居間に流れるテレビの音声が、僕の耳を刺激する。ニュースキャスターが喋る度に、ちくちくと棘が刺さるようだ。容赦なく侵入してくる声は、頭の中をぐらぐらと揺らす。たまらずリモコンを手にしたけれど、天気予報が始まったので電源を切るのをやめた。今日は一日、よく晴れた日になるそうだ。

この町を含む地域の天気を確認したあと、何気なくテーブルの上に目をやった。そこにはあまり大きくない包みが二つある。一つは僕のもので、深緑の布に覆われている。もう一つは藍色で、これは……誰のだっけ。

「在、起きたの?」

「うん」

台所から出てきた母の呼びかけに、一番簡単な返答をして、僕は再びニュースを始めたテレビを消した。ちょうどエンターテインメントのコーナーが、芸能人の離婚を報道し始めたところだった。他人の家族のことには、興味がない。

「お弁当そこに置いたから、忘れないで持っていってね」

静かになった家に、母の声だけが細く響き、壁に跳ね返って耳に届いた。なんだか、頭の奥のほうが痛いような気がした。

用意してもらったトーストを無理矢理のどに通してから、藍色の弁当包みをもう一度眺めた。そして思う。母はずっとこんなことを続ける気だろうか、と。彼女はこの弁当箱を空にするのが誰なのかを、知らないのだ。

素早くしたくを済ませ、今日も罪悪感に押されて家を出た。いくら方便だとしても、母に嘘を吐き続けるのは辛いなと思いながら。

 

そんな僕の気持ちをまるで知らない人達が、いつものように登校の邪魔をする。

「常田君だよね?ちょっと話を聞かせてくれないかな」

早く学校に逃げ込まなければ。この人達はとてもとてもしつこいのだった。彼らが聞きたいのは「先月のこと」。僕には、いや、僕達家族にはすでに関係の無いことのはずなのに、ずっとずっと追ってくる。

「キミのお父さんがどういう人なのか、ちょっとでも教えてくれたらなと…」

それは僕が過去に知りたいと願い、今は何よりも知りたくないことだ。だから答えられない。答えるつもりもない。彼らには早くそれを察してほしい。もう追いかけないで。僕に話しかけないで。そう心の中で繰り返す。

人を避け、黙ったまま歩く通学路は長い。学校が遠く感じる朝を、僕はここ一ヶ月ずっと過ごしていた。

校門が見えてきたところで、ようやく雑音が消える。というよりは、消される。それでようやく、僕は暗い気分から解放されるのだ。

「マスコミ各位には生徒への取材を禁止すると通達したはずですが、聞いてませんか?」

この台詞だけは、毎朝聞いても苦ではない。言うほうはきっと大変だろうから、少しばかり申し訳ないけれど。台詞の主、僕と同じ制服を少々着崩した大柄な少年が、追跡者を見下ろす。すると声をかけられたほうはぎくりとしたような表情をして、そそくさとその場を離れて行くのだった。そうして彼は記者を追い払うと、右手を挙げて僕に笑いかけた。

「よ、在。今朝も大変だったな」

「いつもありがとうございます、会長」

いいっていいって、と彼は僕の肩を叩く。生徒会長こと野下流は、一つ上の先輩だ。僕は昨年から学級委員をしていて、生徒会とは委員会を通じて関わりがあった。会長とはそのときに知り合い、ありがたいことに、それからずっと親しくしてくれていた。この煩わしい朝も、彼のおかげで少しはましになっている。

「今朝は、水無月先輩は……」

「和人は剣道部の朝練で、もう行ってる」

会長は大抵、彼の友人と二人で行動している。先ほどの台詞は本来、その友人のものだ。

そういうわけで、僕と二人で登校することはとても珍しい。その分、少し緊張した。相手は親しいとはいえ、先輩なのだから。しかし会長の方はそんなことはまるで気にしていないようで、同級生に話しかけるようにごく自然に僕に接してくれる。最近起こった面白いできごとを、ユーモアたっぷりに語ってくれる。僕はそれが本当に楽しくて、笑いながら相槌を打つのだった。

そうして学校の玄関まで辿り着いたところで、僕たちは別れた。自分の学年の下駄箱に行って、靴を履き替え、教室へ向かう。ここまで来て、僕は心の中に残っていた緊張を完全にほぐすことができるのだ。

「在、おはよう」

教室に入ると毎朝必ず声をかけてくれる彼女。皆倉亜子さんは、僕に関する噂や憶測を全く気にしない人だ。それは僕のためではなく、元々そういう性分なのだという。彼女の屈託のない表情が、僕にとっての救いだ。

