九月になり、通常通り学校へ登校する日々が始まった。夏休みの間は、講習と部活の時間以外は、できる限り店にいた和人も、そろそろ受験生として勉強を優先しなければならない。高校三年生の秋、じきに推薦入試も始まるころだ。もっとも、一般受験組の和人にはまだ少し時間があったが、それでもやるべきことはきちんとやっておかないと、考えていた道から外れることにもなりかねない。
「和人、今日も店の手伝い行こうか?」
放課後、進学講習に向かおうとする和人を、流が呼び止めた。振り向いた和人は呆れたように笑い、応える。
「もう手伝いはいいよ。流だって受験勉強しなくちゃいけないだろう」
「それはそうだけど……」
「あと、生徒会の引継ぎ。ちゃんとやっておかないと、あとで大変なのは後輩たちなんだからね。うちの店を現実逃避に使うのはやめてよ」
そういうつもりじゃなかったんだけど、という流の呟きを背に、和人は講習の行なわれる教室へ向かう。国立大進学希望者向けの、発展的な内容を教えるコースだ。講習が終わってから家に帰れば、実家の店はもう閉店準備を始める時間になっているだろう。
和人の実家は、礼陣の駅裏にある商店街に構えられた、老舗の呉服屋だ。名を「水無月呉服店」という。父が切り盛りするようになる少し前から商売の形態を変えており、着物以外にも学生服や、年配層向けの洋服などを扱っている。なんでも、駅前に大型店が進出し始めた頃に、対抗策として商店街の在り方を模索する段階で、「挑戦」してみたらしい。それが今でも続いているということは、一定の客がついたのだろう。古くからの客がそれを受け入れてくれた、というのもある。そうでもしないと、大きくもない町の小さな呉服屋は、生き残ることが難しかったのかもしれない。
和人はそれを良いとも悪いとも思わない。ただ、店があるならそれを手伝うだけだ。呉服屋の一人息子として、その役目を果たすのが筋なのだ。――多分。
というのも、和人は生活の一部として培ってきた商品知識こそあるものの、接客など人と直接関わることは得意ではない。活発な対面販売を基本とする商店街の子供として、それは致命的なことだった。
それを支えてきたのが、水無月呉服店のもう一人の子供である。その姿は店を営む両親にも、訪れる客たちにも見えない。和人にだけ視認することができ、声を聴くことのできる存在。和人の双子のきょうだいであり、人間の魂が「鬼」になるその過程のもの、「人鬼」の少女、美和だ。
鬼は礼陣に存在する、頭に二本のつのを持ち、瞳の赤い、さまざまな姿形の人々だ。通常、人間にその姿を見ることはできないが、「鬼の子」と呼ばれる特別な人間には見える。そういうものがいるのだが、和人は「鬼の子」ではないから美和以外の鬼を見ることはなく、美和は完全な鬼ではないので、人間には、「鬼の子」にすら見られることはない。
美和は和人にしか姿が見えないことを利用して、呉服店の営みや客層を把握し、それを和人に伝え、行動させることで店を手伝っている。和人が店に出ていても、実のところは、美和が働いているのだ。少なくとも和人自身はそう認識している。
だが、その手伝いの仕組みはもうすぐ崩れようとしていた。和人が隣県にある国立大へ進学することを決めたのだ。そうなれば向こうで独り暮らしをすることとなり、実家の店からは離れてしまう。すると美和も、自分の考えを和人に伝えることができなくなるので、店の手伝いはできなくなってしまう。
これまで美和の指示に頼りきりだった和人は、和人に考えを託すしかできなかった美和は、来年からどうすればいいのだろうか。これが目下の、二人の悩みだ。
ただ、和人にとってその悩みは一旦置いておいてもいいもので、今は受験勉強と店の手伝いをいかに両立させるかが最重要課題になっている。
「……帰る頃には、店の掃除だなあ」
講習が終わる時間を考えて、和人は一人溜息を吐いた。いつも学校にまでついてきていた美和の姿は、最近はあまり見なくなった。受験が近いからと、気を遣ってくれているのだろうか。こちらはそんなこと、いまさら気にしないのに。
