むかし、むかし。まだ礼陣の鬼たちが、どの人間の目にも触れていた頃。人のかたちをした者も、異形の姿をとる者も、みながみな、文字通りに手をとりあって暮らしていたような、そんな時代のお話。
その頃の人間たちは、困ったことがあれば鬼たちに力を借り、鬼たちは進んで人間たちを助けようとしていた。互いの生活に密着し、それがこの地での「あたりまえ」なのだと考えていた。
鬼たちをまとめる大鬼様も、その頭に輝く大きな二本のつのを、何も気にせずさらしていたが、それを礼陣の人々が不快に思うことなどなかった。むしろこの土地を守ってくれる神様のようなひとが目に見えることを、ありがたがっていた。明らかに人間とは違うものであるという認識も、彼を畏れ敬う要素だった。
いつも不思議な力で自分たちを助けてくれる鬼たちに、人間たちは何か返礼をしたいと考えていた。こちらばかりが恩恵を受けていては、いつか彼らが何かの折に、人間たちを見限っていなくなってしまうかもしれない。彼らがいなくなっては、こちらの生活にも不具合が生じる――それほどまでに人間は鬼に頼っていたのだった。
そこで人間たちが思いついたのが、鬼たちのための居場所をつくることだった。それは「この土地にいる」というだけではなく、彼らが休むことのできる空間を用意するという意味だ。人間がそこに立ち入ることができないというわけでもないが、そこでは鬼の立場が優先されるようにしようと、話し合って決めたのだ。
それが後の、鎮守の森を含む礼陣神社の一帯である。
結局は人間側の自己満足だったが、鬼たちは人間たちの「ここにいてほしい」という思いを大層嬉しく思った。一番喜んだのは、他でもない、この地に降り立ち留まることを最初に決めた、大鬼様だった。
人間たちは決定に従い、さっそく社を造り始めた。何人もの男たちが集まり、神社の形を決め、礼陣の地をぐるりと取り囲む山々から材木を集めた。設計に丸一年、組み立てにとりかかるまでに数年を要した。そこから完成に至るまでにはさらなる年月をかけることとなる。
人間たちは、これらの仕事を鬼たちの手を煩わせないように、自分の持つ力だけでやると約束していた。だから鬼たちも、彼らのすることに手出しはしなかった。ただただ、人間たちがつくってくれる「居場所」ができるのを心待ちにして見守っていた。
さて、神社建立に携わった男たちの中に、とある若者がいた。腕っぷしはさほど強くないが、鬼たちとこの土地に対する気持ちはひたすらにまっすぐで、自らを取り囲む全てを愛しているといってもいいくらいだった。
当然、神社を建てることにも積極的に参加して、山に入っては材木を採り、設計や組み立てにも、意見を述べたり手を貸したりした。
そんな彼を、もちろんのこと、鬼たちも好きだった。これほどまでに鬼たちに心を傾けてくれる人間のことを、放ってはおけなかった。神社を造るのも、何度手伝おうと思ったか。けれども彼を含む人間たちが「これだけはどうしても人間だけの力でやり遂げたい」というので、あえて手出しはしなかったのだった。
毎日何時間も神社建立のために使っていた男だったが、彼にはまた、愛する人間もいた。笑顔が愛らしく、しかしながら芯の強い、勝気な女。いつもひょろりとした男を支えてくれていた、しっかりとした女だった。
愛し合っていた二人のあいだには、もうすぐ子供が生まれる予定だった。女の腹がだんだんと大きくなっていくのと、神社の形が少しずつ決まっていくのを、男は日々の生活の糧としていた。この幸せこそが、自分が動くための力になるのだと、せっせと働いていた。
男がそうであったように、女もまた、鬼たちに好かれていた。女は人間も鬼も一緒だと言って、分け隔てなく明るく接してくれていた。どんなに異形の鬼が傍に寄ってきても、同じ笑顔でその背を優しく叩き、声をかけていた。そんな女を、どうして鬼たちが好きにならずにいられようか。鬼たちは男のしていることを手伝えない分、女を助けていこうと考えていた。
そうしていよいよ、子供が生まれるかどうかという頃になったとき。女はいつものように男を見送り、男はいつものように山へ材木を採りに出かけた。考えているとおりの神社を建てるには、まだまだ材料が足りなかったのだ。
「立派なお社ができるといいねえ。……きっとあの人の、あの人たちのこと。広くてきれいで、鬼のみんなが安らげる場所になるよ」