「おはようございます、亜子さん」

「今日も流さんと一緒だった?」

「はい。この一ヶ月、ずっと助けてもらってばっかりで」

僕は何も意識せずに答えた。そうすれば亜子さんはいつものように笑って、次の話題に移ってくれると思っていた。でも。

「もう一ヶ月…か」

その期間は、彼女の切り替えを鈍くするのに十分な長さだったらしい。事情を正しく知っている人だからこそ、余計な心配をかけてしまったようだ。

「皆のおかげで、学校には休まず来ることができているから、気にしないで」

「うん、それならいいんだけど。そうだね、こっちまで暗くなってちゃだめだよね」

僕が希望を告げると、亜子さんは普段の彼女に戻った。そして今日までの宿題の話や、彼女と親しいクラスメートの話を始めた。これが彼女の、僕に対する気の遣い方なのだ。

そしてもう一人。彼は遅刻寸前に教室に入ってきて、真っ直ぐに僕たちのところへ歩いてきた。

「今日もセーフだぜ。これで三日目だな」

「一応ね。でも大助って大抵四日目には遅刻するしなぁ…」

「うるせぇんだよ、亜子は」

毎朝恒例のやりとりが一通り済んだ後、彼は僕に声をかける。

「よぉ、在。宿題見せてくれ」

「おはようございます、大助君。宿題は見せないよ」

 さらりと応じてみせると、彼は「ちぇっ」と舌打ちをした。どうやら今日の課題も、最後までやりきることができなかったようだ。

「お前だけが頼みの綱だったのに……亜子のやつは見せてくれねぇんだよ」

「そんなのあたりまえ。自分でやりなよ、自分で」

彼、一力大助君は、亜子さんの幼馴染だ。背が高くつり目で、見た目は少し怖いように思われる。けれども情に厚い人で、僕のこともよく気にかけてくれているのだ。

彼らと過ごせる時間が、現在の僕にとっては最も安らげるときだ。理不尽な噂や白い目も、まるでないかのように思える。今の僕に最も欠かせないのは、彼らのような友達という存在だった。もしも彼らがいなかったら、僕はきっとこの一ヶ月で壊れてしまっていたに違いない。

あの日起こった事件とそれに対する動きは、それほどまでに、僕にとって大きな影響を与えるものだったのだから。

 

 

殺人なんて、世界的に見れば珍しくもなんともない。規模は違えど毎日のように起こるし、ニュースにならない日はない。当事者や関係者でなければ、人々はそのイベントをドラマのように楽しむ事だってできる。僕自身もかつては、少年犯罪のニュースを見ては、犯人の心理状態などを想像して遊んでいたものだ。人が人を殺すことは、僕にとって遠いものだった。

しかし一ヶ月前、僕と母は突然、殺人事件の関係者になってしまった。

この町でバーを経営する女性が殺された。その容疑者としてあがっている男は、僕が小学生の頃に母と縁を切ったはずだった。

それなのに、今になってまた「関係者」だ。警察、新聞社、週刊誌の記者、……。「関係者」の話を聞きたい人たちが、次々に僕の家を訪ねてくるようになった。インターネット上でも様々な憶測が飛び交い、ときには明らかに僕や母のことだと思われる情報までもが流されていた。多くの人々が興味を持ち、知りたくなる事件。まさに刺激的なイベントだった。凄惨な現場、猟奇的な殺害方法。家を訪れた記者は、食事前だというのにそれを詳しく聞かせてくれた。そのあと食欲がすっかりなくなってしまった責任を、誰もとってはくれなかった。

話題となったのは、刺激的な現場の様相だけではない。むしろ人々は、事件を取り巻く人間関係に関心を向けていた。

 

容疑者と被害者は愛人関係にあって、その間には子供までいた――容疑者は結婚しているにもかかわらず、他の女性とも関係を持っていたということだ。

そして容疑者が結婚していた相手というのが、僕の母だった。だからつまり、その男は、僕の父だったということだ。彼が母方の財産を浮気のために使っていたことがわかって、母とは離婚していたから、すでに過去の話だ。

そもそも浮気発覚のきっかけは、被害者となってしまった女性からの電話だった。彼女が僕の父だった人と付き合っていて、二人のあいだに子供ができたこと。そして彼女が一人でその子を産み育てていたことなどが全て暴かれたのだ。不幸にも母は人を疑うことを知らない人で、それまで父の浮気など微塵も考えていなかった。幼い僕が父の所在を聞けば、お仕事で忙しいのよ、と本気で答えていたのだ。

 

こういった複雑な関係が、どうやら週刊誌の大好物だったらしい。あることないことをいいかげんに書きたてて、こっちが黙れば向こうは知る権利を主張する。こんなでたらめなことが一ヶ月も続いていた。

学校は面倒を避けたかったのか、取材拒否の姿勢をとったが、それは僕にとってありがたかった。信頼のある生徒会長が僕の側に立ってくれたために、生徒の約半数がこの件について黙ってくれているという。

母は疲れきっているが、祖父がサポートしてくれている。家の暮らしは祖父のおかげで成り立っていた。

容疑者であるあの男が捕まることと、殺害された女性の子供の問題が片付けば、僕達は自由になれるはずだった。

 

被害者の子供は僕より一歳年下の高校一年生で、事件が起こる直前に、僕の通う学校に入学した。僕の存在は知っていたが、そこにいることは知らなかったようだ。

僕らが初めて会ったのは事件の後だった。母は先に彼と会ったらしい。それから母は、弁当を二つ作って僕に渡すようになった。

「これを一年二組の日暮黒哉君に届けてね」

面会したときに、昼食だけは作らせて欲しいと、母が懇願したらしい。唯一の身内を亡くして一人きりになってしまったという少年のために、何かしなければ気がすまなかったのだろう。

その日、僕は二人分の弁当箱を持って学校へ行き、三時限目が終わってから一年二組を訪ねた。下級生も僕を見るとひそひそと囁きあっていて、自分の立場を実感した。

「日暮君、いるかな」

それでも弁当を届けるという義務があったから、僕は近くにいた子に声をかけた。その子は一瞬目を丸くし、それから戸惑うような表情を見せてから、彼を呼んだ。

「日暮ぃ、客来てるぞ」

教室内がざわりと沸く。異様な視線が向けられているのは、僕だけではなかった。殺された母親以外に身寄りがいなかった彼は、学校でも独りだった。

けれども、そんなことはまるで気にしないかのように、日暮黒哉は無表情で僕の前に立った。顔は僕とは似ていなかった。多分、互いに母親似なのだろうと思った。

「あ、あの……これ」

僕はおそるおそる弁当箱を差し出した。しかし、彼は手を出さなかった。それどころか僕の脇を通り過ぎ、教室から出て行く。急いで後を追った僕の背中に、視線は刺さり続けていた。

