特別な行事でもなければ賑わうことのない店内は、時間が穏やかに、ゆっくりと過ぎていく。父が馴染みの上客の相手をし、母が小物類を丁寧に並べ直しているのを、美和は店の隅から眺めている。ときどき退屈が欠伸になって、ふあ、と口から出ていく。どうせ誰にも見えやしないのだからと、遠慮なく大口を開ける。
双子の弟(当人は自分が兄だと思っているようだ)は、そんな美和を見たら、きっと「口元を隠すくらいはしなよ」と注意するのだろうが、今は学校に行っているのでここにはいない。きっと今日も、進学講習のために帰りが遅いのだろう。
「やっぱり和人君がいないと、ちょっと寂しいわねえ。地方に進学するんでしたっけ、応援したいけど、商店街の花がなくなるのは残念だわあ」
父と話している客が、特徴のある間延びした口調で言う。この人には芥子色の着物が似合うだろうな、と美和はいつも思っているのだが、当人は少々派手な色や柄を好んでいる。そもそも着物には最適な季節や場があるのだが、この客はいつもおかまいなしだ。「上客」であるのは、単にこの人が高い着物を躊躇なく買っていくからで、本当の意味の良い客ではない。少なくとも美和はそう感じている。
『商店街の花……ねえ』
ぽそり、と美和は呟いた。双子の弟である和人が、昔からそう呼ばれているのは、当然のこと美和も知っている。男子でありながら容姿が整っていて、笑顔がどことなく少女を思わせるような優しさを含んでいる和人は、一部からそんな評判を得ていた。幼い頃は女児用の着物を来て、ここ、水無月呉服店のチラシやパンフレットに載っていたということも、おそらく原因の一つだろう。――このことは、本人に言うと恥ずかしさのあまり怒りだすので、口にはしないけれど。
もしも美和がその役をかってでることができていたのなら、「商店街の花」は美和を形容する言葉になっていただろうか。和人とよく似ているらしい自分は、花になれただろうか。弟に恥ずかしいと思うようなことをさせずに済んだだろうか。そんな不可能な可能性をぼんやりと考えながら、美和は店を出ていく客を見送った。ちゃんと、『ありがとうございました』と言って。その声が、誰にも聞こえなくても。
そうしてずっと、和人とともに店番をしてきたのだから。

美和の姿は和人以外の人間には見ることができず、声も聞かれることはない。
頭に二本のつのを持つ彼女は、この町では珍しくない「鬼」という存在だ。鬼は人智を超えた力を操り、一部の特別な人間にしか姿を見ることができない、この礼陣の町の守り神のような、かつごく普通にこの町を闊歩し生活している人々をいう。
だが、正確にいえば美和は鬼にはなりきれていない。未練を持つ人間の魂が鬼へと転じる過程の「人鬼」というものが、美和のありかたを正しく表現したものだ。本来鬼が持つはずの不思議な力を操ることはできず、しかしながら鬼のかたちをして、他の鬼と交流をしながら、正しい鬼に「成る」のを待つ。鬼に成れば一部の人間に姿が見えるようになり、物に触れたり食事をとったりすることも可能になるのだが、今の美和にはいつ自分がそうなれるのかわからなかった。
和人に美和の姿が見える理由は、当人たちにもはっきりとしたことはわからない。だが、きっと自分たちが同じ胎から産まれた双子だからなのだろうと思っている。双子として生まれながら、美和は人間としては一度死に、人鬼としてよみがえった。それができたのは、美和の「生きたい」という強い未練と、多分に、和人が美和の存在を求めたからだった。――単なる憶測ではあるが。
なにしろ、美和には五歳までの記憶がない。人間として生まれてすぐに死んだのだから、そのあとすぐに人鬼になったか、あるいは霊魂としてこの家を彷徨っていたかしていたのだと思うが、そのあたりは憶えていない。和人に存在を認められたその瞬間からが、美和の記憶の始まりだ。
昔、和人に「美和はいつから人鬼だったの?」と尋ねられたときには、「わからない」と答えていた。そして「それまでは魂だけがこの世に留まっていたのかもね」と何の気なしに言ってみたら、和人は納得していた。だから、そういうことだと思うことにしたのだ。
