祭りの後は、余韻を残しながらの片付けが待っている。さらにいうなら、それが終わった後の打ち上げまでが学校祭だ。
夕焼けの色に包まれた礼陣高校の、賑やかなその片隅で、広げられるは青春の一ページ。
「いつも、真面目だなって、背筋が伸びててきれいだなって、思ってました。部活のときも、たまに見てたんですけど、かっこよくて……」
聞き慣れた声が、いつもより少しだけ震えて紡ぐ言葉。それがどこか遠いところから響いているような感じがした。目の前にある見慣れた顔が、赤く染まっているのは、この町を染める空のせいだけではないらしい。
「だから私、連さんのこと、好きです。春からずっと、好きでした!」
でも、どうしてだろう。学年一の美少女が、自分なんかに、こんなことを言うなんて。何かの間違いじゃないだろうか。連はしばし逡巡した後、真剣な瞳をこちらに向けている莉那に尋ねた。
「……俺は、どうしたらいい?」
礼陣高校の学校祭は、おそらく町にある高校の中では最も盛り上がっていただろう。なにしろここには礼陣一のお祭男にして生徒会長である男がいて、その片腕がいて、彼らの魂を受け継ぐ後輩たちがいるのだ。
特に今年は、生徒会と有志によるバンド演奏が会場を沸かせていた。これが最後の祭りだというように、三年生である生徒会長と副会長の一人は、全力を出し切った。それを支えた二年生の副会長と、ヘルプで入ったという一年生も、学校中の注目を集めた。
海が気に入らないのはそこだ。憧れの先輩である水無月和人も加わった生徒会バンドに、ヘルプで入った一年生。それが部活において因縁の相手である日暮黒哉であったために、非常に不機嫌だった。
「どうしてまた、あいつだけ特別扱いを……。和人さん、今年の春からなんかおかしい。絶対おかしい!」
楽しい楽しい、高校一年目の、そして憧れの先輩と過ごせる最初で最後の学校祭。そうなるはずが、黒哉がステージにいるのを見つけた途端に台無しになった。いつ会得したのか、あのドラムの腕だけは認めてやってもいいが、それにしても和人と同じ場所で同じ曲を演奏しているということが許せない。ただでさえ、部活でも黒哉に特別指導をするなどしていて、納得がいかないのに。ちなみに剣道の特別指導は、和人が引退した後もときどき行なわれていた。
「なんで一年目にこんな思いしなくちゃいけないんだよ。絶対黒哉のせいだ。あとで竹刀でぶっ叩いてやる……」
町の剣道場の息子とは思えないような呟きも、祭りの後の喧騒に紛れていく。誰かから声をかけられればいつもの「優しく頼もしい進道海君」に戻るので、密かな暗い思惑は誰にも知られることはない。
あえていうなら、学校祭を見にやってきて、まだ校内をうろついている、礼陣に住まう「鬼」たちが『まあ、落ち着けよ、海』『海がイライラしてるとこっちはハラハラするぞ』などと声をかけては通り過ぎていく。彼らにだけは、本心を隠せない。さらにはこちらの苛立ちが鬼たちに伝播し、彼らに不安を与えてしまうので、海自身はできる限り平穏でいたいのだ。……本当は。
けれども、海にとって良くないことというのは続くもので。ごみを片付けながら教室に戻ろうとしたとき、その声を聞いてしまった。
「私、連さんのこと、好きです」
クラスメイトの、葛木莉那の声だった。海や連が一緒に話していると、いつもさりげなく近付いてきて話に加わる女子生徒。小、中学校で和人の後輩だったというので、同級生以上の女子が苦手な海も、彼女には半ば気を許していた。生徒会役員ということもあり、少しばかりではあるが、尊敬の念すら抱いていた。
それが、なんだ。彼女にも海の苦手とする気持ち――下心があったんじゃないか。しかも、海が同級生で最も尊敬している連に対して。
思わず身を隠して、彼女の言葉の続きを聞いた。そして、連の返事を待ってしまった。彼がその気持ちに応えたらと思うと、気が気ではなかった。
……それは、なぜ?