「日暮君だよね」

少し離れたところから呼んでも、返事はない。

「これ、母からなんだけど……あ、僕のことわからない?」

彼は僕を無視してどんどん進む。止まる気配はこれっぽっちもない。

「僕は常田在っていうんだ。母から話聞いてないかな。……君の兄にあたるんだけど」

壁にぶつかる前に、彼はようやく足を止めた。僕も彼を追う必要がなくなり、止まった。それから、初めて彼の声を聞いた。

「オレに兄なんていねーよ」

その色は拒絶。その言葉に、僕は自分が無駄なことを言ったことに気づいた。僕自身もあの男を親だなんて思いたくないのだから、こんなことを言うのはおかしいことだったのだ。前日に母から全く同じ言葉を聞いて、嫌悪したばかりだというのに。

ただ、母から託された弁当だけはなんとかしなければと思って、もう一度彼に包みを差し出した。

「ごめん……あの、これ君のお弁当」

「いらねー。作ってくれなんて一言も言ってねーし」

「でも」

「うるせーんだよ!」

彼は怒鳴って、振り向いた。まともに目が合ったのは、これが初めてだったかもしれない。黒く大きな瞳が、たしかに僕を見ていた。

「何のつもりだよ! 可哀想とか思ってんのかよ!」

「そういうわけじゃ」

「オレに今後一切関わるな! 二度と兄とか言うな!」

彼は弁当を受け取らず、また僕の脇を通り過ぎて行った。嫌悪と憎悪をぶつけて、あの棘のような視線の中に戻っていった。

初めて会った「弟」を、僕は深く傷つけてしまったらしいということだけがわかった。

 

昼休み、僕は仕方なく弁当を二つ広げた。大助君と亜子さんは、怪訝な表情で二つの弁当箱を見ていた。

「何でお前二つも弁当あるんだよ」

「うん……色々あって」

「色々って何だよ」

「大助、やめなよ」

大助君が問うのを、亜子さんが制止する。在にだって話したくないことはあるんだよ、と言っていたけれど、僕は二人になら話してもいいと感じた。だから、その言葉は自然に出てきた。

「たいしたことじゃないんだよ。ただ、受け取ってもらえなかっただけで」

「誰に」

「一年生の日暮君。……その、僕の腹違いの弟らしいんだ」

ごまかすように笑ってみた。だが、また無駄な行動をしてしまったらしい。二人は硬直して動かない。やっぱり、ごまかせるわけがないか。

「腹違いって……母親が違うってことか?」

「うん」

「事件に関係あるの?」

「うん」

僕は事件の裏の複雑な関係を二人に話した。すでに週刊誌がでたらめな記事を書いていたから、一部には知られているだろうけれど、二人はそんな噂を聞いても全て無視してくれたらしく驚いていた。

「本当だったんだ、それ……」

「全然たいしたことなくねぇよ!」

「うん、そうだね……ごめん」

僕が言うと、謝ることでもねぇ、と大助君が僕にデコピンをした。かなり痛かったけれど、なんだか温かかった。

そこで僕は、名案を思いついた。一人では食べきれないのなら、彼らに手伝ってもらえばいい。なにしろ彼らは、僕の友達なのだから。

「と、とにかく……そういうことだから、このお弁当食べてもいいよ」

「え、でも」

「受け取ってもらえなかったなんて母に言ったら、きっと悲しむから。だから二人が食べてくれるとありがたいんだ」

二人は顔を見合わせて、しばらく考えていた。そのうち大助君から箸をのばし始め、亜子さんがそのあとに続いて、気がついたら弁当箱は綺麗に空になっていた。

「在のお母さん、料理上手だね」

「美味かったぜ。ごちそうさん」

「こっちこそありがとうございます」

今日は彼らのおかげで片付いたけれど、明日はどうしよう。きっとまたテーブルには弁当箱が二つある。でも、日暮黒哉は関わるなと言った。僕が考え込んでいるのに気付いて、亜子さんは肩を叩いた。

「在、流さんに相談してみたらどうかな」

「会長に?」

会長は確かに人望が厚い。だから成績など関係なく生徒会長という立場にいられるのだ。もしかすると会長なら、日暮黒哉についてもいいアドバイスをくれるかもしれない。

「あいつに相談するのかよ」

大助君は不満そうに言うけれど、本当は彼だって会長を信頼する一人だ。亜子さんもそれをわかっていて、僕と大助君の腕をひっぱる。

「それじゃ放課後、生徒会室を覗いてみよう。きっと流さん、和人さんと一緒にお茶飲んでるよ」

「それで良いのかよ生徒会……」

呆れて息をつく大助君と、ほんとにねと笑う亜子さんに、僕は心の底から感謝した。

 

掃除当番ではないことを確認してから、僕たちは生徒会室へ急いだ。特別教室棟にあるその部屋は、生徒会役員だけでなく、彼らと親しい生徒達が頻繁に出入りしていた。亜子さんと大助君もそういった人だ。

亜子さんが生徒会室の戸を叩くと、すぐに人が出てくる。顔を覗かせたのは、生徒会副会長であり会長の友人である、水無月和人先輩だった。

「亜子ちゃんに大助……と、在まで珍しいね。流に用事?」

 ふわりと微笑む彼には、相手を癒す力があると思う。笑顔を見るだけで、心に温かな灯がともるようだった。

「はい。在がちょっと相談に」

「了解」

亜子さんが答えると、水無月先輩は部屋の奥に行って、会長を呼んだ。手招きされるのに従って、僕たちは室内に入る。生徒会室は狭いけれど、きちんと片付いている。会長は掃除が苦手だから、きっと水無月先輩が掃除したのだろう。