実際、美和にとって重要なのは「どうして自分がここにいるのか」ではなく、「どうやって自分がここに存在するか」なので、記憶のあるなしなど些細なことだ。人間だって、そんなに幼い頃のことは憶えていないのだし。大切なのは今とこれからだろう。

その「今」だが、美和は退屈している。和人がいれば、彼に指示を出すことで呉服店の手伝いができ、有意義な時間を送ることができる。だが、当の和人は受験生だ。部活も終わってしまい、勉強を最優先しなければならないので、店の手伝いができるのは主に休日の、それもわずかな時間に限られている。和人を通してしか人間の生活に触れることができない美和が、一人で店を手伝うことはできないので、一日中店をただ見ていることしかできないというのが現状だ。もどかしくて仕方がない。
かといって、学校まで乗り込んで和人と話そうという気にもなれない。以前はそういうことも頻繁にしていたのだが、今は勉強の邪魔になるだろうし、なにより、美和が和人と距離を置こうと決めたのだ。「これから」、和人はこの町を出ていく準備をするのだから。この町を離れられない美和とは、別の道を歩もうとしているのだから。和人のいない生活に慣れなければいけないと、そして和人にも美和のいない生活に慣れてもらわなければと、美和は考えていた。
それまで二人で一つのようだった生活が、変わってしまう。徐々に変化を受け入れていったほうが、あとできっと楽なのだ。だから最近の美和は、和人の傍にはいないようにしている。
それなら常に交流を持つことのできる他の鬼のところへ行けば、退屈は紛れるのだろう。彼らと町を歩くのは楽しいし、この礼陣の町の四季を人間にはできないやり方で味わうことだってできる。鬼たちは持っている力で、美和を存分に遊ばせてくれるだろう。しかしそれもしようとしないのは、結局のところ、美和が実家だと思っているこの店を好きだからなのだ。自分のことが見えない両親のことも、できるかぎり見守っていたい。そんな気持ちが、美和をこの場に留めている。気持ちだけで、他には何もできないのだけれど。
『あ、柴山さんだ。そういえば着付けの予約をしてたっけ』
たとえば、こうして馴染みの客が来たとき。和人がいれば、美和はすぐにそれを教えて、対応させる。だが、人間に視認されない美和だけではどうすることもできない。両親か他の従業員が動くのを待つことしかできないのは、ほんの数秒でも歯痒い。
「いらっしゃいませ」
その声が聞こえるまでが長く感じる。自分も人間だったなら、真っ先にお客を迎えることができたならと、こういうときに思うのだ。
和人がこの町からいなくなってしまえば、それは完全にできなくなってしまう。ここにいるだけの自分に、いったい何の価値があるのだろう。好きな店の番すらできないのなら、いっそいなくなってしまったほうがいいのではないか。美和の心を、暗い気持ちが占めていく。
『鎮守の森に、引きこもっちゃおうかな……
落ち込んだ時の口癖がこぼれた。実際にそれをしたことは、一度しかないのだけれど。

礼陣の町のシンボルである、鬼を祀る礼陣神社。その本殿裏に、鎮守の森はある。そこは鬼たちだけが住む、人間たちにとっては不可侵の空間だ。不用意に入れば迷って出てこられなくなってしまうこともある。大抵は、鬼が人間に手を貸してやって、そこから出してやるのだが。
とにかく鎮守の森は、鬼たちのための、安らぎの場所なのだ。そこに行けば使った力も回復するし、心は穏やかになる。人鬼が早く鬼に成るために、力を蓄える場でもあるという。しかしいったいどのくらいの力を蓄えれば鬼に成れるのか、ずっと人鬼である美和にはわからない。そもそも美和が鎮守の森にいたことはほとんどないのだ。
だが過去に一度だけ、そこにしばらく引きこもったことがある。人間でいえば、小学生くらいの頃だった。あのときも自分の存在に疑問を感じたのだ。いや、先に疑問を示したのは和人のほうだったか。
