この町の商店街は寂れている。とくに町おこしをしようという気配もなければ、全て取り壊してしまうなどという思い切った話もない。ただただ下りたシャッターを並べて、数少ない客を待っている。
自治体の怠慢がありありと見えるこの通りが、俺は好きではない。だが一介の高校生が口を出して何になるというわけでもないから、ますます閑古鳥の鳴く声ばかりが響くのを、見ているだけだ。
ただ、この商店街に昔からある事務用品店では学割がきくので、それは大いに利用させてもらっている。学校で必要な備品のほとんどは、この事務用品店で揃えさせてもらっているので、そういう点では貢献できているのかもしれない。
今日もボールペンやセロハンテープ、糊や模造紙といったこまごまとしたものを買いに、俺は事務用品店を訪れた。不愛想な店主に学生証を見せると、全て一割引きになる。品物と領収書を受け取って店を出ようとすると、従業員である店主の奥さんが俺を呼び留めた。
「いつもありがとうね。これ、生徒会のみんなで食べてちょうだいな」
煎餅の詰め合わせを、未開封のまま渡される。奥さんはよくこうして菓子を持たせてくれるのだが、正直荷物になるので勘弁してほしい。だが俺以外の生徒会のメンバーにはこのおまけが好評なので、礼を述べて受け取る。しばらくは生徒会室に、煎餅を齧るうるさい音が響きそうだ。
今度こそ事務用品店を出ると、さっきまで青かったはずの空に、暗雲が立ち込めていた。そういえば、今日はにわか雨に注意するよう、天気予報でいっていたような気がする。こんなときばかり当たるだなんて、心の底から迷惑だ。傘はないし、袋からはみ出している模造紙を濡らすわけにはいかないので、急いで学校に戻らなければ。
だが無情にも、雨粒はこちらをめがけて落ち始める。とにかく模造紙を守りながら、俺は近くの店の庇に避難した。途端に雨は強くなり、身動きが取れなくなる。
幸いにも、黒い雲のさらに向こう側には青い色が見えている。風向きから考えても、今頭上にある黒雲が通り過ぎてしまえば、移動できるようになるだろう。ただの通り雨だ、時間が無駄になるのはいただけないが、少しの辛抱だ。水滴のついてしまった眼鏡を一旦外してハンカチで拭き、もう一度かける。
憂鬱ながらも一息吐いたところで、真横のショーウィンドウが目に入った。外側に張り出しているそこからは中が見える。どうやらここは、この商店街に残る「開いている店」のようだった。
窓の向こうには、町があった。小さな部品が丁寧に並べられている、ジオラマだ。なかなか精巧にできていて、思わず感嘆した。――おそらくこれは、俺が住んでいる、この町なのだ。建物の並びや街路の構成に、どことなく見覚えがある。学校や商店街もちゃんとあった。
他にすることもないので、何となしにそのジオラマを眺めていると、突然背後から扉の開く音がした。俺の背中にぶつからないようにという配慮なのか、わずかに開けられた戸の向こう側には、背の高い金髪の男が立っていた。
「雨宿りなら、中でどうだ? そこはちょっと狭いだろ。荷物もたくさんあるみたいだし」
顔立ちは日本人らしくないが、話す言葉は軽薄さの漂う日本語だった。耳についている数個のピアスも、彼がろくでもなさそうな人間であることを表しているかのようだ。
俺は顔を顰めてしまわないように気をつけながら、「結構です」と返した。
「そんなに長く降らないでしょうから。おかまいなく」
「でもそこにいたら、模造紙が湿るぞ。学校で使うやつなんだろうし、何かあったら困るだろ。ほら、入った入った」
ところがこちらが丁重に断ったというのに、金髪の男は俺の腕を引っ張って、無理やり店の中に引き入れた。抵抗する間も与えられないまま、目の前で扉が閉まる。もう雨の町は向こう側にあって、こちらには先ほどから見ていた縮小された町並みが広がっていた。
周りを見渡すと、箱がずらりと並んでいる。乗り物の写真がついているものや、目のやたらと大きなキャラクターやロボットが描かれているものなど、それらは全部模型のようだった。一角には塗料らしきものも見える。ショーウィンドウに展示されているジオラマの部品と思われる、極小の木がパッケージングされているものも目に入った。レジカウンターには平たい小さなパック。どうやらトレーディングカードの類らしい。