「よく来たな、お前ら。亜子はそっち、在はそっちな。大助は立ってろ」

「俺も座らせろよ」

席を示されて、僕と亜子さんは座った。大助君は部屋の隅から椅子を持ってきて、勝手に置いて座った。

「さて、在が相談か……大助に虐められでもしたか?」

「違えよバカ野郎」

冗談が僕の緊張を解してくれる。だけど長引くと話ができないので、水無月先輩と亜子さんが適当なところで止めさせた。すると会長はすぐに従った。

「ごめんな、ふざけて。で、どうした?」

「あの……一年二組の、日暮黒哉って生徒なんですけど……」

 僕が名前を出すだけで、会長は「ああ」と声をあげた。この人は、まるで全校生徒を余すことなく把握しているかのようなことを言うときがある。今回もそうだった。

「一年二組の日暮って、和人の後輩だよな?」

「うん、剣道部の新入生。小学校の頃からやってたみたいで、結構強い子だよ」

しかも、意外なところで彼との接点があった。まさかこんなに近くに知り合いがいたなんて。

水無月先輩は生徒会に所属していながら、剣道部の主将でもある。この町では名の知れた実力者で、彼を慕う剣道少年は多いという。日暮黒哉が剣道をやっているというのは初耳だったが、これなら話を繋げやすいだろう。

「実は、その日暮黒哉は」

 僕は思い切って、その事実を告白しようとした。しかし、会長は真剣な顔をして、僕が先に続けるはずだった言葉を口にした。

「弟、だろ」

息を呑むという感覚が、まさにそのままぴったりだった。僕が口を開けたまま何も言えないでいると、水無月先輩が慌てて補足した。

「日暮君のお母さんが亡くなったことは、僕が知ってて……。それで流に話したら、流はもう先生方から知らされた上で、口止めされてて……」

つまり会長は、とっくに全てを知っていたのだった。ある物事が人の口を伝わる速度は本当に速い。それは僕自身が知っている。教師たちがそれを危惧して生徒代表である会長に念を押したのは、生徒から親や地域にこのことが伝わるのを避けたかったからだろう。

けれども、そんなことは無駄だ。情報はどこからでも、あらゆる方法で伝わる。まして殺人事件という衝撃の大きなもので、近所を警察やマスコミがうろついていれば、当然のことだ。

「正直な話、在が俺に何か相談があるって聞いてから、このことじゃないかと思ってた」

 会長が申し訳なさそうに言った。そんな顔をしなくてもいいんだけれどと思いながら、僕は話を続けることにした。知っているのなら、長い説明をする手間も省けるというものだ。とりあえずは今日あった出来事について、手短に話すことにした。

日暮黒哉は僕と母を拒絶しているけれど、母はそれを知らずにきっと弁当を作り続ける。

母に正直に伝えるのは酷だし、だからといって二つ目の弁当の処理を大助君と亜子さんに任せ続けるわけにはいかない。そんな僕のジレンマに対し、会長はあまりにもあっさりと答えを出した。

「日暮には毎日弁当を持ってってやろう」

「え、でも関わるなって」

「受け取らないと関わり続けるぞっていう姿勢を見せれば、いつかは日暮も折れるんじゃないか? で、受け取ったら受け取ったでまた毎日持っていく」

それは強引過ぎやしないだろうか。大助君と亜子さんもそう思っているようで、会長に不満げな視線を送る。けれども水無月先輩は冷静に返した。

「先に在と在のお母さんを、彼に印象付けてしまおうってことか。うまくいけば折れるかもしれないけど、下手したら嫌われるよね」

「でもお袋さんが弁当を作らせてくれっていうのを断固拒否したわけじゃないだろ」

水無月先輩の言葉にもそう返せるということは、会長にはよほど自信があるらしい。だけど。

「僕は……彼に関わることで、彼のクラスでの印象をこれ以上悪くしたくないんです。だからお弁当を届け続けるのも正直……」

「それだ!」

僕の言葉に、会長は何故か嬉しそうに反応した。

「きっと日暮もそういう意図で関わるなって言ったんだよ! 在にこれ以上辛い思いをさせたくなかったんだ!」

「あのね、流。人の気持ちを想像するのは簡単だけど、現実にそうであるって確証はないんだよ」

それも水無月先輩に諭されてしまったけれど。でも水無月先輩は、否定は一度もしていなかった。ふわりと笑って、僕を見、会長の言葉を後押しするように言った。

「僕も日暮君と話してみるよ。部活動が同じだから、機会なら作れるし。それとお弁当だけど、せっかくお母さんが作ってるんだ、やっぱり届けてみたらどうかな」

会長や亜子さんからも「癒される」と何度も聞かされたその笑顔に、僕も少しホッとしてしまった。

しかしこれだけでは何の解決にもなっていないということに気づいたのは、生徒会室を出たあとだった。

 

翌朝も、テーブルには弁当箱が二つあった。昨日空っぽの弁当箱を出したら、母がとても嬉しそうだったことを思い出す。本当のことを知らずに、今日も僕と同じメニューの弁当を作ったんだろう。

そして僕はもう一度、一年二組に行く。戸惑う一年生の子たちと、不機嫌そうな日暮黒哉の顔を見る。

「昨日いらねーって言っただろうが」

「しつこいんだよ」

「いい加減にしろ」

そしてやはり拒絶される。受け取られなかった弁当は亜子さんと大助君が美味しそうに食べてくれる。

「このまま俺たちが食べてれば、問題ねえと思うんだが」

「ばか、それじゃ意味ないよ」

二人のやり取りを見ていると、たしかにこのままでもいいかなと思ってしまう。だけど、やはりそれでは亜子さんの言うとおり「意味がない」のだ。こんなことを続けていたら、いずれは母の知るところとなり、やはりショックを与えてしまうだろう。正直に話した場合よりも、大きなショックを。

けれども会長と水無月先輩が、あることに気づいてくれた。

「受け取りは拒否するけどさ、日暮は絶対にお前に何か言いにくるんだな」

「そうだね、無視はしてないよね」

そういえば、と思った。彼は不機嫌ながらも、必ず拒否の言葉を言いに来る。無視することも、教員の誰かに訴えることもできるのだ。しかし彼は、それをしない。

だから僕は、弁当を届け続けた。何度も、何度も。そうして一ヶ月が経とうとしていた。

 

