僕の夏休みは、夏期講習とアルバイトの日々だ。実家にはほとんどおらず、中央地区にある学校と、北市地区にある学習塾とアルバイト先を行ったり来たりしている。結果、行動範囲はとても狭い。

 学校での夏期講習は、夏休み一日目から二週間程度、八月の頭までで終わってしまう。三年生だけは進学講習が夏休みいっぱい組まれているので通常の学校生活と変わらないようだけれど、まだ二年生で部活もやっていない僕は、講習が終われば学校には顔を出さなくなる。そうなれば、ほぼ一日中、北市地区にいることになる。

 今でこそ遠川地区の新興住宅街に実家があるが、小学生の頃までは、僕は北市地区と社台地区の境のあたりに住んでいた。通っていた小学校は社台小だ。つまり、中学に上がるときに引っ越しをするまで、大助君や亜子さんのことを知る機会はないといってよかった。二人は西小出身だ。地理的には僕が礼陣の町の北側、彼らが西側にいたということだ。

 僕が遠川地区に引っ越しをしたのは、うちで扱っていた物件が一つ、事故で空いてしまったからである。次の入居者はしばらく来そうになく、そのままにしておくわけにもいかないので、僕ら家族が自ら住むこととなった。――僕の家である常田家は、礼陣の町で不動産屋を営んでいるのである。そういうわけで、僕と母は二人きりで、見た目にはきれいな一戸建てに住むこととなったのだった。すでに父というものの存在がなくなって、随分経ってからのことだ。

 それはともかくとして、北市地区にあるアルバイト先というのは、祖父の営む不動産屋なのだった。僕がもと住んでいた家で、現在は祖父母が住み続けている。母はその従業員で、毎日通って経理事務などをこなしている。長期休みに僕が入るのは、端的にいえばお茶汲みと掃除要員で、夏は特に忙しいということもない。繁忙期は、やはり冬から春にかけてだ。

 夏休みは長い。その暇つぶしのために夏期講習とアルバイトと称した家業手伝いをしているのだが、結局暇は暇で、勉強ばかりしているのが現実だった。今も誰も来ない不動産屋の奥で、塾の課題をやっている。一応は隣県の国立大に対応したものらしいが、特に難しいということもなかった。しいていえば、応用問題に多少のひっかけがあるくらいか。

「在。勉強しているところ悪いが、ちょっと店先を掃いてきてくれないか。これからお客さんが来ることになった」

 ちょうどキリのいいところまで課題を終わらせたところで、祖父が僕を呼んだ。ようやく仕事がまわってきたらしい。掃除だけれど。

「はい、今行きます」

 参考書を傍らに置いていた鞄に突っ込み、掃除用具の入ったロッカーから箒と塵取りを取り出して、店に出る。まだ誰も来ていない、静かな店内だ。

 けれども外からは、賑やかな声がしていた。夏祭りの神輿行列で、担ぎ手たちが唄う神輿唄。これが聞こえてくると、祭りの日が近いのだなと思う。子供の声なので、子供神輿の指導中なのだろう。

 礼陣の夏祭りは、一年で一番この町が賑やかになる日だ。近年ではツアーが組まれるほどで、駅前やバスターミナルにはよそから来た人々があふれかえる。なんでも「鬼の町礼陣」に興味をもった人々が集まるのだそうだ。文化的にだとか、歴史的にだとか、そういう意味じゃない。「鬼がいる」などという、よそからすれば信じられないようなことを当たり前としている人々に、興味を持っているのだ。ようするに「この町の人間はみんな頭がおかしい」と思っているのだろう。そのことをわざわざ揶揄しに来ているのだ。

 しかしどういうわけか、そういった人々のほうが礼陣をいたく気に入って帰っていく。そして次の年の祭りにも来る。そんな奇妙な現象が、この町では起こっているのだった。

「今年もうるさくなるのかな……」

 誰にも気づかれないよう、埃を掃く音でごまかしながら、小さく呟く。僕は正直いって、夏祭りの賑やかさが苦手だった。みんな一緒に同じことを、同じように楽しまなければならないという風潮が、どうにも肌に合わないのだ。そもそも礼陣にいるという鬼に特に親しみもない僕は、この町に住むのに向いていない人間なのかもしれない。

 町の人々には、ここにいれば慣れざるを得ない。だがよそから来る人々の異様な昂揚感には、疑問を通り越して嫌悪感すら覚えることもある。少し、だけれど。鬼、鬼と、知りも見えもしないくせに、どうしてそんなに騒げるのか。

 それをいうと、鬼が見えるらしい人々――大助君たちがそうだ――のほうがよほど冷静だ。たぶんそれは、鬼のことを「知っている」からで、その存在を当たり前のものとして受容し、一方でそれはよそから見れば一般的なことではないとわかっているからなのだろう。

 鬼が見えるといえば。黒哉は今頃どうしているだろう。夏休みに入ってからというもの、まだ一度も会っていない。

 おそらくは学校の夏期講習にも参加していただろうし、インターハイがあるから部活にもでていたのだろうけれど、とうとう学校では会うことがなかった。休みに入ったのだから、弁当を渡しに行く必要もないのだし。多少の期待を持って屋上をときどき覗いてみたりもしたけれど、黒哉の姿はなかった。野下生徒会長と水無月先輩なら、そこでパンをかじりながら会話をしていたのを数回見かけたけれど。

 それと黒哉は色々なところでアルバイトをしているらしいけれど、僕はその現場に遭遇したことがない。黒哉のアルバイト先は、水無月先輩からの情報によると(この事実が僕には少々腹立たしい)、駅前のコンビニや駅裏の商店街らしい。それらを日ごとにまわっているのだ。どこも黒哉の置かれている状況を把握し、彼の生活を手助けしたいという思いで受け入れているのだという。人にかまうのが好きな、礼陣の人間らしい考え方だ。

 とはいえ、黒哉の場合は別格かもしれない。なにしろ黒哉の唯一の身寄りであった彼の母は、殺人事件によって命を落としている。今年の四月末にあった、この町を騒がせた事件だ。容疑者はすぐに特定でき、マスコミも素早く情報を手に入れて流しだした。現在、容疑者は指名手配中である。

 非常に厄介なことに、殺人事件の容疑者は僕の元父親だ。元、というのは、僕が小学生の時に両親は離婚してしまっているからだ。原因は元父が不動産屋の従業員として振る舞いながら金を横領していたことと、彼がいたるところで愛人をつくっていたことが祖父に発覚したことだった。その愛人の一人が、彼とのあいだに一子をもうけていたことも。

 愛人だったというその人が、我が家に連絡を入れたことがきっかけで、全てが明らかになったらしい。僕がそれを知ったのは随分後のことだったけれど。

 日暮黒哉は元父の愛人の子だ。我が家に連絡を入れたという、その人の息子だ。つまり僕とは腹違いの兄弟ということになるのだが、黒哉は僕と兄弟だということを認めたくないようだ。当然だろう、あんな男の血で繋がっているだなんて、僕だって思いたくない。

 でも僕は、黒哉という弟がいることを、喜んでいたのだ。ずっと一人っ子だったし、兄弟がいる同級生などを羨ましいと思っていた。だから黒哉と初めて接触した時、拒絶されたことは、当然のこととわかっていてもショックだった。

 だが、周囲の人々の計らいによって、僕らの距離は近くなった。学校では昼食をともにし、少しずつではあるが会話も増えてきた。依然として理想の兄弟には程遠いけれど、それなりの人間関係はできてきたと思っている。

 だから、夏休みは嫌だった。せっかく近づいた距離が、会わないことによって、また大きく開いてしまうような気がしていた。僕と黒哉を近づけてくれた会長や水無月先輩、大助君や亜子さんは、「大丈夫だ」というけれど。

