彼は転んだ彼女の手に手をのばし、心配そうに、優しげな声で言ったという。

「大丈夫? 怪我はなかった?」

彼女は彼を見上げ、普段は出さないような高い声で「はい」と返事をする。そして、そっと彼の手に自分の手を重ね、立ち上がらせてもらった。

目の前にいる彼は背が高く、ホッとしたようにこぼした笑顔はとても知的で、爽やかで。これが運命の出会いだったらいいのにと、彼女は内心呟いた。

――という話を、わたしが聞いたのは、実は二回目である。

 

昼休みを中庭で過ごすというわたしたちのスタイルは、春から始めて以来変わっていない。文学部のわたしと凪、そして看護学部の桜ちゃん。三人で昼食を持ち寄って、お喋りを楽しむと、午後の講義のことを考えても憂鬱にならない。……と思う。

話題はいつだって、他愛もないもの。桜ちゃんの話はよく「私の兄がね」で始まるし、凪は「どこかに良い男いないかなー」なんてぼやいている。そしてわたしは、二人に促されるままに彼氏の話をしたりする。凪の奴は話を振っておいて、わたしに向かって「彼氏持ちはこれだから」などと理不尽なことを言ってくる。

そんなちっとも知的じゃない会話をするわたしたちは、一応は地元の名門である女子大の学生なのだけれど。ずっと女子校にいてお淑やかな桜ちゃんはともかく、わたしと凪はそこらへんのモラトリアム絶賛満喫中の学生と何ら変わりがないはずだ。

そんな毎日を過ごしていたある日のこと、凪が興奮しながら話してくれたのが、昨日あったというできごとだった。

「昨日さ、駅前で人にぶつかってこけたんだけど」

「何やってんの、おばか。どうせケータイ見ながら歩いてたんでしょ」

「いいから黙って聞けよ、亜子」

興奮気味にあほなことを言う凪をあしらおうとしたけれど、どうしても聞いてほしい話らしく、引き下がらない。わたしは仕方なく、桜ちゃんと一緒にその話を聞くことにした。

昨日の夕方、案の定携帯電話の画面を見ながら駅前の大通りを歩いていた凪は、人にぶつかって転んだらしい。それだけなら馬鹿かつ迷惑な話だ。ところが、凪を興奮させたのはその後に起こったことだった。

彼女がぶつかった相手は、突然のことに驚いたかもしれないが、怒りはしなかった。それどころか転んだ凪に手を差し伸べ、助け起こしてくれたそうだ。

しかも彼は、凪好みの長身で爽やかなイケメンだったそうで。凪に怪我がないことを確認すると、ホッとしたように笑ったという。その表情が凪のハートを射抜いたというわけだ。

「もう、本当にかっこよかった! あの人、近くに住んでるのかな。また会えたら運命だよね。会えるといいなあー!」

一人で盛り上がる凪に呆れながら、わたしはお弁当のミートボールを頬張った。……うん、美味しい。でも同じレシピで作ったはずの、後輩作のミートボールのほうがより美味しいのはなぜだろう。

「亜子、あんた話聞いてる? 途中から聞き流してない?」

「はいはい、聞いてるよ。ねえ、桜ちゃん」

「聞いてたよ。凪ちゃん、良いことあってよかったね」

「桜はちゃんと聞いててくれたよ。でも亜子の態度が納得いかないの!」

聞いていなかったわけじゃない。これでも話の内容はきちんと把握しているし、凪がどれだけときめいたかもわかる。そんな状況、わたしでも「少女漫画みたいだな」くらいには思うだろう。

でも、わたしは知っているのだ。凪の望む「運命」なんてものはないことを。なぜなら、途中で気づいたのだが、わたしがその話を聞くのは二回目なのだ。

それも、一回目は凪にぶつかられた男性の視点で聞いている。

「凪。もしもう一度その人に会っても、凪が望むような展開はないよ」

「何それ、彼氏持ちの上から目線?」

「そうじゃなくて。……凪がぶつかったその人は、多分わたしの知り合いだから」

そう言って紙パックのジュースにストローを差したわたしを、凪は、そして桜ちゃんも、呆気にとられたような表情で見ていた。

 