ここは俺にはとんと縁のない、趣味に特化した店のようだ。そう判断したとき、棚の陰から近所の中学校の制服を着た少年が顔を出した。
「……いらっしゃいませ」
手にハタキを持った少年は、それだけ言うと熱心に棚の掃除を始めた。いや、続けていたのだろう。手慣れた様子は、この店でそうすることが自然であるかのようだった。
だが、十五歳未満の労働ということを考えると、これは見過ごしてはいけないのではないだろうか。それともこの店は家か、あるいは親戚のもので、手伝いでもしているのか。先ほどの金髪の男と親類だとはとても思えないが。
そういえば、金髪の男は俺を引きずりこんだ後、どこに消えたのだろう。先ほどから姿が見えない。思わず眉を顰めると、奥から声が聞こえた。
「詩庵。小倉とかぼちゃとサツマイモと栗があるんだけど、どれがいい?」
さっきの男だ。あまりに暢気な、そしてこの店に相応しくない問いに呆れたのは、俺だけではなかった。
「空深さん、お客さん来てるんですよ。おやつの話は後にしてください」
小走りで奥に行ったらしい少年の声が続く。未成年に働かせておいて、あの金髪の男はいったい何をしているんだ。思わず溜息が漏れた。
いつまでも興味のない場所にいても仕方がない。雨はまだ降っているが、模造紙は乾かせば使えないこともないだろう。俺は黙って店を出ていこうと、扉のほうを向いた。
すると突然扉が外側から開けられ、客が飛び込んで来た。俺と同じ制服を着ている。
「空深さーん、雨宿りさせて! ついでに制服とか鞄とか乾かしたいのと、タオルも貸してほしい……」
急に現れて無駄にでかい声で叫んだ男子生徒は、俺に気づいて口を噤んだ。けれどもそれは一瞬のことで、すぐに表情を歪めて、こちらを指さしながらまた叫んだ。
「水瀬?! お前、なんでこんなところに?!」
「それはこっちの台詞だ、陽本一慶。何故お前がこんなところに寄り道をしている」
雨の中を走ってきたのか、びしょ濡れのまま息を荒くしているこの男子生徒を、俺はよく知っていた。同じクラスだ、嫌でも覚える。無駄に声がでかいのも、こいつ――陽本一慶の特徴だ。
「一慶、やっぱり傘持ってなかったのか。今朝は晴れてたもんな。ほら、タオル」
背後から金髪の男が近づいてきて、俺の横に立った。そして持っていたタオルを陽本と、それから俺にも差し出した。奪うようにタオルを受け取って頭を拭き始めた陽本に笑顔を向けてから、男はこちらに目をやる。
「君はあんまり濡れてないみたいだけど、一応持ってきた。いる?」
「いりません」
こちらはタオルが必要なほど濡れていない。模造紙も他の事務用品も、雨を受けずに済んでいる。けれども男はタオルを俺の背中に押し付け、叩き始めた。
「な、何するんですか?!」
「いや、制服ちょっと濡れてたから。すぐタオル持ってくればよかったな、ごめん」
それからそのあまり水分を含んでいないタオルを、今度は俺の後ろ頭に当てた。さすがに頭まで他人に拭かれるのはごめんだったので、慌ててタオルをひったくった。
「ありがとうございます。でも、自分でできますから」
「おい、水瀬。そういう言い方ないだろ。空深さんがせっかく持ってきてくれたのに」
つい口調が乱暴になったのは、自分でもわかった。だが、それを陽本に指摘されるのは腹立たしい。普段は宿題を忘れただの、次の授業で当てられそうだのと馬鹿みたいに騒いでいるやつに、まともなことを言われたくない。
陽本を睨むと、向こうも睨み返してきた。常日頃から思っていたが、こいつとは相性が悪いのだ。できれば顔を合わせたくなかったのだが、今日はなんて日だ。
そこに男――陽本はソラミと呼んでいたか――が割り込んでくる。
「まあまあ、一慶も水瀬君も、そうカリカリするなって。一慶、制服と鞄は奥で乾かしてやるから貸せ。水瀬君の荷物も、よかったら預かるけど」
「結構です」
「だからお前な、空深さんにその態度やめろよ」