「……水無月先輩には、言われたくなかったな」

 黒哉と同じ剣道部の、水無月先輩。主将として黒哉からも慕われていて、僕よりずっと彼と仲が良い。僕は水無月先輩に嫉妬し、それを会長になだめられた。夏休みに入る前のことである。けれどもこの夏休みのあいだも、彼らは部活で顔を合わせ、大会にも出場するのだ。

 夏休み明けに、同じ話題で盛り上がる二人を見ることを思うと、憂鬱になる。そしてそんな自分を嫌悪する。今だって、考えるだけで気が重くなる。夏の暑さが余計に鬱陶しい。

 汗を拭いながら掃除を終え、道具を片付けたところで、ちょうど祖父の言っていた「お客さん」がやってきた。ごちゃごちゃと考え事をしていたから、掃除が間に合って本当に良かった。

 お客さんは家を買う相談をしに来たらしい。冷やしたお茶を出しながら聞いたことによると、その人は隣町に職場があって、今は住居も隣町にあるという。けれども子供が生まれるのを機会に、礼陣に引っ越してくるつもりなのだそうだ。そういう人は、この町には多い。この田舎町は、子供を育てるための環境が比較的整っているのだ。金銭面だけでなく、暮らし全般において、あらゆる補助が受けられる。だから礼陣には子供が多い。

 これも礼陣で祀られている「鬼」が、子供を守る神だといわれているのが一要因としてあるからだ。礼陣の「鬼教」は、恐ろしいほど徹底している。

 黒哉も、この町にいる鬼が見えるらしい。僕には影すら捉えられないその存在を、黒哉は見て、認めて、彼らの助けも得ながら生活をしている。学校では、とうとう「礼陣歴史愛好会」なるものに入ってしまったほどだ。なんでも、礼陣の歴史や文化、それらと切っても切れない鬼について意見を交換するという活動をしているのだとか。僕には面白さがわからないのだけれど、黒哉は楽しそうだった。相変わらず表情は無愛想でも、なんとなく感じ取れる。

 黒哉との距離は近づいたようで、実は全く別の道を歩いているのかもしれない。黒哉は僕と違って、この町が随分と好きなようだ。夏祭りにも興味を示しているだろう。

「ここまで来る途中、街が飾られているのを見ました。もうそんな時期なんですね」

「八月に入れば、夏祭りまであっという間ですから。お子さんが大きくなったら、是非とも子供神輿に参加させてあげることをおすすめしますよ。近所の子とも仲良くなれますし」

 お客さんと祖父が、そんなことを話して笑っていた。孫の僕が、神輿行列を楽しんだこともなければ、夏祭り自体にうんざりしていることも知らずに。――僕は礼陣における「良い子」であるために行事には参加してきたけれど、とうとうこの年まで馴染むことはできず、むしろ町に対する違和感が増すばかりだった。祖父は、それから祖母と母も、それを知らないのだ。

 

 

 全国大会が迫る中、剣道の稽古はますます厳しくなっていた。

 オレは一年生で、ろくに部活に参加していなかったのに、なぜか団体戦の補欠として選ばれてしまった。あくまで補欠で、よほどのことがない限り試合に出ることはないが、他の部員を差し置いて補欠なんかになっていいのかとかなり悩んだ。だが、部員たちはそんなオレにどうということもないというふうに声をかけてくれるのだった。

「いや、日暮がいてくれるとむしろ心強いっていうか」

「水無月の個別指導受けてるんなら、普段の稽古に出てるのと同じだろ。ていうか、それより厳しかったりして」

 三年生の先輩たちからもこう言われて、オレは戸惑った。この人たちは、この大会が最後なのに。思わず「でも」と言いかけたオレに、背後から声がかかる。

「黒哉、今更ビビってるのか? 大会目前にして逃亡する気? そのほうが迷惑だから」

 そう言い捨てたのは進道海だ。同じ一年で、補欠に選ばれている。男子団体戦の補欠は三人までなので、コイツとオレで枠はほぼ埋まった。

 それにしても、相変わらず腹の立つ絡み方だ。すぐに言い返してやった。

「ビビッてねーし、逃げる気もねーよ。ただ……」

「先輩たち差し置いて試合に出るかもしれないのが申し訳ない、とか思ってんの? そんなこと考えるほうが失礼だ。個人戦に出させてもらえない、団体では正選手になれない、そんな立場でふざけたこと言うなよ」

 オレの言葉を遮って、海は一息で言いきった。考えてみれば、コイツとオレは同じ立場なのだ。個人戦には今回は出られず、団体戦では補欠。そう、あくまで控えなのだ。たぶんコイツは、それを悔しいと思っている。それに気づいて、オレは何も言い返せなくなった。初めてコイツに負けた気がした。

 すると先輩たちが「海、コラ」と言いながら海に絡みだした。

「個人戦に出させてもらえない、団体では正選手になれないってのは、俺たちのことかなー?」

「さすが心道館最強、言うことが違うねー」

「違……っ、そんなつもりじゃ……。オレはただ黒哉に腹が立って」

「わかってるわかってる。ただ、わざわざそんなこと言わなくてもいいって言ってんの。こっちはオーダーにちゃんと納得してんだからさ」

 先輩たちは冗談七割、本気三割くらいで海にそう言っていた。いや、たぶんオレにもその言葉は向けられていたのだ。――オーダーにちゃんと納得している。最後の一年、礼陣高校剣道部として勝てれば、それでいい。

「まあ、補欠を出場させる気はないけどな」

 レギュラーの先輩があっさりそう言う。オレはそれに頷き、海は「怪我には絶対に気をつけてくださいね」と言った。コイツもなんだかんだで、出たいくせに出る気はないのだ。オレたちが出るということは、レギュラーに欠場が出たということなのだから。

「ねえ、休憩終わりにしていい? ちょっとミーティングしたいんだけど」

 先輩たちとじゃれている(オレはほぼ見ているか一方的に絡まれているだけだったが)と、水無月主将がひょっこりと現れた。さっきまで、監督と特別指導に来てくれたはじめ先生と三人で何か相談していたはずだが。ちなみに監督は剣道部顧問でもあり、この町の剣道場心道館(はじめ先生と海の家だ)の出身だ。この町で剣道をやっている人間の多くは、心道館門下だった経験があるらしい。

 オレはこの春にこっちに引っ越してきたので、心道館とは関わりがなかった。だが、剣道は小学生の頃から、もといた隣町の道場でやっていたので、アウェイながらも剣道部に入部した。

 もといたところでは面倒な事情があって、どんなに実力を高めても、試合には一度も出してもらえなかった。だから高校で、オレは初めて試合に出たのだった。そして力を認めてもらい、全国大会団体戦の補欠になれた。正直にいうと、申し訳ないとは思いながら、やはり嬉しかった。

 それはともかく、主将に呼ばれ、オレたちは集合した。休憩の後は地稽古に入る予定だったのだが、何かあったのだろうか。

「はい、注目。連絡するのが遅くなったけど、八月十日は稽古を休みにします。この日のうちに体調を整えておいてね」

 大会直前に休みだなんて、いいのだろうか。オレは疑問を持ったが、多くの部員は納得しているようだった。オレと同じく怪訝な表情をしているのは、高校から剣道を始めた一年生や、オレと同じようによそから礼陣高校に来た奴だ。ようするに心道館出身者は、この事態を特におかしいとは思っていないらしい。

「気ばかり焦ってもしかたないからね。十日は心道館の都合もあるから、はじめ先生に自主練のお願いはできないよ」

 以上、と主将が話を切り上げて、稽古が始まった。納得がいかないまま、ふと海の表情を見ると、何やら不機嫌そうだった。心道館の都合とやらが関係しているんだろうか。妙なのは海だけではなく、稽古を見に来ている鬼たちもだ。

 オレには、礼陣に住む鬼と呼ばれるものが見える。鬼はこの町を守る神のような存在で、町のもう一方の住人なのだという。どうやら、子供が親を亡くすと見えるようになるらしい。鬼が子供の親代わりになるのだとか。とにかく鬼はこの町にいて、人間のほうも見える見えないに関わらずその存在を認めているのだった。