案の定、講習を三コマ分終えて帰宅した頃には、水無月呉服店の表のシャッターは降りていた。部活をやっていたときもよくあることだったが、店を手伝えないと申し訳ない気持ちになる。ただでさえ家を離れることを選んだのだから、可能な限りは家のことをきちんとしたいのだ。
「ただいま」
「おかえり、和人。しっかり勉強してきた?」
「うん、まあまあ」
店の掃除は母がやっていた。父は今日の売り上げや在庫の確認をしているようで、姿が見えない。そして美和は――家の中には、その気配はなかった。
いつもなら、父についてまわって店の事務部分を勉強している(そしてあとで和人に教えてくれるのだった)か、母が掃除をしているのを見守っているのだが、今日はそのどちらでもないようだ。
ここ最近、美和は家にいないことが多い。和人の近くにいることも、急に少なくなった。夏祭りが終わったあたりからだっただろうか、美和は姿を現さないことが増えた。
それまでは、和人に付きまとって指示を出したり、やることなすことに口を挟んだりということが当たり前だったのだが、それが突然減ったのだ。
鞄を置いて、制服のまま掃除を母に代わって引き受けた和人は、改めて目だけで美和を捜す。しかし、店の隅にも、帳簿を持って奥から出てきた父の傍にも、見慣れた二本のつのの少女はいなかった。
「こんなに続くなんて珍しいな……」
美和が一人で外に出ることも、和人に何の断りもなくそうすることも、度々あることではあった。なにしろ美和は鬼の端くれだ。人間で接することができるのは和人だけだとしても、同じ鬼とならいくらでも会ったり話したりということができるようで、和人には見えないような友達が多くいるのだと、以前聞いたことがある。彼らに会いに行ったのならば、そう経たないうちに帰ってくるだろう。
けれどもそれがあまりにも頻繁で、たとえ片づけだけであっても店の手伝いにすら顔を出さないのは、仕事が大好きな美和にしては妙なことだった。
そういえば、と和人はごみ出しをしながら思いだす。先日の十五夜も、美和は初めのうち、姿を現さなかったのだ。
天気が良ければ、十五夜には礼陣の和菓子の名店「御仁屋」で団子を買ってきて、月見をする。それが和人と、親友である流の定番になっていた。そこにはいつもならば美和も一緒にいて、三人で名月の夜を過ごしているように、和人の目には映っていた。
それが、今年は流と二人でのものになりかけた。いつまでたっても美和の姿が見えず、もしかするとこっちよりも他の鬼たちと月見をするほうが楽しいのかな、と思いかけたところで、ようやく彼女は現れたのだった。もちろん流には見えないので、美和が来たところで何が変わるというわけでもない。だが、美和がいるという、和人にとっての「当たり前」が戻ってきたことに、和人自身は深く安堵したのだった。
幼い頃から、和人と美和はずっと一緒だった。人と話すのが苦手で、自分の世界にこもりがちだった和人の視野を、広げてくれたのは美和だった。人に話しかける勇気をくれたのは美和だった。和人にしか見えない、強気でしっかりものの、双子の妹――本人は姉だと言い張っている――だった。
その姿が見えなくなったことが、過去に一度だけある。どんなに呼びかけても現れてくれなかったことが、何年も前に、たった一度。美和がいないとそのときのことを思い出してしまい、和人の胸はいたく締め付けられるのだった。
「ごみ捨ててきたよ。……あ」
『あら、お疲れさま。お母さんが晩ごはんの支度してたから、食器を出すくらいの手伝いはしなさいな』
ごみを出して戻ってくると、美和は帰ってきていた。和人によく似た顔に、長くつややかな髪、そこから覗く二本のつの。人鬼にして双子のきょうだいである美和が、和人の置きっぱなしだった鞄の傍に、足を投げ出して座っていた。
週末、講習を午前中で終えた和人は、午後を店の手伝いに使おうと思っていた。部活もとうに引退した身では、勉強以外にすることがなくて退屈なのだ。ならば勉強していればいいのだが、ある程度は成績に余裕のある和人にとって、結局は退屈であることに変わりないのだった。
「ただいま。母さん、僕も店出るよ」