「一慶はちょっと落ち着け。今、詩庵が茶を淹れてくれてるから」
俺が素っ気なく応じても、陽本が興奮しても、ソラミという男は少しも慌てたりしなかった。陽本の鞄と制服を預かると、また奥に引っ込んでいく。あんな見た目だから、俺の態度にもっと不機嫌になるかと思ったが、そんな素振りはまったく見せない。案外冷静な人物のようだ。
一方あからさまに不服そうな陽本は、俺を睨んだまま最初の質問を繰り返した。
「なんでお前がここにいるんだよ」
「いたくているわけじゃない。さっきの金髪の男性に、雨宿りをしろと引きずり込まれたんだ。出ていこうとしたらお前が来るし、こっちはとんだ災難だよ」
「あーそういうこと。お前、空深さんに助けられてんじゃん。それなのによくそんな偉そうな態度が取れるよな。びっくりだ」
不本意ながら、言葉に詰まった。強引だったが、助けられたといえばそうともいえるのだ。彼の行動のために模造紙は湿ることもなく、俺自身も外で冷たい雨を凌ぐようなことはなくなった。感謝こそしても、文句を言うようなことではないのだ。今この手にある、タオルのことだって。
陽本なんかに正論を言われて、猛烈な悔しさに襲われる。
返す言葉を見つけられないあいだに、奥から少年がやってきた。手にはマグカップと小さな包みが四つずつ載った盆を持っている。それをレジカウンターに置いてから、カウンターの向こうからスツールを三つ重ねて運んできて、丁寧にカウンターの前に並べた。
「一慶さん、お茶が入りました。お客さんも一緒にどうぞ、と空深さん……店主が申しています」
こんなところで茶だと? いや、それよりあのソラミという金髪の男は店主だったのか。あんなに派手な格好をしているのに。それ以前に、随分と若そうだった。
混乱している俺をよそに、陽本は慣れているのか、スツールに座る。その隣に、少年も座った。それから空いている席を示して、「どうぞ」ともう一度言った。
どうしていいかわからずに立ち竦んでいると、後ろから両肩を掴まれる。驚いて振り向けば、そこにはソラミという人物の姿。こうして見ると、やはり大柄だ。彼はにっこりと笑って、俺を前に押していく。
「遠慮せずに、座った座った。ここで茶を飲むのは、何も珍しいことじゃないから」
もう頭の中はごちゃごちゃだ。何を考えたらいいのかすらわからない。されるがままに、俺もスツールに腰を下ろした。
呆然としていると、盆の上のマグカップが配られる。色もデザインもバラバラのカップだ。陽本には赤いマグカップ、少年には黄色の丸みを帯びたマグカップ。カウンターの内側に座った店主は、淡い緑色のロングタイプのカップをとる。俺の目の前に置かれたのは、藍色のロングマグだった。店主のものよりは若干小さい。
「あ、水瀬のもロングタイプだ。空深さんと同じなんて、水瀬のくせにずるい」
陽本がわけのわからない文句を言う。眉を顰めながらちらりと少年を見ると、彼もなぜか少々不服そうに俺のカップを見つめていた。何だというんだ、ただのカップだろう。だいたいそんなことを言うなら、全部同じものにすればいいのに。
そんな俺の考えを読んだかのように、少年が静かな声で言った。
「お茶を飲むときのカップは、空深さん……店主が選ぶんです。その人の印象に合わせて、食器棚にたくさん並んでいる中からしっくりくるものを取るんです」
僕も最近知ったんですけれど、と締めくくって、少年は自分のカップに口をつけた。つまり店主には、俺がこのカップのような人間であるように見えたわけだ。藍色なんて、暗い色に。あんな態度をとったのだから、暗いやつと思われても仕方がないだろう。
そう思ったのだが、店主は照れたように笑った。
「水瀬君は、一目見て『お、渋いな』って思ったんだよな。だから大人っぽいのを選んでみた」
言い訳には聞こえない。これがこの人の本心らしいと、ひねくれているのを自覚している俺でもわかった。それがなぜか羨ましいらしい陽本と、おそらく少年もそうなのだろう、彼らは俺が手にしたカップをしばらく凝視していた。
こちらを刺すような視線を変えたのは、店主の声だった。