 初めはそのことを不思議に思っていたが、実際に見えるのだし、この町では普通のことなのだと聞いて受け入れられた。今ではすっかり鬼たちと顔なじみだ。挨拶だって自然にする。

 その鬼たちが、心道館の話を聞いた途端に表情を硬くした。八月十日の心道館に、何があるというのか。あとで海に訊くこともできなくもないが、こっちから話しかけるのは癪だ。それに最近――もともとオレにはよくつっかかってくるが――海は苛々している。オレ以外に向ける笑顔も、どこか無理に作っているようだ。

『気になるだろうが、流してはくれないか』

 いつの間に隣にいたのか、おかっぱ頭の子鬼が言った。よく現れる、馴染みの子鬼だ。たまにうちに飯を食いに来る。いや、しょっちゅうか。

『心道館というよりは、進道家の都合でな。私たち鬼も話題にするのを避ける。こればかりは黒哉にも教えてやれんのだ』

 子鬼は珍しく神妙な顔でそう言った。その視線の先には海がいて、先輩から一本取っていた。素早くきれいな胴だった。

 だからてっきりこちらには気づいていないものと思っていたのだが、稽古が終わったあと、海はオレに近づいてきて、小声だけれど不機嫌そうに尋ねた。

「子鬼から何聞いた?」

「何も」

 短く正直に答えてやると、海は黙って踵を返し、何事もなかったように「お疲れさまでした」と言って帰っていった。何だったんだ。だがオレのほうもいつまでも気にしている余裕はない。このあと、バイトが控えているのだ。

 

 夏休みの間は、剣道とバイトの繰り返しだ。授業がない分(夏期講習はあったが)、剣道に時間をさけるようになったのは良いことだ。一応は補欠なのだから。バイトは通常とさほど変わらないシフトを組んでもらっている。

 挨拶をしてから学校を出て、まっすぐバイト先に向かう。今日は駅前のコンビニだ。いつもこのコンビニのバイトと商店街のどこかの店の手伝いをさせてもらっているおかげで、独り暮らしができている。

 四月に母親が殺人事件という不本意な形で死んでから、町の人たちはオレのことを憶え、生活に協力してくれている。初めのうちこそおっかなびっくりといった様子で、こちらに気を遣っているのが見え見えだったので、いっそ放っておいてほしいと思っていた。だが、それでは生きていけないのだ。オレには身寄りがないのだから。

 同年代の奴らと普通に話せるようになったのもここ最近のことで、だいたいは水無月主将のおかげだった。あとは、認めたくないが、海がよくつっかかってきたせいというのもある。アイツはオレが親を亡くそうと知ったことではないというふうに、それ以前と少しも接し方を変えようとしなかった。

 それから、……そうだ、知り合いが増えたのはアイツのせいだった。一学年上の、常田在。オレの母親を殺した奴の息子だ。ややこしいが、オレも母親を殺した男の息子で、つまりオレたちは腹違いの兄弟ということになる。ものすごく不本意だし認めたくはないが、オレたちにはこの世で一番憎い奴の血が流れているのだ。

 在はオレと兄弟ごっこをしたいようで、しきりにかまってくる。アイツの母親の希望で、学校があるときはオレに弁当を持って来る。最初はしつこいし面倒だし、嫌で仕方がなかったが、今はそうでもない。さすがに在を兄だとまでは思えないが、それなりに親しい知人くらいには認識している。

 だって、アイツを兄だと認めたら、オレは憎しみの対象が父親だと認めなくちゃいけなくなる。今はどこに逃げているのか知らないが、全国に殺人事件の容疑者として指名手配されているあの男。だが、オレにとっては容疑者ではなく完全に犯人だ。あの男が電話などを通じて、母さんに金を無心していたことは知っている。とっくに関係は切れているはずなのに、会いたいと何度も要求していたことを知っている。それらを全部警察に話し、裏もとれているから、あの男は指名手配されているのだ。

 複雑な人間関係と、猟奇的と表現された殺害方法のせいで、母さんが殺された事件は大きな話題になった。マスコミも学校にまでついてきたし、オレだけでなく在も取材の対象だった。メディアを通じて面白おかしく噂や憶測が飛び交い、随分と迷惑した。そういう意味では、在もオレと同じ被害者だ。

 あの男が姿を見せない以上、事件に進展はない。動きがなければ、世間は飽きる。マスコミはとんと姿を見せなくなり、ときどき週刊誌の記者がやってくるが、町の人に追い返されている。一時期に比べれば、平和になった。

 先月、不審者情報が流れたが、それもあの男とは関係がないことがわかった。挙動不審に町をうろついていたというソイツは、情報が流れてからまもなくして警察に見つかり、職務質問を受けたそうだ。

 あとはあの男がさっさと捕まってくれれば、本当に平穏な日々が訪れるのだが。よそでまた事件でも起こしたらと思うと、気が気ではない。こちらに火の粉が飛ぶのはごめんだ。

 余計なことを思い出していたせいで少しだけ気分が沈んだまま、オレはバイト先に到着した。ここからは不機嫌な顔はなしだ。仕事に集中しなければ。

「おはようございます」

「ああ日暮君、おはよう。今日もよろしくねー」

 店長の顔を見るとホッとする。コンビニの店長だけでなく、礼陣の町の多くの大人が、オレを助けてくれる。ただ子供扱いするのではなく、必要な時に手を差し伸べてくれるといった感じだ。それがありがたい。

「そうだ、日暮君。ちょっとシフトのことで相談したいんだけど、このあたりの土日、午前中から夕方まで入ってもらえるかな」

 その店長が、カレンダーを指さしながら言った。大会も終わった後の土日だ、時間の融通はいくらでもきく。

「いいですけど、他の人は?」

「毎年なんだけど、このあたりはみんなお祭りに行っちゃうからね。仕方ないけど、混む日でもあるから、できれば人手が欲しくて」

「お祭り?」

「そう、夏祭り」

 そういえば、そんなものもあった。オレは見たことがないが、礼陣の夏祭りは、それは賑やかなものらしい。街にも装飾が増えているし、ポスターが至る所に貼ってある。ポスターにはバリエーションがあって、地元の学生の絵や写真を使ったものもあれば、プロの手によるものもある。毎年六月頃に公募で決め、祭りの一か月前くらいから貼り出されるのだそうだ。

 鬼たちも自慢げに『夏祭りはすごいぞ』と言っていたっけ。バイトがあるから見られないが、忙しさで賑わいはわかるはずだ。

「夕方には終わるようにしておくから、出店とかは楽しめるよ。あ、でも来て一年目なのに神輿行列を見逃すのはもったいないか……」

「いいです、いいです。シフト入れてください。忙しいんですよね」

 正直人混みは苦手だから、祭りは見られなくてもいい。仕事をしていたほうが気が楽だ。申し訳なさそうな店長に、こっちが申し訳なくなりながら、店に立った。

 いつもの通りの勤務だった。一緒に入っている大学生の橋本さんから変な冗談を聞かされたり、アイスを大量買いしていく学生に会計を急かされたり、同級生に営業用の表情を見られて「いつも笑ってればいいのに」なんて言われたり。このまま何事もなく一日が終わるだろうと思っていた。

 

 バイトが終わり、家に帰ると、子鬼が戸の前で待っていた。オレが溜息を吐きながら鍵を開けてやると、真っ先に部屋に入る。そして夕食を催促するのが、いつもの流れなのだが。

『黒哉。昼間は言わなかったが、ちょっとまずいことになってるぞ』

「まずいこと?」

 今日は今夜の献立を聞く前に、そんなことを言いだした。

「海のことなら気にしてないぞ」

『いや、それは気にしないでもらえるとありがたいんだがな。こっちは黒哉に関係があるから知っておいたほうが良い』

 子鬼の深刻そうな声を、冷凍保存しておいた米を電子レンジにかけながら聞く。この季節、冷凍保存できるものはそうしておかなければ、すぐに傷んでしまう。汁物は椀で二杯分を量って作り、食べきってしまわなければならない。

