなかったので、安心した。黒哉はもう、クラスで浮いた存在ではなくなっているらしい。ただ、大助君が先に行ってしまった後、「日暮、よく一力先輩をお前呼ばわりできるよな」なんて声は聞こえてきたけれど。

 会長と水無月先輩のクラスには入れなかった。人が多すぎて、覗くのも困難だったのだ。だいたいの人は会長が目当てらしいということが、集まっていた人の話からわかった。町の有名人は伊達じゃない。

 暢気に見ていられたのは一日目だけで、二日目は僕も当事者だった。会長目当ての人が多いということは、バンド演奏を見に来る人も多いということだ。会長だけじゃない、水無月先輩も商店街では人気があるので、騒がれている。ここ最近の練習のおかげで、黒哉を見に来ている人もいた。とにかく体育館は、生徒とそれ以外の人たちで見事に埋まっている。

「人は多いけど、いつも通りやれば大丈夫だ。よろしくな」

 明るく笑う会長は、いつもとちっとも変わらない。水無月先輩の表情にも、緊張は見られない。満員の会場に慄いているのは僕だけだろうかと思いつつ黒哉を見たら、眉間にしわを寄せていた。

「……黒哉、緊張してるの?」

「言うな、バカ」

 なんだ、僕だけじゃなかった。黒哉が同じ気持ちでいることに安心して、僕は思わず笑った。そうしたら、黒哉に背中を叩かれた。違うんだよ、黒哉を笑ったわけじゃない。

 言い訳をする前に、出番になってしまった。

 

 

「みなさん、ご来場ありがとうございます! 礼陣高校生徒会長、野下流と申します!」

 マイクに向かって声を張り上げるだけで、会場が一気に盛り上がる。体育館内の室温が一度上がった気がした。練習中から、いやバンドをやると言ってそのまま練習の段取りに動いたときから思っていたが、流には人を動かす力があるらしい。ただの人間のはずなのに、ただものじゃない。

 いつか平野先生から「野下家は昔から礼陣の重鎮だった」という話を聞いたが、それは単なる権力関係の話ではなく、そういう素質があるからなのかもしれない。外から来たばかりのオレでも、ここに立っていればそれを実感させられる。

 流だけじゃない。剣道部の連中や商店街でたまに見る大人たちは、たぶん水無月主将を見に来ている。オレということはないだろう。考えると緊張してしまうから、ないと思いたい。

 それなのに、そのタイミングで見知った一団を見つけてしまった。夜には店があるというのに、コトミさんが連れてこられるだけの人を引き連れてやってきていた。見に来るというのは本気だったようだ。女物でかためてはいるがフォーマルな格好をしているので、普通に保護者として入ってこられたのだろう。

「今年もバンドやらせてもらいます! ギターは俺。ベースは副会長の水無月和人。キーボードは同じく副会長で二年の常田在。ドラムは一年の日暮黒哉でお送りします! 短い時間だけど、一緒に楽しんでいってくれ!」

 経験したことのない、会場の歓声。前にドラムを叩いていたとき、聴いてくれるのはコトミさんたちだけだった。人と、そして鬼までもが来ている会場を見渡すと、喉が渇いた。一日目にも驚いたが、鬼も学校祭を見に来るらしい。

 ステージの上に立っているメンバーで、鬼が見えるのはオレだけだ。つまりオレにだけは、より多くの観客が見えている。緊張は高まるばかりだ。唾も飲み込めない。

 そのとき、在がこちらを見た。そして声に出さずに、口の形だけで伝えてくる。

「大丈夫」

 始まる前まで自分も震えていたくせに、よく言う。震えながら笑っていたことに、オレが気づいていないとでも思ったか。――オレもだんだん、在という人間がわかってきた。

「いくぜ、一曲目!」

 あんなにわかってたまるかと思っていたのに、わかるようになってしまった。

 人に嫌われていると思っていて、人と付き合うのを諦めていたオレが、今、他人と一緒に演奏をしている。それも、悪くない。

 流のギターは気持ちいいし、水無月主将はベースを弾きながら美声を響かせている。在の手は相変わらず正確に動いているが、いつもより跳ねているような気がした。でも曲を壊していない。

 悪くないどころか、楽しい。誰かと何かをやることは、こんなにも心が躍ることだったのか。

 

 結局アンコールまできっちりやって、発表時間は終了した。終わってしまえばあっというまだ。次に舞台を使うやつらのために急いで片付けをして、体育館の外に出た。

「お疲れ! いやあ、盛り上がったな!」

 主に盛り上げていた流が、オレと在の背中を思い切り叩いた。いてーよ、バカ。在も相当痛かったのか背中に手をやっているけれど、顔は笑っていた。強がっているのはバレバレだ。

「僕、何か飲むもの買ってくるよ。何がいい?」

 自分も疲れているはずなのに、主将は平気そうな顔で動こうとする。「オレが行きます」と言ったら、「奢るのは先輩の役目だよ」と押し返された。

「スポーツドリンクのほうが良いだろ。俺も行く」

「うん、じゃあ流と僕が半分ずつ出すってことで。黒哉と在はここで待ってて」

 三年生二人は、こちらが動く間を与えずにさっさと行ってしまう。仕方なくオレはその場にしゃがみ込み、主将たちを待つことにした。

 在は突っ立ったままだった。視線はどこか宙を見ている。その方向には『おつかれさーん』と声をかけてくる鬼がいたが、在には見えないはずだ。そもそもコイツは、鬼の存在を信じているかどうかすら怪しい。

