母親が死んだときには泣きじゃくったのに、父親が死んだときは一滴の涙も出なかった。何が違ったのか考えてみると、出てきた答えは実にシンプルで、母親のときは俺が幼く心の準備も全くできていなかったのに対して、父親のときにはすでに成人していたし覚悟も準備も十分すぎるほどにできていた。
思えば父親は計画的な人だった。母が死んでからより計画と展望を意識するようになった。けれどもそれを子供の俺に押し付けるようなことはなく、ただただ自分のスケジュールに沿って日々を暮らしていた。もちろん俺や他の要因の所為で立てていた計画が駄目になることはあっただろうけれど、きっと頭の中では積み木を組み直すように、新しい計画表を瞬時に書いていたんだろう。
その計画の中には、ちゃんと自分が死ぬまでの時間が組み込まれていて、いつまでに何をしておけばさあ最期だというときに俺が困らなくて済むだろうとよく考えられていた。実際、俺が困ったことといえば、父親が頼んでいない援助を伯父が申し出たことくらいだろうか。
父親の計画は、皮肉にも商店街が寂れて人がいなくなることまで織り込み済みだった。だからどんなに店の売り上げが落ちようと、近い将来商店街が丸ごとなくなろうと、俺は生きていける算段になっていた。結局未だに頼ってはいないけど、代わりの仕事まで用意しておくなんて、過保護にもほどがあるんじゃないだろうか。
そんな父親の計画と展望を、俺は白紙にしてしまうかもしれない。
朝、支度をしておもてに出ると、向かいの店はシャッターが閉まっている。もとは書店だったそこは、三か月ほど前に閉店した。せっかく跡取りがいて、選書のセンスも良かったのに、残念だった。うちに来たお客さんにもっと宣伝しておけば良かったなと、今も後悔している。
人が来ないうちにドアとショーウィンドウを拭いて、店内のジオラマがよく見えるようにしておく。この町をそのままミニチュアにしたようなこれが、うちの看板になってくれる。けれども全く同じというわけではなくて、新しい建物は反映させるが、昔あったもので残しておきたいものはそのままにしてあったりする。ちょうどこの商店街にあたる部分は、店がたくさんあって人の往来が多かった頃のままにしてあるから、実際より随分賑やかだ。
数少なくなってしまったご近所さんに挨拶をしながら、俺が父親から引き継いだこの模型店は開店時間を迎える。平日の朝から来る人はなかなかいないので、しばらくはレジカウンターでパソコンを起動させつつ新聞を読んだり、キーを叩きながらかわりばえのしない商品棚を眺めたりして過ごす。今日もそうしようと思っていた。
ところが、ここで父親も生前に予想できなかったお客さんがやってくる。
「あの、おはようございます……」
そっとガラス戸を開けて、沈んだ声で挨拶をしながら入ってきたのは、この何か月かで常連になってくれた中学生だ。
「おはよう、詩庵」
平静を装って返すと、中学校の制服を着た高村詩庵は申し訳なさそうな表情で頭を下げた。学校に行けない日は、こうして悪いことをしてしまったというような顔をしてここに来る。学校の帰りに寄るときは安心したようにここに来てくれるのだけれど、朝や昼から来るときはまるで元気がない。
そもそもここに来てくれるようになったきっかけは、詩庵の不登校にあった。俺はいつ来てくれても、どんなお客さんでも歓迎するつもりでいたのだけれど、詩庵が初めてこの店に近づいたときには声をかけられなかった。思い詰めた顔でガラスの向こうからジオラマを見る少年は、こちらが気づいた素振りを見せたらもう二度と来てくれないような気がしたのだ。
だから店に招き入れたのは、それが続いて少ししてから。雨の日はさすがに中に入った方がいいだろうと判断したからだ。良かったことには、以来、詩庵がここに通うようになってくれた。ばつが悪そうにやってきては、店の手伝いをしてくれる。整理していなかった棚を片付けてくれたのは、正直いって本当にありがたかった。
この店に頻繁に来てくれるというだけでも、十分に嬉しかった。俺はこの貴重なお客さんに、父親がコレクションしていたカップから淡い黄色のものを選んで、茶を淹れることにした。――かつて父親が常連客にそうしていたのを真似しているのだ。
