住宅街を抜けて、古い商店の並ぶ通りに入り、何軒かは見向きもせずに過ぎる。
大きなガラス窓から小さな町が見える、その店に辿り着くと、僕は深呼吸してから扉を開ける。ショーウィンドウ前に設置された町、もとい精巧なジオラマを眺めるのが、僕の数少ない楽しみだった。以前は外からときどき見ているだけだったのが、今は天候を気にしなくていい店内で飽きるまで見ていられる。
けれども楽しみに没頭する前に、やらなければいけないことがある。
「いらっしゃい」
店の奥から近づいてくる、僕の声より低く柔らかな響き。僕は振り向いて、応える。
「こんにちは。ちょっとジオラマ見せてもらってから、お手伝いしますね」
挨拶をすると、その人はこちらへ微笑みかけ、そのまま僕の隣に立つ。そうして一緒に、ジオラマを眺める。――この小さな町は、彼の父の形見だそうだ。けれどもときどきこの人も、ほんの少しずつ手を加えているらしい。だからこの町は今でも生きているのだ。
古い商店街の、小さな模型店。そこの若すぎるようにも思える店主は、僕が正直になれる唯一の人だった。


僕が初めてこの店に入ったのは――つまり彼に出会ったのは――数か月前のこと。
学校に行くことができなかった僕は、人目を避けるようにして、寂れた商店街にやってきた。シャッターが閉まりっぱなしの「元店舗」が多いこの場所なら、建物の陰に隠れていれば、誰にも見つからないだろうと思ったのだ。
とにかく僕には、下校時間までを外で潰す必要があったのだった。
それまでも何度か、こうして授業に出ずにいたことはあった。そしてそのたびに、僕はこっそりと模型店のショーウィンドウを覗いていた。
そこには僕の住む町を再現したジオラマが展示されていた。いや、こちらのほうが実物よりもずっときれいに見えた。だって現実は、誰かを悪者にして自分を肯定しないとやっていけない人間ばかりが住んでいるのだから。
僕はジオラマの中の、人の形をしたパーツに呼びかける。そっちに連れて行ってよ、ここはつらいよ、と。どうせ僕がここからいなくなったところで、誰もかまいやしないのだと思っていた。そうして必死で念じていると、小さな町の人々が「おいで」と答えてくれるような気がした。気がしていただけで、実際に言葉が返ってくるなんて、もちろん思っていなかったのだけれど。
「おいで、小雨が降ってきたぞ」
その声はたしかに聞こえたのだった。ジオラマからではなく、僕の頭上から。
反射的に見上げると、僕の隣には、背の高い金髪の男が立っていた。瞳の色素も薄い。髪から覗く耳はピアスに飾られていて、とにかく見た目に派手だった。彼は外国人なのか、はたまたそういう格好をするのが趣味なのかは、すぐにははかりかねた。顔立ちからいって前者の線が濃厚ではあったが、先ほどの流暢な日本語が後者のようにも思わせる。
――
などと冷静に考えられたのは、実はもう少し後のことだった。声をかけられた瞬間、僕の頭を埋め尽くしたのは、「逃げなければならない」という考えだった。
学校や親に連絡されたら、面倒なことになる。これまで以上に苦しい目にあうかもしれない。
けれども、そこまで考えていながら、僕はその場から動けなかった。金髪の男と目を合わせたまま、ばくばくする心臓を抑え込むように胸に手を当てて、ただ立ち尽くしていた。
すると彼は、不思議そうに首を傾げてから、とても自然に僕の手をとった。
「どうした? このままここにいたら、風邪ひくぞ」
そのまま彼は少し早足で、僕を店の中へ引き込んだ。僕は抵抗せずに、そのまま黙って彼に従ってしまった。実際、外は肌寒かったし。
初めて入った店内は、一言で表すなら雑だった。模型の類に属するであろうものがまとめて「置いて」あったり、レジカウンターの傍にトレーディングカードのパックが「並べて」あったり。店ではなく、本当は物置だったのではないかと思うほどだった。
きょろきょろとあたりを見回す僕に、金髪の男は軽い調子で言った。
「どう? 初めて中から店を見た感想は」
