朝から混雑をきわめていた町は、黒哉のアルバイトが終わった夕方も人で賑わっていた。働いていた駅前のコンビニも人が絶え間なく出入りしていて、春以来の忙しさだったので、こんな時間に退勤していいのかどうか迷ったほどだ。

結局は店長の「せっかくのお祭りだから少し遊びなさい」という言葉に押されてタイムカードを切ってきてしまったが、この人混みの中を歩こうという気にもならない。この町の人々だけが集まっているのならいいが、今日ここにいる人間は外から来た者ばかりのようだ。「そういえば何か月か前に殺人事件なかったっけ」という声がどこからともなく聞こえてきたので、さっさと帰ってしまおうと思い、住んでいるアパートへ向かう。

だが、人の波は黒哉の帰路を塞ぎ、逆方向へと押し流す。駅前の大通りから出られない。仕方なく、一旦立ち止まって周囲を見てみると、道の脇に出店が並んで、明かりが灯っていた。以前住んでいた門市でも行なわれていたような、よくある祭りの光景だ。――違うのは、人波をつくっているのが人間だけではないことだ。

この町、礼陣には鬼がいる。黒哉がそのことを知ったのは、引っ越してきて、母を殺人事件によって喪ってからだ。頭に二本のつのを持ち、瞳が赤く光る、かたちの様々な「鬼」と呼ばれる者たち。普通の人間には見えないらしいその姿を、黒哉は見ることができるようになった。この土地では、そういった人間の子供を「鬼の子」というらしい。

鬼の子であるところの黒哉には、道を埋める人間たちのあいだに入り込むようにして、あるいは人間たちをすり抜けるようにして闊歩している鬼たちが見える。それを振り返るような人間は、黒哉が見た限りではいないようだ。鬼たちのほうは人間たちを見て、嬉しそうに目を細めている。外から来た者であろうと、鬼たちは人間が好きなのだ。そして鬼たちが好むような人間は、たぶん悪人ではないのだろう。まだ鬼と接し始めてほんの数か月だが、どうやらそうらしいと黒哉にもわかってきた。

黒哉が視線を送ると、鬼たちは手を振って応える。子供の姿をした子鬼たちが駆けてきて、足元にまとわりついてから、またどこかへ走っていった。人混みには辟易するが、鬼たちを見るとなんだか和んでしまって、黒哉は進む方向を変えた。少しなら、祭りを見て帰るのも悪くないかもしれない。人伝に聞いた話では、出店はこの駅前大通だけではなく、駅裏商店街にも並んでいるらしい。通りがかった鬼が、『商店街のほうが、地元の人間と鬼が多いぞ』と教えてくれた。とりあえずは商店街を目指すことにする。

やっとのことで商店街の入口に辿り着くと、そこに見知った顔があった。浴衣を着て、髪をきれいにまとめあげてはいるが、堂々とした立ち姿は紛れもなく、黒哉の通う学校の社会科教師だ。こちらが声をかけるよりも先に、彼女は黒哉を見つけて満面の笑みで手を振った。

「日暮君じゃないの。こんばんは」

「こんばんは、平野先生。一人ですか?」

「彼氏と待ち合わせ。どう? この浴衣姿」

礼陣高校教諭、平野頼子。学校ではブラウスにカーディガン、細身のパンツという格好がスタンダードな彼女も、休みに彼氏と歩くとなれば本気を出すらしい。出店からもれる灯に照らされた顔は、いつもよりも化粧が華やかだ。

「意外と似合ってます」

「意外って何よ。……ところで」

黒哉の返事に拗ねたのも一瞬のこと。すぐに話は、彼女の興味へと移っていく。

「今日は鬼、見えるの?」

「見えますよ。商店街側に来たら、数が増えました」

「なるほど、やっぱり鬼は神社により近いほうに集まるのかしら。それとも地元の人間の比率によるのか……」

頼子の趣味は、礼陣の歴史と文化を研究することである。もちろんそれらと切っても切り離せない「鬼」にも強い興味を示している。だが、彼女自身には鬼を見ることはできない。鬼がいること、彼らがどんな様子でいるかということは、「鬼の子」を通じてしか知り得ない。