優しい光のような色のマグカップは、詩庵に似合っていたし、こいつ自身の緊張も和らげているようだった。我ながら良い選択をしたと思う。
今日も詩庵をレジカウンター前にスツールを置いて座らせ、いつものカップで茶を淹れた。自分の分と一緒に盆に載せて運んでくると、詩庵はスツールには座らずに、ハタキを持って店内をまわっていた。いつも掃除をしてくれるのは、とても助かる。
「詩庵、掃除はちょっと落ち着いてからでいいぞ」
「すみません、動いていないと落ち着かなくて。……学校、さぼりに来たのだし」
後半はよく耳をすませなければ聞こえないくらいの声だった。ここに来るようになってからずっとそうなのだろうけれど、詩庵には学校へ行かないことへの罪悪感があるようだ。行かないでここに来た日は、詩庵は自分で勉強をしているから、学校ぐらいなんだと俺は思うのだけれど。
でも詩庵には詩庵なりの考えがあって、本当は学校に行った方がいいと思っているのだろうから、俺はそれができた日には褒めている。詩庵が自分で設定した目標を達成したことに対して、「偉いな」と言う。もしかしたら詩庵は、学校へちゃんと行ったことを褒められていると思っているのかもしれないけれど、そうじゃない。
詩庵が落ち着くのを待って、レジカウンターを挟んで向かい合って座り、少しぬるくなった紅茶を飲む。茶菓子に同じ商店街にある菓子屋で買ってきたカステラのようなものを出してみたが、詩庵は手をつけなかった。学校に行かなかった日は、こいつは絶対に菓子を食べようとしない。
「……テストの結果が、返ってきてて」
しばらくすると、俯いたまま話し始めるので、俺はそれに耳を傾ける。
「学校にあまり来ていないのに、どうして点数が下がらないのかって、言われるんです。そんなのはずるいって」
「自分で勉強してるのに? ずるいことなんかないだろ」
「でも、みんなは学校に通って、学校で勉強をして、その結果を出してるのに。僕はここに逃げて、自由に時間を使ってます。それはやっぱり、ずるいことなんじゃないかって。自分ではわかってるのに、そうやって噂をされて、白い目で見られるのが怖くなって、今日は学校に行きませんでした」
これじゃだめですよね、と言う詩庵に、昔の自分が重なった。もちろん昔の俺は詩庵ほどには勉強ができたわけではないし、学校に行きたくはなかったけれどそれは詩庵とはちょっと違う理由で、この少年の抱える悩みが理解できているわけじゃない。
でも、みんなと同じじゃなくちゃだめなのかっていう思いは、常にあった。
「だめじゃないよ」
そう人に言えるようになったのは、いつからだったか。言う相手ができたのは、詩庵がここに来るようになってからだけれど。
「ここ最近、毎日放課後まで頑張ってたからな。疲れたのかもしれない」
甘やかしている、と人には言われるだろう。いや、実際に言われた。しっかり者の従妹が、そうやって俺を叱る。でも、他に詩庵を甘やかしてやれる他人がいないなら、俺くらいはと思う。
やっていることの全部が報われるとは限らないし、やらなければいけないことは必ずある。それを無視して生きていくことはできないし、そうしようとしたらどこかで必ず躓いて、立ち上がれなくなったりもするだろう。そんなこと、俺が改めて言わなくたって、この賢い少年はちゃんとわかっているはずだ。わかっているから悩んでいる。
「週末まで、放課後までちゃんと学校にいられたら、空深さんにまた泊めてくださいってお願いするつもりでした」
「そっか、そうだったのか。……それは惜しかったな」
俺も惜しいし、詩庵も惜しい。俺はいつでも歓迎するのに、詩庵自身がそれを許さない。ここでは、それで十分なんじゃないだろうか。
「大丈夫だ、詩庵。俺はいつでもここにいるから」
また目標を達成できたら、報告しに来て、褒美でも何でもねだってくれればいい。
午前中は茶を飲んだあとで詩庵と一緒に店を掃除し、正午の合図で昼食をとった。俺はいつも同じようなチャーハンばっかり作るのに、詩庵は一言も文句を言わない。それどころか調理の手伝いをした上に、もう一品おかずを足してくれる。