その言葉で我に返った僕は、改めて彼を見た。レジ近くにあったスツールを引っ張り出していた彼の表情は、にこにこしていた。何がそんなに嬉しいんだってくらいに。
怪訝な顔をしているであろう僕に、彼はスツールに座るよう勧めた。僕がおそるおそる言う通りにすると、彼はレジカウンターの内側に入って、腰を下ろした。きっとそこにも、僕が座っているのと同じようなスツールが置いてあるのだろう。
「君、よく外からジオラマ見てるだろ。知ってたよ」
その台詞に、僕の頭は自分でも驚くくらい冷静になった。よく見に来ていたことを知っているということは、この人は僕が平日の昼間に商店街をうろついていることを、つまりは学校をさぼっていることを知っているということだ。
僕は家を出る時にはいつも制服を着ているし、どこの学校の生徒かもわかっている可能性が高い。僕は息を呑んでから、ここにきて初めて、言葉を発した。
……学校に、言いますか?」
普通の大人ならそうする。そして学校から家に連絡がいき、僕は二度とここには来られなくなる。ジオラマを眺めることは許されなくなる。それがそのときの僕の頭に浮かんだシナリオだった。
ところが返ってきた言葉は、全く予想の斜め上を行くものだった。
「なんで? そんなことが必要か?」
この人はどうやら、「普通の大人」ではなかったらしい。きょとんとしたまま僕を見ている。そして彼を見返す僕も、唖然としていた。
……だって、普通はそうでしょう。平日の昼間に学生が町に出ていたら、不審に思って学校に連絡しませんか?」
僕は混乱しながら、言葉を絞り出す。しどろもどろの問いだったけれど、彼はまっすぐに僕を見つめたまま聞いていてくれた。そして頷くと、「じゃあ逆に訊こう」と言った。
「君はなぜ、学校に行かない?」
……それは」
言い淀んで俯きかけた僕に、彼はさらに言葉を重ねた。
「それだけの事情があるからだ。その事情がわからないうちは、俺は何もできないな」
笑いながらそう言う彼に、僕が最初に抱いた印象は「変人」だった。

金髪に灰色がかった青い目、それからピアス。見た目も中身も風変わりなこの人は、僕に温かい紅茶を注いだ淡い黄色のマグカップを手渡しながら名乗った。
「そらみ、っていうんだ。空深・スカイフィールドっていう名前」
「外国の方ですか」
紅茶の湯気のほんのりと甘い香りに、すっかり落ち着いてしまった僕は、ごく自然に尋ねた。
「父がアメリカ人、母が日本人。どっちももういないけどな」
空が深い、と書いて空深。名前の中に二度も「空」が入っているんだなと思いながら、僕は紅茶を一口飲んだ。砂糖は入っていないらしいのに、香りのとおりの甘さがあった。こんなに美味しいと思う紅茶は初めてかもしれない。
「君の名前は?」
自分も紅茶を飲みながら、空深さんが僕に尋ねた。彼の手にしているカップはロングタイプで、爽やかなミントグリーンをしていた。それを見ながら答える。
「高村詩庵といいます。詩を詠むの詩に、いおりと書いて詩庵です」
説明してから、この人は「庵」を知っているんだろうかと思ったけれど、頷いているところを見ると問題なく伝わったようだった。
「シアン。詩庵ね。きれいな名前だ」
折角褒めてくれたけれど、僕は素直に喜ぶことができなかった。言ってしまってから脳裏を掠めたのは、名乗るのはまずかったんじゃないかという思いだったからだ。でもすぐに、この人はよそに僕のことを話すようなことはしないだろうと考え直した。なにしろ「変人」なのだから。
その証拠のように、空深さんはレジカウンターを挟んで、出会ったばかりの僕にこの店の話をしてくれた。
空深さんの母親は、彼が幼い頃に亡くなったこと。その寂しさを紛らわせるために、彼の父親が趣味だった模型を扱う店を始めたこと。けれどもその父も去年亡くなって、それからは空深さんが一人でこの店を切り盛りしていること。ただし運営には、彼の母方の伯父からかなりの援助を受けていること。――彼が一人で店をやっていると聞いて、この店の品物がジオラマ以外は雑に並んでいることにも納得した。