そしてこの春に礼陣に来たばかりの黒哉は、鬼は見えてもその背景を知らない。歴史や文化に興味はあれども、詳しく知るには誰かの助けが必要だ。

興味関心と利害が一致した二人は、学校で「礼陣歴史愛好会」と名づけた活動を行なっている。頼子が紐解く史料と黒哉が鬼から得る情報とを語り合い、この町の謎を考察するのだ。今は夏休みなので活動も休止中だったが、頼子の頭の中はいつでも礼陣のことでいっぱいだ。

「そういえば日暮君、このお祭りがどういうものなのか知ってる?」

「いいえ、ただの夏祭りとしか」

「何事にも由来はあるものよ。これはね、礼陣神社の大切な祭事なの。大鬼様の降臨を祝い、感謝するものだといわれているわ」

このやりとりから、「礼陣歴史愛好会」の特別活動が始まった。頼子の彼氏とやらはまだ姿を現さないようで、黒哉はあたりを少し見回してから、語りに耳を傾けた。

 

礼陣には鬼を祀る神社がある。礼陣神社と名付けられたそれは、古くからこの土地を見守ってきた。鬼たちの長である「大鬼様」は、昔この地に現れてからずっと人間たちを交流をもち、今でも町の人々に親しまれている。

その大鬼様が現れたのが、今頃のことだと伝わっているのだと、頼子はいう。祭りはそれを祝うためのもので、他の多くの行事よりも盛大に行われるそうだ。人間たちの鬼に対する思いが、この祭りには込められていた。

外へ出ていった礼陣出身者も、祭りの日には多く帰ってくる。だが、それだけでは大通りの混雑は説明がつかない。それについては、頼子が苦笑しながら説明した。

「礼陣が変わった土地だっていう話が、近年ネット上で広まったみたいでね。この祭りをめがけてやってくる人が増えたの。特に今年は……言いにくいんだけど、」

「わかってます。春にあった事件のせいですよね。それで礼陣が有名になったから、人が多いんだ」

頼子が言いかけたのを先回りして、黒哉は改めて大通りのほうへと目を向けた。カメラを手にした人たちが口にするのは、「鬼っているの? 写るかな」「殺されたホステスの霊が出るって本当?」という言葉。きゅっと唇を結び眉を顰めた黒哉の背を、頼子がそっと撫でた。

「……ああいうの、毎年一定数いるのよ。私も礼陣の歴史や文化に惹かれてここに定住した一人だから、彼らのことをとやかく言える立場じゃないんだけどね」

「先生とあれは違います。……少なくとも、ホステスの霊が出るなんて、先生は思いもしないでしょう?」

「そうね」

こういった人々が来るのは、何も今年に限ったことではない。かつては飛行機事故で亡くなった者が祭りに惹かれて現れるだとか、そういったことに興味を持ってこの地を訪れる者もいた。そんな事実は全くないのだが、噂は噂を呼ぶ。尾ひれをつけて、人々の間を泳ぎ回る。

「でもそれも、礼陣の歴史の一つになっていくんだわ。今こうして見ている出来事のひとつひとつが、礼陣になる」

「……噂してたヤツを、鬼たちが困った顔で見てるんですが」

「そうなの? 鬼もこの手の話には困るのね」

頼子に笑みが戻り、黒哉はほっとする。この人には、いつでも礼陣の歴史や文化に真っ向から向かって、その奥深さに目を輝かせていてほしい。そうして、楽しそうに語ってほしい。黒哉はそれを、可能な限り聴くつもりだ。

「ああいうのがいなくても、祭りは盛り上がるんですよね」

「もちろん。おすすめは大通りよりも商店街ね。地元グルメも楽しめるし、ゲームをすればおまけしてもらえるし。昔ながらの礼陣の祭りなのよ。御仁屋も出店してて、お祭りでしか食べられない限定ものもあるの」

彼氏待ちじゃなきゃ案内してあげるんだけどね、と頼子はぺろりと舌を出す。黒哉は「自分で見てきます」と返して、商店街の出店通りへ向かおうとした。

「あ、待って。……その前に、もう一つ知っておいてほしいことがあるのよ。不思議だとかそういうのじゃなく、歴史の一つとして。礼陣の人間になった、日暮君に」

黒哉は振り返り、頼子と目を合わせた。賑やかな呼び込みの声や子供のはしゃぐ声、お囃子の音色が背後に響いている。人間と鬼が祭りを心から楽しむ中で、頼子の笑顔が少し寂しげになった。

