不審者情報が流れたのは、夏休みも近付くある日のことだった。

前期中間試験もとうに終わり、学生たちは部活動に遊びにと忙しくも楽しい日々を送っている。大人たちや、実際この時期を満喫している当人たちにとってはそうなのだろう。しかし浮足立って油断していると、痛い目を見ることもある。

「最近、夜にこの辺りをうろつく不審な人物が目撃されている。春に事件があったばかりだ、部活動などで帰りが遅くなる者は特に気をつけるように。もちろん先生たちも注意するが、自分の身はできる限り自分で守る努力をしてほしい」

 担任教師がホームルームで言った「事件」とは、当然この春にあった殺人事件だ。つまり、黒哉の母親が殺されたあの出来事のことである。僕は現場に居合わせたわけではないが、そこが当時どれほど凄惨だったかは何度もしつこく聞かされている。

 もしもそれがまた繰り返されるようなことがあったら。――この町の人々が今最も恐れているのは、それだろう。不審者と聞いて僕が、もしかすると他の誰かも考えたのは、あの事件の犯人がまだ町にいるかもしれないということだった。

 

 晴天の屋上には、今日は僕を含めた四人しかいない。本来なら僕が黒哉に弁当を手渡すという目的で設けられたはずの場だが、肝心の黒哉の姿はここにはなかった。なんでも、しばらく弁当はいらないということだ。

 その話を聞いたとき、僕は「とうとう黒哉は僕を必要としなくなったか」と思った。けれどもどうやらそれは間違いで、当分の間だけ彼は自分で昼食を用意しなければならなかったのだと、しつこく尋ねて聞き出した。

 ここ、礼陣高校の剣道部が、高体連の大会で順調に勝ち進んでいることは知っていた。僕には剣道のことはわからないが、水無月先輩をはじめとするレギュラーはかなりの強さを誇っているらしい。そしてその中に、まだ一年生である黒哉が加われる可能性があるというのだ。二、三年生を主軸とした大会出場のメンバーの、万が一の場合の補欠ではあるが、その実力は折り紙付きだということだった。黒哉の他にも控えの一年生はいるらしいが、とにかく黒哉が誰かに必要とされているということが大事な部分だ。

 そういうわけで、黒哉は剣道部主将である水無月先輩とともに昼の稽古をしている。だから屋上にはしばらく来られず、弁当をのんびり食べている暇もないので、自分でおにぎりか何かを用意してきているのだそうだ。僕は単純に、自分が黒哉に嫌われたわけではないということに安心し、同時に黒哉が彼自身の道をしっかりと歩んでいることに少しばかりの寂しさも覚えていた。

「在、今日も全然食べてないね。黒哉と和人さんがいないと、やっぱり物足りないから?」

 亜子さんが僕をからかうように、けれどもやはり心配そうに言う。僕は曖昧に笑って、その場を濁そうとした。けれども簡単にそうさせてくれないのが、この屋上メンバーなのだった。

「和人にとっては最後の、黒哉にとっては初めてになるかもしれない大会だ。俺たちはこうやって、屋上で飯でも食いながら応援してようぜ」

 何度目かになる台詞を言って、大助君は水筒から紙コップに茶を注いだ。それを僕に差し出してくれたので、礼をするとともに受け取る。そう、僕にできることは、今は何もないのだ。黒哉が部活動に打ち込めるのも、大舞台に立てるかもしれないことも、僕は何の関わりもない。これらのことは黒哉自身と水無月先輩によるものだ。

 水無月先輩はいつも黒哉に近い。腹違いといえど兄であるはずの僕よりも、ずっと。だからこそ僕は先輩に嫉妬している。先輩はそれをわかった上で、僕や黒哉と接しているのだ。本当によくできた人なのが、余計に悔しい。

 そのよくできた人の親友であるところの野下生徒会長は、すっかり自分の弁当を食べ終わって、その場に寝転びながら真っ青な空を見上げていた。食べてすぐに寝転がるのはいささか行儀が悪いのだが、会長は何をしてもさまになってしまうので、僕らは注意しない。それは対等な立場にいる水無月先輩の役目であり、彼はここにいなかった。

「応援すべきだし、そうしているつもりなんだけど、会える時間が少ないのはやっぱり寂しいよな。なあ、在」

 会長はそう言って笑った。水無月先輩がいればもっと豪快な笑顔を見せるだろうに、ここ最近はおとなしい。僕が黒哉との貴重な時間を過ごせないように、会長も親友と過ごす時間が減ったことを惜しんでいるのだ。けれども会長の場合は、水無月先輩とは同じクラスで、家同士の行き来もあるというので、昼休みの短時間など些細なものであるはずなのだが。

 なにはともあれ、僕らは普段よりも静かで退屈な昼休みを送っていたのだった。

 そろそろ教室に戻ろうかという頃、会長は「そういえば」と切り出した。

「今朝、各クラスに不審者情報がいってるだろ。お前らも気をつけろよ。亜子はできるだけ大助と一緒に帰るようにするとか」

「それができればいいんだけどね。大助は補習とバイトで忙しいから、毎日は無理かも」

 亜子さんと大助君は、家が向かい同士らしい。朝は大助君が寝坊をするせいで別々に登校してくることが多いが、帰りは頻繁に一緒に帰っているのを見かける。けれども中間試験の後から、その状況も少し変わってしまった。大助君の成績が、良く言っても芳しくなかったので、放課後に補習を受けているのだ。亜子さんと一緒に帰るためには、彼女を待たせなくてはいけない。

 亜子さんにだって都合はある。彼女は部活動に所属していないかわりに、自宅で課題や英会話のレッスンに勤しんでいるという。それに学校は、彼女が一人でいるには少々都合の良くない場所なのだ。あまり長く大助君を待っていることはできない。

「学校から家まで人通りは多いし、一人で帰るのも大丈夫だと思うけど」

「油断は禁物ですよ、亜子さん。不審者はいつどこに現れるかわからないんですから。人通りが多くても、もし無差別に刃物を振り回すような人だったら……」

「在の言う通りだな。この町も平和とは言い難くなったし、やっぱり一人歩きは避けたほうが良い」

 僕や会長が亜子さんを心配するのは、彼女がこのグループの紅一点だからというだけではない。脳裏に例の殺人事件のことがよぎるからだ。話題としては落ち着いてきたとはいえ、殺されたのが女性であり、まだ犯人が捕まっていない以上は、不用意な行動はさせられないのだ。だから僕は、提案した。

「大助君が忙しいなら、僕が亜子さんと一緒に帰りますよ。方向は一緒ですし、今は生徒会で重要な仕事があるわけでもありませんから」

 そのとき亜子さんは、そして大助君と会長まで、目を丸くして僕を見ていた。驚いたのは僕がこんなことを言いだしたのが珍しいからだったのか、そもそも帰り道の方向が同じことを知らなかったからなのか、そのときはわからなかった。

 

 放課後、亜子さんは生徒会の仕事を少しばかり手伝ってくれることがある。役員ではないので多くのことを任せることはできないが、それでもしっかりやってくれる。彼女が頼まれごとに手を抜くことは一切ない。今日もてきぱきと書類をまとめ、さらには、部活が忙しくて生徒会室に顔を出せない水無月先輩の代わりに、地味な事務作業が苦手な会長の尻を叩いてもいた。もちろん、物理的にそうしたわけではないのだけれど。

 大助君の補習が終わるまでの時間潰しになるかと思ったが、亜子さんの手際が良すぎたのか、はたまた補習に時間がかかっているのか、仕事が終わっても待ち人が現れる様子はなかった。