「初対面の僕に、そんなことまで話していいんですか?」
いつのまにか空になっていたカップを両手で包んだまま尋ねる僕に、空深さんはすぐに首肯した。
「こっそり常連してくれてたから、店の歴史くらいは紹介したいと思って」
彼にとって、一連の話は「店のこと」で片付けてしまっていいようなことだったらしい。随分プライベートな話を聞いてしまったと思っていた僕は、嬉しいような残念なような、複雑な気持ちだった。
ところがそれすらも見透かしていたのか、空深さんはこちらに手を伸ばしながら言った。
「でも身内以外にちゃんと話をしたのは初めてだな。……紅茶のおかわりいるか?」
話のあいだもそのあとも、空深さんはずっと笑顔だった。
そして、僕のことは名前以外、聞き出そうとしなかった。
結局その日は丸一日、模型店で空深さんと話をしていた。当然時間はうまく潰れてくれて、うまい具合に、といってもいいものか、客は一人も来なかった。


出会った翌日から、僕は空深さんが何も言わないのをいいことに、模型店に入り浸るようになった。
そのたびに空深さんは僕を笑顔で迎えてくれ、僕はただいるだけというのも悪い気がして、店を手伝うようになった。僕に与えられた仕事は、ごたごたしている店内の整理だ。いや、与えられたのではなく、僕から進言したのだ。このままでは店というより物置だ、と。
「詩庵のおかげで棚がすごく見やすくなった。これならいつ客が来てもいいな」
空深さんはそう言って、僕に昼食を振る舞ってくれた。冷蔵庫に入っていたらしい材料を適当に刻んでご飯と一緒に炒めるだけのチャーハンが、妙に美味しい。
「アメリカの大学に行ってたんだけど、親父が病気で倒れたから、中退して日本に帰ってきたんだ。店が無くなるかもしれないって思ったら、いてもたってもいられなくなってな」
食事をしながら、空深さんは自分自身のことを色々と話してくれた。重いはずの話も、ちょっとした世間話のようにぽんぽんと語ってしまう。
「お店、大切なんですね」
「店が母親みたいなもんだったから」
そうして話を聞いていると、僕もだんだん自分のことを空深さんに聞いてほしくなってきた。けれどもどこから話していいのかわからなくて、いつも言いそびれていた。
学校に行かない理由は、さっさと話してしまったほうがいいかもしれない。なにしろ空深さんと知りあってから、連日この店に来ているのだ。いいかげんさぼりの理由を訊かれてもおかしくない。空深さんだから、訊かないでいてくれるのだ、たぶん。
でもそれを一から説明しようとすると、まるで喉が詰まったように言葉が出てこなくなってしまう。空深さんはきっとそのことに気づいて、自分の話をしようとするのだろう。僕が苦しくならないように。僕のことを、何も知らないのに。
「詩庵は、ずっとこの店のジオラマを見に来てたよな。好きなの? あれ」
ショーウィンドウのほうを指さす空深さんに、僕は小さく頷いた。喉でつっかえてしまった言葉を胸の奥へ押し戻して、代わりの返事をする。
「すごくきれいで、いいな、と思います。この町を作っているはずなのに、どこか別の世界のような気がして。そこにいる人はきっとみんな親切で、優しくて、……だから、僕もそこに行きたいなと思ってました」
ずっと考えていたことで、正直な感想だった。自分でもびっくりするほどすらすらと言葉が出てきて、僕は自分の気持ちに思い当たる。本当はずっと、誰かにこの話をしたかったんだと。
そして親切で優しい、ジオラマの世界に思い描いていた人物が、今目の前にいることにも気がついた。僕なんかを、何も聞かずに受け入れてくれる人は、空深さんが初めてだった。
だからついつい、喋りすぎた。
「もちろん、ジオラマの中に行けるなんてことはありえないですし、こんな考えがただの逃げだってこともわかってるんです。僕が本当に生きなくちゃいけない世界は、あんなにきれいなものじゃなくて、もっとつらいものなんだって知ってます」
