横を見ればシャッター。向こう側にもシャッター。どこを見てもだいたいシャッターが閉まっている。ゲシュタルト崩壊寸前の頭をなんとか回転させて、帰り道を捜す。さて、私はどこから来たのだったか。
郊外の大型店ではなく、わざわざ寂れた商店街におつかいものを買いに行かせた母の意図は、たぶんその店が信頼できるからなのだろうけれど。私にとっては迷宮を行くようなもので、ここまで来るのにも随分とかかってしまった。この町で子供時代を過ごした母には、よそで生まれ育った私の気持ちがわからないのだ。
加えて私は……認めたくはないが、致命的な方向音痴なのだ。こんなにシャッターばかりが並んでいたら、どの道も同じに見えてしまう。どこを曲がれば大きな通りに出られるのか、すでにわからなくなっていた。
「どうしよう……
お菓子の箱が入った紙袋を提げたまま、途方に暮れる。わかりやすい目印が圧倒的に少ないこの商店街で、私がちゃんと目的の店に辿り着けたことが、すでに奇跡だったのだ。そしてもう、奇跡は使い果たしてしまった。またぐるぐるとその辺をまわりながら、なんとかして家に帰り着くしかない。
せめて誰かに道を訊けたら、と思ったのだけれど、人通りがない場所で誰に尋ねることができるだろう。店に入って、帰り道を訊くのが一番手っ取り早いのかもしれないけれど、さっき買い物をしたときに店員のおばあさんの耳がかなり遠くなってしまっているのは確認済みだ。お菓子の詰め合わせを買うのにも、かなりの労力を費やした。品物を指さして「これください」を何度繰り返したことか。
地図も何もない以上、きっと大通りまでの道を尋ねるのは難しい。他に何か良い手はないものか。立ち止まって考えながら、向かいの通りに並ぶ店(ほとんどシャッターが閉まっている)を端から眺める。すると、ある一点に目が留まった。
「あ、シャッターじゃない」
思わず呟いてしまうくらい、珍しいことだった。閉店しているのか、それとも日曜日だから休みなのかよくわからないけれど、本当にこの商店街には灰色のシャッターばかりが並んでいたのだ。そこにぽつんと、初めからあったのかどうか疑わしいくらい突然現れた、ガラス戸とショーウィンドウ。ここを通ってきたはずなのに、向かいにあんな店があるなんて気づかなかった。……こうやって周りをちゃんと見ないから、私は方向音痴なのかもしれない。
自分に呆れながら、そのショーウィンドウのほうに歩いていってみる。遠くからでは一見何の店なのかわからなかったのだ。近づいていくうちに、中の様子が少しずつはっきりしてくる。ショーウィンドウの向こう側がなんなのかわかったとき、私はハッとして立ち止まった。
大きなガラス窓を隔てて、町が広がっていた。小さな町だ。細かいパーツが崩れることなく、みっしりと並んでいる。道に街路樹、建物の群れ。そこをとても小さな人間のパーツが歩いている。一人でいるのもあれば、二人連れや団体様も見える。私が小人になったなら、そこで暮らせるかもしれない。それくらい、小さな町――ジオラマの中には、たくさんの人がいた。
振り返れば広がる現実の世界には、人影は見えないのに。その対比が奇妙で、私はついぼうっと静かなほうの通りを眺めてしまう。
母が子供の頃は、この商店街もこんなに寂れていなかったらしい。どの店もシャッターはいつも開いていて、活気にあふれた人々が呼び込みをしたり、挨拶をしたり、とにかく賑やかだったそうだ。年に数回は祭りをやって、そのときには出店がずらりと並び、近隣の町村からまでも人がたくさん来ていたのだという。
今の光景からは想像できない、夢みたいな話だ。引っ越してきたばかりの私は、この閑散としたシャッター通りしか知らずに、これからも生活していくのだろう。きっと、高校を卒業するまでの短い期間のことだろうけれど。
つくりものの町のようにこの町が活気づくことはあるのだろうか。――母が知っている町は、このジオラマの中に閉じ込められてしまったのかもしれない。あんなに懐かしそうに、楽しそうに語ってくれた町は。
もう一度ジオラマに目を戻そうとして、ショーウィンドウの向こうに人がいることに気がついた。そうか、当たり前だ。ここが店なら、開いているのなら、人がいるのが道理だ。お客だろうか、背の低い、たぶん中学生くらいの男の子だった。
あの子になら道を聞けるかもしれない。大通りまで出られれば帰れる。私はガラスのドアを開けて、その店の中に入った。

店の中は、古いものの匂いがした。けれど埃っぽかったり湿っていたりはしていなくて、きちんと掃除と換気がされていることがわかる。
棚に並んでいるのは、箱が多い。自動車やロボット、アニメのキャラクターらしき絵が描かれているそれは、プラモデルの箱のようだ。それからジオラマのパーツらしい小さな木や建物が入った袋がフックにかけられていたり、カウンターにはトレーディングカードのパッケージが箱ごと並べてあったり。塗料らしい瓶が並ぶコーナーも見える。