「やっぱり、大助の奴は来ないか。テスト、どれだけ悪かったんだ、あいつ……。亜子、在と一緒に帰っていいぞ。あまり遅くなると親御さんも心配するだろ」

 会長が笑顔で手を振る。亜子さんは苦笑しながら「親も帰りが遅いんだけど」と呟いて、帰り支度を始める。僕も自分の鞄を持ち、会長に頭を下げた。

「それでは、お先に失礼します。……会長は、いつ帰るんですか」

「俺? 和人の部活が終わるまで待とうかな。あんまり暇だったら、書道部にでも顔出して、一筆書かせてもらってくる」

 軽い調子でこう言うが、実際のところ、まだ仕事が残っているのだ。ほんの少しで、会長一人でもできることだから、僕らには任せないだけだ。しかし書道部に行くというのも嘘ではないだろう。豪快な性格と見た目に似合わず、書道を嗜むらしい会長は、部の顧問からも一目置かれているのだ。本人の話によると「じいちゃんが字の上手い奴はモテるって言うから始めた」らしいが、彼の力強く美しい字は、入学式や高体連の壮行会などに使われる、紙製の横断幕を作ることもできる、非常に魅力的なものだった。

「書道部で何か書いたら、あとで見せてね。わたし、流さんの字、好きだから」

「美人に好きって言ってもらえると、調子に乗って何枚でも書いてきそうだな。まあ、それはおいおいってことで、とりあえず帰れ。いいか、変な奴がいたら即行で逃げろよ。在もだぞ」

「わかってます。亜子さんを危険な目にはあわせません」

 行きましょうか、と言うと、亜子さんは頷いてついてきてくれた。最後にもう一度会長に手を振って、生徒会室の戸を閉めていた。

 生徒会室は特別教室棟にあり、そこから玄関まで行くには、普通教室棟まで行かなければならない。その道すがら、亜子さんはずっと僕の数歩後ろを歩いていた。廊下だから横に広がって歩くのは、他の生徒が来たときに迷惑になる。そんな当たり前のことはわかっているのだが、僕は亜子さんにばれないよう、軽く溜息を吐いた。――きっと僕が大助君なら、もっと近くに寄ってくれたのだろうなと思う。彼女は大助君のことが好きなのだから。それに、彼女はたしか。

「亜子さん、僕より足が速いですよね。先に行ってもいいんですよ」

 僕が先を促すと、亜子さんは目を丸くして立ち止まった。それから首を傾げて、ううむ、と唸った。目を閉じて、何かを考えている。人によってはわざとらしく見える仕草も、彼女だと何故か不自然には見えなかった。

「在。わたし、ずっと不思議に思ってたんだけど。在って結構わたしのこと知ってるよね。家の方向が同じだとか、足が、まあ、それなりに速いほうだってこととか。たしかにこれくらいの情報なら、クラスメイトとして知っていてもおかしくはないかもしれないけれど、在だときちんとした理由があるような気がする」

 そうでなくちゃ、女子と一緒に帰るなんて言い出さないでしょう。と、亜子さんは、僕の図星を的確についてきた。彼女は人をよく観察していて、時々こうして鋭いことを言うのだが、あと一歩のところにはなかなか踏み込んでこない。そうしようとしているのか、あるいは、本当に気がついていないのか。僕にもまた、彼女を読み切れないところがあった。

「理由なら、ありますよ」

 もしかしたら、最後の一言は本人の口から聞き出したいのかもしれない。本当のところは全部わかった上で、白状させたいのかも。彼女は賢いから。僕が見てきた限り、ずっとずっと、賢くて強くて、きれいな人だったから。

 僕が自分の持っている「理由」を口にする前に、どこかから声が聞こえてきた。くすくすという笑い声の中に、嘲りのようなものが混じっている。

「あれ、皆倉、今日は一力君と一緒じゃないんだ」

「男何人ひっかけてんの、あいつ。たしか会長とかもたぶらかしてたよね」

 そんな頭の悪そうな会話の中で、よくも「たぶらかす」なんて言葉が使えたものだ。僕はそのひそひそとした、けれども明らかに彼女に敵意を向けていることを示す台詞に、そんな感想を抱いた。けれどもそれを口には出さず、そっと亜子さんの表情を覗き見る。彼女は、さっきとまるで変わらなかった。こんなことはいつものことだ、とでもいうように、誹謗を込めた噂話を聞き流していた。

「……外に出たら、理由を教えますよ」

 だから僕も聞き流すことにする。さっきの話はなかったものとして、頭から消し去る。

「うん、わかった。さてさて、在からどんな話が聞けるのやら」

 気にしないどころか、おどけた口調で、笑みさえ浮かべて、亜子さんはまた歩き出す。だから僕も進むことにした。亜子さんのほうが先に足を動かし始めたにもかかわらず、やはり彼女は僕の数歩後ろを歩いている。僕は頭の中に、「大和撫子」という言葉を思い浮かべた。古くからいわれている、日本女性の理想の姿。亜子さんは天然の金髪と、少々日本人らしくない顔立ちが目立つが、その言葉はしっくりくるような気がした。

 昇降口を出て、校門を抜ける。そこはもう学校ではなく、礼陣の町の中だ。学校も町の一部であることには変わりないのだけれど、やはりそこには独特のコミュニティーが形成されている。先生と生徒の関わり、生徒同士の関わり、先生同士の関わり。誰もが単なる他人ではいられないような、狭い社会ができあがっている。だからこそ良い出会いもあれば、嫌な噂が広がりやすくもある。先ほど、亜子さんに心無い言葉が向けられたように。

「亜子さんからの問いに答える前に、僕が質問してもいいですか?」

「うん、どうぞ」

「亜子さんは、自分の行動をいちいち悪意の目で見られて、平気なんですか? 僕なんかは、ちょっとマスコミに追いかけられただけでうんざりしていたのに」

 誹謗中傷を、いわれのない憶測を、卑怯な形でぶつけられてもまっすぐ立っていられるのは何故なのか。僕の失礼な疑問にも、亜子さんは笑みを崩さないまま答えた。

「マスコミはまた別でしょう。あの件は、うんざりしても仕方なかったよ。きっとわたしが在の立場でも嫌になってた。……でもさ、あの子たちは違うでしょう。仲良くしていくために、共通の話題が欲しいだけ。いちいち気にしてたら、余計に疲れるだけだもの。それならわたしは自分のやりたいようにやって、楽に生きていったほうが良い」

 たぶらかしてるつもりなんかないしね、と彼女たちの言葉を繰り返すのだから、全く気にしていないわけではないのだろう。ただ亜子さんは、それに怖気づくことなく、自然なままでいたいだけなのだ。そうしていたら、たまたま男子の友人が多くなった。それだけのことだ。彼女にとっては、そうなのだ。

「それで、在の答えは? わたしが答えたんだから、そっちも話せるだけ話してよね」

「ああ、そうですね」

 そして他人には求めすぎない。問いかけはするが、完全な回答を欲しがっているわけではない。相手が話せるだけのことを、ただ聴くだけ。先ほどの女子生徒たちも、亜子さんと友人になれれば、もっと楽で明るい話ができるかもしれないのに。

「僕がどうして亜子さんのことをよく知っているか、でしたね。そもそも亜子さんは、僕が同じ中学に通っていたことを知っていますか?」

「遠川中? そうなの?」

 やっぱり知らなかったか、とわずかな落胆を覚える。亜子さんとよく話すようになったのは、同じクラスになった今年からだ。僕が生徒会役員で、亜子さんと大助君が会長たちと一年生のときから仲が良く、時折生徒会の仕事を手伝っていたということから、春に「同じクラスだね」と話しかけてきてくれたのだ。

 それからずっと、中学時代の話はしてこなかった。なにしろ生徒会の話さえしていれば、話題には事欠かなかったのだ。会長が学校の、広くは町の名物ともいえる人物であり、水無月先輩も評判の良い人だったため、それこそいくら語っても語り切れないほどのエピソードがある。僕らの会話の内容は、もっぱら生徒会やその周辺のことだった。事件以降は、そのことばかりだ。亜子さんと大助君はしきりに僕の心配をしてくれていた。黒哉が加わってからは、そちらにかまうことが多くなった。

 だから、中学時代の話をするのはこれが初めてだ。僕は亜子さんと同じ遠川中学校の生徒であり、彼女をずっと見てきた一人だった。

「中学の時は一度も同じクラスにならなかったから、わからなかったかもしれませんね。僕は地味な生徒で、今みたいに生徒会役員をやっているわけでもなかった」

「良い意味で、大助やわたしとは反対だったってことか。悪目立ちしない、優等生だったんだね、きっと」

亜子さんは、中学の時より少し大人びた笑みを浮かべた。彼女は当時から、その容姿もさながら、成績も優秀で、とにかく人目をひいた。だからこそ、いじめにもあったのだろうが。

