相変わらず寂れた商店街を、トートバッグを肩から提げて歩く。あんまりおしゃれな格好は、この場所には似合わないので、お気に入りのものじゃなくていい。
今から向かう場所も、特に服装や持ち物に気を遣わなくていい場所なので、着ている洋服だってTシャツにジーンズ。昔からそうだ。それこそ、おじさまが店を始めた頃から。――その頃私は赤ん坊だったから、自分で服を決めていたわけではないけれど。ああ、でも、幼稚園に通うようになってから少しの間は、精一杯のおしゃれをしようとしていたかもしれない。
なにしろそこには、私の大好きだった人がいたのだから。
日曜日の商店街はほとんどの店が休みで、灰色のシャッターが並んでいる。もうすっかりたたんでしまった店と、ただ単に休業日の店との区別がつかない。ふと気がつくと、いつのまにか閉店してしまっているところもある。年月が経つごとに、この場所は良くない意味で古くなって、綻びて、人がだんだんいなくなる。私が幼い頃はもう少し活気があったような気がするけれど、遠い記憶の彼方という感じで、あれが果たして現実だったのか夢だったのかも曖昧だ。
今たしかなのは、まだ営業を続けていて今日も店を開けているお菓子屋さんのどら焼きが変わらず美味しいということ。それからその近くにある店に、最近になって人が集まりつつあるということだ。
外側に張り出したショーウィンドウの向こうには、この町を模したジオラマ。新しい建物などができるたびにその様相も更新されるので、今となっては元のジオラマと同じものといえるのかどうかわからない。たしかそんなパラドックスがあったような気がするのだけれど、思い出せない。
ショーウィンドウの横の、ガラスの扉を開けると、プラスチックや紙、塗料の匂い。きれいに並べられたプラモデルやフィギュアの箱の数々(並べ直されたのは最近だ)と、小さな部品のパッケージ、カードの入った小さな袋、カラフルな塗料の瓶。なかなか減らないそれらの中には、もしかしたらプレミアのついているものもあるかもしれない。いくつか選んでオークションにでも放り込んだほうが、普通に売るよりもお金になるかも。
そんな模型たちを見渡せるように備え付けられたレジカウンターには、商品ではなくお菓子とお茶のカップ。カップは全部デザインが違っておもしろいのだけれど、ここが喫茶店ではない以上、相応しいものではない。
そしてレジカウンターを囲むようにして座っている面々。彼らはお客であることには変わりないのだけれど、一人を除いてここで買い物をしない。みんな目的は模型ではなく、店主なのだ。私が入っていった途端に一斉にこちらを見て、ぎくりとした顔をする。店主まで。
「……何。そんなあからさまに不味い奴が来たって顔しなくても」
私が溜息を吐きつつ言うと、各々がしどろもどろに弁解を始める。
「いや、そんな顔はしたつもりはない」
「不味いとも思ってないぞ。……ちょっと説教があるかなとは思ってるけど」
「……」
「よう、皐月。今、茶を淹れてくる」
おや、弁解は二人だけだった。一人は黙りこくって、店主は暢気に店の奥――居住スペースに引っ込んでいこうとする。それを捕まえて、私は「ちょっと」の「説教」を始めた。
「空深君、カウンターで飲食するのはやめなよって何回も言ってるよね。ここは何のお店よ。商品が汚れたらどうするつもり? 掃除はちゃんとしてるみたいだけど、そのたびに散らかしてたらキリがないでしょう」
何度も言っていることなので、台詞は淀みなくぽんぽんと出てくる。それに店主――私の従兄である空深君が困ったように笑うのも、いつものことだ。
天然の金髪に、耳にいくつもついたピアス。灰色のようでほんの少し青みがかった瞳。私の父の妹と、アメリカからやってきたおじさまのあいだに生まれた人。初めて会う人は見た目でまずどう接するべきかを悩み、それから彼が日本語を話せることがわかってホッとする。そのあと、彼があまりに明るくて優しい人であることに感動するのだ。……ただの人なのに、どうしてだろう。空深君には人の心を掴む何かがある。昔から。