ここはそういう趣味の店らしいと理解する頃、耳に人の声が入ってきた。
「いらっしゃいませ」
声のした方向には、窓の外から見た男の子がいた。よく見ると手にはハタキを持っている。少し腰が引けているように見えるのはどうしてだろう。私は、そんなに怖い顔をしていただろうか。思わず頬に手をやってしまう。
男の子は私に頭を下げると、棚の裏に引っ込んでいった。その様子を目で追いながら、男の子が発した言葉の意味を考える。――「いらっしゃいませ」。ここは、彼の店なのだろうか。そんな、まさか。どう見ても中学生だ。いや、店の子供ということもあり得る。
とにかく、彼に話しかけなければ。この店の子なら、商店街から出る方法も知っているはずだ。
「あの、君……
追いかけようと一歩踏み出したとき、背後で扉の開く音がした。お客が来たのかと思って振り返って、私は思わず息を呑んだ。
真っ先に目に入ったのは、金色の髪。背が高いので、見上げなくては見えないのに。それから日本人らしくない顔つきと、そこにある青灰色の瞳。耳にはピアスがいくつか。はたして善良な市民なのか、不良なのか、判断がつきにくい。私の中では、ピアスはなんとなく反社会的なイメージだ。体に傷をつけるという行為が先行して連想されるからかもしれない。
けれどもその人は、優しげな笑顔で、穏やかな声で、私に言った。
「いらっしゃい。初めてのお客さんだな」
ああ、この人は怖くない人だ。たった一言で、私にはわかった。
……はい、初めてです」
返事をするあいだに、その人は抱えていた荷物をレジカウンターに置いた。「いらっしゃい」という言葉と、この遠慮のない行為は、彼が店の人間であるということを証明しているように見えた。
「模型に興味が?」
続けて尋ねてくる彼に、私は首を横に振り、それから慌てて言い訳をする。
「あの、道に迷ってしまって。大通りに出る道を訊こうと思って、ここに来たんです。お菓子屋さんで訊こうとも思ったんですけど、なんだか私の声が聞き取りにくいみたいだったから……
「ああ、今の時間は大奥さんが出てるからな。買い物するのも大変だっただろ」
私の提げている袋を指さして、彼は困ったような笑みを浮かべた。私は曖昧に笑って返して、それから「道を」ともう一度言った。
「ああ、大通りまででいいのかな? 紙に書いたほうがいい?」
「お願いします。ここまで来るのにも、母の説明だけでなんとか辿り着いたんですけど、ものすごく時間がかかっちゃって……
「ここは目印が少ないからな。慣れた人じゃないと、同じところをまわり続けるはめになる」
会話から察したのだろうか、彼は私が「慣れた人ではない」とすぐに判断してくれたようだった。レジカウンターに入り、紙とペンを用意して、ペン先をつうと滑らせる。けれども、紙は白いままで、ペン先で掘られた溝の陰影だけが残った。
「あれ、おかしいな……乾いたか?」
紙の端でぐるぐると円を何度も描こうとするけれど、インクは一向に出なかった。ペンを振ったり、先を拭いたりしてみたけれど、結果は変わらない。そのうち諦めたのか、彼は溜息を吐いてから、レジカウンターから出てきた。手にはスツールを持って。
そして立ったまま紙を覗き込んでいた私に、座るように勧めてくれた。
「女の子を立たせっぱなしでごめんな。ちょっと座って待っててくれ、新しいペンを持って来る」
「なんだかすみません」
「気にしないで。詩庵、俺の机に新しいボールペンはないか? インクが切れた」
彼は呼びかけながら、さっきカウンターに置いた荷物を抱えて、店の奥に行ってしまった。ちょっと首を傾けて覗いてみると、奥には店ではない部屋があるようで、その手前にさっきの男の子がいた。彼と話をしながら奥に入っていき、それからしばらく戻ってこない。ぽつんと残された私は、周囲をもう一度見渡した。
棚に並べられた箱。カードのパック。ショーウィンドウの前のジオラマ。古めかしい、どこか懐かしい匂い。――母は、この店を知っているだろうか。プラモデルやカードに興味があるような人ではないから、入ったことはないかもしれない。そもそもこの店は、いつからあったものなのだろう。
思いめぐらせていると、外から何やら言い合いをする声が聞こえてきた。こちらに向かってきている。この商店街に、他にも人が、それも若者らしい人がいるのかと、少し驚いた。
「空深さーん、こいつ日曜なのに来るんだけどー」
「来る来ないは俺の自由だろう。陽本には関係ない」
もっと驚いたのは、その声が店に入ってきたことと、彼らが私の知っている人たちだったことだ。私と目が合うと、彼らも同じ表情をした。
「あれ、北條さん? なんでここに?」
「北條も模型が好きなのか」
「陽本君に水瀬君。あなたたちこそ、どうして……
互いに目を瞬いていると、奥から「詩庵、紅茶追加だ」と声がした。紅茶? ペンを取りに行ったはずなのに?