僕はそれを傍観しているだけだった。それでもかまわなかったのだ。なにしろ彼女の傍には、その頃から、いや、それ以前から、大助君がいたのだから。

「そっか、在から見たら、わたしたちは目立ってただろうね。中学の学区が同じだから、家が同じ方向なのも当然といえば当然のこと。わたしの足が速いって知ったのは、運動会あたりかな?」

「その通りです。徒競走で、亜子さんはいつも一位だった。でも選抜リレーには一度も出ていないのが不思議でした」

「仕方ないよ。リレーはバトンが繋げないとできないからね」

 遠巻きにされていた彼女では、バトンを受け取ることも、次の人に渡すこともできなかった。それが許されなかったのだ。誰よりも速く走れることは、皆が知っていたはずなのに。僕は不本意にも納得せざるを得なかった。

「大助が推薦してくれたこともあったんだけど、中学では、結局一度もリレーには出られなかったな。去年の体育祭で、初めて選手になって、バトンを繋いだの」

「それで、亜子さんたちのクラスが勝ちましたね。やっぱり亜子さんはすごい」

「リレーはわたし一人の力じゃないよ」

 けれども、そう語る亜子さんは嬉しそうだった。本当は、速く走れることが誇らしくて、好きなのだろう。でもそれが生かせそうな運動部には所属していない。部活自体やっていない。それはやはり、中学の頃にバトンを渡してもらえなかったのと同じ理由があるのだ。目立ってしまうから、そのことでまた誹謗されるから、部活には入らない。家に帰って、一人でもできる勉強をしている。

「……勉強もできたのに、社台高校や北市女学院に行かなかったのは、どうしてですか?」

 亜子さんは足が速いだけではない。勉強だって、人並み以上にできる。礼陣高校よりもレベルの高い学校に行ったって、おかしくはなかった。正直なことをいえば、彼女が町のトップ校である社台高校に進めば、僕だってそうするつもりだったのだ。それだけの学力は、僕にもあった。

 尋ねてはみたが、この質問の答えは、とうに予想がついていた。彼女の基準はいつだって、傍にいてくれる彼なのだ。

「礼陣じゃないと、大助と一緒にいられないでしょう。あいつ、わたしが見てないと何しでかすかわからないから。遠川高校だと、また中学の時みたいに喧嘩ばっかりの毎日になっちゃってたかもしれないし。南原高校だと、間口が広くないから入れる確証がなかった。礼陣高校なら、倍率はそれなりに高いけど、間口が広いし校風が自由だし、なにより大助のことを見張る瀬川先生とよりちゃん先生がいるからね。頑張れば、一緒に通えるんじゃないかって思ったんだ」

 だから二人で礼陣高校を目指し、入学したのだ。亜子さんはいつだって、大助君に合わせて、自分の行く方向を決めている。僕にはそれを咎める資格はない。僕だって、亜子さんが礼陣高校に行くということを知ったから、進路をそちらに変えたのだ。教師に説得されても、その考えを改めようとは思わなかった。

 僕は亜子さんが好きだった。好きだけど、彼女には大助君がいて、この想いは絶対に叶わないと知っていた。だから、せめて近くにいたいと思った。それは今、叶っている。こうして帰路をともにしている。大助君を、このひとときだけでも出し抜けている。――いや、彼女が大助君の話をしている時点で、出し抜けてなんかいないのか。

「在は? 今、学年トップってことは、中学のときも成績良かったんでしょう。どうして社台に行かなかったの?」

「……やりたいことが特になかったからですよ。だから、間口が広くて、その先の選択の幅がある、礼陣高校に行くのが妥当だと思ったんです」

 嘘ではない。これも理由の一つだった。社台高校に行って勉強一辺倒の生活をするよりは、礼陣高校に行ったほうが刺激があるかもしれない。実際、それは現実のものとなった。腹違いの弟と出会うという、複雑な形で。

 亜子さんは、ふうん、と相槌を打って、一瞬だけ訝しげに僕を見た。鋭い彼女のことだ。理由がそれだけではないということを、見抜いていたのかもしれない。けれども僕が話さないのなら、それ以上を問うことはない。代わりにお喋りを続けた。

「まあ、わたしもさ。やりたいことは特に見つからなかったよ。だから礼高を選んだっていうのは、在と同じかも。でも今思えば、他の選択をしていても、それなりにやることは見つかったかもしれない。北市女には唯一の女友達がいるし……あ、流さんの妹なんだけどね。南高にいけば商業科があるから、大助と一緒にこっちを選んでいれば、あいつがこの先就職するのに有利になったかもしれない」

「大助君、卒業したら就職するんですか」

「そのつもりみたい。多分、お兄さんとお姉さんに早く恩返しがしたいんだと思う。あいつの家、兄弟三人暮らしだから」

 結局、亜子さんと別れるまで、大助君の名前が話題からなくなることはなかった。僕の勝ち目なんか、どこをどう探しても見つからなかった。だから僕は、この気持ちを彼女に伝えず、隠していくことに決めたのだった。

 とりあえず、不審者とやらが出没しなかったことに、安心しておこう。それだけが、今の僕にできることだった。

 

 

 昼休みの稽古は、放課後にバイトがあって部活に参加できないオレのために、水無月主将が設定してくれたものだった。自分も毎日の稽古と生徒会、受験勉強に実家の店の手伝いと、倒れてもおかしくないくらいに忙しいはずなのに、わざわざスケジュールを組んでくれた。

「黒哉はもともと実力があるから、この昼稽古だけでもレギュラーに引けは取らないはず。万が一僕らの誰かが欠けたときも、しっかりカバーしてくれるって信じてるから」

 半ば励まし、半ば威圧のような言葉をくれながら、主将はオレの相手をする。オレの力をこれほどまでに認めてくれたのは、この人が初めてかもしれない。世の中には、実力を持っていると知りながらもそこから目を背け、わざと相手にしないような人間もいるのだから。そんな中、この人は、この学校は、オレにとって貴重なものだった。

「よろしくお願いします」

 過去の色々なことと、今の気持ちがないまぜになっている。それらを全部まとめて、深い礼とともに、この一言に託した。顔をあげて主将の表情を見ると、穏やかでいて嬉しさを抑えきれないような、不思議な笑みを浮かべていた。

「ああ、でも、バイトの時間に余裕があるときは、できるだけ皆と部活をやってほしいな。剣道はその場に立てば一対一だけど、団体戦は結局バランスを考えなくちゃいけないから。他の人がどれだけできるか、黒哉も見ておいた方がいいと思うし」

 しばし稽古をした後、主将は時計を見ながらそう言った。これまでオレがバイトを口実に可能な限り避けてきた、他の部員との関わり。それをきちんとすべきだと、この人は言っているのだった。それは礼陣高校剣道部主将としての考えなのか、それとも先輩水無月和人としての思惑なのか。きっと両方だろうと思う。主将はオレがより多くの他人とコミュニケーションをとることを勧めているのだ。

 いくつも掛け持ちしているバイト先で、オレはこの町のたくさんの人間と知り合った。同時に、この町特有の謎の存在「鬼」とも、交流することが多くなった。見た目が五歳くらいのちびっこ鬼「子鬼」をはじめとする、たくさんの異形の者たちを、オレは以前より随分と自然に見られるようになっていた。今では近くにいようと通りがかりに声をかけられようと、動揺せずにいられる。鬼に関しては先輩だと認めている大助からも情報を得て、鬼のいる暮らしにはもう慣れたといっていい。

 ただ、バイト先の人たちは親身になってくれこそするが「職場の関係」だったり、「店員と客の関係」だったりと、店というクッションをあいだにおいての付き合いになる。鬼はどうやら見える人間が限られているようなので、同じ境遇の人間としか感覚を分かち合えない。……主将によるとどうやら同じ部の進道海も鬼が見えるらしいが、アイツと同じ感覚を共有できたところできっとうんざりするだけなので、話はしたくない。相変わらずアイツとだけは、顔を合わせれば悪態しか浮かんでこないという関係が続いていた。