だから私もうるさく小言は言うけれど、「ちょっと」しか言えないのだ。空深君に毒気を抜かれて、追及を諦める。諦めた瞬間に、この場所に集まったお客たちは安心したように息を吐くのだった。
今いるお客は三人。私のクラスメイトであり幼馴染である、陽本一慶。同じくクラスメイトで、つい最近まではそれ以外の接点がなかったはずの水瀬瑛二君。中学生で、この店に平日休日問わず入り浸っているらしい高村詩庵君。この三人が、それぞれ専用のカップとお茶菓子が載ったレジカウンターの前に、スツールを置いて陣取っている。こんなんじゃ、本当に買い物に来たお客さんが困るだろう。とはいえ、そんなお客さんはめったに来ないのだけれど。店としては残念ながら。
専用のカップというのは、空深君が親しい人にお茶を用意するときに選ぶ、その人のイメージに合わせたデザインのカップだ。だから見た目がバラバラなのだ。一慶のは黒い取っ手の赤いカップ。水瀬君のは藍色のロングマグ。詩庵君のは丸みのある黄色のマグカップ。そしてカウンターに置かれたままの空深君のカップは、爽やかなミントグリーンのロングタイプ。
空深君は結局、私の小言を聞いたあと、いそいそと奥に引っ込んでしまった。そのあいだに私は、買い物をするでもなくただここに集まっているお客たちに視線を向ける。
「一慶、今日は何か買いに来たの?」
「いや……なんとなく来た」
罰が悪そうに目を逸らす幼馴染の次は、普段は真面目な生徒会役員。
「水瀬君は、また空深君に何かお礼?」
「……そんなところだ」
眼鏡を直して、きまり悪そうに俯いた。さて次は、容赦なく中学生。
「詩庵君、今日もお店手伝いに来てくれたの? いつも掃除ばかりさせてるんでしょう、ごめんね、空深君があんなで」
「いえ……僕は好きでやってるので」
こっちを見ない肩は震えている。空深君に遠慮なくずけずけとものを言う私が、この子は怖いのだ。私は怖がらせるつもりなんかなかったんだけどな。
一通り声をかけたところで、外からガラスの戸が開いた。全員で注目すると、そこにはクラスメイトの女の子の姿。私を見て一瞬目を丸くしたあと、にっこりと笑って紙袋を差し出した。
「こんにちは。……あの、シフォンケーキを焼いたので、空深さんと詩庵君食べないかなと思って。ホールのまま持ってきたから、陽本君と水瀬君と、皐月ちゃんの分もあるよ」
「華絵ちゃん……」
だからここはそういう店じゃないんだって、という言葉を飲み込んで、私は笑顔を作る。たぶん歪な表情になってるんじゃないか。北條華絵ちゃんは、不思議そうな顔をして首を傾げていた。
ここは模型店なのだけれど、模型目当てでやってくるのは一慶くらいで、あとはみんな空深君に会いに来ている。それぞれの事情を抱えて。いや、一慶だって空深君に会いたいからここに来ているのだ。
ここにくると気持ちが楽になる。たぶんそれがみんなに共通していること。空深君に感じる安心感を得たくて、足がこの店に向く。――それを私は、「甘えに来ている」と思っている。
一慶は同士の少ない趣味の話や、自分が情けないという愚痴を空深君に許してもらっている。
水瀬君は厳しくて息が詰まりそうな自宅や、後輩を使い走り程度にしか思っていない生徒会から逃げてきている。逃げて空深君に受け止めてもらっている。
華絵ちゃんは転校してきたばかりでまだ慣れない町で、居場所を、自分を受け入れてくれる場所を求めてここに来る。空深君なら無条件で受け入れる。
詩庵君は学校での嫌がらせや家庭での寂しさから逃れてここに来る。ときには学校に行かずに、朝からこの店にいる。それでも空深君は何も言わずに、この子を置いておくのだ。
どんな人でも空深君は歓迎する。大きく手を広げて、「いらっしゃい」と言う。そんなだからこの店は、店としての機能を失いながら、シェルターとしての役割を持つようになる。弱い心を弱いまま甘やかして、ただただ優しい笑顔を訪れる人に向けるのだから、それを求める人が集まってくるのだ。
「おまたせ。華絵ちゃん、いらっしゃい」