それまでのあいだ、とうとうお客さんは詩庵一人だった。午後からも人が入ってくる気配はなく、そもそも商店街を人が歩いている様子がない。俺は外を眺めながらジオラマに手を加える。最近郊外に新しくできたというスーパーを再現しようと、このところちょっと頑張っているのだ。
詩庵は奥の居住スペースで勉強をしながら、たまにこっちを見に来る。店に入って来るようになってから、ジオラマを見る目は思い詰めたものではなく、きらきらした輝きを持つようになっていた。それを感じるのを嬉しいと思いながら、父親譲りの手先の器用さを駆使する。自慢できることは少ないが、これだけは堂々と胸を張れる。
そうしているうちに時間は流れ、学校の授業が終わる時間になると、ようやく詩庵が緊張を解く。それからまもなくして、この店にやっとお客さんが来た。
「空深さん、来たぜ!」
ガラス戸を開けて元気に入ってきたのは、陽本一慶。父親が生きていた頃からこの店に出入りしていた常連で、当然こいつ専用のカップもある。が、昔のものは一旦割ってしまったので、一年くらい前に新しいのを出してやった。暗い赤色で、把手だけが黒い、戦隊ヒーローのリーダーのマスクみたいなやつだ。
一慶は小さい頃から特撮が好きだった。それが今となっては本格的に趣味となり、ときどきこの店を通してグッズを買ってくれる。良いお客さんに育ってくれて、昔から知っている身としては大変嬉しい。
「一慶、いらっしゃい。今日はいつもより早いな」
「本当は午前授業だったんだけど。いろいろやってたらいつもと変わらない時間になったんです。今日は空深さんに頼みごとがあって……できれば詩庵にも協力してほしい」
「こんにちは、一慶さん。協力って、何をすればいいんですか?」
詩庵とも会ってすぐに仲良くなってくれた。一慶は自分の趣味を恥ずかしがって隠してはいるけれど、基本的には人当たりが良くて、誰にでも可愛がられるタイプの人間だ。この明るさに、こっちがどれだけ助けられているか。だから頼られたときは、精一杯応えたい。
「クラスのヤツの家で、子猫産まれたんすよ。でも飼えないらしくて」
「飼い主の募集か」
「そう。とりあえず写真撮って、それでポスターみたいの作った。この店と、あと詩庵の学校でも貼ってほしいんだけど……」
大丈夫かな、と一慶が取り出したのは、印刷してきたばかりらしい、まだ熱の残る紙。商店街入り口のコンビニで刷ってきたんだろう。四匹の、まだ目も開いていない子猫が可愛い。
その写真の上には「里親募集」と大きく書いてあり、下には一慶の名前と電話番号があった。
「クラスメイトのとこの猫だろ? なんで一慶の名前で募集してるんだ」
「一旦オレが引き取ってるからです。猫、捨てられそうだったんで」
不穏な言葉に、思わず顔を顰めてしまった。一慶から詳しい説明を引き出すと、どうやらクラスメイトが子猫を捨てようとしているということを聞いて、そんなことをするくらいなら自分が里親を見つけると割り込んだらしい。ちょっと前なら「こんな話を聞いたんだけどどうしよう」という相談をここに持ってきていたのに、まず行動に出るとは。そこには感心したが、そうでもしないと一刻を争う状況だったからというのが大きいだろう。
猫を引き取り、貼り紙を作って、それからここに来たというわけだ。
「親猫から引き離しちゃったのは可哀想だけど、捨てられるよりはと思ったんです。うち、昔猫飼ってたし。本当は五匹いて、一匹は家で育てることになりました」
「そういえばそうだったな」
返事をしながら、一匹は俺が引き取ろうかと思った。猫一匹だったら、きっと問題ない。それを言う前に、詩庵が困った顔で「学校……」と呟いた。そうだ、ポスターを貼るためには、詩庵は明日必ず学校に行かなくてはならない。
「できるだけ早く、みんなが良い家にいけたらいいんだけど」
独り言のように、けれども強い願いを口にする一慶を見て、詩庵が唇を噛む。丸一日休んでしまった後に、学校に行ってポスターを貼る許可をもらうのは、詩庵には難しいのかもしれなかった。こればっかりは俺が助けに行ってやることもできないので、詩庵の判断に任せるしかない。