 とにかく、オレの「交友関係」というものはいまだに狭かった。クラスの奴らとは少しずつ話すようにはなってきたが、せいぜい事務連絡程度だ。一緒に騒いで軽口と背中を叩きあい、なんてことにはなっていない。ほとんど出ていない部活でも、そんな関係の人間は主将くらいだ。……海は数に入れたくない。

 ごく一般的にいわれる「交友」なんてものができる人間は、昼休みに屋上に集まるメンバーくらいなものだ。三年の生徒会長、野下流。剣道部主将水無月和人。二年の一力大助と、皆倉亜子。それから、常田在。在は友人ではなく、認めたくはないが腹違いの兄というやつなので、「交友」の数には入らないと思うが。

 とにかくまだオレの世界というものは狭く、広げようにもきっかけがなかなか掴めない。そこを手伝おうとしてくれるのが、主に水無月主将だ。この人によると、オレはもっと広い人間関係をつくっていかなければ、生きていくのが難しいかもしれないらしい。正確には、多くの人が生活に関わっていることを意識して相手に接しろ、ということだったか。身寄りのないオレが学校に通いながら独り暮らしをしていくには、そういうことが必要なのだそうだ。

「黒哉、今度部活に来られそうなのって、いつ?」

「……明日はちょうど何のバイトも入っていないので、行けるかと」

「あ、珍しいね。じゃあ最初から最後までみっちり参加しようか。大会目前の道場の空気を、しっかりと感じてよ」

 部活の奴らは、全然参加していないオレを遠巻きにするかもしれない。いきなり来て補欠なんてどういうことだと、不満も持っているかもしれない。いや、確実に持っているだろう。その中でオレがうまくやれるかどうか、周囲がオレに不満をぶつけたりしないかどうか、主将は見たいのだ。多分。

「主将。もしオレが明日、うまくやれなかったら、どうするつもりなんですか」

 教室に戻るために、汗を拭いて着替えをしながら、訊いてみた。すると主将はせっけんの香りの制汗スプレーをこっちに差し出しながら、「大丈夫」と微笑んだ。

「だいたい、その『うまく』って何? 当たり障りなく、よそよそしい態度で接すれば、それはうまくいったことになるの? それは違うって、黒哉自身が思ってるでしょう。僕はちょっとぐらい摩擦があったほうが、人間関係は『うまく』いくんじゃないかなって思うんだけど」

「……つまり、当たって砕けろと?」

「まあ、何にせよ海が黙ってないと思うけどね。そうしたら黒哉は絶対に応えるでしょう」

「またアイツかよ……」

 主将はオレたちのことを、面白がってはいないだろうか。多分、いや、確実にそうだろう。そうでなければ、こんなに楽しそうなはずがない。

 ともかく、それは明日の話だ。今日は放課後になったら、すぐにバイトに行かなくてはならない。駅前のコンビニでのシフトが入っている。六時限目の授業のあと、ショートホームルームが終わってから、急いで職場へと向かう。

このコンビニの店長はオレの境遇を理解したうえで雇うことを即決し、何かと世話を焼いてくれる良い人だ。それに報いるように、愛想笑いを浮かべて仕事をしている。学校ではしないような表情なので、クラスメイトが仕事中に来ると驚かれる。それにももう慣れた。ついでに、鬼がやってきては店内をうろつき、何もしないで去って行くのを見るのにも慣れた。礼陣に来て数か月、ここの常識にもついていけるようになっている。

そんな話を昼休みにすると――ここ最近は主将との稽古でしていないが――在は複雑そうな表情をする。どうしてそんな変な顔をするんだと訊いてみたいが、それもなんだかおかしい気がして、いまだに真意を確かめられていない。だいたい、オレ自身はそのことをどう感じたらいいのか、それもよくわからないのだ。

在を兄だとは思えない。母親を殺したであろう男の血で繋がっている奴を、兄弟だとは思いたくない。だが、事実として受け入れられるようにはなってきた。そうなってしまったのだから、仕方がないと。アイツが兄ぶるのは気に食わないが、そうしたがるのは仕方がない。アイツの母親が、オレに弁当を作り続けるのと同じだ。ありもしない責任をとりたがっているのだ。きっと、そうなんだ。

「その気持ちを、受け入れる余裕ができたのか……」

「ん、何が?」

 無意識に呟いたところを、同じ時間帯にバイトに入っている大学生に聞かれていて、オレはそっけなく振る舞ってごまかした。

 

 バイトが終わって家に帰ると、ドアの前に小さな影が見えた。子供のようなシルエットには、二本の小さなつのが頭から生えている。よくオレに絡んでくる子鬼は、こうして頻繁にうちを訪れるようになっていた。

『黒哉、おかえり。今日も忙しかったか?』

「ああ、それなりに」

 初めのうちは、突然家にまでやってきて何なんだと思った。だが、何度も続くうちに、まあいいかと思うようになっていた。コイツはやたら人懐っこく、邪険にするのも憚られるのだ。しかも。

『で、今日の夕飯は何なんだ?』

「昨日作ったカレーを解凍して、カレーうどんにする。その白い着物、汚れないのか?」

『私は鬼だからな、カレー染みなどつかぬ! 黒哉の作る飯は美味いから、毎日楽しみだ』

 この子鬼は、いつもうちで夕飯を食べていくようになった。人の食べるものをもの欲しそうにじろじろ見ているので食わせてやったら、予想以上に良い反応をしてくれたのだ。鬼の声は通常、人間には聞こえないらしいから騒音にはならなかったが、『美味い美味い』と叫びながら跳ねまわり、『もうちょっと食わせてくれ』と目を輝かせて頼んできた。正直、悪くないと思った。

 その時思い出したのは、初めて自炊をした日に、母親に褒められたことだった。大袈裟なくらい喜んで、「美味しい」を連呼しながら食べてくれたことが、懐かしくなってしまった。以来、子鬼が夜にやってきたら、夕飯をともにするようになったのだった。

 昼休みにも思ったことだが、食事は誰かと一緒にとったほうが美味く感じる。在と二人きりだったときは気まずくて、話すこともなくて、そんなことを考える余裕はなかった。だが、学校の屋上に来る人間が増えて賑やかになってからは、こんなのも悪くないと思えるようになった。素直に言うのは癪だが、楽しかったのだ。

「ほら、できた。火傷するなよ」

『うむ、いただきます。……ほう、昨日のカレーとは味がちょっと違うぞ! カレーうどんというからにはどれだけどろっとしたものが出てくるのかと思ったが、そうでもないのだな。実に美味い!』

「なんだ、カレーうどん食べたことなかったのか。めんつゆ入れてあっさりめにしてあるから、そんなにどろどろしてないぞ。少なくとも、うちのはな」

 誰かが食べてくれると、それだけ作り甲斐もある。自分一人のために用意するよりは、他の人を意識して作るほうが、うまくできる気がする。その感覚を取り戻させてくれたのは、この子鬼だった。

そしてそれを意識することで、在の母親が作ってくれていた弁当にも、思いを馳せるようになった。そうして導き出したのが「責任」という答えだったけれど、はたしてそれだけなのだろうか。あの人はオレに、何を思いながら、毎日弁当を作っていたのだろう。今は昼休みの稽古のために弁当を断っているから、余計に考えてしまう。

『黒哉、どうした? うどんがのびるぞ』

「ああ……そうだな、さっさと食って片付けて、宿題やらないと……」

 オレと子鬼はカレーうどんを汁まで一気にかきこみ、同時に「ごちそうさま」と言った。

 食器を片付けながら、ふと明日のことを思う。明日は部活に参加しなければならないから、昼稽古はしないと主将が言っていたことを、すっかり忘れていた。だから明日は久しぶりに、みんなでお昼ご飯を食べようね。主将はそう、嬉しそうに言ったのだ。

「弁当……いや、こっちからは頼めないな」

 以前あれだけ在の母親の弁当を拒否しておいて、こんなときに弁当を作ってほしいというのは、いくらなんでも虫が良すぎる。かといって昼稽古の日と同じように握り飯だけを持って行くと、きっと在が「言ってくれればよかったのに」などとうるさい。ならば、黙らせてやる。一分の隙も見せない、完璧な弁当を用意していけば、何も文句はないだろう。