「まだ止みそうにないな、雨。すぐ止むかと思ってたのに。風向きが変わったのか?」
そういえば、雨はまだ降り続いていた。しかも激しめに。いつ戻れるかわからないので、俺は携帯電話をポケットから取り出し、生徒会長にメールを打った。事務用品の買い出しは会長に頼まれたものだったのだが、そう急ぐこともないとも言われていた。
「向こう側は明るかったので、通り雨かと思ってたんですけれど。もし帰れなかったら、ここに泊まっていってもいいですか?」
「詩庵、明日も学校だろ。泊まるなら週末にしろよ。ちゃんと準備してさ。帰りは傘貸すから」
「はい……」
叱られた子犬のようになる少年は、よほど店主を慕っているようだ。そして、陽本も。
「空深さん、これパイ饅頭? どれでもいいの?」
俺に向けた敵意はどこへやら消えて、店主に懐いている。こっちもまるで犬だ。もともとうるさい犬のようなやつだと思っていたが、ここに来るとさらにそれらしさが増すようだ。
「かぼちゃ以外ならどれ取っても良いぞ。かぼちゃは詩庵の。放課後まで頑張ってきたからな」
「ありがとうございます」
「じゃあオレ、栗にする!」
「水瀬君は? もう小倉とサツマイモしか残ってないけど」
「いや、俺は……」
店主が屈託のない笑みで、パイ饅頭の包みを両手に一つずつ持って差し出してくる。遠慮しようと思ったが、この人は俺がどちらかを選ぶまで手を引っ込める気はないらしい。首を傾げて微笑む彼に負けて、俺は小倉あんのほうを受け取った。
「……いただきます」
「食え食え。これ美味しいんだよ。向かいの並びの菓子屋さんで売ってるから、気に入ったらたまに足を運んでみるのをおすすめする」
そんな店、あっただろうか。これまでこの商店街に来る用事といったら事務用品店で買い物をすることくらいで、他の店なんか気にしていなかった。無論、この店のこともだ。まるで今日突然現れたかのようだ。
けれどもそうでないことは、陽本と、シアンと呼ばれる少年が証明している。もとからなければ、こんなに馴れていたりはしない。
彼らほどではないが、俺もだんだんこの場所に心地よさのようなものを感じるようになってきていた。ほんのりと甘い紅茶と、餡の甘みがしっかりしているパイ饅頭の取り合わせは意外と悪くなかったが、できればここは緑茶が良かった。そんなことを考えるくらいには。普段ならくだらないと一蹴しているところなのに。全く興味のない店だが、それでも居心地が悪くないのは、店主の作りだす空気のせいかもしれない。
派手な見た目で、レジカウンターで茶を飲むような、変な店主ではあるけれど。
「そういや、一慶と水瀬君は友達なのか?」
「違います」
「誤解です」
店主の唐突な問いに、思わず陽本と声を揃えてしまった。それでまた、せっかく落ち着いていた雰囲気が台無しになる。
「水瀬はクラスメイトっす。別に、全然、仲良くなんかない」
「仲良くしたくもない、こんなうるさい男」
「なんだと!」
本当に陽本は声がでかい。耳が痛くなる。こいつの声を聴いていて、よく店主たちは平気なものだ。
まだ何か文句を言いたげな陽本を落ち着かせてから、店主はカウンターの下から紙とペンを取り出した。そして食べかけのパイ饅頭を口に咥え、さらさらと何かを書いた。
紙には少し丸みのある字で、「空深」とあった。
「……店主さんの名前ですか」
「そう。空深・スカイフィールド。それからこの中学生が」
一旦口から離したパイ饅頭を、今度は完全に口の中に放り込んでしまってから、店主は「詩庵」と紙に書いた。それが中学生の名前らしい。
「高村詩庵です。よろしくお願いします」
俺が名前を確認したあと、詩庵という少年は改めて自分で名乗った。丁寧に頭を下げるその所作は、陽本よりも大人びて見える。
「同じクラスだから、一慶の名前は当然知ってるよな。それじゃ、次は水瀬君の番だ」
そう言って店主は、紙とペンを俺に寄こした。こんなかたちで名乗られたあとでは、拒否しにくい。渋々ながらではあったが、俺もペンをとった。
「……水瀬瑛次です。もっとも、名前で呼ぶのは家族くらいですが」
「エイジ。瑛次か。かっこいい名前だな。これから俺も瑛次って呼んでいいか?」