「……俺は、どうしたらいい?」
やがて聞こえてきた連の声は、そう言った。戸惑っている様子が、見なくともわかった。
「どうしたら、って……。あの、連さんは、私のことを好きになってくれますか?」
莉那の声も、困っているような色をしている。自信がなさげで、普段の明るい彼女からは想像もつかないほど震えている。それを連も察しているのだろう、慌てた返事があった。
「莉那のことは、良い友達だと思っている。いつも俺達に面白い話題をくれて、この町の興味深い話も聞かせてくれる、初めてできた女子の友達だ。……だから、どうしたらいいのかわからない」
「……そうですか」
莉那が出入り口のほう、つまりは海のいる場所へ振り返る気配がした。海は急いでその場を立ち去り、その際に、彼女の最後の台詞を聞いた。
「それなら、ゆっくり考えて大丈夫です。もしそれで、私のことを恋愛対象に見られそうなら……ううん、そうじゃなくても、教えてください。私、いつまでも待ちますから」
だんだん遠くなる声――いや、こちらから遠ざかっているのだ。それはきっと、本心なのだろう。連が何も言わなければ、彼女はいつまでも返事を待ち続けるつもりなのだ。
そうわかった瞬間、海の脳裏に浮かんだのは、酷く単純な考えだった。
学校祭は金曜日から土曜日にかけての二日間で行なわれた。日曜日と、土曜日の振り替えとなる次の月曜日は学校が休みになる。
だから海が連からその相談を持ち掛けられたのは、火曜日のことだった。メールなどでは表現しにくかったのだろう。昼休みに相談したいことがあるから、という文だけが、海の携帯電話に届いた。
火曜日の昼休み、海と連は校舎裏にいた。人気がない場所を探して、そこに行きあたった結果だった。時折、ずっと上のほうから声が降ってくる。屋上に数人の生徒が集まっているという話は聞いたことがあるから、多分彼らのものだろう。
上の騒がしい声がここへ届くことがあっても、下から上へ小さな声が通ることはない。誰もいない校舎裏は、秘密の話をするのにうってつけの場所だった。
「連さん、相談って何ですか?」
海はつとめて明るく尋ねた。何も知らないふりをして、笑顔で用意していた台詞を口にする。すると連が口ごもりながら、少しばかり時間をかけて、ぽつりぽつりと言葉を洩らし始めた。
「……海は、女子から、その……好きだ、と、告白されたことはあるか?」
「一応、何度かありますよ。付き合ったことはないですけど」
「そうか、やっぱり海はあるんだな。優しいし、格好良いからな……」
当然だよな、と連は頷きながら呟く。
まだだ。まだ「告白なんかされたくなかった」ということを気取られてはいけない。連の話を全て聞かなければ。
「俺はそんなんじゃないですよ。それにしても、突然どうしたんですか? 連さんからそんな話題が出るなんて」
笑顔を崩すな。「善い友達」に徹しろ。
「実は、……莉那に、告白されたんだ。前から俺のことが好きだったらしい」
「……へえ、そうだったんですか。莉那さん、隠すの上手いなあ。全然わかりませんでしたよ」
実際は、莉那が隠し上手だったわけではない。海がそう意識しなかっただけだ。そして、連も。
「女子からそんなふうに思われるのも、言われるのも初めてで、俺はどうしたらいいのかすぐにはわからなかった。……それと、不安なこともあったし」
「不安?」
海は首を傾げてみせ、連の顔を覗き込む。こんなことを相談しているのだから、顔が赤くなっているのではと思ったが、実際そうでもなかった。それよりも、たった今口にした「不安」の要素が大きい気がする。またいつかのように、中学時代に何かがあって、それが引っかかっていたりするのだろうか。
その予想は、当たらずとも遠からず、といったところだった。連が語ったのは、それまで海が聞いたことのなかった、彼の家の事情だった。正確には「家柄の」事情だ。
「俺の母方の家は、京都の旧家で……母はその四女で、姉たちにはそれぞれ数人ずつ娘がいるんだ。俺はいとこたちの中で唯一の男で、しかも一番年下だ」
年始や盆に母方の家に集まっては、連は自分よりも年上の従姉たちに弄られ続けてきた。事あるごとにからかわれ、女性陣の団結力には敵わないということを叩き込まれてきた。だからだろう、連は次第に、女性に対して怖れを抱くようになっていったのだという。
「女子はなんだか怖くて、近寄りがたい。ずっとそう思ってきた。莉那は従姉たちのような性格ではないし、良い子だとわかってはいるんだが、そういう意識が抜けないんだ。そんな状態で、ましてこれまでこんな形の好意を誰かから向けられたことも向けたこともなかったのに、これからそうできるかどうか自信がなくてだな……」
やっぱり、告白されたら付き合わなくてはならないものなのだろうか。
連がそう言ったとき、海は心底ホッとした。なぜなら、この瞬間のために用意していた台詞が、いくらかは不自然に思われずに済むからだ。