女は男の背中を見つめながら、周りにいる鬼たちにそう語りかけた。重い、けれども温かな腹を抱えながら、今日も家の仕事をして男の帰りを待つつもりだった。
女が男と住む家は、礼陣の土地を西から東へと流れていく遠川の近くにあった。そこから山まで歩き、そこで木を切って、さらに山から神社を建てる場所へ行くことは、力のそう強くない男にとって、きっと酷く疲れることだろう。けれどもそれを喜んで引き受け、鬼たちの、ひいては人間たちの平穏のためならと頑張る男の姿は、女にも、鬼たちにも、眩しく見える。その光に照らされて、自分はお腹の子供とともに生きているのだと、女は思っていた。
その女が産気づいたのは、その日の夕方のことだった。近くにいた鬼があわてて産婆を呼びに行き、子供がいつ産まれてもいいように準備をした。これまでに何度も、何人も、赤ん坊をとりあげてきた鬼たちは、こんな状況にも慣れていたので、女は安心して身を任せることにした。
だが、ただ一つだけ気にかかることがあった。男が、帰ってこないのだ。こんなときに一番近くにいてほしい人が、まだ現れていなかったのだ。
仕方ない、あの人は神社を建てるのに頑張っているんだ。私も頑張って子供を生んで、あの人に見せてやらなくては。大丈夫、鬼たちがついていてくれるのだから。
女はそう思いながらも、やがて、お産の痛みに意識を持っていかれるようになった。
その頃、男は、まだ山にいた。本当ならば、今頃には神社を造る現場にいて、木の加工などをしているはずだった。しかし、そうできない事情があったのだ。
男がいたのは、山は山でも、崖下だった。昼間に木を切り終えた男は、片づけをしてから追いつくからと仲間たちを見送った後、緩かった地面に足を滑らせて、崖から真っ逆さまに落ちていたのだ。
地面に頭から落ち、全身を強かに打った男は、すでに生きてはいなかった。ただ魂だけが、ぽつねんとそこに座り込んでいた。
血を流した自分の体を見て、男は自分がもう助からないことを覚っていた。だが、死んでも死にきれなかった。だって、まだ神社ができていない。愛する女に「ただいま」を言っていない。これから大切な宝物になるであろう、我が子の顔を見ていない。男の魂は、そんな未練でいっぱいだった。その重さが、魂をそこに留まらせていた。
それに気がついたのは、いつまでも山から出てこない男を心配して、捜しに来た大鬼様だった。普段ならまず間違いなく神社の建設現場に来ているはずの男の姿が見えないので、もしやと思い山中を捜していたのだった。
ようやく見つけたそのときには、男は血まみれの体と未練だらけの魂にすっかり分かれていて、さすがの大鬼様にも生き返らせることはできなくなっていた。
「ああ、何てことを……。貴方は私たちの居場所をつくろうとして、死んでしまったのですか」
崖下にふわりと降り立った大鬼様は、顔を悲しみに歪めてそう言った。その言葉に、男の魂はやっと我に返ったのだった。
『大鬼様、そんなに悲しそうな顔をしないでください。こっちまで泣きたくなってしまいます。ただでさえ、神社のことや、失礼ですが、なにより女房と子供のことが気にかかって、死にきれないんですから』
男の魂は困ったような笑みを浮かべた。今の男にできる、精一杯の表情だった。大鬼様はその魂をそっと抱きしめ、優しく語りかけた。
「お子さんは、元気に生まれそうですよ。奥さんも無事です。鬼たちみんなで、お産を手伝っています。……そこに貴方がいれば良かったのですが……」
『そうですね。それができたら、もう悔いなく死んでいけるかもしれません』
神社のことは諦めるにしても、こればっかりは。そう男が呟いたとき、その魂が光を帯び始めた。男は驚いて自分を見て、それから大鬼様を見た。大鬼様は、真剣な表情をして、まっすぐに男を見ていた。
「貴方のその願いを、叶えます。私が貴方を家に連れて行きます。急ぐので、体を運ぶのは後になってしまいますが、それでも良いでしょうか」
大鬼様は、男が死んでもなお、その魂を助けようとしてくれていた。彼が持つ不思議な力は、また人間のために使われるのだ。そうしていつも手を差し伸べてくれる大鬼様と鬼たちのために、男は、人間たちは、神社を造ろうとしていた。それなのに。
また、人間は、鬼の奇跡にすがるのか。