「で、何だって?」

『祭りが近いだろう。礼陣の祭りは人がたくさん来るが、今年は殺人事件に興味を持って来る輩もいるらしい』

「……ああ、そういうのもいるだろうな」

 容疑者が逃亡中の、猟奇的な殺人事件。興味を示さない人間が全くいないということはない。コンビニで仕事をしていたら、むしろ迷惑がかかるんじゃないだろうかと思い至って、次に行った時にでも店長に相談することにした。

『でな、報道関係者も来るんだと。まだ事件の犯人が捕まっていないのに、礼陣の警備体制は大丈夫なのかとか、見に来ると聞いた。……黒哉にも接触したがっている』

「まずいな、本当に店長に迷惑かけそうだ。かといって家にもいられねーし……」

 殺人事件の現場は、今オレが住んでいる部屋の隣だ。今も閉鎖されていて、ときどき警官が来る。現場保存のためにほとんどの物は持ち出せず、今使っている家具は母親の知人が揃えてくれた。それで人に頼るのは終わりにしようと決めたはずなのに、オレは今でもたくさんの人に頼って生きている。弁当を作ってくれている在の母親や、鬼たちも含めてだ。

「そうだ、オレに接触したいなら、在もそうだろ。アイツに教えといたほうがいいか?」

『む、そうだな。メールしてやったらどうだ。アドレス交換しただろう』

 すぐに在のことを考えたのは、自分でも意外だった。ついこのあいだまでどうでもいいと、近づかれるのもいやだと思っていた相手のことを、すぐに思うことができるとは。人は変わるものなのだなと、自身をもって思い知るとは。苦笑しながらまずは夕食を用意して、子鬼の前に出してやってから携帯電話を開いた。

「……そういえば、メールするの初めてだな」

『記念すべき初メールが良くない情報になってしまってすまないな。いただきまーす』

「記念とか言うな、なんか送りにくくなった。……いいや、オレも先に飯にしよう」

 腹を満たしながら文面を考えよう。それからでも遅くはないはずだ。まだ、面倒な奴らは現れていないのだから。

 

 

 携帯電話の着信音が響いたのは、寝ようとした頃だった。こんな時間に誰かと思いながら、眉を顰めて差出人の名前を見ると、意外な表示があった。

「黒哉……?」

 何かあったのだろうか。黒哉が僕にメールを送るなんて、よほどのことがなければないはずだ。だって、今まで一度もそんなことはなかったのだから。タイトル欄は空白で、一見して内容を知ることはできない。緊張して、けれども急いで開くと、そこには淡々とした文面があった。

[夏祭りに合わせて、マスコミや事件を気にしている一般人が来るらしい。余計なことは言うなよ。]

 読んで、緊張が一気に抜けてしまった。冷めた頭でなるほど、と思った。凄惨な、しかも犯人も捕まっていないような事件があった後に、いつも通りの賑やかな夏祭りをやるというのだから、当然「事件はどうなったのか」と気にする人も出てくるだろう。

 実際、事件の犯人が捕まっていないのに、夏祭りを開催しても良いものかという声はあった。祭りに紛れて危険な人物が現れないとも限らない。結局、警備を厳重にして、祭りは開催しようということになったのだけれど。

 溜息を吐きながら、画面をスクロールしていく。メールには少し空白があって、最後にこう書いてあった。

[もし寝てたのを起こしたなら、悪かった。]

 あの黒哉が。僕にはいつも無愛想で、あまり目を合わせてくれない黒哉が、「起こしたなら、悪かった」だなんて。気を遣ってくれたことが嬉しくて、僕はメールを保護した。このことが黒哉に知れたら気持ち悪いなどと思われるだろうから、これは僕だけの秘密だ。

 それにしても、やっと事件が世間に忘れられてきたと思ったのに、夏祭りのせいでまたひっかきまわされることになるのか。僕はやっぱり、夏祭りが好きになれそうにない。

 でも、黒哉はどうなのだろう。夏祭りは見に行くのだろうか。この町がたぶん僕よりは好きな黒哉のことだから、案外楽しむかもしれない。人が多いところは苦手そうだけど。――黒哉が行くなら、僕も行こうか。夏休み明けに、話題についていけるように。

 いや、それを考える前に、このメールへの返信を考えなければ。どう返したら、黒哉に嫌われずに済むだろう。

 

 散々悩んでメールを送った翌朝、さっそく黒哉の危惧は現実になった。祖父から「今日は在は手伝いに来なくてもいい」と電話があり、何事か尋ねると、どうやら店の前に記者が来ているらしい。

 けれども、どうせ母が出勤するのだし、僕が行こうと行くまいと大した違いはないだろう。向こうは店のことも、実家のことも知っているのだ。僕一人が残るよりはまとまっていたほうが追い払いやすいだろうと思い、祖父が止めるのを無視して、店に行った。

 祖父の言う通り、常田不動産の店舗前には記者がいた。春に何度か取材に来た、週刊誌の記者だ。僕と母が近づくと、「お久しぶりです」と言って頭を下げた。

「まだ解決していない事件について、一言聞かせていただきたいと思いまして」

 一言も何も、手掛かりのない状態で何を言えばいいのか。僕は母に先に店に入っているよう言って、記者と対面した。――思い出すのは、学校近くで待ち伏せていた記者を追い払ったときの会長と水無月先輩だ。会長はともかくとして、水無月先輩を手本にするのは少々悔しいが、今はそうするより他になかった。

「学生への取材をお断りすると、以前にも申し上げたはずです。なので僕は何も答えられません。家の者も、この件についてはお答えする気はありませんので」

 僕には、会長のような見た目の迫力も、水無月先輩のような静かで毅然とした姿勢もない。だから完全に真似ができているかといえば、できてはいないだろう。

 記者は頬を引き攣らせて、「一言でもいいんですけどね」と返す。その一言からどんなでたらめが書かれるか、わかったものではない。僕は記者から目を逸らさずに、少しだけ声を大きくして、言った。

「お引き取り下さい。この場からではなく、この町から」

 黒哉に迷惑がかかる前に、彼らを礼陣から追い出してしまわなければ。黒哉が知らせてくれたことが、無駄になってしまう。

「……危険だと思うんだけどね。まだ容疑者が、……君の父親が捕まっていないというのは。祭りに乗じてまた来るかもしれないでしょう。そうしたら、次に狙われるのは君の家族なんじゃないのかい?」

 こんなことを言う奴を、黒哉に会わせるわけにはいかない。

「お引き取り下さい。早く」

 記者を強く睨む。睨んだつもりだった。相手にどう見えたかはわからないけれど、ほんの少し、怯んでくれたようだった。

 ちょうどそこへ祖父が来た。怒りの形相に、記者はぎょっとしている。なにしろ、とても僕の祖父とは思えない眼力の持ち主だ。以前もこうして祖父に追い払われたのを、まさか忘れたわけではあるまい。

「うちの前で、孫に何をしている! 警察を呼んだぞ。お前らがいては、いつまでたっても店を開けられん!」

 警察に出てこられるのは、やはり記者も面倒らしい。すごすごと退散していった。最初からこうしてくれればよかったのにと思いながら、僕は息を吐いた。ずっと握りしめていた手は、汗で湿っている。

 記者を追い払った祖父は、僕に軽い拳骨をくれた。

「来るなと言ったろうに。放っておけばあれもそのうち去っただろう」

「去ったとしたら、次に行く先は黒哉のところですよ。……そうだ、黒哉に連絡しないと。おじいさん、警察を呼んだんですよね。来たら黒哉のところに」

「こんなことで警察が来てくれるわけがないだろう。あれは嘘だ」

「嘘? じゃあやっぱり、黒哉に連絡しなくちゃいけないじゃないですか。絶対黒哉のところに行きますよ、あの人」

「落ち着きなさい」

 食って掛かる僕に、祖父はもう一発拳骨を落とす。今度はさっきより痛かった。頭を抑える僕に、祖父が静かに言う。

「黒哉君は朝早くから学校に行っているんだろう。たしか、大会が近いんだったな」

「……あ。そうでした」

 そういえば、夏休み前に水無月先輩とそんなことを話していたような気がする。もし登校中に記者に会ってしまったとしても、剣道部員が近くにいるはずだ。僕が何もしなくても、黒哉はこの状況を乗り越えられる。そもそも、ああいうのが来るのを知って、僕に連絡をくれたのは黒哉だ。