私が不思議に思っているそのあいだに、陽本君がレジカウンターからスツールを二脚取りだして、勝手にカウンターの前に座った。水瀬君は「勝手なことをするな」と言いながら、自分もスツールに座る。二人がこんなやり取りをするなんて意外だ。学校では言葉を交わしているのを見たことがないのに。
彼らは私のクラスメイトだ。いや、正確には彼らがいるクラスに、私が転校してきたのだった。中途半端な時期に転校してきた私に、水瀬君は生徒会役員だからと校則を教えてくれ、陽本君は幼馴染だという女の子と一緒に校内を案内してくれた。だからすぐに名前と顔を覚えたのだ。学校の中のどこにどの教室があるのかは、まだ曖昧だけれど。
とにかく一週間ほど教室内で様子を見ていても、陽本君と水瀬君が一緒にいることはなかったと思う。普段話さないのに仲が良いということもあるのだろうか。
「あの、陽本君と水瀬君は、よく一緒にここに来るの?」
黙っていると気まずいので、二人に話しかけてみる。すると二人とも嫌そうな顔をして、「違う」と即答した。声はばっちり揃っていた。
「オレはここの常連だったんだよ。そうしたら水瀬が、突然通い始めて……大した用もないくせに」
「お前にだって用はないだろう。俺は生徒会の買い出しのついでに、空深さんと高村に挨拶しに来ているんだ」
「今日、日曜じゃん! 生徒会の買い出しなんかないじゃん! ていうか、生徒会そんなに浪費してていいのかよ?!」
私の目の前で、陽本君は水瀬君につっかかり、水瀬君は陽本君に対して冷静に答えているようで、どこかむきになっているように見える。二人の意外な関係を目の当たりにして、ちょっと面白いなと思ってしまった。
私が笑ったのを陽本君は不思議そうに、水瀬君は怪訝そうに見る。似ているようで違うのだ。
そうしていると、奥から男の子が菓子鉢を抱えてやってきた。私には硬かった表情が、陽本君たちを見ると安心したように緩む。
「一慶さん、瑛次さん、よく毎回飽きずに同じことで喧嘩できますね」
「や、詩庵。オレは水瀬に真っ当なツッコミを入れてると思う」
「世話になった人に挨拶をするのは当然のことだろう」
水瀬君は鞄から丸くて平たい缶を取り出して、カウンターに置く。よく見るクッキーの缶だ。その横に男の子が菓子鉢を置いて、水瀬君に頭を下げた。
「いつも差し入れありがとうございます」
「余りものだがな」
「嘘つけ。ここに来る口実にわざわざ買ってるんだろ」
「余りものだ」
真偽のほどはわからないけれど、というか陽本君の言い分が正しそうなのだけど、彼らがこの店によく来るということはよくわかった。陽本君はいつも賑やかだなと思って見ていたからこのやりとりも自然なのだけど、水瀬君はクールな人だと思っていたから、ギャップがすごい。妙にツボに入ってしまって、笑いが止まらなくなってしまった。
そんな私を、陽本君と水瀬君、それから男の子は、唖然として見ていた。そんな視線を感じる。でも、笑うのをやめられなかった。
……北條さんって、そんなに笑うキャラだったっけ」
「もっとおとなしいと思ってたんだが」
転校してきたばかりで、近所の道も学校内の構造もわからない私は、実はずっと緊張していた。だからこんなに笑ったのは久しぶりで、自分でも止めどころがわからない。声をあげて笑う私を、きっとここにいる人たちは変に思っているだろう。
そうしているあいだに、奥からかちゃりという音がこっちに近づいてきた。優しい声も一緒だ。
「何か楽しそうだな。いらっしゃい、一慶、瑛次。彼女と知り合い?」
金髪の人が、大きなお盆を持って戻ってきた。お盆の上には、良い香りのするカップが五つ。全て違うデザインだった。ふわりと漂う甘い匂いを吸い込むと、笑いも落ち着く。
「空深さん、こんにちは。えと、この子はこのあいだウチのクラスに来た転校生」
「お邪魔しています。彼女は北條華絵さんといいます。……紹介してよかったか?」