玄関から入って、店のほうへ行き、畳敷きの上がりで着物を直している母に声をかける。いつもなら「はい、お願いねー」と返ってきて、それを聞いてから和人は店に出るための支度をする。だが、その流れは母の一言から崩されてしまった。
「大丈夫だから、勉強してなさい。またすぐに模試があるんでしょう」
肩からかけていた鞄が、ずるりと落ちる。予想していなかった言葉に戸惑いながら、和人はさらに継いだ。
「……うん、あるけど。合格圏内に入る自信はあるから、仕事で気分転換したいなって」
「本当に? それなら少しだけお願いしようかしら。……あのねえ、お母さんたちも反省してるのよ。今まで勉強に部活にって忙しかったのに、店の手伝いまでしてもらって、和人に大変な思いさせちゃったじゃない」
話しながら、着物の直しを終えたらしい。母は「よし、できた」と満足そうに呟いた。
「僕は別に大変じゃなかったよ。仕事も楽しんでるし」
渇いた笑いを漏らしながら、和人はそう言って、自室へと向かった。どちらにせよ、制服を着替えなければならない。部屋に鞄を置き、制服のネクタイを解きながら、先ほど自分で言った台詞を反芻した。
――楽しいから大変じゃなかった。それは、和人ではなく美和の言うべき台詞だ。実際に働いていたのも、それを楽しんでいたのも、美和だった。和人は美和の言う通りにしてさえいればよかったし、接客に苦手意識も持っていた。
そう思って、ワイシャツにエプロンという、他のアルバイトやパートの従業員と同じ恰好をして店に立ったとき、何故か息苦しいような感覚に襲われた。
何かが違う。何かが足りない。店内はいつもと同じ、秋めいた様相だ。着物の相談に来たらしい常連のお客さんや、ここには初めて来たらしい新顔がちらほらと見える。でも、そこには大切なものが、少なくとも和人にとってはなくてはならないものが欠けていた。
――美和が、いない。
先ほどから姿も見えなければ、気配もまるでしない。この頃よくあることではあったが、いざ意識してみると不安で仕方がなかった。普段店先に立つときに、『あのお客様にはあの色が似合いそうね』だとか『ぼうっとしていないで、さっさとご用件を伺う!』などと言ってくる声がない。お客さんの手元を覗き込む姿がない。かわりに、和人の心臓がうるさいくらいに鳴っていた。
「まあ、和人君。なんだかお店に立っているのを見るのは久しぶりねえ。お勉強、捗ってる?」
常連さんが和人を見つけて、声をかけてくれた。条件反射で、和人は笑顔をつくり、「はい」と答える。
「ご無沙汰しておりました、石川さん。本日はお着物のお手入れですか?」
先ほど母が直していた着物は、たしかこのお客さんの秋のお気に入りだったはずだ。思った通り、「そうなのよ」と答えが返ってくる。
「やっぱりあれを着ないと、秋がきたって実感がわかないのよ。本当に、水無月さんの着物はいいわねえ」
「そう言っていただけると嬉しいです」
会話に障りはない。自然に進められている。それからすぐに母が奥から、着物を持って出てきたので、お客さんに一礼してその場から離れた。
するとすぐに、初めてらしいお客さんがこちらに視線を送ってきた。和人は寄っていって、「いかがなさいましたか」と尋ねる。
「こっちに引っ越してきたばかりで、初めてお茶会に参加してみようかと思いまして……せっかくなので着物でと思ったんですが」
「お茶会のお着物ですね。それでしたら……」
礼陣には茶道を嗜む人も多いので、こういった問い合わせはよくある。和人の対応も慣れたもので、お客さんと相談をしながら、秋の茶会に合うような着物を一緒に選んだ。それが作法に適ったものであるかどうかの最終判断は、父か母に下してもらう。今回は見事に正解だったようで、お客さんにも親にも喜ばれた。
「さっきは勉強しててなんて言ったけど、やっぱり和人がいると安心ね。呉服屋の息子としての勉強もしていてくれて、嬉しいわ」
来年の春にはここを離れて行く息子に、母はそんなことを言う。父も深く頷きながら、「万が一があっても、うちでそのまま働けるな」などと嘯いていた。
