礼陣駅前のコンビニエンスストアは、学生に社会人、子供にお年寄り、ついでにいえば人間から鬼まで色々な客が訪れる。もっとも鬼は買い物なんてしないので、ふらっと入ってきては店内を興味深げに眺めて、またふらりと去って行くのだが。
今日も様々な客層に応じ、掃除をし、品出しをし、レジを打ち……と、アルバイトをしている黒哉は忙しく動き回る。普段はなかなか見せない笑顔も、仕事に必要とあれば別だ。訪れた女子高生にときめきを与えるくらいには、爽やかに見えるよう努めている。これも世話になっている店のためである。
そうして働いて、そろそろ交代の時間かという頃に、扉を開けて男子高校生が一人入ってきた。見慣れた顔の彼は、今日は町で一番偏差値の高い公立高校の制服を着ていた。
「黒哉、お疲れー」
笑顔で手を振った彼に、黒哉はまだ自分が「従業員」であることを意識して、挨拶をした。
「……いらっしゃいませ」
「いや、知り合いなんだから、もっと気軽でよくない?」
客であり、普段はこのコンビニのアルバイトの一人でもある近江健太は、苦笑しながらそう返した。
シフト表の今日の欄に、健太の名前はない。しかし黒哉が入っていることを知っていて、わざわざアルバイトの終わりを狙ってやってきたらしい。礼陣高校の制服を着て店から出てきた黒哉を、社台高校の制服を着た健太は片手を挙げて迎えた。
「黒哉、これから暇?」
「暇じゃない。家帰って飯作って、課題やって風呂入って寝る」
「じゃあオレんちおいでよ。飯も風呂もあるし、課題も一緒にやればいい。わかんないとこあったら教えるぜ」
「出た、社台生の余裕」
アルバイト先を同じくする同い年の二人は、通う学校は違えど仲が良い。本当ならば早く帰らなければ補導されかねない時間に、制服のまま並んで外を歩く。健太は楽しそうに笑いながら、黒哉は普段通りの仏頂面に戻って。
向かう先はごく自然に、健太の住むアパートになった。そこは住宅と大学、そして町のシンボルである神社のある、社台地区。健太は古いアパートの一室で、賑やかな住民たちに助けられながら独り暮らしをしている。
そこへ連れられていく黒哉は、こちらもまた独り暮らしをしているので、帰りが遅くなろうと、急な泊りになろうと、咎める者は残念ながら誰もいない。健太の誘いに甘んじることにして、目的地に到着した。
アパートは「コーポラス社台」という安直な名前の二階建てで、十四の部屋がある。健太は一階の真ん中の部屋を開けると、黒哉に先に入るよう促した。ワンルームは男子学生の独り暮らしにしては片付いているようだったが、それはつまり黒哉の部屋とさほど変わりがないということでもあった。
違う点といえば、本棚には漫画が多く並び、テレビの傍にはゲーム機があるということか。黒哉の部屋には漫画の代わりに歴史小説や昔のファンタジー小説があり、ゲーム機はないが性能の良いオーディオ機器がある。黒哉自身と、亡くなった母の趣味がそのまま反映されているのだ。
「そのへん座って、課題でもやってなよ。夕飯の準備、すぐできるから」
「手伝う。店長が健太と二人で食べろって持たせてくれたのもあるんだ」
「廃棄?」
「いや、店長の家のおかず」
健太が来たのを知った店長が、豚の角煮の入ったタッパーを黒哉に持たせてくれた。それに食事の支度なら、黒哉だって得意なのだ。だが健太は「いや、座ってていいよ」と言いながら、タッパーだけを受け取って、蓋を開けて電子レンジに入れた。
「どうせ夕飯ったって、貰いものと残り物なんだ。米は天下のパックご飯」
「つまり手伝うことはないと」
「そういうこと」
角煮が温まってから、今度はパックに入った温めるだけのご飯をレンジにかける。流れるような動作に、健太はいつも食事をこうしているのかと黒哉は思う。今度、何かおかずを作って持ってきてやろうかなどと考えた。
考えながら、健太に勧められたとおり、課題に手をつける。数学の問題集を、次の授業までに進めておかなければならない。正直、理数系の科目は得意とは言い難い。特別苦手というわけでもないが、好きではない。
解き方につまり、教科書を確認しようとしたところで、テーブルに温めた夕食を持ってきた健太がさらりと言った。
「答えは15だよ。それに辿り着くようにやってみな」