 

その日の朝の週刊誌記者撃退は、会長と水無月先輩の共同作業だった。これも結構な見もので、僕は今日も無事に機嫌を直すことができた。

「おはよう」

「おはようございます、亜子さん」

いつものように挨拶を交わして、いつものように会話をして。

「どうだ、これで一週間遅刻しなかったぜ!」

「そもそも普通の人は遅刻なんてしないよ」

いつものようにミニコントを楽しんで、いつものように授業を受けた。

そして今日もいつものように弁当を一年二組の教室まで届ける。僕の日課はこの一ヶ月、毎日こんな調子だ。

相変わらず事件についての噂は絶えないけれど、薄れてはきた。記者の数も少なくなったし、前ほどしつこくなくなったような気がする。当然だ。殺人事件など珍しくもないし、あの事件が少し特殊な例だったとはいえ、男女関係のもつれなんて山ほどある。

事件は世間に忘れ去られ始めたけれども、未だ容疑者は逃走中だった。あの男は今どこにいるのだろうか。本当は考えたくもないことなのに、いつまた何をしでかすかわかったものではないから気になる。

「日暮君」

一年二組の雰囲気は相変わらずのようだ。場の空気というものは、そう簡単に変わるものではなく、日暮黒哉はずっと独りのままだった。

少し変化があったとすれば、僕の姿が見えるとすぐに戸口まで来てくれるようになったことくらいだ。どっちにしろ弁当の受け取りは拒否するのだが、それでも無視は絶対にしないのだから、律儀なものだ。

「今日のお弁当」

「いらねーよ。いい加減教室来るの止めろ」

「でも、これは君のだから」

僕も彼の態度や、周囲の視線に慣れてしまった。拒否されてもどうせ友人が食べてくれると考えるほどに図々しくなっていた。

「どうしてもいらない?」

「いらねー」

「じゃあ今日も引き取るよ」

またいつもと同じか。特に気にすることもなく踵を返し、次の授業は何だっけと思考を切り替えようとした。

「待てよ」

でも、切り替えられなかった。弁当を届け続けて一ヶ月、初めて彼は僕を呼び止めた。それが意外で、吃驚して、立ち止まったけれど振り向けなかった。

「昼休みに屋上」

そんな短い、時間と場所を告げるだけの言葉が聞こえた。声はやけにはっきりと頭に残った。

やっと足が動いて、自分の教室へと向かうあいだ、心音が外に響いてるのではないかというくらい大きく聞こえた。今日はいつもと違う。日暮黒哉にどんな心境の変化があったのだろう。何が彼をそうさせるに至ったのだろう。僕には全く想像できなかった。

教室に戻って、大助君と亜子さんに、このことを報告した。すると二人はちっとも残念そうじゃない口調で言った。

「ということは、在は昼休みいないんだね。じゃあ仕方ないから、大助と二人でお弁当食べるよ」

「仕方ないってのは余計だが、まあ、そういうことになるな。行ってこいよ、在」

そこには「良かったね」という言葉が含まれているようだった。僕自身、これが本当に良い事なのかわからないままなのに。だけど、あの日暮黒哉が自分から僕に話しかけてくれたことに、感動していることは確かだった。

そうして僕は、昼休みに屋上へ向かった。とはいえ、普段は学校の屋上に生徒が立ち入ることは禁止されている。もちろん、事故防止のためだ。ここが解放されるのは、文化祭などの行事があったときや、特別な許可がおりたときだけということになっているのだった。だから、僕は屋上への出入り口に続く階段を上がった先で、日暮黒哉が現れるのを待っていた。本当に彼は来るのだろうか。聞き間違いでなければ、必ずここに来るはずだ。

持ってきた二つの弁当の包みをぎゅっと握り締めていると、何だか間違った少女漫画のようだと思い、少し複雑な心境になる。そう考えてしまうと、僕が彼女側になってしまうからだ。それはちょっと勘弁して欲しい、と自分の思考に対して思った。

ところが、昼休みが始まってから十五分ほどが経過しても、彼の姿はまだ見えない。もしかして、本当に聞き間違えたのだろうか。それとも、そもそも彼は何も言っていなくて、僕が幻聴を信じたのだろうか。都合のいいように聴覚を改竄して、都合よく彼が現れるのを待っているだけなのだろうか。

「……そんなに都合良くいくはずもない、か」

よく考えてみれば、一ヶ月でそこまで大きな変化があるはずもない。長い一ヶ月も、人間関係で見ればたったの一ヶ月。現に僕のいる環境の人間関係は、何も変わっていないじゃないか。

戻ったほうがいい。僕まで弁当を食べ損ねてしまう。そうして階段を下りかけた。

そう、また「かけた」のだ。僕はまた自分の行動を、彼に止められた。

「遅い」

屋上への扉は封鎖されていると思っていた。なにしろ立ち入り禁止なのだから、そうであるはずだったのだ。だけど、それは外側からいとも容易く開放されてしまった。彼はどうやって入ったのだろう。鍵は職員室か事務室か、多分その辺りにあるはずなのに。

「なにやってんだよ」

「あ……いや、何で屋上に……?」

「来いって行っただろうが」

そうじゃなくて、どうやってこの扉を開けたのかが疑問なのだけれど。それをいちいち尋ねていたら本当に時間がなくなってしまうことに気づいて、僕は日暮黒哉を追いかけ、立ち入り禁止区域に足を踏み入れた。