とりあえず一慶が印刷してきたポスターを、ショーウィンドウから見られるように貼ろうかと受け取ったそのとき、再び扉が開かれた。
「あ、陽本君、やっぱりここに来てた」
走ってきたのか、肩で息をしながら、北條華絵ちゃんは安心したように微笑んだ。この町に引っ越してきて間もなく、しかも方向音痴だという彼女が、この店に急いで辿り着けるようになったのは嬉しい。俺が「いらっしゃい」と言うと、丁寧に頭を下げて「こんにちは」と返してくれた。
「陽本君なら、きっと空深さんを頼ると思って。猫の話、聞きました?」
「ああ、聞いたよ。これからポスターを店に貼って、一匹は俺が引き取ろうかと思ってたところ」
俺がそう答えると、華絵ちゃんは目をまんまるにし、一慶は瞳を輝かせた。詩庵は顔をあげ、やっぱりそうきたか、という顔をする。俺の考えもだいぶ読まれてきたな。
「空深さんが引き取ってくれるなら、願ったりかなったりだけど……」
「そうね。動物を飼ってた経験はあります?」
華絵ちゃんの問いに俺が頷くのと、「あるわよ」という声がしたのは同時だった。華絵ちゃんを、というより一慶を追いかけてきたんだろう。ドアを開けて、俺の従妹である久遠皐月と、そのクラスメイトで最近常連になった水瀬瑛次が、店の中に入ってくる。手には一慶が持っていたのと同じポスターがあって、俺はここまでの経緯を推理する。
おそらく、一慶は猫を預かってポスターを作ってから、皐月と瑛次、華絵ちゃんを呼び出したのだろう。あるいは一慶とクラスメイトとのやりとりを、同じクラスである皐月たちが見ていたのかもしれない。とにかくできあがったポスターは、一慶が「貼れるだけ貼ってきてくれ」とでも言って、皐月たちに配ったのだ。
一慶がこの店に来たのは、それからだったんだろう。たぶん。
それはともかく、猫の話だ。うちでは父親が生きていた頃、ほんの一時期だけだったが、たしかに猫を飼っていた。そのことは皐月と一慶がよく知っている。
「正確にはおじさまが飼っていたんだけど、空深君も世話をしてた。一慶もそのことを知ってたから、空深君を頼ってきたんだよね?」
「……まあ、ちょっとだけ期待はしてた」
皐月の強い口調に、一慶はたじたじになってしまう。幼馴染のこの二人の関係は、昔からあまり変わっていない。皐月が勝ち気すぎて、子供っぽいと思われがちな一慶をよく守ろうとしていた。
「あまり空深さんばかりあてにするな。だいたい、猫を全部引き取った時点でお前の行動はめちゃくちゃだったんだ」
小さくなった一慶に、瑛次が追い討ちをかける。いつまでたっても、一慶の「だってさあ……」の先はなかった。
わかるよ。捨てられてしまうところだった猫が可哀想で、いてもたってもいられなかったんだよな。そこで立ち止まらずに、動く勇気を持てるようになった一慶を、俺は褒めてやりたい。
そしてそんな一慶を放っておかなかった、皐月と瑛次と華絵ちゃんも。
なんてことを考えていたら、皐月は矛先をこちらへと変えた。
「空深君、自分の生活もやっとなのに、猫を養えると思ってるの? 軽い気持ちで俺が引き取れば良いやなんて考えないで」
だよな、皐月ならそうくると思った。毎月一回だけ、俺に「生活費を渡す」という名目で、この店を訪れているのだから。それ以外の用事で来ているのは、いったいいつ以来だろう。
「皐月が思ってるほど困窮してないぞ」
「信じられない。なんでそんなことが言えるのよ」
皐月はまだ知らない。毎月渡しに来る「生活費」が、本当は名前だけのもので、封筒にはいつも伯父からの手紙しか入っていないということを。伯父から受けている援助は、俺の様子を見て、もしものときに即座に対応できるように準備をしておいてくれているだけだということを。様子を見て報告するその役目を皐月に任せているのは、以前のように、俺と仲の良いいとこ同士に戻ってほしいからなのだ。年齢を重ねるにつれて、皐月は俺と距離を置くようになったから。
俺も皐月も、距離があったところで問題はないのに。伯父はいろんな意味で心配性なのだった。
「とにかく、猫も一匹ならうちで引き取れる。一慶のところとここで、二匹は決まったな。あと三匹の里親を募集しよう。……でもまあ、その前に」