そもそも、人間では和人にしか存在を認められなかった美和だ。他の鬼と関わりを持ってはいたが、和人はそのことを認識できない。和人が見ることのできる鬼は、美和だけなのだ。
だから和人は疑った。他の誰にも見えない人鬼がいるということを、もしかすると自らの生み出した妄想なのではないかと。幼い自分が「いてくれたら」と願った双子の姿を、この町にいるという「鬼」のかたちを与え、心の中でつくりだしているだけなのではと。――すなわち、彼は「美和なんてものは実際には存在しないのではないか」と考えたのだ。
『違うの。私はここにいるの。たしかに和人と双子で、こうして存在しているの』
そうどんなに訴えたところで、考え込む節のある和人は、それすらも美和を肯定することで自分はおかしくないと思いたいだけなのではないかなどと考えるようになってしまう。
自分を認めてくれる唯一の人間から「幻」と思われてしまい、美和の存在は揺らいだ。誰にも必要とされない幻なら、いっそいなくなってしまおうか。どうせ誰にも姿を見てもらえない、声を聞いてもらえない、中途半端な鬼なのだ。人間の前から消えてもかまわないのなら、そうしてしまおう。それが、美和が鎮守の森に入ったきっかけだった。
鬼だけの世界は楽だった。全ての鬼が美和に話しかけてくれ、言葉を聞いてくれる。こんな中途半端な存在も、鬼は仲間として扱ってくれる。そこに浸ることで、美和は自分が和人の思いに傷ついていたことを知り、見つけた傷は癒すことができるのだということを知った。
このまま森に居ついて、完全な鬼に成ったら、たまに外に出ていけばいいのではないか。たとえその頃には和人と関わりを持てなくなっていたとしても、鬼と、鬼が見える一部の人間がいれば、世界とは繋がっていられる。幻なんかではなくなるはずだ。――そう思っていた矢先、一人の人間の子供が鎮守の森に迷い込んだという話を耳にした。
紛れもなく、その子供は和人だった。しかも熱のある体で、ふらふらと森に入ってきたのだという。うわごとのように、求める名前を呼びながら。
「美和。美和、どこにいるの? 帰ってきてよ。美和……
その声を聞いたとき、美和は和人がこんな場所へ来た意味を理解した。彼は美和を、幻なんかではなく本当に存在している鬼なのだと考えて、鬼の住むこの場所まで捜しに来たのだ。人間のあいだでも、「鎮守の森は鬼の領域だから入ってはいけない」と言われているのに。良い子の和人がその禁を破るなんてことは、これまでに一度もなかったのに。
認められた嬉しさと、幻かと疑った相手を信じ直して捜しに来たことへの呆れとが入り混じり、涙となって美和の頬を伝った。足は愛しい片割れのもとへと向かい、熱のせいで座り込んでしまった彼の前に立った。
『和人』
名前を呼ぶ。この声が発熱から来る幻聴だと思われるかもしれないという恐怖はあったが、そんなことより彼をこの森から出さなければという気持ちが勝った。
美和の呼びかけに、和人はゆっくりと顔をあげた。いつか初めて目を合わせたときのように。
……美和。美和なの? ああ、良かった。ここにいたんだね」
そう言って、涙目で、けれども安心したように笑ったのだった。
『ばか。ばかね、あんた。そんな体で、人間が入っちゃいけない場所に来て、帰れなくなったらどうするの?』
こぼれた涙を拭くこともせずに、美和は真っ直ぐに和人を見つめて尋ねた。すると和人は首を横に振って、やはり美和から目を離さずに答えた。
「帰れなくは、ならないよ。美和を見つけるまで、帰る気はなかったもん」
そして、繋げもしない手をこちらに伸ばした。ふにゃりとした笑顔で、言った。
「一緒に家に帰ろう、美和」
ものに触れることのできない美和は、その手をとってやることができない。何もできないのなら、幻と同じだ。和人の考えは、ある意味で正しかった。それなのに、どうして。
『どうして、一緒に?』
「だって僕ら、双子でしょう」