「子鬼、これから用事あるか?」

『む? 私はいつでも暇だぞ』

「そうか。なら、ちょっと付き合え」

 幸い味見役もいる。快く引き受けてくれそうなのが、一人。鬼は本来ものを食べなくてよく、逆にいくら食べても満腹にならないらしいから、ちょうどいいだろう。

 宿題は間に合わなければ、明日の朝にでもやればいい。

 

 翌日の昼休み、久しぶりに来た屋上は風が心地よく、いつもよりも気分が良かった。だから背後から聞こえた声にも、振り返ってちゃんと返事をしてやった。

「黒哉! どうしたの、剣道は?」

「ああ、今日は部活出るから、昼稽古はなし」

 ここにいるなんて知らなかった、というような在の顔が、今日はなんだか見ていて面白い。まともに返事をしたのが珍しかったからか、目を飛び出しそうなくらいに開いて驚いているのも見ものだ。

 在の後ろから、追いかけるようにして大助と亜子がやってきた。こちらもオレを見て声をあげ、けれども在のように呆然とはせずに手を振りながらこっちへやってきた。

「よう、黒哉。なんか久しぶりだな」

「ちょっと見ないうちに、逞しくなった? なんてね」

 コイツらにしてみれば、ちょっとのあいだ顔を見ていなかった、程度の認識なんだろう。だが、在にとってはそうではないらしい。案の定、我に返ったように自分の手元を見て、おろおろしだした。

「黒哉が来るなんて聞いてないよ……言ってくれれば、お弁当用意してきたのに。お昼どうするの?」

 在の手には弁当箱が一つ。当然オレの分はない。しまいには「水無月先輩もどうして黙ってるかな」などと別方向へ矛先を向け始めたので、オレは戸惑っているヤツの目の前に、自分で持ってきたタッパーを突き出してやった。

「弁当ならある。お前の母親に頼まなくても、自分で用意できるんだよ」

「……え、これ、黒哉が自分で?」

 またぽかんとした在の顔の前からタッパーを除けてやると、ちょうど三年生二人がやってきた。にこにこしている主将の横で、流が苦笑しているのは、在と同じように突然昼稽古を休みにしたことを伝えられたからかもしれない。とにかく、屋上に、久しぶりに六人が揃った。

 作ってきた弁当――タッパーに飯と昨夜作ったおかずを詰めただけのもの――を広げてみせると、予想以上に感心された。特に亜子の反応が良く、子鬼とよく似た表情で弁当とオレの顔を交互に見ながら言った。

「黒哉、すごいね! 出来合いの冷凍食品らしきものが一つもないのに、こんなに美味しそうなの作ってくるなんて、やるじゃん!」

「肉団子ときんぴらは亜子に教わったヤツだ。浅漬けはうちに常備してるもの。味は子鬼にもみてもらったから、多分問題ない」

「子鬼ちゃんに味見してもらったの? うわあ、羨ましい!」

 そういう亜子の弁当も、相変わらず鮮やかで美味そうだった。それなのにオレの作った弁当を褒めまくられると、だんだん恥ずかしくなってくる。

「そっか、黒哉、自分で作るんだ……。そうだね、自炊してるんだものね。これくらいはできるよね……」

 そして在は、また複雑そうな表情を浮かべている。人がせっかく作ってきたものをそんな目で見るな。せっかく機嫌が良かったのに、コイツのせいで少しばかり損ねてしまった。それをすぐに察したのか、主将が在の背中を軽く叩く。

「在、そうじゃないだろう。弟がせっかくお弁当作ってきたんだから、こういうときは何て言うの?」

 主将の言葉に、在は一瞬眉を顰めた。だがすぐに笑顔を作って、「そうですね」と言った。

「自分で作ってくるなんて、偉いよ。さすが黒哉だ」

 それから、まるで子供を褒めるみたいに、そんなことを言った。

「ガキ扱いするんじゃねえよ、気持ち悪い」

「そんなつもりなかったんだけど……。でも、うん。美味しそうだ。ちょっともらってもいい?」

「誰がやるか」

 抵抗してみたものの、結局オレの弁当はその場にいる全員に箸をつけられてしまった。その代わり、オレも他の奴の弁当を分けてもらったのだが。オレの弁当はべた褒めされ、顔が熱くなった。夏だからだとごまかしても、「はいはい」と流される。オレはすっかり、「料理が上手にできた子供」のような扱いだった。

「どうせ取られるんなら、もう二度と作らねえからな……」

 タッパーの蓋を閉めながらオレが呟くと、在が小さく笑った。そして、「今度お弁当が必要な時は連絡してよ」と言った。

 昼食の後は、たわいもない会話が始まる。話題は主に、最近ここにいなかったオレと主将のことだった。どんな練習をしていたのか、オレの剣道の腕はどうか、大会で勝ち進む自信はあるか。オレは「ああ」とか「まあ」とか、相槌のような返事しかしなかったが、主将はその一つ一つに答えていた。

 ふと話が途絶えたとき、「そういえば」と話題を変えたのは、大助だった。

「鬼に弁当味見させるとか、あいつらともかなりうまくやってるんだな」

「子鬼が毎日家の前で待ってるんだよ。うちで夕飯食ってくぞ」

「よっぽど気にいられてるんだな。子鬼って、おかっぱのチビだろ。ああ見えて礼陣の鬼の中ではかなり位が高いから、そのうち良いことあるぜ。……そうだ、鬼に慣れたなら、一度頼子さんと話してみねえか?」

 大助が軽くその名を呼ぶ人物のことを、オレは何度か聞いていた。この学校の社会科教師、平野頼子のことだ。なんでも、礼陣の歴史や文化をいたく気に入って研究している、マニアだということだったが。

「頼子さんさ、研究仲間が欲しいらしいんだ。黒哉は歴史とか文化の話が好きだろ。頼子さんのすっげえマニアックな話にもついていけるんじゃないかと、俺は踏んでるんだが」

 たしかにオレは、そのての話は嫌いじゃない。むしろ興味を持って聞けるし、話もしてみたい。だが、それができるタイミングというものが見つからなかった。休み時間に話しかけるほどの余裕はなかったし、昼休みは屋上か道場、放課後はアルバイトに忙しい。平野先生が研究しているという内容は気になっていたが、それに触れる機会はこれまでに訪れなかった。

 平野先生の婚約者の弟であるという大助が設定してくれなければ、その機会は訪れないか、もっと先になっていただろう。

「研究っていったって、オレは礼陣のことをまだよく知らないぞ」

「だから良いんだよ。俺は鬼を見ることができるけど、歴史や文化なんてものは話をされても眠くなる。それはこの町のことなら一通り知ってるからだ。その点、お前はまだこの町に詳しくないけど、興味は持っている。さらに鬼のことまで話せる。頼子さんの話し相手にはぴったりだ」

「でも、いつ話なんかすればいいんだ」

 オレが話に食いつくと、大助はにいっと笑った。まるでとっておきの噂話でもするかのように、……そうだ、都市伝説や怪談なんかを話すように、こう言った。

「黒哉にとって都合のいいタイミングで、特別教室棟の社会科準備室に行けばいい。そこに頼子さんはいる」

 そこでちょうど、昼休みが終わる予鈴が鳴った。急いで教室に戻らなければ、授業が始まってしまう。オレたちは手早く自分の荷物をまとめて、屋上を離れた。

 教室に戻ろうとするあいだ、オレの頭の中には大助の言葉が繰り返し流れていた。――オレに都合のいいタイミングで、社会科準備室に。そうするだけで、確実に平野先生から話を聞くことができるのだ。でも、いつ行こう。そんな時間が、オレにあるだろうか。

 少なくとも今日は、部活に行かなければならない。そう主将と約束したのだから。

 

 予想はしていたが、やはり部活に顔を出すだけで注目を浴びた。普段は参加せず、主将から特別に手ほどきを受けているものだから、人が大勢いる道場で一緒に部活動をするということは少ない。自分が見世物になっているような感じを覚えながら、オレは道着に着替えていた。