水瀬君の確認に、私はこくこくと頷く。すると今度は陽本君が、金髪の人と男の子を順番に差しながら、彼らのことを教えてくれた。
「このでかい人が、ここの店主の空深さん。そんでこのちっこいのが、店を手伝いに来てる詩庵」
「ちっこいっていうのやめてください。一慶さんだってそんなに背は高くないじゃないですか。……ええと改めまして、高村詩庵です」
陽本君に抗議しながら、男の子は丁寧に頭を下げた。こちらもつられて、座ったまま礼をする。
空深さんと詩庵君。二人の名前を口の中で繰り返しながら覚えていると、レジカウンターにカップが一つずつ置かれていった。
「よろしくな、華絵ちゃん。模型には興味ないかもしれないけど、ここの場所は覚えといて損はないぞ。今度商店街に用ができたときに、目印にできるから」
急に名前で呼ばれても、なぜか空深さんだとびっくりしなかった。それが自然、というか。不思議な感覚におそわれながら、私は「はい」と返事をする。しかし、究極の方向音痴を自負している私に、店の場所がわかるだろうか。
カップが全てお盆の上からなくなり、カウンターあるいは誰かの手に収まる。私も空深さんから、カップを受け取った。紅茶がゆるりと揺れてきれい。それだけじゃなく、カップも素敵だった。縁と取っ手に小さな花の模様が描かれている、白くて丸みのあるカップ。上品な見た目に、思わずうっとりしてしまう。
カップを眺めていたら、「冷めるぞ」と促されたので、いただきますを言ってから一口飲む。ほんのり甘いけれど、後味が爽やかだ。あんまり美味しいので、また笑みがこぼれた。
「なるほど、空深さんの見立ては正しい」
「白地に花模様か。北條さんに似合ってるな」
「このカップ選ぶのに、随分時間かけてましたよ。あれでもないこれでもないって。だから紅茶の準備がなかなか終わらなかったんです」
男の子たちが私の持っているカップを見ながら、口々に言う。どうやら空深さんという人は、選ぶほどカップを所有していて、そこから人に似合うものを選んでいるらしい。なるほど、彼らのカップもそれぞれによく似合っている。
陽本君のカップは濃い赤に黒い取っ手。ちょっとかっこいい。水瀬君のは藍色のロングマグ。いつもは冷静な(さっきは面白かったけど)水瀬君らしい。詩庵君のカップは丸みのある、淡い黄色。態度は大人びているけれど、見た目はまだ全然子供な彼に、これを選んだのか。そして空深さん自身が手にしているのは、ロングタイプのミントグリーンのカップ。爽やかな色味が、彼に似合っている。
私のために時間をかけて選んでくれたカップが嬉しくて、頬ずりしたくなる。ここに来れば、またこのカップでお茶が飲めるのだろうか。――模型のお店なのに? なんだか可笑しくて、また笑えてきた。
「さっきからよく笑うな、北條さん。実は笑い上戸?」
菓子鉢の中のお菓子に手を伸ばしながら、陽本君が尋ねる。私は照れ笑いで返した。
「実はそうなの。ちょっとしたことでも笑いが止まらなくなっちゃって。最近は引っ越してきたばかりで緊張してたから、こんなに笑ったのは久しぶりだけど。……それとね、恥ずかしいんだけど方向音痴で、このお店には帰り道を教えてほしくて寄ったの」
それだけのつもりだったのに、気が付けばお茶までごちそうになっている。ここの人たちは、私を巻き込むのがとても上手だ。緊張も不安もすっかりほどけて、引っ越してくる前の、自然な私に戻っている。
振り返ると、ショーウィンドウ前にジオラマが広がっている。あの小さな町を見てから、まるで魔法にかかったみたいな展開が始まったのだ。
「北條もジオラマが気に入ったのか」
「も、ってことは水瀬君も?」
「あれは目を引く。高村もジオラマ見たさに店に通ってたそうだ」
「僕の場合は瑛次さんや華絵さんとはちょっと違うと思いますけど」