奥から、カップを二つ載せたお盆を手に、空深君が戻ってくる。華絵ちゃんの声を聞いて、急いで用意したのだろう。華絵ちゃんのは花模様の入った白いカップ。そして一緒に運ばれてきた私のカップは、桃色をしたシンプルな形。
私のと、それから空深君のカップは、空深君が選んだものではない。おじさまが――空深君の亡くなったお父さんが、私たちに選んでくれたものだ。他のものよりも年季が入っている。
お茶菓子に華絵ちゃんの持ってきたシフォンケーキが加わって、私も仕方なくスツールを、華絵ちゃんと私の分を引っ張りだして、カウンターの脇に置いた。
カウンターでのお茶会は、空深君が始めたものではない。おじさまが生きていた頃、私や一慶がここに遊びに来ると、決まってお茶とお菓子を用意してくれた。それからずっと続いているのだ。
お客さんが来たら、速やかに除けて店の体裁をとる。そして空深君と私は店の手伝いをしているふりをしたり、一慶はお客さんと模型の話をしたりしながら、楽しい時間を過ごしていた。
そう、楽しかった。あの頃は商店街も今より閑散としていなくて、この模型店にももっと人が来ていた。見た目がわかりやすく欧米人なおじさまは、その人柄から敬遠されることなく商店街の人気者だったし、空深君も大人と異性には好かれていた。
長い時間いてくれるお客さんには、私たちと同じように、お茶が供された。おじさまが選んだカップで、お客さんは美味しそうにお茶を飲みながら、自分の趣味の話を好きなだけして、笑顔で帰っていった。
私はそんな店が好きだった。この模型店が、模型店としての役割を果たしつつ、おまけをつけているのがいいなと思っていた。今思えば、おじさまはうまくやっていたと思う。
そもそも、このお店はおじさまが、おばさまが亡くなってから始めたものだった。おばさま、つまり私の父の妹は、体がそれほど強くなかったのだ。彼女が病気を拗らせて死んでしまって、おじさまはたいそう寂しい思いをしたのだという。それまで勤めていた会社を辞めてしまうくらいに。けれどもそれでは空深君と二人で生きていくのに困るので、おじさまは生活のため、寂しさを紛らわせるために、大好きな模型の店を始めた。この町のジオラマを作ってショーウィンドウから見えるようにし、店の看板代わりにした。よくできたジオラマは商店街でも評判となった。
町に何か新しいものができるたび、ジオラマにも新しいものが増える。つくりものの町は、それは模倣品なのだけれど、ちゃんと生きていたのだ。おじさまと一緒に。
ジオラマと紅茶――アメリカ人ではあったけれど、おじさまは紅茶が好きだった――、それからおじさまの笑顔が、この店に来る人々を迎えていた。売り上げはそこそこにあり、店を開くときにおじさまが私の父から借りたお金は、順調に返済されていった。
全額返済されたのと、おじさまの病が発覚したのは、ほぼ同時だったらしい。というのも、おじさまの病気のことはおじさま自身しか知らなくて、私たちがそのことを知った頃には、もう手遅れだったのだ。空深君は当時アメリカの大学にいたのだけれど、おじさまが倒れたので、辞めて帰ってきた。
それから去年おじさまが亡くなるまでは、本当にあっというまだった。そのあいだに店をどうするのかという話もしたのだけれど、おじさまは「好きにしていい」と空深君に言った。
だから空深君は、自分の好きにすることにしたのだろう。おじさまのしていたことを、そのままそっくり引き継いだ。引き継ごうとしている。けれどもこの商店街そのものが、おじさまの辿ってきた歴史をそのまま引き継ぐというわけにはいかなかった。去年の時点で、もう相当に寂れていたのだから、どうしようもなかった。
今、この店が店でいられるのは、私の父の援助のおかげだった。父は妹が大事で、その夫も可愛がっていたので、この店が周りと同じように綻びていくのは放っておけなかったのだ。――私はその援助の一つである、空深君が生活するのに不自由ない分のお金を、こうして毎月届けに来ている。