「だったら、今まで通り友達で良いんじゃないですか。莉那さんには悪いけど、恋愛なんかせずに、これまでと同じ関係を続けたらいいんですよ」
――待ち続けさせずに、断ち切ってしまえばいい。
あのとき海の頭に浮かんだことだ。だが、莉那との交友関係すらも全て断ってしまうのは、連にも良くない。なにしろ、彼女も彼にとっては高校に入ってできた「大切な友達」の一人なのだから。
だから、今まで通りにする。莉那の想いだけを諦めさせる。連が「どうすればいいのかわからない」なら、その道に誘導してやればいい。それが海の出した結論だった。
「海は、そうしてきたのか?」
「俺ですか? うーん、いろいろですよ。同級生として当たり障りなく接し続けたこともありますし、そのまま相手が離れていったこともあります。でも、莉那さんなら離れることはないでしょうね」
「……そうか、良かった。それでいいのか」
思った通り、このような事態に慣れていない様子だった連は、うまくこちらの提案にのってくれた。安堵したような笑みを浮かべて、息を吐いている。――そう、これで良かったのだ。
「莉那には、気持ちには応えられないことを伝える。それでもきっと、友達でいてくれるよな?」
「はい、俺はそう思いますよ。だって莉那さんは、俺の尊敬する先輩が信頼している後輩ですからね」
その彼女を連から引き離そうとしたのは、申し訳ないけれど。
それからしばらくした頃。学校祭の余韻もすっかり失せて、礼陣高校の生徒たちは、勉学と部活に励む日々を送っていた。
海も先輩たちが引退してしまった後の剣道部をなんとか盛り返そうと、一心不乱に竹刀を振っていたのだが。
「海君、ちょっといい?」
部活に向かおうとする前に、莉那に呼び止められた。何の用かわからなかった海は、いつも女子に対してそうするように、「当たり障りのない」笑顔で振り向いた。
「どうしたんですか、莉那さん? もしかして、和人さんのことで相談ですか」
「和人さんは関係ないの。私は海君に用があるのよ」
学年一の、学校内でも評判の美少女が笑う。顔だけで。――その声は、全く笑ってなどいなかった。
「あのね。私、学校祭の後、連さんに告白したの。ずっと好きでしたって」
「……ああ、はい。連さんから聞きました」
「そうだよね、聞いたよね。聞いて、海君は、連さんに何て言ったの?」
笑顔のまま詰め寄るというやり方が、実に共通の先輩である和人に似ていて、海はわずかにたじろいだ。そんなところ、似なくていいのに。そんな思いが頭を掠めていく。
「連さんはどうしたらいいのかわからないって言ってました。だから、友達のままで良いんじゃないかって言いましたよ」
「それは海君の意見? それとも、望みだった?」
「意見です。それで連さんがどうするかなんて、自由ですし」
海は至って落ち着いて、その言葉を口にしたはずだった。しかし。
「嘘吐き」
莉那はそう、まるでちょっとした冗談でも言うかのような口調で言った。けれどもその一言に彼女の気持ちが凝縮されていることは、海に電流のように伝わってきた。
「海君は、女の子に優しくないね。ただ連さんをとられたくないだけじゃなくて、最初からそうだったんだよね」
「……」
返す言葉なんかなかった。莉那が語ったことは、全て的を射ていた。
だんだん笑顔を保つのがしんどくなってきた海に、莉那はくるりと背を向けた。スカートが翻り、長い髪が揺れる。大多数の男子生徒なら、その仕草だけで彼女に胸をときめかせるのかもしれない。けれど。
「連さんは、海君の名前は出さずに、私の気持ちに応えられない理由を説明してくれたよ。女の子、苦手なんだよね。それなら仕方ないなって、受け入れるしかないなって、そう思った。だから私が振られたのは、海君のせいじゃない」
ちょっとは泣いたけどね、と莉那はおどけた声で言う。その表情は、海からは見えない。
「でもね、あんまり女の子を邪険にするのはどうかと思うよ。私は自分がそうされるのはかまわないし、海君は友達だと思ってるけど。……いつか連さんが誰かを好きになったら、その時は応援してあげなくちゃ、だめだからね」
最後の一言には、得も言われぬ迫力があった。心を深く抉られたようだった。海は思わず胸をおさえ、答えを返した。
「わかってます」
その言葉を確認したように小さく頷いてから、莉那はそこから離れていった。このあとは多分、生徒会の仕事があるはずだ。彼女の足は、生徒会室のある特別教室棟へと向かう。
海も、すぐに部活動に向かわなくてはならないはずだった。だが、足が動かない。たった一人の女の子に、してやられてしまった。
「……これだから、女は」
あんな恐ろしくて厄介なものに、自分は恋などするものか。海は改めて、そう思った。そしていつか連が女の子に想いを寄せることがあるかもしれないということに、それを応援できないかもしれない自分に、酷く落胆した。