店主は目を輝かせて、聞き慣れない言葉を発した。この名前がかっこいいだって? これから瑛次と呼ぶだって? そんなことを全くの他人から言われたのは初めてだ。
だいたいにして、この人は「これから」と言うが、俺がこの店に来ることはきっともうないだろう。模型なんて趣味じゃないから用事がないし、今日のように陽本と顔を合わせれば険悪な雰囲気になる。……というか、陽本は模型が趣味だったのか。そんなこと教室では一言も話さないのに。
「呼ぶのはかまいませんが、店主さんと顔を合わせるのはこれっきりだと思いますよ」
「店主さんじゃなくて空深。こっちのほうが呼ばれ慣れてる。……それと、瑛次とはこれっきりにはならないような気がするんだよな」
むしろこれから常連になりそうだ。店主はそう言って笑う。どうしてそんなことが言えるのか甚だ疑問だったが、いちいち相手をしていたらきりがなさそうなのでやめた。
「げ、水瀬も常連になんの? それじゃオレが買い物できないじゃん」
陽本は嫌そうに顔を歪めた。それを店主は「こら」と小突く。俺も小突くどころかその辺に棒があったら叩いてやりたいところだったが、ちょうどいいものが見当たらなかったので抑えた。
「瑛次さんのカップも手前に出しておきましょうか。いつ来てもいいように」
高村詩庵とかいう少年は、完全に店主の言葉を信じ切っているようだ。というか、ごく自然に俺を名前で呼んだな。許可した覚えはないが。
ここは他人のペースに巻き込まれるのに、居心地が悪くない。他人に合わせなくてはならないのに、そう嫌悪を感じないのは、何故だろうか。「瑛次」と呼ばれて、心臓を掴まれたような気分にならないなんて、俺には不思議でならなかった。
俺の父と兄は厳しい人で、彼らに「瑛次」と呼ばれるときは大抵、俺に何か不足があるときだ。至らない点があれば厳しく指摘され、直すように言われる。それが俺の日常だ。
生徒会役員をしているのも、かつて兄がそうであったからで、同じ道を辿らなければ父が落胆するからだった。呆れたように、怒ったように、「瑛次」と呼ばれるのが怖かった。
学校ではできるだけ、名字の「水瀬」で呼んでもらうようにしている。それは他人にまで「瑛次」の名でがっかりされたくないからだという理由を、無意識にも含んでいるからだ。
――そういえば、この名前で褒められたのは、憶えている中ではこれが初めてだったかもしれない。だから俺は、店主に……空深さんに、名前で呼ぶことを許可したのだ。きっと。
しばらくして、雨の音が聞こえなくなった。窓からは光が射しこみ、ジオラマの町を照らしている。あの町は、空深さんが作ったのだろうか。
「瑛次、茶のおかわりいるか?」
低く柔らかな声で、名前を呼ばれる。改めて聞くと、耳触りの良い声だな、と思う。同時に、陽本と高村はいつもこの声で名前を呼ばれているのかと考えると、妙な気分になった。頭がくらりとするような感覚は、味わったことがない。
「遠慮します。雨が上がったので、もう行きますから」
スツールから立ち上がって、模造紙のはみ出した袋を持つ。ここで雨宿りをしていたおかげで、少しも被害のなかった荷物。店に入るまでの経緯は強引だったとしても、このことについては感謝すべきだろう。
陽本に聞かれるのは癪だが、仕方がない。
「ありがとうございました。お茶とお菓子もごちそうさまです」
そう言って頭を下げると、陽本は予想通り目を丸くして固まり、高村は表情を変えずにカップを片付けにかかった。
そして空深さんは、嬉しそうに笑って、俺の頭に手を伸ばした。
「どういたしまして」
頭を撫でられるなんて、いったいいつ以来だろう。幼い頃にもあったかどうかわからない。
一瞬呆然として、それから慌てて頭の上の手を振り払ったが、それでも空深さんは笑顔を崩さなかった。むしろ楽しそうに見えて、やはりこの人は変だと思った。
店を出てから、その変な人にまた会ってもいいかと考えた自分もまた、変なのかもしれない。
陽本の趣味を知り、高村が店に来る理由を知り、俺が空深さんを初めて名前で呼んだのは、次に店に来たときだった。