「げ、日暮黒哉。今日は部活出るのかよ」

 真っ先に声をかけてきたのは、案の定、オレに何の遠慮もない進道海だった。あからさまに嫌そうな顔をするコイツを、オレは思い切り睨みつけてやる。

「そうだよ、悪いか」

「いや。むしろ部活にちゃんと参加してくれないと、和人さんの負担が増えるし、俺はお前との決着をつけられない」

 海は主将を慕っている。だから、主将から特別な扱いを受けているオレのことが気に入らないのだ。おまけにコイツの剣道の実力は、オレと互角ときている。これまでも何度か対戦したが、はっきりと勝負がついたことはなかった。

 互いに睨み合っていると、周りがざわめいた。黙ってオレを見ているだけだった奴らが、一斉に会話を始めたのだ。「まだ決着ついてなかったんだ」「海も強いけど、日暮も相当だよな」といった声が、笑いも交えながら聞こえてくる。オレが来たことによって張りつめた空気が、海との接触によって解されたようだ。認めるのは悔しいが、海は剣道部で一定の信頼を得ている。町の道場の息子だからという理由もあるのだろうが、誰に対しても遠慮がないのも、その要因なんだろう。

 つまり、オレは海に救われたということになる。これっぽっちも認めたくはないが、そういうことになってしまうのだ。

「あ、黒哉。約束通りちゃんと来たね」

 少し遅れて、主将がやってきた。オレは軽く会釈し、海は主将に跳びつかんばかりの勢いで駆け寄っていく。犬か何かか、コイツは。

「和人さん! 黒哉と約束ってどういうことですか?」

「今日はバイトがないっていうから、部活に最後まで参加してもらおうと思って。皆と一緒じゃないとわからないこともあるだろうし。……それにね、今日の活動は特別だから」

 主将は機嫌が良さそうだった。鼻歌まじりに素早く着替えを済ませ、すぐに更衣室を出ていくと、部員に集合をかける。男子にしては高い声だが、「整列!」の一言はよく響いた。女子も加わり、礼陣高校剣道部の面々が揃う。オレがいて、他に休みはいないそうだから、久しぶりに部員全員が集まったことになる。

 そして主将の傍には、オレの知らない顔もあった。顧問と並んで立っている、一見ひょろりとした、眼鏡の男。雰囲気がどことなく、オレ以外の奴と話しているときの海に似ている。

「今日の稽古には、心道館道場の進道はじめ先生が来てくださっている。疑問に思うことがあったら、何でも質問していいとのことだから、どんどん話しかけてね」

 印象が海っぽいと思ったら、そういうことか。進道というからには、この眼鏡の男は、海の身内なのだ。穏やかに微笑むその表情は、どちらかといえば主将寄りだが。主将に促され、はじめ先生は小さく咳払いをしてから話し始めた。

「えー……こんにちは。久しぶりに見る顔も多いね。本日は水無月君に招いてもらって、皆さんの稽古を見に来ることができました。僕にできることがあったら協力するから、どうぞよろしくお願いします」

「よろしくお願いします!」

 こちらも声を揃え、一礼する。もともとこの町に住んでいる人間にとっては、この人は顔見知りだ。高校に入る前から剣道をやっていたのなら、ずっと世話になっていただろう。その先生がここに来ているということがよほど嬉しいのか、誰もが目を輝かせているようにみえる。それほどまでに良い先生なのだろうか。

 稽古が始まってからしばらくして、先生は主将と一緒に、オレに近づいてきた。ついでに、海も目敏くそれを見つけて、こっちへやってくる。お前は来るなよ。

「黒哉、こちらは進道はじめ先生。この町の剣道場、心道館の師範で、僕らが中学までお世話になってた人だよ」

「初めまして、黒哉君。進道はじめです。皆は気軽にはじめ先生って呼んでくれるから、黒哉君もそうしてくれると嬉しいな」

 主将が改めて紹介すると、はじめ先生はそう言って、手をオレに差し出した。

「よろしくお願いします、……ええと、はじめ先生」

「父さん、黒哉に愛想良くしなくてもいいですよ。こいつ、不愛想ですから」

 オレがはじめ先生の手をとろうとしたとき、海が横から口を挟んできた。思い切り睨んでやると、向こうも怯まずに睨み返してくる。互いに竹刀を握っている今、次の行動は決まっていた。

「……やるか、海」

「今日こそ勝つ」

 そうして一歩踏み出しかけたオレたちを、主将が「ちょっと待った」と止めた。オレも海も主将には逆らえないので、仕方なく身を引く。そこへはじめ先生の笑い声が重なった。

「なるほど、いつもこんな感じなんだね。海にも良いライバルができたようで嬉しいよ」

「ライバルなんかじゃないです」

 海の反論も聞き流して、はじめ先生はオレの肩を叩いた。そして、こちらが驚くようなことを言いだした。

「日暮黒哉君。礼陣に来る前は、龍堂館で剣道をやっていたんだってね。実力があるのに、一度も試合には出してもらえなかったという事情も知っている。その理由も、龍堂館の先生から直接聞いてきた」

「直接?」

「一応、剣道仲間だからね。小学生のときからずっと続けてきたのに、誰よりも上手く竹刀を扱えるのに、表舞台には立たされなかった。悔しかったんじゃないかい?」

「……仕方ないことですから」

 オレは自分の腕を、別段、良いとは思っていない。ただ、勝てるのに試合に出してもらえなかったことは事実だった。オレが注目されれば、母子家庭であることや父親が不明だということが話題になるからだ。ただでさえ、他の子供の親たちからは良く思われていなかった。オレを養うために仕事を詰め込んでいた母は、稽古を見に来たことはなく、親連中と交流を持たなかった。ただ、夜には水商売までして金を稼いでいる、ということをまるで悪いことであるかのように噂され続けた。そんな女の子供が自分の子供よりも上にいることは、親たちにとっては納得のいかないことだったらしい。道場に詰めかけて、オレをやめさせろと先生に言ったこともあったようだ。だから龍堂館側は、オレを辞めさせないために、せめてもの措置として、試合に出そうとしなかった。でなければ、道場の評判が落ちてしまうかもしれなかったのだ。

「でも、礼陣に来たからには、そんなことにはさせないよ。君の実力を認め、伸ばしていく。和人君もそのつもりで、君に稽古の時間を作ってきた。そして僕もそれに協力する。海と一緒にね」

 なんで俺まで、という海の呟きが聞こえたが、それよりもはじめ先生の笑顔が印象的だった。「私は何があっても黒哉の味方だからね」と言った、いつかの母と同じ顔。この大人は、信頼してもいい人だ。

「ありがとうございます。……これから、よろしくお願いします」

 オレは改めて、はじめ先生に頭を下げた。正面に立つその人が頷いたのが、気配でわかった。それから、その傍らの面白くなさそうにしている奴のことも。

「……これで挨拶は済んだ。主将、もうコイツとやりあっていいですか。さっきからイライラするんで」

「奇遇だな、俺もずっとイライラしてた。和人さんだけじゃなく、父さんにまで取り入ろうとするなんてな」

 海と再び睨み合ったとき、主将は呆れたように、でもどこか面白そうに、息を吐いた。そして、道場のぽかりと空いた場所を指さして、言った。

「やるならちゃんと防具をつけて、あっちでね。危険行為はもちろん禁止。正々堂々勝負すること」

 いいね? という主将の言葉を聞く前に、オレたちは試合の準備を始めた。海と打ち合うのはこれで何度目だろう。今日こそ決着がつくだろうか。主将と顧問、はじめ先生、そして他の部員たちが見ている中で、オレたちは竹刀を構えた。海の姿勢は相変わらずむかつくくらいきれいで、合図とともに寄ってきて振り下ろされた竹刀の勢いは凄まじかった。コイツとオレは、剣道に関してだけ、気持ちが悪くなるくらいに考えが似ている。――胴や小手ではなく、面で相手を仕留めたい。目の前にいるのが、気に入らない奴だからこそ。

 

 

 生徒会室に会長と二人という状況は、なかなか珍しいものだ。大抵は水無月先輩がいて、大助君や亜子さんが遊びに来て、当然のことながら他の役員も出入りしている。それが今は一切ない。