しっかり者すぎる従妹の痛い視線を躱し、俺は店の奥へと足を向ける。何も言わずとも、詩庵もついてきてくれた。
「いつものメンバーが揃ったんだ。一旦落ち着いて、お茶の時間にしよう」
俺が笑ってみせると、皐月は呆れたが、他のみんなは少しホッとしてくれたようだった。
皐月には昔から使っているピンクのマグカップ。父親が選んでから、ずっとこれが専用のカップだ。
他は俺が選んだもの。瑛次にはクールな見た目に似合う、濃い藍色のロングマグ。華絵ちゃんには花柄の縁取りがしてある白いカップ。清楚な彼女に似合っていると思う。
それと一慶用のカップを出して、詩庵と俺のも洗い直し、新しい茶を淹れた。香り高い紅茶は、父親が好きだったものだ。アメリカ人だったが、コーヒーよりも紅茶の方が好きな人だった。
六人分のカップと、常備している同じ商店街の店で買った菓子を盆に載せて、レジカウンターまで運んでいく。作業は詩庵にも手伝ってもらった。
カウンター周りにはもうスツールが用意してあって、めいめい好きな場所に座っている。ちゃんと詩庵の場所も、一慶の隣に用意してあった。お客さんたちが座る場所はいつも変わるが、カウンターの内側だけは俺の場所と決まっている。
いつもなら皐月が「カウンターが汚れたらどうするの」と文句を言うところだが、今日は猫のほうが気がかりらしく、あまりうるさく言わなかった。
「あと三人って空深君は言ったけど、募集はやっぱり四匹分かけよう。猫を飼ってくれる人が現れたら、その人が優先。それでいいよね、空深君」
てきぱきと話を進める皐月に、俺は頷く。うちはどうしても猫がいないと困るというわけではないから、異論はない。
「ポスターはこの店と、それから詩庵の学校でも貼ってくれるように頼んだ。あ、うちの学校にはまだ言ってないや……」
菓子に手を伸ばしながら、一慶は眉を寄せる。一番身近なところを忘れていたらしい。けれどもそれを、深い深い溜息を吐きながら、瑛次が救った。
「俺と久遠で言ってきた。生徒会の許可も貰って、とりあえず玄関前の大掲示板に一枚貼ってある」
「おお、たまには役に立つな、生徒会!」
「たまに、とはなんだ。まず手近なところからいけ、猪突猛進男め」
いつものごとく睨み合いをはじめる一慶と瑛次を、華絵ちゃんはまるで気にすることなく、紅茶を飲んでから話を進めた。
「商店街の他のお店にも頼めないでしょうか。空深さん、伝手はありますよね」
「ある。でも、そもそもこのあたりは人があまり来ないからな……。郊外のショッピングセンターの掲示板、たしか借りられたはずだから、あそこにも貼らせてもらおうか」
どうせなら、人が見るところのほうが良い。この寂れた商店街では、今回のケースではあまり役に立てないのだ。とても悔しいことだけれど。でも、事務用品店と菓子屋には話をしてみることにした。
「ポスターも、この枚数ならさばききれそうだな。一慶の住んでる区域の回覧板で見てもらうことはできないか?」
「町内会長さんに頼んでみるっす。ていうか、もしかしたら町内会長さんが猫欲しがるかもな。このあいだ、長いこといたばあちゃん猫が死んじゃったってがっかりしてたし」
「そう簡単に気持ちが切り替えられるかな。……でも、協力してくれないってことはなさそうだね」
高校生たちがそれぞれ考えを出しながら菓子をつまむ一方で、詩庵だけは菓子には手をつけず、ポスターを見つめながら黙り込んでいた。
やっぱり、学校に行って手続きをするというのは、難しいだろうか。昔の俺だったら、しなかったかもしれない。大人の伝手に頼って、自分の学校に頼みごとをするということは極力避けただろう。もしかしたら、自分が仲介役をしなければならなくなるだろうし。
「それにしても、水瀬が生徒会に話をするなんて珍しいな。今まで役員のくせにパシリばっかりやってたじゃん?」
横目で詩庵を見ていたら、一慶がカップを持ったまま瑛次に喧嘩を売っていた。いや、きっと一慶には悪気はなかったのだと思うが、瑛次は顔を顰めた。
「パシリじゃない。買い物などの頼みごとをされることが多いだけだ」