初夏の風が吹き抜ける。規則を破ったのに、爽快な気分だ。扉の前で立ち止まる僕に、彼は苛ついたような調子で言葉を投げかける。

「何ボーっとしてんだよ」

「屋上に来たの初めてで……」

「規則とかクソ真面目に守ってそうだもんな、お前」

大当たり。それが褒め言葉ではないにせよ、彼は僕が思っていたより、僕を見てくれていたのかもしれない。そんな都合の良い憶測に浸りかけていた僕に、

「弁当」

「え?」

「よこせ」

ぶっきらぼうに、短く。無表情のままで、彼は言った。

「食べるの?」

「昼飯買う金ねーんだよ」

それなら届けに行った時に受け取ればよかったのに。そう思ったが、そこは彼なりの事情があったのかもしれないと考え直し、僕は言葉を飲み込んだ。

藍色の包みを差し出すと、彼は奪うように受け取り、その場に座りこんだ。僕も彼を真似てそこに腰をおろし、自分の包みを開くことにした。同じ人が同じ材料で作っているから、僕たちのメニューは同じだ。僕の弁当を一瞥して、彼はそっぽを向いてしまう。でも弁当はちゃんと食べていた。

「美味しい?」

僕が尋ねても、返答はない。でもあのペースなら、きっと答えはイエスだろう。作られるようになって一ヶ月、やっと食べるべき人によって、弁当箱は空けられたのだった。

すぐに中身がなくなって返された弁当箱を、こんなに軽く感じたのは初めてだ。やはりこれは最初から彼の手に渡るべきものだったのだと感じた。

「食べてくれてありがとう」

「腹減ったから食っただけだ」

今までは空腹でも食べなかったくせに。笑いが漏れそうになるのを抑えながら、僕は彼に尋ねた。

「これからも食べる?」

「金が稼げるまでは食ってやるよ」

そういえば、お金がないと言っていた。唯一の肉親であるはずの母を亡くしてから、彼はどうやって過ごしてきたんだろう。

「今どこに住んでるの? 生活費とかは?」

「お前には関係ねーよ」

僕の疑問は一蹴され、これ以上言葉を続けることはできなかった。せめて答えてくれれば、もう少し彼と話すことができたかもしれないのに。残念な気持ちになっていると、今度は彼から話を切り出してくれた。多分、これが屋上で待ち合わせた本当の理由だったのだろう。

「お前、主将に何言った」

「主将……あ、水無月先輩のこと?」

彼が主将と呼ぶのは、剣道部の主将である水無月先輩以外にいないはずだ。どうやら水無月先輩は、彼と話ができたらしい。

「余計なこと言ってねーだろうな」

「余計なことって……お弁当を受け取ってくれないって事くらいしか言ってないけど」

僕と彼に血の繋がりがあることは、僕が言わずとも会長と水無月先輩が知っていたことだ。事件のことで相談にのってもらったことは度々あったけれど、日暮黒哉について話したのは弁当の件くらい。嘘は吐いていない。

「なんで弁当なんか渡さなきゃならねーのか、その辺は気にされなかったのか」

「水無月先輩はそういうことを尋ねる人じゃない。気になっても僕には訊かないよ」

「主将がそういう人なのはオレもわかってる」

水無月先輩は主将としての立場で、彼からある程度の信頼を得ているらしい。先輩が本当に心強い味方であることを再確認できたが、同時に何故か少し胸が痛かった。

「水無月先輩、何て言ってた?」

「昼はパンじゃなく弁当食えって」

「うん、尤もだね」

言い方が先輩らしい。とうとう我慢できずに笑ってしまった。そうしたら彼に睨まれた。

「笑ってんじゃねーよ」

「ごめん」

彼も彼だ。そう言われて素直に聞くなんて、実はすごく素直な子なんじゃないだろうか。僕は自分の持っていた日暮黒哉という人間に対する認識を改めた。

彼は僕が思うよりも、ずっとずっと、少年らしいのかもしれない。

「次から弁当は昼に屋上まで持って来い」

「教室じゃ駄目?」

「周りがうるせーんだよ」

たしかに、あの状態の中で弁当を受け取って食べるのは辛いだろう。そしてこれは僕が最初に考えていたことだと思い出し、苦笑した。いつの間にか僕は、自覚していた以上に図々しくなっていたらしい。

「次も食べてくれるんだよね?」

「教室に毎日持ってこられるのはうぜーんだよ。主将にも言われたし、仕方ねーから食ってやる」

そうか、これからも弁当を持ってきていいんだ。もう空にして持って帰らなければならないという義務感も焦燥感も覚えることはないのだろう。そう思ったら安心して、同時に日暮黒哉がすごく可愛く思えてきた。

「そっか、じゃあまた。次の授業頑張ってね、黒哉」

「気安く呼ぶんじゃねーよ」

彼にそう言われて、僕は自然に彼を名前で呼んでいたことに気づいた。そして、これからもっと自然な接し方ができればいいという願望を持つようになっていた。

この日を境に、僕と黒哉の関係は少しずつ変わっていくことになる。けれどもそれは同時に、僕と黒哉の内面を互いに知っていくことにもなるのだった。それがどういうことになるのか、この時の僕は想像すらできていない。

 

 

連日の事情聴取が、精神を削っていた。答える言葉は疲れで段々いいかげんになり、警察はオレを叱りつけた。被害者はこっちだというのに。

 

高校に入学して何日も経たないうちに、オレは親を亡くした。受験料やら入学金やらを払ってくれ、自分も疲れているのにオレを励ましてくれた母親は、もうこの世にはいない。オレが学校に行って、部活で竹刀を振っている間に、古いアパートの一室で惨殺された。

母親以外に身寄りはなかった。親戚付き合いなんてものもなく、産まれたときから先日まで、ずっと二人きりで暮らしてきたのだ。これから独りで生活していくために、母親の職場仲間だった人に頼み込んで、いくつか割の良いバイトを紹介してもらった。誰かの世話になるのはそれだけにしたいものだと思った。