昨日の夜、わたしはお向かいさん宅にお邪魔していた。今は就職してこの町を離れている、幼なじみの実家だ。なんでもその家に住む女性陣が夕飯のおかずを作りすぎてしまったらしく、わたしはそのお相伴にあずかりに行ったのだった。

この家にいる女性は二人。一人は幼なじみの実のお姉さんで、もう一人は義理のお姉さんだ。二人はとても仲が良くて、休日にはわたしをお茶会に呼んでくれたり、一緒に買い物に出かけたりもする。わたしは二人とも大好きだ。

いつものようにお喋りに花を咲かせながら、夕食をいただいていると、ちょうどもう一人の家主が帰ってきた。今ではこの家の唯一の男性となってしまった、幼なじみのお兄さんだ。背が高く優しいこのお兄さんのことも、もちろん好きで、わたしは明るく「おかえりなさい」と言った。

「ただいま。それからいらっしゃい、亜子ちゃん。……わあ、今日はまた豪華な夕食だな」

「愛ちゃんと色々創作してたら、作りすぎちゃって。保存がきくのが救いだけど、さすがに何日も置いてはおけないから、亜子ちゃんに来てもらったの」

「頼子さんとお料理してると楽しくて、ついやりすぎちゃうんだよね」

テーブルの上を見て感嘆の声をあげるお兄さんと、顔を見合わせて笑う仲良し義姉妹。ここに幼なじみがいたら最高なんだけどな、などと思いながら、わたしはお兄さんにも夕食を勧めた。

いつもの定位置に座りながら、お兄さんは「そういえば」と切り出した。

「さっき、女の子とぶつかっちゃって。北市の女子大生じゃないかな。亜子ちゃんの知り合いだったりしてね」

「ええ? 相手の子、怪我しなかった?」

「怪我はないみたいだった。でも慌てて手を伸ばしたら握られちゃって、ちょっとドキドキしたなあ」

ははは、と照れ笑いしながら、お兄さんはおかずをお皿に取っていた。「大学の助教授が女子大生にデレデレしちゃだめでしょう」と、お義姉さん、つまりはお兄さんのお嫁さんがちょっと拗ねたように言う。お兄さんは「ごめんごめん」と返した後、料理を思い切り褒めまくっていた。

 

「……とまあ、そういうわけで、凪がぶつかった人は既婚者だからロマンは求めないことだね」

「うわ、マジで……。やっぱりかっこいい人には相手がいるものなのか……」

素敵だったのになあ、とぼやく凪と、それを慰める桜ちゃん。そして内心気が気ではないわたし。だって、幼なじみとはすなわちわたしの彼氏で、お兄さんとよく似ているのだ。いや、お兄さんのほうが幾分か穏やかなんだけど。

凪の好みが彼氏にも合致しそうで、わたしはちょっと焦っている。できる限り、凪と彼氏は会わせないようにしよう。とられるなんてことはないだろうけれど、念のため。

――あ、でも、凪のときめきはシチュエーションあってこそのものだから、大丈夫か。だってわたしの彼氏は、そんな少女漫画みたいなことはできない。きっとぶつかられたら普通に怒るか、盛大に呆れる。

「ちょっと、亜子、なにニヤニヤしてんの。人の失恋がそんなに面白いか」

「え? いや、そんなつもりはなかったんだけど」

「でも亜子ちゃん、さっきから表情ころころ変わってたね。見てて面白かったわ」

頬を膨らませる凪と、わたしの思惑を見透かしたように上品に笑う桜ちゃん。

ああ、今日も平和だなあ、なんて。わたしは暢気に、いや、少しだけ恥ずかしいのをごまかして、紙パックに差したストローを咥えた。