和人のことだ。きっと考えては打消し、打消しては考えて、きっとこの熱だって同じことをずっと思い悩み続けていたから出したものに違いない。そうして辿り着いた結論が、この一言だったのだろう。
美和が心のどこかで待っていた、欲しかった言葉なのだろう。
……仕方ないわね。いいよ、一緒に帰る。あんたは私がいないとダメそうだし』
私もあんたがいないとダメそうだから。そこまで言えれば良かったのかもしれないけれど、強がりで意地っ張りの美和は言葉にできなかった。
それから鬼たちに手伝ってもらって、気を失ってしまった和人をなんとか森の外へ運びだした。鎮守の森から出た和人と美和は、神社の神主に発見され、無事に自分たちの家に帰ることができたのだった。
あとで目を覚ました和人が「あれ、美和がいる」と呆けていたのを見るにつけ、きっと自分で鎮守の森に入ったことは憶えていないのだろう。後に話題になることもなかったので、美和もこのことは自分だけの秘密にしている。

久しぶりに昔のことを思い出して、美和は一人、笑みを浮かべた。どんな顔をしていたって、和人以外の人間にそれを見られることはない。けれども美和はたしかに実家である水無月呉服店にいて、大切な記憶を持っている。
あの「鎮守の森引きこもり事件」、または「和人脱走事件」があったのは、ちょうど今頃の時期だったか。礼陣の町を囲む山々が、赤や黄色に彩られた季節だった。あれ以来、和人は美和の存在を疑おうとしていない。
『お互い、余計に依存しちゃった気もするけれどね……
皮肉を呟きながら、美和は先ほど来たと思っていた客が着物姿で店を出ようとするのを見た。いつものように『ありがとうございました』と言って頭を下げたところで、外から同じ台詞が聞こえてきた。それから声の主が店に入ってくる。こんな時間に帰って来るなんて、久しぶりではないだろうか。
「ただいま。柴山さん、これからお茶会?」
「おかえり、和人。今日はお茶じゃなくお花ですって。それより、随分早いわね?」
「先生の都合で、講習がなくなっちゃって。あと少しだけど、店に出るよ」
和人と母のやりとりのあとに、従業員たちの「和君おかえり」「いてくれると助かるわ」「勉強はいいの?」という言葉が続く。和人は全部まとめて「ただいま。店に出て気分転換したいので」と返事をして、一度奥へ引っ込むと、さほど間をおかずに店のエプロンをつけて戻ってくる。
それから店の隅に美和の姿を見つけると、にっこり笑って、他の人には聞こえないように小さな声で言った。
「ただいま、美和」
……お帰り、和人』
このやりとりができるのは、あと何度だろう。和人が美和と目を合わせられるのは、いつまでだろう。
和人に美和が必要な時期は、とうに過ぎてしまったはずなのだ。美和がいなくても、和人は一人で店番ができるし、友達ができないと泣くこともなくなった。それなのに彼は、美和が自分に必要なのだと思いこもうとしている。そうでなければ、美和が消えてしまうのではないかと恐れている。自分でこの町を離れることを選んだくせに、まだ美和が傍にいてくれることを望んでいるのだ。
きっと美和が鬼に成れるのは、和人が美和から完全に独立し、美和もまた和人に頼らなくとも大丈夫だと思えるようになったときなのだろう。それがいつになるのか、来年の春にはそうなっているのか、どうにもこの先が読めない。
ただ、今を見つめていうのなら。
『和人、お客さんが来る。早く行って応対して』
「わかった」
どんなに距離を置こうとしても、この店に二人が揃えば、自然と口が、体が、動くのだ。
「いらっしゃいませ」
声が重なる。重なるのに、その響きは互いにしかわからない。
『杉田さん、このあいだ修繕を頼んでた。お父さん呼んで』
「うん。店長、――
二人で一つの働きをしていることを、彼ら以外の誰も知らない。
誰にも知られなくとも、互いに互いを認めてさえいれば、たとえ互いの力を必要としなくなっても、繋がりが切れることはないのかもしれない。
でも、まだ少しだけ、そのときが来るのが怖いから。双子は二人で店番をする。