思わずこぼれた言葉は、空深さんに拾われて、彼を困ったような表情にさせた。それまでずっと、笑顔だったのに。
「詩庵は、つらいのか」
じっと僕を見つめながら、空深さんは呟いた。僕ははっとして、あわてて首を横に振る。でも、ごまかしの台詞は出てこなかった。代わりに黙って俯いてしまった僕にしばらく視線を注いだあと、空深さんはやおら立ち上がり、空っぽになっていたチャーハンの皿とスプーンを片付けに行った。
そして戻ってくるときには、またあの甘い香りのする紅茶を、淡い黄色とミントグリーンのカップに淹れて持ってきてくれた。
「ここにいると、どうだ? まだつらい?」
僕の前に、淡い黄色のカップを置く。空深さんはミントグリーンのカップに口をつけて、離してから、静かに長く息を吐いた。
僕も紅茶を一口飲んでから、同じように息を長く吐く。それから空深さんを見上げて、先ほどの問いに答えた。
「ここにいると、つらくないんです。店の中でジオラマを見てるときと、棚の整理をしたり、空深さんと話をしているときは、つらいことは全部忘れてるんです。外から眺めているだけだったときより、ずっと楽なんです」
一所懸命に気持ちを伝えたつもりだった。さっきのも本当だけれど、これも全部真実だ。
空深さんは僕の返事に、また嬉しそうな笑顔を浮かべると、「よかった」と口にした。
「詩庵が楽ならよかったよ。この店も、存在している価値がある。見ての通り客が全然来ない店だから、いつ伯父さんにたたみなさいって言われてもおかしくなかったんだ」
「そんな……たたまないでください。僕がもっと掃除しますから、棚もきれいにしますから、この店を続けてください」
この店がなくなったらと思うと、ぞっとする。今度こそ本当に、僕の居場所はなくなってしまう。縋るように言ったら、空深さんは何度も頷いた。
「うん、続ける。詩庵が来る限り、ずっと続けてるよ。明日になったらなくなってるとか、そんなことは絶対にないから、安心してくれ」
「もしなくさなくちゃいけなくなったとしても、その時は絶対に教えてくださいね。なんとかする方法を考えますから」
「ありがとう。それだけ想ってくれてるなら、この店も俺も幸せだ」
そうして、空深さんはカップを持っていないほうの手を僕に伸ばした。優しい手が頭に触れて、僕の髪を撫でた。
中学生にもなって、頭を撫でられるのが嬉しいなんて、おかしいだろうか。恥ずかしいことだろうか。それでも僕は、空深さんの手にもっと触れられていたかった。


僕には、撫でられた記憶がない。もしかしたら赤ん坊の頃にはあったのかもしれないけれど、物心ついたときには、もう頭を撫でられるようなことはなくなっていた。
親からは、何をしても「じゃあ今度はもっと上を目指しなさい」と叱咤激励こそされど、それまでの成果を褒めてはもらえなかった。だから小学生の時は、学校で「頑張ったね」「偉いね」と褒めてもらおうとして、うんと勉強を頑張った。スポーツはどんなにやっても周りの子には敵わなかったから、ひたすら紙の上の百点をとり続けた。
それからどうやら、掃除や係の仕事をやっても褒められるらしいとわかって、率先してやるようになった。そうして学校の先生に褒められていたら、あるときから同級生が近づかなくなった。近付かないのに、いつもひそひそと僕のことを話しているようだった。
「良い子ぶってる」と言われた。そのうち掃除は僕一人がやるようになった。クラスメイトの男子は掃除の邪魔をしたり、僕のノートや教科書に落書きをしたりして、女子は「可哀想」と言いながらも僕と口をきこうともしなかった。
クラスに馴染めなくなった僕を、先生もいつしか奇異なものとしてみるようになった。僕がクラスに馴染もうとしないからこうなるんだと、説教をされたこともある。僕はだんだん、褒められなくなった。