「黒哉君は大丈夫だ。在、中に入りなさい。店を開けるよ」

 黒哉のことになると、僕はどうにも空回りするようだ。それとも、あの事件のことになると、だろうか。いずれにしろ、僕はもっと冷静にならなくてはならない。

 祭りの事だってそうだ。警備は厳重なのだから、たとえあの人がまた来たって、きっと悲劇は起こらない。むしろのこのこと出てきて捕まってくれればいい。

 黒哉には一応連絡したけれど、返事はなかった。もしかしたら、記者は諦めてそのまま帰ってくれたのかもしれない。その日は以降何もなく過ぎたけれど、明日からも何が来るかわかったものではない。

 

「在」

 塾から帰ってきて、店先を掃除しているとき、名前を呼ばれた。あれから数日、記者が来たり来なかったり、ローカルテレビ局から取材の申し込みがあったりと、気が休まらなかった。そんなときに僕を呼んだその声は、雲間から射した光のようだった。……ちょっと大げさな表現だろうか。

「亜子さん。なんだか、しばらくぶりですね。どうしてここに?」

 天然の金髪に、日本人離れした顔。けれども親しみを持って僕の名を呼んでくれる声。学校での夏期講習が終わって以来会っていなかった亜子さんは、日傘をくるくると回しながら答えた。

「講習のとき、夏休み中は不動産屋さんの手伝いしてるって言ってたでしょ? だから、手伝いって何してるのかなーって思って」

「大助君に用事があるから、暇つぶしに来たんじゃないですか?」

「……まあ、それもある。でも、在の顔見たいなって思ったのも本当」

 亜子さんは正直だ。夏休みのあいだ、彼女はそのほとんどを大助君と過ごしているのだろう。僕はとりあえず笑顔を作っておいた。

「僕はこんなことしてます。あとはお客さんが来たときにお茶を出すとか。いわゆる雑用です」

「でも、塾の夏期講習と両立してるんだよね。偉いよ」

「全部暇つぶしですよ。亜子さんは、何をして過ごしてました?」

「神社行ったり、英会話やったり、ドイツから母方の従姉妹が来るからその準備したり。今日の夜にはこっちに着くみたいなんだよね。父方の従姉妹も来るから、明日は庭でお茶会の予定」

「忙しいですね。でも、楽しそうです」

 指を折りながら言う彼女は、この夏休みを満喫しているようだ。僕とは大違いの、充実した日々を送っている。ちょっと羨ましいと思っていたら、それをすぐに見抜かれた。

「在は退屈なの?」

 亜子さんはいつだって、こっちの考えを見通してしまう。僕が彼女に抱いていた恋心以外のほとんどを。

「もともと趣味もなければ、勉強だって好きなわけじゃないですし。退屈というよりは、時間を持て余している感じですね」

「黒哉には会った?」

「いいえ、一度も。あ、メールならしましたよ。夏祭り前で、マスコミや警察がまた例の事件に注意を向け始めたので……」

「メールしたんだ。内容はともあれ、良かったじゃない」

 亜子さんは喜んでくれた。僕が黒哉と距離を感じているのも、彼女は知っている。知っているから、ちょっとしたことでも「良かった」と言ってくれる。メールのことは秘密にしておこうと思ったけれど、亜子さんになら真っ先に知らせても良かったかもしれない。

「でも、マスコミがまたこの町をうろついてたのは、ちょっと困ったな……。黒哉が大会に集中できなかったらどうしてくれるんだろう」

「大会って、剣道の? でも黒哉、補欠なんですよね。だったら試合には出ないんじゃ……」

「礼高剣道部の補欠っていったら、かなりすごいよ。出るにしても出ないにしても、プレッシャーは大きいと思う。……そうだ、在、手伝いって何時まで?」

 礼陣高校の剣道部が強いのは知っていたけれど(なにしろ全国大会に進めるのだから)、補欠ですらそんなにすごいとは思わなかった。僕は黒哉が竹刀を持っている姿を、未だに見たことがないのだ。水無月先輩たちは黒哉がとても強いというけれど、僕はそれを実感できる機会を持たなかった。

 少し気落ちしながら、亜子さんの問いに答える。

「僕は六時を過ぎたら帰っていいことになってます。本当に時間通りに帰ったことはまだないですけど」

「そっか。じゃあ、終わったら神社においでよ。わたし、待ってるから」

「神社?」

 そんなところに、何の用事があるのだろう。それを問う前に、亜子さんは「あとでねー!」と言って走っていってしまった。相変わらずの瞬足だ。日傘を持っているのに、あっという間に見えなくなる。

 こうなるともう断れないので、今日は祖父に断って夕方で手伝いを終え、僕は礼陣神社に向かった。北市地区と社台地区の境にあるこの場所からはそう遠くなく、商店街側の石段を上らなくても境内に辿り着ける。

 礼陣神社の境内は静かだった。夏のまだ明るい空の下、鎮守の森の緑が濃い。そこはまさに神様の居場所といった様子だ。亜子さんは、いや、彼女だけでなく大助君と、なぜか会長まで、拝殿の前にいた。

「大助君はともかくとして、会長までどうして?」

「どうしてって……」

 尋ねた僕に、会長は目を丸くして首を傾げた。僕は何か、おかしなことを言っただろうか。固まってしまっていた僕に向かって、亜子さんが「手水舎!」と叫んだ。

「まず手と口を清める!」

「清め……ああ、もしかして」

 どうやら僕の察しが悪すぎたようだ。僕らは昼間、剣道の大会があるという話をしていた。黒哉がその補欠に選ばれている。黒哉が補欠なら、水無月先輩は当然レギュラーだろう。頑張っている彼らに、僕らができることといったら。

 僕は亜子さんの言う通りにしてから、拝殿前へ向かった。会長が鈴を鳴らして、四人揃って二礼、二拍。僕にしては珍しく、きちんと祈って一礼。もちろん、礼陣高校剣道部の勝利祈願だ。

「明日、勝てるといいな」

 お参りを終えて、会長がぽつりと言った。……え、明日?

「大会、明日なんですか?」

「在、日程知らなかったのか? 明日から大会だから、剣道部は今日、出発したんだぞ」

 会長が驚きをあらわにする。それから、「そっか、だからか」と呟いた。たぶん、さっきの僕の問いに対しての納得だろう。

 そういうことは、黒哉は一言も教えてくれない。マスコミが来るという情報もたしかに大事だし役に立ったけれど、僕はこっちのほうが知りたかった。水無月先輩も、こういうときは何か一言くらいあってもいいのに。

「ちゃんと黒哉から日程聞いておくんでした……。そしたらもっと、応援とか……」

「応援ならまだできるじゃねえか。在、今ケータイ持ってるだろ」

 大助君が僕のポケットを指さす。そうだ、僕は黒哉の連絡先を知っていた。先日は向こうからメールをくれたので、今度は僕の番だ。

 緊張しながら「大会頑張って」とメールを打ち、少し力を込めて送信。画面に「送信しました」と表示される。これで黒哉の携帯電話に、僕の打った文面が送られたはずだ。黒哉は見てくれるだろうか。

 試しにしばらく待ってみた。少しして、会長の携帯電話から音楽が流れだす。水無月先輩からメールがあったときの、着信音だ。そういえば会長も、僕と同時に携帯電話を弄っていた。