美和の声がしない。美和の姿がない。そんな状況でも、いつの間にか、和人は動けるようになっていた。実際、両親からは、これまでずっと和人が自分で動き、店番をしてきたように見えているのだろう。
それを考えると、動悸が激しくなる。軽く眩暈がする。――和人が本当に恐れていたのは、美和がいないせいで自分が失敗するのではないかということではない。
美和がいなくてもこの店はまわるのだと、思ってしまうことだ。
小学生の時だった。剣道を始めて才能が花開き、大会で賞をもらった後のこと。
剣道を始めるように勧めてくれたのは、誰よりもすぐ傍で応援してくれたのは、美和だった。その距離は流よりも近かった。けれども、その流も、両親も、剣道を教えてくれていたはじめ先生も、他の門下生たちも、誰一人として美和のことは口にしなかった。当然だ、美和の姿は和人にしか見えていないのだから。
だから、思ってしまった。本当は「美和」という存在は和人の想像の中のものでしかなく、他の誰にも見えないのは、つまり、彼女が幻だからなのではないのかと。
そう思ったときから、美和の姿が見えなくなった。声も聞こえず、どこを捜してもいなかった。心のどこかでいないものだと考えていたから、見つかるはずはないのだと、いつか思うようになってしまった。
でも、美和がいない時間は寂しかった。心の中で美和に話しかけるのが癖になってしまっていた和人にとって、何の返答もないというのは、つまらなかった。一緒に本を読んで、同じところで笑い、感動する相手がいないというのは、本当に半身が失われたような心地だった。
流に初めて「双子の妹がいた」ということを話したのはこのときだった。美和のことを一人で抱えているのがあまりにも辛くて、ぽつりぽつりと語ったのだった。
「僕にはね、一緒に産まれてきた女の子のきょうだいがいたんだ。産まれてきたときに死んじゃったけど、ちゃんと美和って名前があったんだ」
突然の話だったのに、流は静かに聞いていてくれた。和人の手を握って、頷きながら。
そうして最後の最後で辿り着いた結論は――やっぱり美和がいてくれなきゃ嫌だということだった。いつでも明るく笑って、弱虫な和人の背中を押してくれた、そんな双子がいないことに耐えられなかった。
それからどうしたのだったか。美和はまた、和人のところへ戻ってきてくれた。そのときに、もう美和の存在を疑わないと誓ったのだ。
それは同時に、和人を「美和がいなければ何もできない人間」にすることにもなった。和人の傍にいることが、和人を助け続けることが、美和の存在条件だと無意識に思いこむようになったのだ。
店の片づけを始めた頃、美和は家に帰ってきた。いつもの調子で笑って、手を振りながら。
『ただいまー。和人、ゆっくり勉強できた?』
「……ううん、店手伝ってた」
『えぇ? せっかく私が邪魔にならないように気をきかせてやったのに! ……ていうか、私がいなくても店の手伝いできるんじゃないの』
ごく普通に、当たり前のことのように、美和は和人の前に現れた。きっと帰ってくるはずだと信じていたら、その通りになって、思わず一瞬、驚いてしまうほどに。なんだかいつか考えてしまった仮説を裏付けているような気がしたが、和人はそれ以上の追究をやめた。
「ううん、美和がいないとやっぱり物足りないよ。僕一人だとたどたどしいし。それに美和、店のことやるの好きでしょう?」
『そうね、大好きよ。だから今日、やっぱり出かけなきゃ良かったって思った』
「新しいお客さんが来たよ」
『本当?! 何を見ていったの? どんな色が好きそう?』
興味津々といった様子の美和に、和人は笑顔を浮かべながら今日のことを話す。両親に聞こえないよう、心の中でこっそりと。目線だけを美和に送りながら。
「明日は家にいなよ、美和。一緒に店番しよう」
『そこまで言うならしてやらないこともないけど……私も忙しいのよね』
「何があるっていうのさ。僕と違って受験もないのに」
『あんたこそ受験勉強しなさいよ』
そればっかりは手伝ってあげられないんだからね、と美和が笑った。心配には及ばないよ、と和人も返した。