「……本当に勉強だけはできるんだな。腹が立つ」
「腐ってもヤシコー生だからな」
黒哉は一旦問題集とノートを床に置き、ほんの少しだけ悔しがりながら、食器を並べるのを手伝った。得意そうに笑う健太から割り箸を受け取って、向かい合わせに座り、「いただきます」と声をそろえた。
食事をしながら、黒哉は部屋に入ったときから気になっていた本棚のことを尋ねてみた。
「漫画ばっかりなんだな。社台の生徒は参考書ばっかり並べてるのかと思った」
「参考書を大量に並べるだけなら、遠川高校の奴らだってできるぜ。オレは必要最低限の勉強と、全力で遊ぶことを大事にしてるんだ」
アルバイトの最中でも、健太はたまに大胆で奇天烈な行動をとることがある。その様子はとても偏差値の高い進学校の生徒とは思えないのだが、「なんとかと天才は紙一重」という言葉が頭に浮かんで、黒哉は何も言わなかった。
すると今度は、逆に健太が箸でこちらを指しながら質問を投げかけてきた。
「黒哉は? 漫画読まないの?」
「あんまり。……箸で指すな、行儀が悪い」
「ああ、ごめん。お前の家、躾がしっかりしてたんだな」
素直に非を認め、健太はタッパーの中の角煮をつまむ。口に運んでから目を見開いて、「うちの親が作るより美味い」と声をあげた。それにつられるように黒哉も角煮をとって食べ、頷く。母の作ってくれた料理とは違うが、たしかにそれは美味しかった。
「店長にレシピ訊いたら、教えてくれるだろうか」
「訊くなら奥さんじゃね? シフトぶつかったときに訊けば?……それより、漫画。そこにあるの結構面白いぞ。原作がラノベなんだけど、漫画は漫画でオリジナルの展開があってさ。主人公の仲間に、黒哉によく似た奴がいるんだよな」
食事の途中だというのに、健太は席をたって漫画を手に取り、適当なページを開いてキャラクターを指さした。目つきの良くない、口の悪いキャラクターだった。
「これがオレに似てるって? なんか嫌な奴っぽいけど」
「いや、これ照れ隠しに悪態ついてるだけ。黒哉もわりとツンデレだろ」
「ツンデレじゃねーよ」
そうかなあ、と健太はにやにやしながら本を置き、食事を再開した。角煮とは別にもう一品あったおかず、秋ナスの焼きびたしを頬張って、健太はまた表情をほころばせた。黒哉も追うように皿にとり、秋ナスを味わう。仕事以外であまり笑わない黒哉だったが、思わず頬が緩んだ。健太はその顔を見逃さない。
「美味いだろ。それ、上の階に住んでる中学校の先生が作ってくれたんだ。男だし担当科目は数学なのに、もったいないくらい料理上手でさ」
「たしかに数学教師にしておくにはもったいないな」
焼き方も、浸かり具合も、絶妙だった。料理上手な数学教師といえば、学校の先輩たちが中学の時に世話になったという教師もそんなふうに言われていたが、まさかその人だろうか。だとしたら、こんなところでその料理を食べられるのは、幸運な偶然だ。
「その数学教師、井藤って人?」
「あれ、黒哉も知ってんの? そう、中央中の井藤先生」
「やっぱり。オレの先輩の、中学の時の副担任だ」
「へえ、そりゃ奇遇」
話しながら食べているうちに、タッパーも、ナスの器も空になった。茶碗の中身もきれいになくなっている。食べ始めるときと同じように、声をそろえて「ごちそうさま」をした。
食器を洗い、片づけるのは黒哉も手伝った。二人でうまく作業を分担してやればあっという間だった。
皿についた泡を流しながら、健太は言う。
「泊まってけよ。明日、学校休みだろ」
「学校は休みでも、商店街でバイトがある」
黒哉は洗い終えた食器を拭いて、脇に置いていった。しまう場所はわからないので、あとで健太にやってもらうことにした。
「忙しいな、黒哉は」
「まあな。……でも、泊まらせてもらう。課題でわからないところがあるから、社台高校の生徒に教えを請いたい」
「どんどん訊けよ。そのかわり、オレは漫画の話をさせてもらう。さっきのあれ以外にも、面白いスポーツ漫画の話とかしたいし。体育の時間に技名叫んで真似したりしてさ」
「課題教えてくれるだけでいい。その話、長くなりそうだ」
夜は長くなるだろう。なにしろ、秋なのだから。
食器がすっかり元の位置にしまわれた後、お湯を沸かして、コーヒーを淹れた。今夜は、数学と漫画の話題で過ごすことになるのだろう。