「和人から。頑張ってくるね、だってさ」

「黒哉はまだ気づいてないのかな?」

 拝殿の脇に、屋上でそうするみたいに座りながら、僕らは黒哉からの返信を待った。でも、いつまでたっても僕の携帯電話は音を発さなかった。

 日が暮れだして、辺りが真っ赤に染まる。明日もいい天気になりそうだ。

「来ねえな、メール」

 大助君が呟くと、亜子さんがその背中を思い切り叩いた。すぱーん、といい音がした。

「黒哉のことだから、照れて返事を迷ってるのかもしれないぞ。それかあんまり通信状態が良くないのか……」

 会長がフォローしてくれるけれど、僕はもう諦めかけていた。僕からのメールに、黒哉が返信することは、たぶんない。気づいてすらいない可能性のほうが高い。

 カラスの声が響く中、僕はずっと考えていたことを、ふと口にした。

「僕って、存在感ないんでしょうか」

 亜子さん、大助君、会長の視線が一斉にこちらに集まる。

「そんなことないよ。わたしたちだって、在を見かけたらちゃんと気づくし……」

「高校に入って、同じクラスになってからでしょう。現に亜子さんと大助君は、僕と中学が一緒なのに気づいていませんでしたし」

 意地の悪いことを言ってしまった。亜子さんは口を噤んで、俯いてしまう。大助君も何も言い返せないようだった。

「生徒会でも、僕が役員だってことはあまり知られていませんよね。副会長といえば水無月先輩で、会長は言わずもがな、みんなに認められてます。でも僕は……」

「それは俺が目立とうとしすぎてるからだって。和人も知名度高いし。在は普通だよ!」

 普通にしているはずの他の役員だって、名前くらいは知られている。でも僕はとにかく目立たないのだ。名前すら知らない生徒も多いのではないか。

 弟にも、兄と認めてもらえない。もちろん不本意なかたちでの兄弟だから、認めたくもないのだろうけれど。

「僕の『在』って名前、おじいさんがつけたんです。でも、完全に名前負けしてますよね。そこに『在る』ことに気づかれない。気づいても触れられない。……僕は、いったい何なんでしょう」

 黒哉からメールの返信がないことで、僕は完全に拗ねていた。これはただの愚痴で、八つ当たりだ。亜子さんも大助君も会長も、誰も悪くないのに。――たぶん、疲れていたのだ。祭りが近づいてから接触を再開してきたマスコミに(望まないかたちでばかり目立つんだ、僕は)。何もない繰り返しの日常に。黒哉に会えないことに。好きでもない祭りが、大きな存在感を持って近づいてきていることに。

 いや、そんなの全部、言い訳だ。

「……何って、在は在だろ」

 その言葉と同時に、頭に重みがかかった。会長が、僕の頭に手を置いたのだ。

「在はいつだって、よく目立ってしまう俺たちの陰で、しっかりと働いてる。ちゃんとここに存在してる。大助と亜子だって、中学時代は気がつかなかったかもしれないけれど、高校に入ったらちゃんと在と友達になっただろ」

 な、と会長が言うと、亜子さんと大助君は頷いた。

「そもそも中学が遠川中だもんな。あの濃い中学校で、普通でいられた在はむしろ偉い。ちゃんと自分が『在った』から、そうしていられたんだろ。名前負けなんかしてないぞ」

「そうでしょうか……。じゃあ、どうして黒哉から返事が来ないんですか」

 僕が少し顔をあげて言うと、会長たちは口を揃えて言った。

「照れてるんだろ」

「照れてるんだよ」

「照れてるな」

 どうしてそんなふうに言いきれるんだろう。僕がそれを問う前に、大助君が答えをくれた。

「こう言っちゃなんだけどよ。黒哉の奴、メール慣れしてねえんだと思う。いや、正確にはなんか……もっと親しい感じのメールとか会話とか。あ、会話は屋上で話すようになってから、かなり慣れたな。でもメールはたぶん、和人からの部活関係の事務的なやつとか、バイト関係とか、そういうのばっかりだったんじゃねえの? だからお前にどう返していいかわかんねえんだ」

 つまり、黒哉は返事に迷っている。僕が黒哉に嫌われないようにと、メールの文面を悩んだように。大助君はそう言いたいのだ、たぶん。

 先日のメールの最後の一言も、もしかしたら悩んだ末のものだったかもしれない。本当は、もっと早くに知らせてくれることができたのだとしたら。――そんな希望を、僕は持ってしまってもいいのだろうか。

「……もう少し、待ってみます。家に帰ってから」

「だな。そのうち返事も来るだろ」

「それじゃ、在。一緒に帰ろうか。行くよ、大助」

「おうよ。流だけ別方向だな、あーあ、残念」

「ちぇ、なんだよお前ら。本当に仲良いな」

 会長は大助君の言葉に口をとがらせていたけれど、全然悔しそうじゃなかった。むしろ嬉しそうだった。

 だから僕は、拗ねるのをやめた。今の僕は、たしかにここにあるのだから。

「面倒な愚痴を言ってしまって、すみませんでした」

「たまにはそういうのもいいでしょう。在は優等生すぎ!」

「もっと楽に生きろよ。……黒哉にも同じこと言ってやりてえ」

 一番嬉しかったのは、大助君の一言かもしれない。

「やっぱ、お前ら兄弟、似てるな」

 あまり繋がりたくない血で繋がっているはずなのに、「似てる」といわれると、なぜか照れくさかった。

 

 結局、黒哉からメールが来たのは、大会が終わってからだった。正確には、彼らの試合が終わってから。

[負けた]

 たった三文字の報告だったけれど、悔しいだろうに、それを僕に言ってくれたことが嬉しかった。「お疲れさま」と返したら、それ以上の返信はなかった。

 

 

 礼陣の外に久々に出たら、違和感があった。普段あるものがない、心許ない感じ。四月の末まで当たり前だったはずの世界が、急に心細く思えた。

 礼陣には鬼がいる。翻って、礼陣以外にオレの知っている「鬼」はいない。――全国大会が終わって礼陣に帰ってきてから、たくさんの鬼たちが迎えてくれたことに、正直オレは安心していた。それまでの緊張が一気に解けた。

 オレは結局、試合に出ることはなかった。二、三年生の先輩たちが全国の舞台で戦い、惜しくも入賞できずに終わってしまった。団体でも、個人でも。個人戦で負けてしまったときの主将の表情を、オレは忘れられない。いつも穏やかに笑っているこの人でも、こんな顔をするんだと思った。ひどく悔しそうな、泣きそうで泣かない、そんな。だが主将のすごいところは、そんな状態でも声をかけられればすぐにいつもの笑顔を作れるところだった。

「三年生はこれで引退します」

 そう言ったときも、笑っていた。二年生から次の主将と副主将を指名し、清々しく「よろしくね」と肩を叩いていた。

 迎えてくれた鬼たちの『お疲れさん』『頑張ったな』という声に頷いて返しながら、オレは主将のところに駆け寄った。……いや、もう元主将なのか。

「お疲れさまです」

「黒哉、お疲れさま。長い移動、大変だったでしょう。今夜はゆっくり休んでね」

 こんなときでも人のことを気にかける。「元」になってしまっても、水無月主将はオレの中ではちゃんと主将のままだった。

「あの、試合のこと、流には報告……」

「したよ。『よく頑張った、お疲れさま』だってさ。……多分何て言えばいいかわからなかったんだろうなあ。結局三年間、全国に行ったはいいけど負けてくるばっかりだった」

「和人さんはよく戦いました! 心では絶対に負けてませんでした!」

 いつの間に来たのか――主将に近づいたオレを見て駆けつけたんだろうが――海が割り込んで叫ぶように言う。勝敗が決したあの瞬間もそうだったが、主将より、コイツのほうが泣きそうだった。

「ううん、負けてたよ。とうとう最後まで乗り越えられなかった」

「でも、大学に行ったら、今度こそ」

 訴えるような海に、主将は曖昧に笑った。――即答しなかったから、わかってしまった。この人は、この先、剣道を続ける気はない。続けたとしても、もう大会に出ることはない。本当にこれが最後だったのだ。たぶん海にも、それがわかったんだろう。誰よりも悔しそうに、顔を歪めていた。