 そんな中でわかったのは、僕と二人でいる時の会長はより静かだということだ。水無月先輩と一緒だとお喋りをし続け、大助君や亜子さんがいるときは楽しく騒ぐ会長が、おとなしい。苦手だと言っていた生徒会活動関係の書類のまとめを、真面目にやっている。

 これはつまり、僕とは何も話すことがないということなのだろうか。そんなことを考えていたら、会長がようやく口を開いた。

「在。黒哉とは仲良くなれたか?」

 よりによって、一番答えに困る質問だった。出会ってからじき、三か月。もうすぐ夏休みになろうとしているのに、僕は黒哉と仲良くなれているような気がしていなかった。というのも、話題はいつだって水無月先輩や大助君、ときどきは亜子さんが用意してきてしまっていて、僕が入る隙はなかなか見つからないのだ。そして黒哉はいつだって、僕に対してそっけない。

「仲良くなったように見えますか?」

「弁当を突っ返されてた頃よりは。黒哉もだいぶ打ち解けてきたように見えるし」

「打ち解けてるのは水無月先輩たちに対してですよ。僕にはあまり……」

 黒哉と連絡先を交換したのも、ついこのあいだのことだ。それも、水無月先輩に「何かあったときのために連絡は取れるようにしておきなよ」と促されてのことだった。あのとき、黒哉は先輩の言葉に従って渋々と携帯電話を取り出していた。本当は、僕の連絡先なんかいらなかったかもしれない。

「和人は、黒哉といる時間が長いからな。人見知り同士、気が合ったのかもしれないし」

「人見知り? 黒哉のことならわかりますけど、水無月先輩が?」

「ああ、あいつ、本当は人と話すの苦手なんだよ。だからこそ早く自分から相手に近づいて、さっさと仲良くなって、苦手意識をなくそうとしてるんだと思う」

 だからあんまりやきもち妬かないでくれよ、と会長は苦笑した。こっちも同じ表情で返すしかなかった。僕が水無月先輩に対して嫉妬しているのは、間違いないことなのだから。けれども先輩にそんな一面があるだなんて、知らなかった。知ろうともしなかった。

「会長は、水無月先輩のことをよくわかってますよね。本当の兄弟みたいに」

「兄弟、ねえ……。実は身内のほうが、知らないことが多かったりするんじゃないかなと、俺は思うけど。だって俺、妹いるけど、あいつの考えてることはなかなか掴めないし」

 いつもよりずっと声を抑えて、会長はぽつぽつと語る。なんでも、会長と妹さんの間には、幼いころから相手を知っているからこその「先入観」があるのだという。自分の中ではいつまでも、妹さんは小さかった頃の妹さんのままで、だからよく昔と変わったことに戸惑うのだそうだ。たとえばそれは、食べ物の好みだったり。体力や、性格だったり。

「だから、これから互いを知ることができる在と黒哉が、俺は時々羨ましいよ」

「そんなものですか」

「そんなものだ。妹のことだけじゃないぞ。和人のことだって、俺はまだちゃんと理解したわけじゃないんだ、多分」

 会長は窓の外に目をやりながら、「見てるものが違う気がする」と呟いた。それは僕もよく思うことで、もしかしたら、誰もが人付き合いの中にふと考えることなのではないだろうか。会長もそう思っているとわかったからこそ、そう感じた。

「その人の視点は、その人にしかわからないんだと思います。……この町でたとえるなら、黒哉には鬼のいる景色が見えて、僕には見えないとか。黒哉と同じように鬼が見えているはずの大助君でも、黒哉とは別の考え方をしているとか」

「なるほど、鬼か。そうかもな。見えない側でも、和人や亜子は鬼に興味や親しみを感じてるみたいだけど、俺はそれほどでもないしなあ」

「え? 会長、鬼に親しみないんですか」

「なくはないけど、見えないからわからない。わからないからそれほど気にしない。そんな感じだな」

「じゃあ、僕と同じですね」

 そこで僕らは、やっと顔を見合わせて笑った。会長はできた人で、たくさんの人を盛り上げるのが得意で、僕とは全然違う人種だと思っていた。でも、そうではないんだということがわかって、安心したのだ。そして会長は、僕に「在は真面目だから、俺のことなんか相手にしてないんじゃないかって思ってた」と言った。僕らは互いに合わない人間かもしれないと思い込んでいたのだ。

「意外なところで意見は一致するものですね」

「そうだな。だから、在も焦らずに、黒哉とやっていけばいい。和人には悪いけど、あいつのことは気にするな。……って俺が言ってたことは内緒にしてくれよ」

 唇に人差し指を当てて、少しだけ眉を下げた会長は、もしかすると水無月先輩が怖いのかもしれない。いや、水無月先輩に嫌われるのが怖いのか。僕が黒哉に嫌われることを恐れているのと、どこか似ているように感じた。

「それとさ、在。話に入っていきづらいと思ったら、話題を変えたって良いんだぞ。自分の得意分野に引き込めば、意外と面白くなるかもしれない」

「僕、そんなに話題持ってません」

「そうかな。このあいだ黒哉のために用意してきた、礼陣の土地の話。あれ、結構面白かったぞ」

「あれは僕の話じゃなく、祖父が聞かせてくれたものです」

「だったらまたお祖父さんに聞いてくるとかさ。ああいう話、よりちゃんが食いつきそうだな。黒哉も興味持ってたみたいだし」

 そういえば、よりちゃんこと平野先生は、礼陣の歴史や文化のマニアなのだったか。大助君が以前から言っていた気がする。そして今日の昼には、先生と黒哉を引き合わせようともしていた。

 黒哉の周囲の人の輪は、どんどん広がっていく。アルバイトでもたくさんの人と関わっているだろうし、水無月先輩や大助君がこうして人と関わらせようともしている。加えて鬼も見えるとあっては、黒哉の世界はどれだけ大きなものになるんだろうか。その中に、僕はいられるんだろうか。黒哉の世界に残るためには、僕はどうすればいいのだろう。祖父から話を聞いてきて披露するだけでは、足りない気がする。

「会長。僕は黒哉に忘れられたくないです。そのために土地の話なんかを用意してくるのは、なんだか違う気がします」

「違うか? 俺はそうは思わないけどな。興味を持った相手の好きなものとか、知りたいと思わないか? まあ、なんでもってわけにはいかないだろうけど」

「僕は僕のことで、黒哉に興味を持ってもらいたいんだと思います」

 他の誰のことでも、何のことでもなく。僕自身に目を向けてもらいたい。僕を嫌わないで、できることなら兄として認めてもらいたい。そう思うのは、傲慢だろうか。だいたい、存在を認められているかどうかすら、今は怪しいのに。

 そんなことをぶつぶつと独り言ちたら、会長は半分呆れたように言った。

「存在はとっくに認められてるだろうよ。だって黒哉、屋上に来るだろ。それも向こうからそうするように提案して。自分であんなにきちんとした弁当作れるのに、特別なことでもない限りは、お前の持って来る弁当頼ってさ」

 僕がはっとして顔をあげると、会長はにんまり笑っていた。

 

 

 最初から最後まで部活に参加したのは久しぶりで、そのほんの数時間しかなかったのに、帰る頃には道場に来たときと全く違う空気ができていた。

「日暮、たまにはこうやって最後まで参加しろよな」

「海とあれだけやりあえるのに、部活に来なかったせいでレギュラーになれませんでした、なんてことになったらもったいないだろ」

「だからこその、和人さんの指導だろ。あーあ、羨ましいぜ、個別指導」

 かけられる声。向けられる笑顔。とても敬遠されていたとは思えない。オレはかけられる言葉の一つ一つに曖昧な返事をしながら、帰り支度をしていた。すると海が「もっとはっきり喋ろよ」などと悪態をついてくるので、再び交戦に入りそうになったところを、主将に止められた。