そんなことをしなくてはならないことを情けなく思いながら、寂しく思いながら、私は毎月ここに来る。昔より随分お客さんが減って、代わりに空深君と話がしたいだけの、店の売り上げにはなんにも貢献しない人が増えたこの店を訪れる。
いや、人が来るようになっただけいい。少し前まで、本当にこの店に立ち寄る人はほとんどいなかったのだから。空深君と、彼がおじさまから引き継いだジオラマだけが静かな呼吸を続けるこの店は、しばらくのあいだ、少しばかり残った常連さんと、相変わらず模型や特撮ヒーロー、そして空深君が好きな一慶がかろうじて足を運ぶだけだった。あとは空深君の生活を支えるために、私が、以前より楽しくない気持ちで扉を開ける。
それに比べたら、今の状況は、少しは良くなっているのかもしれなかった。
でも本当は、私は、この店に店としてのかたちを取り戻してほしいのだ。傷ついた人のシェルターであることは悪いことではないのだけれど、でも、それだけではだめなのだ。
空深君が、自分で、生きられるようにならなくちゃ。私がこんなみじめな気持ちにならなくてもいいようにならなくちゃ。
だけど空深君は何を考えているのかわからなくて、私はそれに苛立つのだ。
華絵ちゃんの作ってきたシフォンケーキは美味しかった。口に含んで紅茶を飲むと、しゅわりととける。食べながらこの町に慣れたかどうか訊いてみたら、彼女は恥ずかしそうに笑った。
「未だに道には迷うよ。学校までと、このあたりだけは覚えたんだけど。いざとなったら地図もあるし」
そう言って華絵ちゃんは、手書きの地図を取り出した。空深君たちが書いたというそれは、以前にも学校で見せてもらった。この地図と一緒に、華絵ちゃんはこの店に立ち寄ったことを私に話してくれたのだ。そして、「今度は一緒にお店に行こう」と誘ってくれた。
私がこの店に来るのは、空深君の生活費を援助するためだ。それを父から頼まれているからだ。それ以外の用事で行くなんてことが考えられなくて、私はその時は曖昧に「そのうちね」と返事をした。
私の好きだった模型店は、おじさまの死を境になくなってしまったのだ。空深君のやっているのはその真似ごとで、彼に店長が務まっているとは思えない。私にはそんなふうに思えてならなかった。
そのときにはもう、詩庵君が店に来るようになってだいぶ経っていて、一慶が頻繁に店に通うようになって、水瀬君まで店を訪れていたというのに。――人がどれだけ来ても、彼らが空深君の生活を支えるのでなければ、意味がない。
生活は苦しいはずなのに、店を店として続けることも本当は難しいはずなのに、空深君自身はなぜか笑って、ここに逃げてくる人たちを受け入れる。紅茶とお菓子でもてなしてまで。
カップを傾け、複雑な思いでいる私に、近くの店の最中の袋が差し出される。顔をあげると、一慶が「これも食えよ」と言った。
「昔から、皐月これ好きだっただろ。おじさんに貰うたびに嬉しそうにしてさ」
「そうだったのか。ではこれからも時々買ってくることにしよう」
最中を買ってきたのは水瀬君らしい。お礼を言って、封を開ける。紅茶に最中とはちょっとおかしな組み合わせだけれど、ここでは昔からの定番だった。それを水瀬君は知っていたのだろうか。知らなくても、空深君がそうして出したことがあったのだったら、同じものを差し入れようと思うかもしれない。
最中を齧っていると、余計にこの店が店だった頃のことを思い出して、切なくなる。思えばおじさまは、同じ商店街にある店を贔屓して、お菓子やお茶、ご飯だけでなく生活用品も揃えていた。今では必要なもの全部を揃えるのは難しいほどに店が減ってしまったけれど、かつてはそれが可能だったのだ。その頃が懐かしい。
「最近、おやつには事欠かなくなってきましたよね。瑛次さんや華絵さんが差し入れてくれるので、空深さんが準備しなくてもストックはできますし」
詩庵君がシフォンケーキをちぎりながら言うと、空深君は頭を掻きながら笑った。
「そうだな。差し入れはありがたいけど、毎回じゃなくていいからな。学生に物持って来させるのはやっぱり悪いし」
「いえいえ、好きでやってるので気にしないでください」