中学校は小学生の頃に同じクラスだったメンバーが多く集まっていて、やはり僕を無視したり、あるいはわざと近づいてきて足を引っかけたりするようになった。担任の先生は気づいているのかいないのか、何も言わない。とりわけ目立つ子と仲が良いようだ。
僕は次第に学校に行くのが怖くなってしまった。どうせ行っても、いないものか、もしくは邪魔者のように扱われるだけなのだ。それなら行かないほうがいい。
でも、行かなければ親になんて言われるか。両親とも働きに出ていて、遅くまで帰ってこないので、学校から家に連絡がくることはない。親の携帯電話はほぼ完全に仕事用で、僕についての連絡を受けるためのものではない。だから学校側に番号を教えてはいないのだった。
だったら、朝は学校に行くふりをして、時間を見計らって帰ればいい。そう思いついた日に見つけたのが、シャッターだらけの商店街にぽつりとあった模型店だった。ショーウィンドウのジオラマがあんまりきれいだったので、ずっと眺めていた。
そのときはこの店に人がいるなんて、考えもしなかった。店があれば人がいるのは当然のことなのに。今思えば、おかしなことだった。
空深さんに声をかけられたのは、学校に行かなくなってから、一週間が経った頃だった。


空深さんに頭を撫でられた翌日、僕は久しぶりに学校に行った。あの人の「店が明日になったらなくなってるなんてことは絶対にない」という言葉に、妙に勇気づけられたのだった。
何があっても、僕にはあの店がある。あの場所で空深さんが、僕を待っていてくれる。温かい紅茶を淹れて、笑顔で迎えてくれるに違いない。そう思ったら、少しだけ学校に行くのが怖くなくなった。
でも結局、給食も食べずに出てきてしまった。教室に入った途端に、そこにいるあいだに、僕に注がれ続ける視線と陰口に耐えられなくなったのだ。長引いた風邪がまだ治りきっていないのでと言って、逃げてきた。
逃げた先は家ではなくて、模型店。空深さんがいる場所だった。
「いらっしゃい、詩庵」
扉を開くと、空深さんが笑っていた。それを見た僕は、なんだか安心してしまって、気がついたら空深さんの胸に飛び込んでわあわあ泣いていた。
きっと困った顔をしているであろう空深さんは、それでも、僕に何も訊かなかった。
ひとしきり泣いたあと、温かい紅茶を飲みながら、僕はそれまであったできごとを、時系列も順序もめちゃくちゃに、空深さんに少しずつ話していった。
会って間もないはずの人なのに、こんなに話ができるなんて。頭の中の、まだ少し冷静な部分で、そんなことを考えながら。
僕が一通り話し終えたのを見計らって、空深さんは紅茶を淹れ直してくれたり、お腹が空いただろうとチャーハンを作ってくれたりした。いつもの空深さんで、僕はとても安心した。全部吐き出した情けない僕にも、空深さんは変わらず接してくれるのだと知って、嬉しかった。
チャーハンを食べながら、空深さんは「俺もね」と自分の話を始めた。
「昔はよく同級生にからかわれてたな。まあ、見た目が目立つから。でも味方になってくれる奴はそれなりにいたし、女子にはモテた」
「自慢ですか」
「詩庵ほど悩んでなかったからな。悩む状況でもなかった。……だから詩庵の気持ちを、本当の意味で理解することはできないかもしれない。それはごめんな」
笑顔が、少し困ったように歪んだ。僕は空深さんのそんな顔を見たくなくて、あわてて首を横に振る。
「いいです、そんなの。逃げてきた僕に、帰れって、学校に行けって、そういうふうに言わないでいてくれただけでも、僕はとても救われたんですから」
「うん。初めて声をかけたときに、無理に学校に連絡したり、行かせたりしなくてよかった。勉強なんてどこででもできるし、上手な人との付き合い方だってその場その場でそれぞれだから、無理に学校っていう集団にとけこもうとしなくてもいいんじゃないかなって俺は思うんだよね」
基礎やきっかけは掴めるかもしれないけどさ、と空深さんは付け足す。そう言うあたり、本当は学校には行ったほうがいいと思っているんだろう。今の僕にそれは強要できないと判断しただけで。