突然で、慌しくて、泣く暇なんて全くない。そういう環境のおかげで、警察よりもしつこい報道関係の奴らに無様な姿を見せずに済んだ。どうせそのうち飽きて付き纏わなくなるだろうと思っていた。

しかし、事件はオレが考えていた以上にややこしくなる。容疑者の妻だったという女が、オレのところに来たのだ。

自分がどうやって生まれたのかは、母親から聞いて知っていた。不倫だの愛人だのという面倒な関係の末にオレが生まれて、男はオレと母親を見捨てた。理由は考えるまでもなく、子供ができたことがあの男にとってかなり不味いことだったというだけだ。そいつが今更現れて、母親に金を要求し、思い通りにならなかったからと殺してもおかしくはない。

けれどもその後の展開で、あの男の本妻がオレを引き取ろうとするのは全くおかしいことだ。誰から聞いたのか、あの女は元夫の愛人の息子には身寄りがいないということを知って、養子にさせてくれと言ってきた。自分にも息子がいる、父親が同じなら兄弟ではないかと。あの男の血を意識したいはずはない。そんな血で繋がっている奴なんて、兄弟と思いたくない。オレは女に怒鳴り、もう二度と来るなと言った。

だが、女は出て行かなかった。これからどう生活していくかとか、食事はどうするんだとか、そういったことをオレが答えるまでしつこく聞いてきた。あまりにも真剣で、答えないわけにはいかないような気がした。

「全部答えたんだから帰れよ」

「その前に一つお願いがあるの」

まだあるのか、とうんざりしながらその内容を聞いた。極力他人の世話にならないと決めたばかりで、それが頓挫させられるような「お願い」だった。でも、きっと頷かなければ女は帰らなかっただろう。一応了承した振りをしたが、受け入れるつもりはなかった。

昼食だけでも作らせて欲しい。息子は同じ学校だから、届けさせる。女の言葉はそのまま実現された。

クラスの奴らのよそよそしい視線に曝されながら、オレは初めてそいつを見た。あの男の子供で、あの女の言うオレの「兄」――背は大して高くなく、あの女によく似ていた。手には大きめの布で包んだ何かを持っていて、それをオレに差し出そうとした。受け取るわけがない。そのまま無視して教室を出て、いらないという意思を見せたつもりだった。

けれどもそいつは追ってきて、しつこく声をかけてきた。あの女とそっくりだ。

「君の兄にあたるんだけど」

こういう、嫌な表現も。こいつはオレを弟だなんて思ってるのか? そんな気持ちの悪い事があってたまるか。一度も逢ったことがないのに、ただ半分同じ血が流れてるってだけで兄弟だとか、そんなのは馬鹿げている。しかもその血はオレの母親も、そいつの家族もめちゃくちゃにした男の血だ。それを認めるのか、こいつは! これ以上オレを混乱させるな。あの男の血を意識させるな。お前が関わると全てがおかしくなるんだ。

 

これだけ拒否すれば、もう来ることはないだろう。そう思っていたのに、そいつ――常田在は、懲りずに弁当を持って訪ねてきた。学校のある日は毎日教室まで持ってきて、オレは何度も追い返す羽目になった。その度にクラスの奴らがひそひそとささやきあう。それが一ヶ月近く続いていた。

こうして溜まった苛立ちを落ち着かせるために、部活はちょうど良かった。

小学生の頃からずっと続けていた剣道を、高校でもやりたくて入部した。この学校は剣道が強いということは入学前から知っていたし、むしろそのために第一志望校をここに決めたのだ。

だが、入学してまもないうちに状況が変わってしまった。一時は部費のことや、アルバイトを優先させることを考えて、辞めようかとも思った。けれどもそうさせない人がいたのだ。それが主将の水無月先輩だった。

「好きなら、できるだけ続けない? 練習なら、僕はいつでも付き合うから。奨学制度とかもフルに使えば、学費も部費もそれほど心配しなくてよくなるかもしれないよ」

 中学のときは県大会上位常連であり、高校に入ってからは全国大会へも頻繁に出場しているこの人は、オレのことを気にかけてくれていた。ただ同情するのではなく、ごく自然に接し、助けてくれた。オレは他の多くの部員がそうだったように、すぐに主将を信頼するようになった。

「黒哉」

その日も、水無月主将に声をかけられた。高校三年生の男子にしては高めだが、不快ではない穏やかな声。見た目も大人しそうで、とても武道の実力者には思えない。しかし竹刀を交えれば、それが事実であることはまさに痛いほど思い知らされるのだった。

「今日もバイトだと思うけど、ちょっとだけ時間とれない? たまに話でもしたくて」

「いいですよ。何ですか?」

 オレが了承すると、主将は壁に寄りかかりながらにっこり笑った。癒しの微笑みと呼ばれるそれを向けられると、誰しも気持ちが落ち着くという。オレもその一人だ。

 けれども今日はそこに、心配そうな表情が含まれていた。

「黒哉、ちゃんと栄養摂ってる? お昼何食べた?」

「売店でパン買って……」

「パンばっかりじゃ偏るよ」

主将はオレの事情を知っているから、昼飯に気を使うほど余裕がないことはわかっている。本当ならこんなことは言わないはずだ。

「じゃあどうすれば良いんですか」

「お弁当食べた方がいいよ。せっかくあるんだし」

「そんなのどこに……」

どうして急に昼飯の話なんかしたのか、思い当たる理由は一つだ。主将があの常田在と交流があることはなんとなくわかっていた。一緒に生徒会室から出てくるのを見たことがある。あいつが何か言ったに違いない。だから主将が言う「弁当」は、あいつが持ってくる弁当のことだろう。余計なことをしてくれる。