「ね、黒哉。たまには皆で部活やるのもいいでしょう。夏休みに入ったら、もっと時間作れるよね」

 オレと海を抑えながら、主将は笑顔で言った。返事は一種類しか許されていない。「そうですね」だ。こんな状況で「無理です」なんて言えないし、言いたくない。今日、よくわかった。オレは剣道が好きで、部活が割と嫌いではないのだ。海は気に食わないが、それ以外の人は思っていたよりもずっと良い奴だった。――敬遠していたのは、オレのほうだ。

 裏切れないのは、主将や部の人間たちだけではない。部活を見に来て、応援してくれていた鬼たちも、無視することはできない。そこにいるのが、見えるのだから。

「黒哉、できるだけ部活には来いよ。まだ勝負ついてないし、鬼たちが俺とお前のどっちが勝つか賭けてるから」

 外に出ようとしたとき、海がオレの顔を見ずにそう言った。そういえば、コイツも鬼が見えるんだったか。はじめ先生しか身内がいない、「鬼の子」だから。

「賭けられてるのかよ……」

 オレの呟きに、鬼たちの笑い声が重なった。

 そしてそのとき、ふと思いだした。鬼の話ができる相手を欲しがっている人間が、この学校にはいたはずだ。その人は、オレの都合のいいタイミングで訪ねれば会えるという。

「黒哉、どうしたの? 忘れ物?」

「そんなところです!」

 突然校内へと踵を返したオレを、主将が不思議そうに振り返る。けれどもそれにかまわず、オレは特別教室棟へと走った。

 こんな時間に、いるのかどうかはわからない。だが、きっと今がチャンスだった。特別教室棟の奥にあるその部屋を目指して、迷わず駆ける。夏の夕方なので、まだ外は明るいが、目的地のあたりは陽が入りにくいのか薄暗かった。

「……ここだ」

 社会科準備室。戸の上に掲げられたプレートには、そう書いてある。手を拳に握り、軽く戸を叩いてみた。一回、二回、三回。……返事は、ない。

 試しにドアノブに手をかけてみたら、簡単に回った。引けば、戸が開く。ぎい、という音が静かな廊下に響いた。

「失礼します」

 声をかけてみると、奥から物音がした。ふと脇を見てみると、びっしりと本が並んだ棚がある。全部社会科の資料、あるいは史料だろうかと思って見ていたら、その陰から人が出てきた。髪の長い女だった。

「あら。君は一年二組の日暮君?」

 女は――平野先生は、オレのことをちゃんと憶えていた。学年担当ではなく、世界史の授業でしか顔を合わせないのに、クラスと名前を正確に一致させていた。

「そうです。……あの、大助……一力先輩から、話を聞いて」

 慣れない呼び方でその名前を告げると、平野先生は目を瞬かせた。

「大助君から?」

「はい。礼陣の歴史や文化に詳しくて、話し相手を欲しがってるって」

 本当は、そのあと「聞きました」と続けるつもりだった。けれど、言わせてもらえなかった。平野先生は、オレの言葉を途中まで聞いたところで駆け寄ってきて、その細い手指でオレの両肩を力いっぱい掴んだのだ。

「日暮君、礼陣の歴史や文化に興味あるの?」

「……はい」

「君、もしかして鬼が見える?」

「はい」

 涼しいけれども大きく開かれた目で、平野先生はオレをじっと見つめていた。身長はそう変わらない、むしろオレのほうが少し高いくらいで、目線がばっちり合う。しばらくそうしていたかと思ったら、平野先生は突然満面の笑みでオレの肩を挟むようにばんばんと叩きだした。

「待ってた! 君みたいな子を待ってたのよ! どれだけ推理や仮説を重ねても、それが真相とは限らない。検証しなければ真実味は出てこない。それをするには何が必要か? 私の研究に興味を持ちつつ、真実の目で見てくれる第三者よ!」

 授業のときには落ち着いた先生なのに、ここではまるで何かが乗り移ったかのようだ。興奮しすぎて、何を言っているのかよくわからない。戸惑っているオレに、平野先生はさらにたたみかけてきた。

「日暮君。君は礼陣のことをどれだけ知ってる?」

「あの、全然知らないです。オレ、春にこっち引っ越してきたんで、先輩たちや鬼たちからの情報でしかこの町のこと知らなくて……」

「でも興味はある、と。最高よ。最高の研究仲間だわ! 君が鬼たちから得た知識で、私が研究を重ねて導き出した仮説を検証する。君は礼陣のことを深く知れるし、私は私が見ることのできない鬼たちのことを知ることができる。一石を投じて、二鳥も三鳥もとれるわ!」

 なるほど、大助の言う「マニアック」の意味が少し理解できた。この人の話に、多分誰もついていけないのだ。だから大助はオレにこの人を任せた、というか、押し付けたんだ。

「それじゃ、さっそく話を……」

「待ってください! オレ、部活終わったばっかりで汗臭いかもしれないし、それにもう時間も遅いし!」

 とにかく平野先生の暴走から逃れなくてはと、オレは思いつく限りの言い訳を並べた。すると先生はぴたりと動きを止めて、またオレをじっと見つめた。

「……それもそうね。生徒をあんまり遅くまで残すのは、教師として問題よね」

 汗臭くはないわよ、制汗スプレーの匂いはするけど。そう言って、先生はオレから手を離した。そして壁に掛けてあるカレンダーを見ながら、ふむ、と小さく唸った。

「君、バイト少年よね。で、部活もやってると。剣道だったっけ?」

「はい」

「放課後、少しだけでも時間を作ることはできる?」

 平野先生の見ていたカレンダーを、オレも見る。見ながら、一週間の予定を頭の中に広げてみる。すると、金曜日の放課後に、少しだけなら時間をつくれることに気がついた。バイトが始まるのが遅く、今まではその分を剣道の自主練に使っていた。

「金曜日、バイトの時間までなら」

「じゃあ、決まりね。そのときに話をしましょう。部活みたいなものだと思って、気楽にここに来てくれればいいから。……そうだ、部活にするなら名前もつけようっと」

 声を弾ませながら、平野先生はカレンダーに何かを書きこもうとする。少しだけ手を止めてから、何かに納得したように数回頷いて、手を動かした。覗き込むと、そこには授業のときによく見る読みやすい字で、七文字の漢字が書かれていた。

「……『礼陣歴史愛好会』?」

「そ。二人きりという小規模だし、このほうが語呂がいいでしょう。よろしくね、会員一号、日暮黒哉君」

「よろしくお願いします……」

 今日は何回、この言葉を口にしただろう。慌ただしくて、濃密な一日だった。

 

 

 黒哉が「礼陣歴史愛好会」などというものに加入したことは、大助君から聞いた。どうやら黒哉は昨日のうちに、平野先生と会って話をし、そういうことになったのだという。

「頼子さんが大喜びでうちに来て、話してた。よっぽど弟子ができたのが嬉しかったんだろうな」

「弟子か……」

 僕は顔だけで笑いながら、黒哉の世界が広がっていくことを思う。どんどん大きくなっていくその世界で、僕はいつまで憶えていてもらえるんだろう。

 忙しい黒哉と、僕らの前には、夏休みが待っている。長い休みが明けた後、はたして黒哉は僕のことを忘れないでいてくれるのだろうか。彼もまた手の届かない存在になってしまったら、僕はいったい、何を思って生きていけばいいんだろう。

「よりちゃん先生、昨日のいつ頃に大助の家に行ったの?」

 亜子さんが、紙パックのジュースにストローを差しながら言う。色素の薄い綺麗な瞳は、大助君に向けられている。

「八時頃だったと思うぜ。変質者が出てるから一人で歩くなって、兄ちゃんに説教されてた」

「気をつけてほしいよね。ただでさえ、よりちゃん先生はそういう危機感が薄いんだから」

「お前もだぞ、亜子。遅くに一人で出歩くなよ」

「大丈夫だよ。大助がいるし、そうじゃなければ在と一緒に帰るから」

 僕はいつだって、誰にとっても、絶対に必要なものではない。忘れ去られる日が来ても、おかしくはないのだ。

 いっそ不審者とやらが本当に殺人事件の犯人で、ぼくを殺しにやってきたなら。少しの間だけでも、誰かの記憶に残ることができるだろうか。そんなくだらないことを、夏の日差しに白すぎる腕をさらしながら、考えた。