『……よろしくお願いします』
今はそれしか、男が未練を振り切る方法は見つからなかった。
大鬼様と男の魂が、遠川の近くにある住居に行くと、そこには元気な産声が響いていた。女の、そして男の面影がある赤ん坊が、やわらかな布に包まれ、産婆の腕に抱かれているのが見えた。たくさんの人間たちと鬼たちがそれを覗き込んでいて、みんなが優しい顔をしていた。
男が帰ってこないのを気にする者もいた。山へ捜しに行った人間と鬼が、他にもいるらしいこともそこでわかった。男の遺体は、もうすぐ発見されるかもしれない。
そうしたら、女は泣くだろうか。子供を抱えて、一人で悲嘆にくれるのだろうか。そんな姿は見たくはない。
愛する者を目の当たりにしてしまった男は、その魂の中に新たな未練が生まれるのを感じていた。ずっと女と子供の傍にいてやりたい。彼女らを守っていきたい。これまでと同じように、いや、これまで以上に、この家にいたい。強く強く、そう思った。
「未練、振り切れないようですね」
大鬼様が隣で言った。
『ええ、どうやらそのようです。人間は業が深いもんだ。次から次へと新しい欲が出てくる』
「人間だけじゃありませんよ。鬼にも深い業があります」
泣きそうな表情の男の頭に、大鬼様はそっと手をかざした。すると男の頭から、二本の長いつのが、すうっと生えてきた。魂ははっきりと人間の、いや、人間によく似たかたちをとって、そこに現れた。
これこそが大鬼様の成せる最も大きな力であり、人間の魂を鬼として再生させるという業だった。しかも、男が本来鬼に対して持っていた情ゆえか、その力はとても強く働いて、男を人間の魂と鬼の半端者である人鬼などではなく、完全なる鬼にした。
『大鬼様、これは……』
男は自分のつのに触れながら、大鬼様を見た。同時に、その声に気づいた女が、こちらに目をくれた。
「……あんた、おかえり」
男が見たかった笑顔が、聞きたかった言葉が、再び寄越された。ああ、と男は呟く。これじゃいつまでたっても死ねないじゃないか、と思う。愛する女を、小さな命を、鬼としての生涯をかけて守り抜こうと、男は誓った。
その後、男の遺体は見つかり、葬られた。だが、男は鬼となって妻と子供の傍にいる。ただし、男は鬼になった自分を、できる限り家族に見せないようにしていた。
『本当は死んだ身だから、潔く消えなければならないところを、大鬼様が情けをかけてくださったんだ。だからせめて、死んだように扱ってくれないか。でないと他の死んだ奴らに、申し訳がたたない。それでもちゃんと、お前たちのことは守るから、それだけは安心してくれ』
そう言って、普段は家の奥の部屋でじっとしていた。女は男の言うことに頷き従って、子供には毎日のようにこう言い聞かせた。
「この家にはね、私たちを守ってくれる鬼さんがいるんだよ。私もお前も、その鬼さんに大切にされているから、今日も元気に前を向いて生きられるんだ。生きなきゃいけないんだよ」
そうして、子供と二人で、毎日奥の部屋の戸に向かって、手を打って合わせた。朝には「鬼さん、おはようございます」と。外に出るときは「鬼さん、いってきます」、帰れば「鬼さん、ただいま」。そして一日を閉じるときには、「鬼さん、おやすみなさい」。日々の挨拶を欠かさずに、女と子供は生きていた。
子供は女に似た、活発な少女に育っていった。そしてやがて大人になり、好きな男と縁があり、結ばれることとなった。
娘の成長を見届けた「鬼さん」は、いつしか満足して、この世から消えていった。そのかわり、家の無事を守る役目を、次の「鬼さん」に託していった。――それは、娘と結婚し婿となった男が負う役目となった。そのことはきちんと、婿の夢枕に立って説明し、納得してもらっている。
そうしてこの家の――根代家の「鬼さん」は、代替わりをしている。婿入りした男が代々早死にしてしまうのは、この家を人間のものではない強い力で守るためだ。鬼の力を引き継いで、家族を命をもって守り抜くのだ。
鬼が人間たちから姿を隠し、大鬼様も角を人の目に映さないようにしている現代でも、それは続いている。
「鬼さん、いってきます!」
今日も末代であり、根代の元気な女の血を引く八子の声が、家に大きく響き渡る。それを聞いて、奥の部屋にいる当代の「鬼さん」は、静かに笑みを浮かべるのだ。