「それがパシリだってんだよ。でも、それが今回は逆に水瀬が頼みごとをして受け入れられたんだから、良かったじゃん」
そういえば、瑛次はよく生徒会のおつかいのついでとかでこの店に来てくれていたっけ。随分とおつかいが多いなとは思っていたけれど、そういう役割だったんだろうか。ここに寄ることで、少しでも瑛次の気持ちが楽になっていたらいいな。
「俺が一人で頼んだのではないからな。久遠の押しが強かったおかげだ」
「水瀬君が信頼されてるからでしょ。こういうのは日々の積み重ねから来るものなの。突然割り込んで『その猫全部俺が引き取る!』なんて啖呵切るような一慶とは違うのよ」
「でも、あのときの陽本君、かっこよかったよ。それに陽本君が動かなきゃ、皐月ちゃんが動いてたでしょう?」
高校生たちの話から、推理の答え合わせをする。そうして、実にこいつららしい行動だと思った。それでいて、成長している。少なくともこの店に愚痴を言いに来ていたとは思えないほどの行動力だ。
俺もそれに応えないとな、とポスターを貼る位置を考えていると。
「……あの。僕も、ちゃんと協力したいです。みなさんを手伝って、猫が生きていけるようにしたいです」
詩庵が、声を絞り出すようにして、そう言った。
自分のカップを両手で包みこむようにして、自分の胸に引き寄せて。そして、手元を見るように垂れていた頭を、ぐっと上げる。
そこには、この少年がここに来るようになってから初めて見る、強い強い瞳があった。
「僕、今日、学校に行かなかったんです。みんなから白い目で見られるのが嫌で、ここに逃げてきたんです。……そういうことは、今日だけじゃなく、これまでにも何度もありました」
一慶たちが、ぱたりとお喋りを止めた。驚いたような顔で詩庵に注目し、それからちらりと俺を見る。特に皐月の視線は厳しかった。このことを知っていたのかと、知っていてどうして放っておいたのかと、尋ねたいんだろう。
でも、今は詩庵が話している。だから誰も、何も言わない。当人以外は。
「空深さんはそんな僕を、何も言わずに受け入れてくれました。学校や家に連絡をするのが普通のことのはずなのに、そうしませんでした。僕が訪ねたら、いつも待っていてくれたんです」
それは、昔の俺がそうだったからだ。同級生に陰口を言われたり、無視されたりしていたときに、俺は学校を飛び出して家に帰ってきていた。父親がレジカウンターにいて、お客さんが来ていた、この店に。
すると父親は「おかえり」と言って、それから紅茶を淹れて持ってきたんだ。今も使っている、ミントグリーンのロングマグ。当時の俺には少しだけ大きかったけれど、今はちょうどよく手に収まるようになってしまった、この長い付き合いのカップに。
そして言った。「学校に行けば、学校での勉強や学校での人付き合いの仕方を学べるだろう。でも、ここにいたって、ここでの勉強やここでの人付き合いの仕方が学べる。必要だと思った方を、自分で選びなさい」と。
俺はそれが正しいと思って、詩庵にも同じように接していたつもりだった。来るなら待っているし、学校に行くなら見送ってやる。頑張ってきたなら褒めてやる。それでいいと思っていた。
けれどもそれは俺が父親の真似をして勝手にしていたことで、詩庵にとって良かったのかどうかはわからない。
詩庵は俺を、みんなを見て、続けた。
「僕は空深さんがここで待っていてくれるのが嬉しかった。ここで力を蓄えたら、学校で頑張れると思ったんです。そうしてなんとか、少しずつ、学校に行けるようになって……でも、今日みたいに全然行けない日も何日かはあって。それでも空深さんは、僕を叱ったりしませんでした」
皐月が人の話に口を挟めるようなタイプだったら、この時点で俺を叱り飛ばしていただろう。でも、そうはしなかった。
たぶん詩庵が、こう言葉を継いだからだ。
「僕はそんな空深さんに、甘えすぎちゃいけないんです。自分でちゃんと、どうしたいか選ばなきゃ。どうしなきゃいけないのか決めなくちゃ。一慶さんにポスターのことを頼まれたとき、僕は学校に行くことを迷っていたけれど、今は、他がだめでも今回は逃げてる場合じゃないって思います」
自分で道を選んでくれたから、それ以上は誰も何も言わないでいい。これは詩庵の決めたことだ。