「でも、詩庵は偉いよな。そんなにつらい思いをするところに、今日はちゃんと行ったんだから」
「午前だけですよ。偉くないです」
「午前は行けた。だから偉い。それでいいんじゃないの」
空深さんは寛容だ。僕をいくらでも甘えさせてくれる。それは僕が学校のことや親のことをめちゃくちゃに話したせいかもしれないけれど、空深さんという人がもともととても優しいからなんだと思う。でも、それに甘えすぎるのはいつか空深さんの負担になってしまうと、僕もわからないわけではない。
ここは人がめったにこないけれど、店であることには変わりない。客が来れば、当然制服姿の僕を見つけて不審に思うだろうし、学校にも連絡するかもしれない。そうすれば、これまで僕を受け入れ続けてきた空深さんまでもが責められてしまう。未成年を連れ込んで働かせていたなんて捉えられれば、この店を閉めることにもなりかねない。たとえそれが、僕が望んでしていたことだとしてもだ。
空深さんが優しいからこそ、僕が空深さんを好きだからこそ、迷惑はかけられない。すべて吐き出してすっきりした僕の頭は、そんな考えを持つようになっていた。
「空深さん、僕、これからもここに来ていいですか」
「もちろん。朝から来るもよし、午後から来るもよし、いつだって待ってるよ。詩庵がいると商品の棚もすっきりするし」
空深さんはここで待っていてくれる。こんな僕の相手をして、必要としてくれる。だから僕は、それを信じることにした。今日みたいに、勇気を出してみることにした。いや、今日よりもう少しだけ。
「僕、明日からも学校に行きます。行ってみます。それで、どうしてもつらくなったら、また逃げてきていいですか?」
午後までいられたら、放課後まで乗り切れたら、店で空深さんが待っている。きれいなジオラマとともにここにいて、「いらっしゃい」と言ってくれる。
「いいよ、おいで。ここへ休みに。俺はいつでもここにいるから」
笑顔で僕を、迎えてくれる。


学校にいる時間を頑張って延ばしてみたり、どうしても耐えられなくて早退したり、やはりときどきはさぼってしまったり。そんなことを繰り返しながら、空深さんに会いに行くようになって、数か月が過ぎた。
最近では放課後に掃除が終わるまでを乗り切って、模型店に来ることも増えた。そのたびに空深さんは、紅茶にちょっとしたお菓子もつけてくれるのだった。何も言わないけれど、ご褒美のつもりなのかもしれない。
この数か月でわかったこともいろいろある。
まず、この模型店には全く人が来ないわけではないこと。ときどきものすごくコアな趣味を持った客が訪れて、空深さんと長々とお喋りをしていったりする。意外だったのは、高校生が特撮ヒーローのフィギュアやロボットのおもちゃを、新作が出るたびに買っていくことだった。その人とは家が近所ということも判明して、僕も少しだけ話をするようになった。
それから、この店の客は週末や祝祭日に集中すること。学校が休みのときは僕も私服で来ているので、店にいることを怪しまれない。平日であっても、客は学校や会社が終わる時間に来るので、制服の僕がここにいても不審がられない。同じ境遇なのだと、向こうが勝手に思ってくれる。
つまりは、この模型店は僕にとってとても都合のいい店だった。
空深さんが忙しい時は店を手伝い、暇なときは一緒に紅茶で休憩する。僕の調子が悪い時は、空深さん自身の話をしながら見守っていてくれる。
そんな日々の中で、僕はジオラマが少しずつ変化していることに気がついた。空深さんが、こっそりとパーツを足したり、修繕したりしていたのだ。それを知ったのは、両親が二人とも泊りがけの出張でいない日に、空深さんの家に泊めてもらったときだった。空深さんがジオラマに手を加える様子を、僕はわくわくしながら眺めていた。
「この町、生きてるんですね」
僕がそう呟くと、
「詩庵のいる町も生きてるよ」
空深さんはそう言って、笑った。
僕らは、僕らの町は、今日も生き続けている。優しい模型店の店主によって。