外の寂しさが嘘みたいに、わいわいと楽しい店内。お茶を飲んで、お菓子を食べて、話をして、ときどきは喧嘩もして。こんな場所が、この町にはあるんだ。
お母さんの知っている町は、こんなふうだったのかもしれない。この空間が、かつてはこの商店街いっぱいに広がっていたのだ。その中で育ったから、お母さんは商店街のお店を信頼し、私におつかいに行かせたのだろう。誰かに道を訊けば、絶望的方向音痴な私でも迷わずに行って帰ってこられるだろうと思って。道を教えてくれる優しい人が、きっとここにいると信じて。
お母さん、この町は変わっちゃってたよ。商店街はシャッターだらけだし、帰り道を捜すのにも一苦労する。でもね、残っている人は、きっとお母さんの知っているそのままなんだろうって思う。
「華絵ちゃん、お菓子も食べていけよ。そのあいだに地図描くから」
「ありがとうございます。……あの、このお店から大通りまで、わかりやすくお願いします。またここに来られるように」
よしきた、と空深さんが胸のポケットからボールペンを取り出し、レジカウンターに向かって、紙に地図を描き始めた。今度はちゃんとインクが出ているようで、さらさらと描き続ける。それを覗き込みながら、陽本君が、水瀬君が、詩庵君が、ここには何があるだとか、こっちの道を行ったほうが近いだとか、口出しをする。出来上がった地図は、私にも読めるものになっているだろうか。

「長いこと引き留めちゃってごめんな。これで多分、帰れると思う」
空深さんがくれた地図には、色々な情報が書きこまれていた。この商店街の、どこにどんなお店があって、目印になるかとか。このお店のお菓子が、果物が、美味しいとか。大通りに行くまでも、実は楽しみがいろいろあるようだ。
引っ越してきた私にとって、これは一番のガイドになりそうだった。
「この商店街、シャッターが閉まっているお店ばかりだと思ってました。どこを見ても同じだって。でも、実はそうじゃないんですね」
地図を撫でながら私が言うと、空深さんたちは苦笑して顔を見合わせた。
「昔はもうちょっと賑やかだったんだけどな」
「ここ何年かで、店がばたばた閉まってさ。書きこんだ店イコール生き残ってる店って考えていいと思うぜ」
「寂れていくばかりで何の対策もされていない町だが、北條が気分良く暮らせることを祈っている」
「退屈したら、ここに来れば良いんです。店主と常連客が、また笑わせてくれますよ」
カップに紅茶を淹れて待っているから。その言葉が嬉しい。私は地図を胸に抱きしめて、頭を下げた。
「ありがとうございます。また遊びに来ますね。男の子の楽しい時間を邪魔しちゃうのは悪いけれど……
「男ばっかりなのが気になるなら、皐月と一緒に来ればいいよ」
私が顔をあげるのと、空深さんからその名前が出るのは同時だった。皐月ちゃん。陽本君と一緒に私に学校内を案内してくれた、同じクラスの女の子。それで合ってるかどうか陽本君に視線で確認したら、肯定が返ってきた。
「そうそう、久遠皐月な。皐月は空深さんの従妹だから、ここにもたまに来る」
皐月ちゃんは転校してきたばかりの私のこともよく気にかけてくれる、こっちで一番最初にできた友達だ。まさかここでもつながりがあったなんて。
やっぱり、この店と縁があったのかもしれない。今日迷子にならなくても、そのうち辿り着くことができたのかも。そんなふうに考える。
そうだったらいいなあと、考える。
明日学校に行ったら、皐月ちゃんにこの店のことを話してみよう。もっと色々なことが聞けるかもしれない。
そんなことを思っていないと、外に出た瞬間の、町の静かさが寂しい。私はショーウィンドウの向こうのジオラマを、もう一度振り返る。そうすると、町の人々の行きかう気配や、賑やかな声が、どこかから漂ってくるような気がした。
地図を見ながら、帰り道を歩く。昔はたくさんの人が集っていたはずの、商店街の通りを。