「……どうかしたか」

 声をかけてみると、「うん」と返事があった。

「今、すごく驚いてる。僕はお祭りとか騒がしいことが苦手で、無趣味で、何にも興味が持てなくて、用意されたものだけをただ消費していくだけの人間だと思ってたんだけど」

 また始まった。呆れかけたとき、在が屈んだ。オレからもその表情が見える位置に、顔がある。

「今日のは、悪くなかったかも」

 その表情は作っているような気持ち悪いものじゃなく、心の底から笑っていた。夏休みに、オレと話をしたとき以来の笑顔だった。

 目を離せずにいたら、突然影が落ちた。主将と流が戻ってきたのかと思って見上げ、そうではなかったことと、その正体にひっくり返りそうになった。

「黒君、お疲れさまー」

 ずらりと並んだ、フルメイクの女たち。いや、女じゃないのもいる。オレに声をかけたのは、改めて言うが、睫毛の長い美女に見えても生物学上は男だ。

「超かっこよかったじゃない! ねえ、ママ?」

「ホントよ。サヤカちゃんが見たら感動して泣いてたんじゃないかしら」

 そう言う「ママ」がハンカチで目元を押さえている。ちょっと大袈裟すぎやしないだろうか。オレが苦笑いを浮かべていると、隣にいた在がすっと立ち上がった。

「あの、何なんですか、あなたたち。黒哉とはどういう関係なんですか」

 さっきの笑顔はどこへいったのか、厳しく相手を睨み付けている。そうだ、在と出会ってからのオレの周りには、殺人事件のことを興味本位に聞き出そうとするような面倒な大人もいたのだった。警戒するのも無理はない。

「場合によっては職員を呼びますが」

「待て、在。この人たち、オレの保護者だ」

 あわてて在と女性たち――コトミさんをはじめとする店の面々とのあいだに入る。在は怪訝な顔をし、コトミさんたちはぽかんとしてから、一斉に笑いだした。

「黒君、もしかしてこの子が常田さんの?」

「なかなかしっかりした子じゃないの」

「……黒哉、保護者って? 僕にはよくわからないんだけど」

 笑い続けるコトミさんたちに依然不審そうな目を向けながら、在が言う。接触してしまったからには、説明するしかない。どうせいつかは話すことになっていただろうし。

「この人たちはオレの母親の仕事仲間だ。で、今はオレの保護者ってことになってる。ドラムを教えてくれたのは、こちらのコトミさん」

「コトミでーす」

「は、はあ……」

 在の表情が引き攣っている。生でニューハーフを見る機会は……この辺だとそうそうないか。コトミさんのノリが軽いのも引っかかるんだろう。それに気づいてか、ママがすっと前に出てきて、在に丁寧に頭を下げた。

「門市で店をやっております、樋渡苑子と申します。一応は黒哉君の保護者ということになっておりますけれど、この子しっかりしてるでしょう? 私たちが手を出さなくても、自分の力でちゃんと生活していると思います。でも、やっぱり小さい頃から知っていると気になってしまいまして、見に来てしまいましたのよ」

「そうですか……。あ、僕は常田在です。黒哉の……」

 在はようやく表情を和らげたと思ったら、オレに伺いを立てるようにこちらを見た。そりゃあ、迷うよな。いくらオレがそう認めたからといって、昔から知っている人に向かって堂々と言えるようなことじゃない。

 だから、オレから言った。

「在はオレの身内。そういうことだから、これからもよろしく」

 横目で見た在の顔は、演奏が終わった直後よりも赤かった。

 

 

 保護者の樋渡さんとも話して、大学進学を目指すことにしたという報告がメールであったのは、学校祭の後片付けに割り当てられていた日の夜のことだった。あの衝撃的な紹介のあと、ついでだからと黒哉は樋渡さんを連れて進路指導の瀬川先生を捜しに行った。

 珍しく長文だったそのメールには、黒哉のお母さんから樋渡さんに、生前のうちに様々な権限が任されていたことなどが書かれていた。大学に進学できるくらいの金銭的余裕は、お母さんがちゃんとつくっておいてくれていたらしい。やっぱりね、と思っていたけれど。

 とにかく黒哉が自分の希望を通すことのできる材料は、ほとんど揃っていたのだった。それを僕に報告してくれたことが嬉しくて、このメールも保護してある。

 こんなに清々しい気分の祭りの後は初めてだ。祭りなんて騒がしいだけで、僕に利益はないと思っていたのに。今回は、気分が良かった。

 樋渡さんたちは黒哉の保護者で、昔から黒哉を知っている、彼の一番身近な人たちだ。その人たちに向かって、黒哉は僕を「身内」だと言ってくれた。

 兄ではない。兄にはなれない。きっともう、これは諦めなくてはならないんだろう。彼にとって「身内」になれただけでも、僕は満足しなければならない。

 黒哉のことでまた一つ、知っていることが増えた。それでいいんだと、やっと少し思えるようになってきた。

 今、僕の悩みはごくシンプルだ。間近に迫っている修学旅行で、黒哉へのお土産を何にしようか。ガイドブックを捲りながら、あれこれと考えている。そうしていると、案外僕も無趣味で無興味の空っぽな人間なんかではないのかもしれないと思えるのだった。

 バンドの練習で使うようになって以来、ピアノは週に三日ほど、音を響かせている。習うのをやめて一年半以上経って、ようやく僕はピアノを少し好きになれた。