「今度は、海が、それから黒哉が、あの舞台に立つ番だよ。君たちは僕みたいにならないから大丈夫」

 オレも海と同じような表情をしてしまっていたのかもしれない。それを宥めるように、主将はオレたちの肩を叩いた。それから「ところで」と突然話題を変えた。

「海はともかくとして、黒哉はちゃんと在に報告したの? せっかく応援のメールくれたのに」

「……一応、結果だけ。でもオレ、出てないから応援される筋合いもないし……」

「なくはないよ。でも、ちゃんと報告したならいいや」

 主将はオレが在からメールを受け取ったことを知っている。主将のところに、流から応援と、在からオレへのメールの件が書かれたものが届いていたからだ。アイツ、余計なことを。

 オレは散々返事に迷った挙句、一度は返信をやめた。けれども試合が終わってみたら、何もしなかったのに、いや、何もできなかったからか、どうしようもない無力感に襲われた。先輩たちには気の利いたことも言えず、普段話し相手をしてくれている鬼もいない状態で、縋ろうとしたのは……在だった。

 アイツから「お疲れさま」という一言が返ってきたときに、オレはもう悔しさを吐き出していた。だから今、海よりは冷静になっているつもりだったのだ。

「さて、礼陣に帰ってきたら、あとは夏祭りだね。海と黒哉はお祭り行くの?」

 またも主将が話題を変える。海がオレを押しのけるように、即座に答えた。

「俺は連さんと行く予定です。初めて夏祭り見るみたいなので、神輿行列から最後の花火まで全部楽しんでもらいます!」

「それはいいね。黒哉は?」

「オレは二日間ともバイト入れたので……」

 そうだ、まだ夏祭りなんてものがあったのだ。前年より警備が厳重になり、マスコミも来るという、夏祭りが。

 コンビニの店長には相談済みだ。もしかしたら、例の事件を巡って面倒なことになるかもしれないと。「そんなの気にしなくていいよ」と言ってくれた。「営業妨害になりそうだったら追い払うから」とも。頼もしかった。

「そっか、黒哉はバイトか……。初めてなら見てほしかったんだけど、そうもいかないよね。生活かかってるし。バイト終わってからでも、出店くらいは楽しんでよ」

 やっとすっきりした笑顔になった主将に、オレは「はい」と頷いた。

 そうして家に帰ると、戸の前で待っていた子鬼からの熱烈な歓迎を受け、ついでにいつも通りに夕食をたかられた。けれども何もなかったので、今日のところは勘弁してもらった。

 

 翌日からバイトに復帰した。商店街にあるパン屋のレジで、そこの娘に商品と値段を教わりながら仕事をした。どうやらオレの一つ下で、礼陣高校に進学したいと考えているらしいこともついでに聞いた。

「黒哉先輩、覚えるの早いですね。アタシ雑談もしてたのに」

「色んなとこでバイトしなきゃいけねーからな。この商店街の人たち、どこも『うちを手伝ってくれ』って言ってくれるから。ありがたいんだけど、一つの仕事をきわめるってのは無理そうだ」

「みんな世話焼きですからね、ここの人」

 そういうこの子もその世話焼き性をしっかり受け継いでいるようで、何かと声をかけてくれる。客の扱いも上手く、進路の話などを聞かなければ中学生とは思えなかった。

「詩絵ちゃん、お祭りは遊べるの? それともお店のお手伝い?」

「あ、二日目は遊ばせてもらえることになりました。一日目は神輿行列が終わったらお店につくので、ぜひよろしくお願いします」

「もちろんよ。いつも楽しみにしてるんだから」

 商店街の店は、祭り当日は出店をやるらしく、本来の営業は休むのだという。たくさんの人を相手にするのだから、本当に休むわけではないのだが。そういえば、出店の手伝いの話は持ちかけられなかったが、それはオレに祭りを見てまわってほしかったからなのだろうか。

「そうだと思いますよ。来て一年目なら、本当は礼陣の名物をしっかり楽しんでほしいところです。駅前のコンビニのほうは普通に営業してるし、よそから来た人で混むから仕方ないだろうけど……」

 パン屋の娘――詩絵に尋ねると、肯定された。人間だけではなく、鬼たちもしきりに『黒哉は祭りを見ないのか』と言ってくるので、この町の人たちはよほど夏祭りが自慢なのだろう。子鬼によると、「一年で一番礼陣の人口が多い日」らしいし。

 その増えた人口の中に、今年は事件目当ての奴もいるわけだ。何事もなければいいが。

 祭りの日はもう目前だった。駅前もこの駅裏商店街も、準備が進んで彩りが鮮やかになっている。神社のほうからは時折、太鼓や笛の音が聞こえてくる。町の有志が集まって、神輿行列のお囃子をやるのだと、商店街の人々がこぞって教えてくれた。神社からメインとなる大神輿を送りだす太鼓と戻ってきたときの迎え太鼓は、特に迫力があるのだそうだ。

「黒哉先輩も、来年は見るといいですよ。アタシも来年は、もっと晴れ晴れとした気持ちで夏祭りを楽しみたいなあ」

 進路に悩む中学生は、そんなことを感じさせないくらい明るい笑顔で言った。

 パン屋のバイトもそろそろ終わりかという頃、店に見慣れた、だがしばらく見ていなかった人間が訪れた。ソイツは目を丸くして、それからぎこちなく片手を挙げた。

「……久しぶり、黒哉」

「……いらっしゃいませ」

 夏だというのに、在は日焼けをしていなかった。まさかずっと室内に引きこもっていたのだろうか。いや、こうして店に来るのだから、それはたぶんない。きっと、もともと日焼けしにくい体質なのだ。よく見ると、腕などはうっすら赤くなっていた。

 在は素早くパンを選ぶと、レジカウンターにトレイを置いた。オレが店の奥さんに確認してもらいながらレジを打ち、パンを一つずつ袋に入れるそのあいだ、ずっとこっちを見ていた。まじまじと、とはこういうことをいうのだろう。

「黒哉、バイト何時まで?」

 会計を終え、品物を受け取った在が訊いてきた。答えあぐねていると、トレイを片付けていた詩絵が先に「もう上がりの時間ですよ」と言った。

「用事あるなら、どうぞ。お疲れさま、黒哉君」

 奥さんもにこにこしながらそう言うので、オレは頭を下げて「失礼します」と答えるしかなかった。――別に、在に用なんてないのに。

 店を出ると、在が外で待っていた。片手にパンの袋を提げ、もう片方の手をこちらに振る。

「ごめんね、バイトの邪魔して」

「全くだ。何のつもりだよ」

「ちょっと話がしたいなと思って。……しばらく会ってなかったし、メールも大会の後のあれっきりだったから」

 どちらともなく歩き出す。坂になっている商店街の西側から、商店街入り口のアーチに向かって。

「わざわざオレのバイト先突き止めたのか? 気色悪っ」

「違うよ、会ったのは偶然。母に明日の朝食を買って来るように頼まれて……」

 ああ、それで角食パン一斤だけだったのか。

「加藤パン店には、よく行くんだ。美味しいから、母が気に入ってて。だから、わざと黒哉に会おうとしたわけじゃない。……でも、会ったら話したくなったんだ」

「女々しい。お前はオレの何なんだよ」

 少し前までなら、苛々していたところだ。コイツは――在は、心底面倒臭い。けれども今は苛立ちよりも呆れが先に来ていた。

「……僕は、君の兄になりたいんだけどな」

 そんな弱々しい兄がいてたまるか。

「黒哉は、僕を何だと思ってるの?」

 そんなことを尋ねる奴が、兄であってたまるか。

「本っ……当に、めんどくせー奴だな、お前は」

「え、それが答え?」

「ああそうだよ、お前はめんどくせー奴。兄だなんて思えるはずもねーよ。頼りない知り合い程度だ」

 その頼りない知り合いに、一瞬でも救われてしまった。出られなかった試合の後の無力感を、コイツが吐き出させた。

「……メール」

「うん?」

「大会の直前に、頑張れってメール寄こしただろ。オレが試合に出ねーこと、知ってたくせに」

 夏休み前、屋上であれだけ話したんだ。知らないはずがない。

「でも、補欠ってだけですごいことだって、亜子さんから聞いたから。神社にお参りまでしたんだよ。……普段は鬼にも神様にも関心がない、僕が」

 本人が言う通り、コイツは鬼だの歴史だの文化だのという、礼陣の町のことについてはあまり関心がないようだった。ただ、土地にまつわる話は、じいさんから聞いてきてくれた。オレと話をするために。