「お世話になっているお礼ですから。空深さんは受け取ってくれるだけでいい」
「水瀬のはここに来る口実だろ」
「陽本、勝手なことを言うな」
生活の足しにはならない。店の商品を買うわけでもないし、差し入れはお菓子ばっかりだし、空深君の糊口をしのぐには至らない。そのはずなのに、みんながいる時の空深君は生き生きしている。以前の、ほとんど誰も来なかった頃よりは、確実に。おじさまが亡くなった直後と比べると、格段に。
人の不幸のはけ口にされているのに、この場所が逃げ場にされているのに、空深君は嬉しそうで、私にはそれがわからない。現状を知る身内だからだろうか。いや、それなら現状の真っ只中にいる本人が、もっと余裕をなくしていてもおかしくないはずなのに。
いとこなのに、彼のことがわからない。他の誰よりも空深君のことを知っているはずなのに理解できないことが、私には悔しい。
「どうした、皐月。最中、好きな味じゃなかったか?」
空深君の声で、ハッと我に返る。考え事が顔に出ていたらしい。ごまかすように笑おうとしたら、その前に華絵ちゃんが焦り始めた。
「もしかしてシフォンケーキが口にあわなかったんじゃ……。あの、美味しくなかったら遠慮なく残してね」
「ああ、違うの。ケーキはすごく美味しいよ。本当に」
そう、本当に美味しいのだ。ケーキも、最中も、紅茶も。誰かが相手を想って用意したものの、なんて温かいことか。
そんなことを最初に教えてくれたのは、おじさまだった。空深君もそれに頷いていた。私もそれは実感していたはずなのに、今はそれだけじゃ駄目だと思うようになってしまった。
空深君みたいに、見返りを求めずに相手を受け入れることが、無条件で良いとは思えない。やっぱり空深君の現状は変えなくちゃいけない。そう思うのは、私だけなのだろうか。
一慶がフィギュアを引き取って帰り(クラスメイトもいる前で、堂々としたものだ)、水瀬君が軽く片付けをしてから店をあとにし、華絵ちゃんがジオラマのパーツを買っていった。華絵ちゃんがジオラマに取り組んでいるのは意外だったけれど、「お店に置いてあるの見たらやってみたくなって」というので納得した。
詩庵君はいつも最後まで残る。両親の帰りが遅いので、いつも店が閉まってから帰るのは知っている。でもそれを待っていたら私がいつまでも帰れないので、彼がいるのもかまわず、私は空深君に父から預かった封筒を渡した。
「これ、今月分」
「ああ、ありがとう。……いつも悪いな」
「そう思うならちゃんと稼いで。現状のままで良いとは、空深君も思ってないでしょう?」
私に困った顔で頷く空深君を見ているから、詩庵君はいつまでも私に懐かないんだろうと思う。ただ、この場面を見ないふりをしてくれるのは、少しだけありがたい。
「じゃあ、私も帰るから。また来月ね、空深君」
「皐月」
踵を返して立ち去ろうとする私を、空深君は呼び止める。私が振り向くのを待っていたのか、少し間があくけれど、私は何のアクションもしない。だから空深君は諦めて、次の言葉を口にする。
「一か月に一度の、こんな用事じゃなくて……前みたいにもっと、寄ってくれていいんだぞ」
おじさまによく似た顔で、そう言っているんだろう。見ないから、見えないけれど。おじさまに似ているのに、おじさまほど上手く立ち回れているように見えないから、余計つらいのに。
「……暇ができたらそうする」
私はそれだけ答えて、店を出る。暇なんていくらでもあるのに、忙しいふりをする。今日みたいなお茶会が楽しくないわけないのに、遠ざかろうとする。
私がどれだけ認めようとしなくたって、おじさまは帰ってこないのに。ここにいるのは空深君で、私には見えないところで、必死にやっているかもしれないのに。私はそれを認めようとしない。
昔みたいに空深君に甘えられたら、私も空深君に素直な気持ちを言えたら、楽になるんだろうか。その分、空深君は苦しくならないんだろうか。
薄暗い空を見上げた。大好きだった、じゃない。今でも空深君のことは大好きだ。大好きだからこそ、私はこの店になかなか近づけないのだ。