「ちゃんと食べないと、剣道もバイトも力入らないよ」

主将はあくまであいつの名前を出さないつもりらしい。義理堅いところもこの人の長所だが、今回の場合は余計なお世話だ。それでも文句を言えないのは、そのあくまで穏やかな口調の所為だろう。

部活が終わってからバイトに行き、疲れてアパートに戻る。この生活にも慣れてきた。ただ、いくら働いても、今後のことを考えると金がどうしても足りない。奨学金もすぐに入るものではないし、学費だけで精一杯だ。食料を得ることも難しくなってくる。

「仕方ねーな……」

この考えに辿り着いてしまうことは、正直言って癪だ。だが、こうするしかなかった。ここで飢え死にするわけにはいかないのだから。

結局オレは主将の言うとおりにすることにした。

ついでに文句も言ってやらないと気が済まない。いつも通り馬鹿みたいに、少しの狂いもなく三時限目終了後に現れた常田在を一度追い返して、必要最低限の発話で屋上に呼び出す。あいつが言葉の意味に気づかず、屋上に来なければ昼飯は抜きだし、文句も言えない。それはわかっていたが、まだ面と向かってまともに話をする気にはなれなかった。

昼休みに教室を抜け出して、立ち入り禁止の屋上へ向かう。薄暗く狭い、階段の行き止まり。目の前には扉。隅に落ちている針金を鍵穴に差し込むと、簡単に音をたてた。不自然に存在する、鍵開け専用としか思えない針金。誰かが頻繁に忍び込んでいるのは間違いない。そいつが来ないことを祈りながら、ドアノブを捻った。

吹き込んでくる風と、目につき刺さる光。軽く頭痛を覚え、眉を顰める。嫌になるくらいの晴天で、喧嘩を売られたような気分になった。曇りならまだ良かったのに。こんな天気の下で他人の作った弁当を食うなんて、想像すると寒気と吐き気がした。

床を睨みつけながら、あいつを待つ。待ちながら、オレが知っているあいつを思い返す。

名前は常田在で、学年は一つ上の二年。主将と交流がある。その程度、それだけの存在で、オレと関わりを持つような人間ではないはずだった。それがあの男の所為で狂った。あの男が現れなければ、オレもあいつも余計なことを知らずに済んだ。たとえあいつが知っていたとしても、オレと関わる必要はなかった。……嫌なことを思い出して気持ちが悪い。

そういえば、あいつは遅すぎる。昼休みが始まってから、十五分近く時間が経っている。弁当を持ってくるときは律儀なくせに。まさか、「屋上立ち入り禁止」をクソ真面目に考えて迷っていたりしないだろうな。

入ってきたドアを開けると、オレの考えがそのままそこに再現されていた。常田在はドアに背を向けて、階段に足を下ろそうとしていたところだった。

「遅い」

オレの言葉に振り向いたそいつは、多分驚いていた。表情がよく読み取れない。読み取るつもりもなかったが、オレがドアを開ける前に考えていた行動は図星だったらしかった。

腹が減っていたから弁当をひったくって、包みを解いた。

あの迷惑な申し出から一ヶ月、オレは初めてその弁当箱を開け、中身を見た。ごく普通の、どこにでもあるような内容。オレの母親が作った弁当とそう変わらない。もしかしたら母親が生きていて、こいつに弁当を持たせているんじゃないかという、都合のいい想像までしてしまう。何かの事情でオレの前に姿を現すことはできないが……などという、到底ありえない非現実的なストーリーを作り上げる。

だが、その幻想は一瞬にして崩壊した。壊したのは、弁当を口にするという選択をした、オレ自身だった。不味くはないが、所詮他人が作ったもの。全く馴染みのない味。オレに喪失を再確認させるには十分だった。余計な感情をかき消すために、弁当箱を空にする。味を感じないように、咀嚼もほどほどに飲み込む。不味くない。寧ろ美味いと思う。突きつけられる現実が苦すぎるだけだ。

そうして中身のなくなった弁当箱を持ってきた奴に押し付ける。何故か礼を言われ、曖昧に返した。

生活についての質問もされたが、こいつが知っても仕方ない。答える義務もない。訊きたい事があるのはこっちの方だ。

「お前、主将に何言った」

余計なことを話していれば、この場で殴り倒すつもりだった。他人には何の関係もないことを勝手に話されるのなんてごめんだ。

「お弁当を受け取ってくれないって事くらいしか言ってないけど」

「何で弁当なんか渡さなきゃならねーのか、その辺は気にされなかったのか」

普通なら詮索するものだ。そしてこいつは、訊かれればバカ正直に答えそうに見える。信用できるはずがない。相手を睨んで、どうなんだよ、と圧力をかける。

しかし、こいつはちっとも怯まなかった。それどころか、笑っているようにも見えた。

「水無月先輩はそういうことを尋ねる人じゃない。気になっても僕には訊かないよ」

疑うオレに、こいつは常識的なことであるようにそう言った。オレがそれを知らないはずはないと、信じているかのようだった。見透かされているようでいい気分はしなかったが、こいつの言うとおりなんだ。主将はそういう人で、だからこそオレは主将と話せるんだ。

その主将と親しいこいつは、果たして信用に値する人間なのだろうか。見究める価値があるかどうかもわからないが、あからさまに嫌悪するべき対象ではないかもしれない。寧ろそうすることで、主将に面倒をかけるかもしれない。そうなるくらいなら、表面上だけでもこいつに接していた方がいい。

「次から弁当は昼に屋上まで持って来い」

弁当くらいなら食ってやる。どうせタダなら利用してやる。そういうつもりで言ったのだが、常田在は笑っていた。その顔が、弁当を作ることを了承した時のこいつの母親にそっくりで、何故か胸が痛んだ。

「じゃあまた。次の授業頑張ってね、黒哉」

「気安く呼ぶんじゃねーよ」

勝手に名前を呼ばれたのに、不思議と嫌悪感は抱かなかった。