「明日、必ず学校に行って、猫の飼い主を探します。僕には一慶さんみたいな勇気も、皐月さんみたいな信頼も、瑛次さんみたいな落ち着きも、華絵さんみたいな愛嬌もないけれど。それでも精一杯やってみます」
宣言してから、俺を見上げる。ちょっと強気な笑顔を浮かべて。いつのまに、こんな表情ができるようになったんだろう。
「空深さんにたくさん元気をもらったから。たくさんの人に出会わせてもらったから。僕はそれを大事にしたいんです」
詩庵はもう、昔の俺より、そして今の俺よりも、強い少年になっていた。
自分の弱いところを認めて、それでも勇気のいる選択をすること。父親は俺がそうしてくれることを願って、俺がすることを許してくれていた。全てを計画した上で。
不登校も、アメリカ行きも、大学を中退して帰国したことも、父親は全く責めなかった。それが俺の選択ならと認めてくれて、ただ俺が後悔しないようにということだけを思っていた。
父親の残した計画書の最後には、こう記されている。――選択次第で、白紙にしてくれてもかまわない。
計画の上では、俺は早々にこの店だけで生計を立てることが難しくなり、店をたたんで別の仕事をすることになっている。今頃にはそうなっているはずだった。
けれども俺はそれを覆すことにした。詩庵がこの店を訪れるようになってから、絶対にこの店をたたんではいけないと思うようになったから。だってここは、
「ここは僕の、僕らの居場所です。いつでもここにあって、ここで待っていてくれる空深さんがいるから、僕はもう少し頑張ってみようって思えました。みなさんも、そうだったんじゃないですか?」
詩庵がそう言ってくれるような場所にしたかったんだ。
みんなが頷いてくれる、拠り所になる場所をつくりたかったんだ。
店の状態を保ち続けるために、インターネット販売を始めてみたり、昔からの常連さんの頼みを可能な限り引き受けたりして、俺はこの店を守ろうとしてきた。父親の「そのうち潰さざるをえなくなるだろう」という考えをひっくり返したかった。
だって父親の計画は、白紙にしても良いものだったから。白紙にすることすら、計画のうちだったのだ、きっと。
父親は、どこまでも計画的な人だった。
翌日、詩庵は宣言通り、学校に行ったようだった。放課後に、明るい顔をして店にやってきて、学校の掲示板にポスターを貼る許可を得たことを報告してくれた。そのミッションをクリアした褒美といってはなんだけれど、今週末はうちに泊まることになった。
一慶も瑛次と口喧嘩をしながらやってきてくれた。早速猫が欲しいという人から連絡がきたようで、任せて良いものか面接をして判断をするということだった。
その面接官の一人にいつのまにか計上されていた、と文句を言いながら、皐月が華絵ちゃんと一緒に店に来た。昨日の今日だからかもしれないが、生活に関する用事以外で連日来てくれるのは、父親がいなくなってから初めてのことだ。
俺はみんなを歓迎して、詩庵に手伝ってもらいながら、紅茶と茶菓子を準備する。「そういう店じゃないでしょ、ここは」と皐月に文句を言われつつ。
賑やかなお喋りを、今日はレジカウンターの内側でではなく、ショーウィンドウ前に置いたジオラマに向かいながら聴く。作りかけていたスーパーマーケットは一旦そのままにしておいて、商店街の部分を弄りたくなったのだ。
ちょうどこの店にあたる部分の傍に、小さな人を置いた。昨夜のうちに加工をしておいた、高校の制服を着た男女四人と、中学の制服を着た少年を。我ながらよくできたものだ。
「これ、僕らですよね。空深さんはいないんですか?」
いつかジオラマの中に入りたいなどと言っていた詩庵に尋ねられ、俺は笑って店を指さす。
「俺はほら、この中で待ってるから」
「なるほど」
いつだって、いつまでも、ここにいる。ここで待っている。古い匂いとたくさんの箱やパッケージに囲まれた、大きなジオラマのあるこの店で、訪れる人を歓迎する。
それが俺の選んだ、俺の役割だ。計画上は長くこの店を続けて人を集め、展望としては誰もが「帰ってこられる場所」にしたい。父親の計画書に、俺は自分でそう書き加えた。