 今回も、どうやらオレのために神社まで行ったらしい。――どうしてそんなに、オレのことを気にするんだろうか。母親を殺された可哀想な奴だからか。半分でも血の繋がった兄弟だと思っているからか。どちらにしても、面倒臭い。

「なんで、そこまでオレにかまうんだよ」

「それは……」

 在が言い淀んでいる間に、商店街入り口のアーチまで来てしまった。もうすぐ分かれ道だ。オレは中央地区の住宅街に、在は遠川地区の自宅に帰る。

「子鬼が待ってるから、オレは帰るぞ。飯作ってやらなきゃ……」

「待って。……僕が君にかまう理由、色々あってまとまらないんだ。君を勝手に弟だと思ってるからだとか、生活は大変じゃないか気になってるとか。でも、きっとどれも根っこは同じだ」

 帰ろうと背を向けた途端、在が突然、堰を切った。振り向くと、なんとも痛々しい表情があった。

「僕は、君に認めてほしかった。ここに『在る』んだと意識してほしかった。……もしかしたら君じゃなくても良かったのかもしれないけれど、特別な誰かがほしいと思ってたところに、君が現れた。腹違いの弟っていう、特殊な存在の、君が」

 周りには人がいた。人間も、鬼も、たくさん。でも、誰もが聞こえていないふりをしていた。これは在の、オレたちの話だからと。噂好きなこの町の人々でも、このことはなかったことにしておくのだろう。

「君に認められたら、少しは変われるかもしれないって思った。でも君が認めるのは、同じ部の水無月先輩や、鬼が見える大助君や、料理が得意な亜子さんや、あの屋上を開放した会長で。……僕には見えない、存在のわからない鬼ですら、僕より君に大切にされて。それが悔しくて、僕は君に執着しているのかもしれない。僕には何もないから、君が必要だと思っているんだ」

 認められたら、変われるかも――それは少しわかった。オレは礼陣に来て、ここにいてもいいんだと認められて、世界が変わったから。剣道も、学校生活も、日常を生きることに、誰かに認められているという実感は重要だった。

 オレにとっての主将や、鬼たちや、そういったものが、在にとってはオレだった。面倒で、迷惑で、でも理解できないわけじゃない。自分を兄だと言っておきながら、コイツは少し前までのオレのようなものだった。

「……めんどくせーな」

 たしかに認めたくなかった。在の存在は、オレの不遇の象徴みたいなものだと、ずっと思っていた。だけどここまで言われたら、目を逸らし続けるほうが面倒だ。

「まだ兄だとは認めねーよ。お前、弱いし。情けねーし」

「……たしかにね」

「だけど、一緒に屋上で飯食ってんだ。やたらとかまってくるし、かまってもらいたそうにこっちを見やがる。それで存在を無視するほうが、無理な話だ」

 認めたくないと思った時点で、認めていた。そこに、在がいるということを。

「オレが認めたんだから、変わろうとしてみろよ。変わったものに目を向けろよ」

 だからあとは、コイツが気づくだけだ。何もオレに認められているという確信がなくったって、もっとたくさんのものが周りにあって、在を認めているんだってことに。

「……認めた?」

「ああ、認めてやる。もう一度言うが、兄としてじゃねーからな。広義での身内としてだ」

 家族とも友達とも違う。違うけど、近い。だから全部をまとめたことにして、そういうことにした。

「身内……」

「そうだ、何回も言わせんな」

「そっか、身内か。うん、いいね、身内」

「何回も言うな! こっちが恥ずかしくなる!」

 オレが怒鳴ると、在は笑った。今までの遠慮がちなそれや、無理やり作ったものじゃない。驚くほど素直で、嬉しそうな笑顔だった。

「ありがとう、黒哉。僕を認めてくれて」

 どうしてそんなに、コイツは「認めてほしかった」んだろう。湧いた疑問は口にしないまま、オレたちは別れた。別れの言葉は――。

 

 

 夏祭り当日、僕は不動産屋の事務所で、神輿行列のお囃子や唄を聴いていた。やはり人混みに出ていく気にはなれず、かといってただ家にいるのも落ち着かない。店自体は今日と明日は閉まっているが、事務所だけを祖父に頼んで開けてもらった。

 電気も点けず、ブラインドも閉めて、薄暗くした空間は心地よい。自分の部屋を同じ状態にしてもここまで快適だと思わないのは、やはりあの家が事故物件というやつだからだろうか。

 薄暗い中で目を閉じていると、黒哉の声が頭によみがえる。たった二言、「身内」と「またな」。あの日、僕らは言葉の上だけでも、また会う約束をして別れたのだ。どうせ学校が始まれば会える。会えるけれど、会おうと思って会うのと、なりゆきで会うのとでは、心持が全然違う。

 あれからメールで、夏祭りの黒哉の予定を聞いた。丸二日、アルバイトに費やすらしい。バイト先には来るなよ、と念を押された。でももう、いつかのような拒絶は感じない。

 黒哉が祭りを見ないなら、僕も見なくていい。夏休み明けの話題に遅れることはないだろうから。きっとそこであった出来事は、会長たちが聞かせてくれる。

 そんなことを考えながらぼんやりしていたら、迎え太鼓の音が響いてきた。大神輿が神社に帰ったのだ。神輿行列が終わると、人々は出店へと向かうはずだ。ちょうど時計が正午を告げた。

「……来たはいいけど、昼食のこと考えてなかったな」

 何か持ってくればよかったと後悔しながら、気を紛らわせるためにテレビをつけてみた。ローカルニュースをやっていて、画面の下部に見出しが表示される。

「礼陣町で、今年も夏祭りが開催されました。中継でお送りします」

 中継ということは、今まさに、外に来ているということか。空腹に負けて外出しなくて良かった。僕はそのまま、ニュースを見続けた。

「礼陣町の夏祭りは、今年も賑わいを見せています。この祭りのためのツアーも組まれ、各地から多くの観光客が訪れています」

 人波が映し出される。駅前で撮っているのか、観光客らしい人が多い。地元の人間は神輿行列が終わったら、駅裏商店街にいくものだ。

「礼陣町では今年四月、痛ましい事件が起こっており、容疑者は現在指名手配中です。そのため夏祭りの客足にも影響が出るかもしれないとの危惧がありましたが、ツアーの申し込みは例年を上回り、……」

 中継を一通り聞いて、テレビを消そうとした瞬間、見覚えのある写真が映し出された。町の交番前などにも貼ってあるが、あれはうちで提供したものだ。――殺人事件の容疑者の、手配写真。男の名は、岡林律人。元常田不動産の従業員で、入り婿だった。母と別れる前までは、常田律人と名乗っていた。

 僕の父親で、黒哉の父親。あの男は今、どこで何をしているのだろうか。

「今日この場に戻ってくることは、ないだろうけれど……」

 さっさと捕まってほしい。黒哉や僕たちが、平穏に暮らすために。

 外から大勢の人の声がする。もう少し経ったら神社方面をまわって、駅裏商店街の出店に行こう。そうして昼食を買って、またここに戻ろう。

 

 祭りが終われば、夏休みが終わる。礼陣の夏が、終わっていく。