 

ずっと続いてきた祭りだが、開くことができなかった時代もある。空襲によって礼陣の半分が焼け野原になり、この国が戦争に負けた年、人々は祭りを諦めた。本当は、疎開してきていた子供達を励ますためにも、それらしいことくらいはやりたかったのだというが。

「終戦直前まで空襲はほとんどなかったし、礼陣は被害を避けられるんじゃないかと思われていたの。だからたくさんの子供達や、体の弱い人たちが、この地に集まっていた。礼陣神社の神主さんとここの人々は、みんなを最後まで守り抜こうとしたのよ」

何もなければ、ここにいる子供達は終わりの日までを、腹を空かせながらも平穏に過ごせたはずだった。しかし、鉄の雨は無情にもこの地にまで降り注いだのだ。

そのとき、神主が人々に号令をかけた。

――みなさん、神社に集まってください! ここでならみなさんを守れます!

その声に従って、地域中の人々が神社のほうへ押しかけた。大人たちは子供を優先して行かせた。もちろん全員が神社の敷地内に入ることはできなかったが、神社の近くにいる人々を、神主は、この地に住まう鬼たちは、守りたかった。

「その当時ここにいて、生き残った人々は、誰もが同じ証言をしているの。……『天に向かって手をかざす、頭につののあるものたちを見た。それはたくさん、たくさんいて、誰もが必死の形相だった』って」

焼夷弾は神社の付近を避けるように、落下の軌道を変えたという。そう見えただけかもしれない。風向きがたまたま変わっただけかもしれない。だが、人間たちは「たしかに鬼を見た」と後に語ったのだ。「鬼たちが助けてくれたのだ」と。

「空襲で焼けたのは、礼陣の西側。現在の社台地区の一部と、中央地区の半分、遠川の洋通りのあたり。当時南原地区は礼陣に属しておらず、ほとんど全域が被害に遭ってしまったけれど」

「……鬼が、人間のために力を使ったってことですか。姿まで見せて」

「さあ? 状況が状況だし、奇跡的な出来事を鬼の仕業として受け止めただけかもしれないわ。その年、お祭りはできなかったけれど、全員が感覚を共有していたのはたしかなんでしょう。そのときだけ鬼を見たことがあるって語る年配の方は多いの」

鬼の子ではなくとも、鬼の存在を感じることができたあの日。恐怖の中、一筋の希望を見出した瞬間。人々の心は一体だった。人間も、鬼も、一つだった。

「そうして生き延びた命があるからこそ、受け継がれたものがある。当時の語りがどんなものであろうとも、その事実だけは変わらないわ。現在の礼陣はそうしてつくられているということを、これからもたくさん教えてあげる。……さ、行っていいわよ。日暮君」

 

商店街の出店は、人と鬼で混んではいたが、駅前ほど騒々しいとは感じなかった。歩いていて心地の良い賑やかさが、黒哉の耳に届く。

そうして歩いて、辿り着いたのは、商店街の東端。礼陣神社の石段の下だった。それを上り境内へ入ると、少数の出店が並んでいた。そこで人々と語らう、神主の姿もあった。

「ああ、黒哉君。こんばんは」

神主はこちらに気づくと、ふわりと微笑んだ。彼は町の人々の名前を忘れない。一人残らず憶えている。かつて自分を大鬼として受け入れてくれた人々のことも、いつか神社に集めて爆弾の雨から守った人々のことも、救いきれなかったたくさんの命のことも、今ここに生きている命のことも、しっかりとその胸に刻んでいる。

「こんばんは、神主さん。今夜は賑やかですね」

「ええ、みなさん楽しそうでしょう?」

そう言って誰よりも幸せそうに笑う神主は、きっと誰よりも苦しんだこともあったのだろう。長い長い時間を生きて、たくさんの人々と出会い、別れたのだろう。

この祭りの光景を、何度も見て、そのたびに様々な思いを抱いてきたに違いない。

「黒哉君も、どうぞ礼陣のお祭りを楽しんでください。たくさんの人々が作りあげてきた、礼陣の誇る美しい結晶なんですよ」

心の痛みを、全て拭い去ってくれるかのような灯。眼下に広がるその温かなものを瞼に焼き付けるかのように、黒哉はそっと目を閉じ、開いた。

この瞬間にも、礼陣の歴史は刻まれているのだ。