八月、礼陣の人口が最も多くなる日がやってくる。町に住む人も、外からやってくる人も、同じ時間を過ごす。駅前の大通りと駅裏の商店街が灯に彩られ、子供と大人が神輿を担いで練り歩く。礼陣の夏祭りは、町が一年で一番賑やかになる日だ。

当然のことながら、この日に向けて、そして当日も、礼陣駅裏の商店街に店を構える水無月呉服店は忙しくなる。受験勉強や剣道の大会との兼ね合いをとりつつ、水無月家の子である和人は毎日のように店に立っていた。

祭用の法被に、浴衣や甚平などの和服といったたくさんの品と、それらを求める客とを結びつける。その仕事ぶりは当の客だけでなく、他の従業員からも認められている。「和人君はよく頑張ってるねえ」と褒め称えられる。

けれども実のところは、その言葉をもらうのは自分ではないと、和人は知っている。本当は人と接することがあまり得意ではない和人がこうして店を手伝えるのは、寄り添って支えてくれる双子の妹――本人は姉だと主張している――がいるからだ。彼女が助言をし、店の中の動きを細かく見てくれるおかげで、和人は水無月呉服店の働き手として活躍できる。そういうふうに、見てもらうことができるのだ。

双子の名前は美和という。和人以外の誰にも見えず、何にも触れられず、ただそこにいて和人を助け続ける存在。本来ならば人間として産まれるときに死んでしまった子供だが、今でもここにいる。彼女の魂は鬼となって――正確には鬼になろうとして――この世に留まり続けているのだった。

和人にしか見えないその姿は、体格だけなら一般的な女子高生とさほど変わらない。だがその頭には二本のつのがあり、瞳は赤く、着物はいつも丈の短い白い単だ。礼陣では珍しくない鬼の特徴を持ちながら、未だ鬼になりきれていない彼女は、接することのできる唯一の人間である和人を通して、人間の生活に関わっていた。

鬼になってからずっと見てきた、両親がやっている呉服店。和人も美和も、そのあり方をよく見て知っている。だが、姿を見られないことを利用して店の隅々まで見ている美和のほうが、和人よりも商売に向いていた。和人は美和のいう通りに動き、現在の地位を確立しているまでだ。

和人は美和がいなければ店でうまく振る舞えず、美和は和人がいなければ客の思いに応えることができない。二人は互いに互いを必要とし、そうでなければここに立っていられない。水無月呉服店の店番は、そうしてやってきたことだった。

それは今年も同じ。美和の的確で素早い指示に、和人が即座に従うことで、二人は店番として立派に機能していた。忙しい時期も、そうしてようやく乗り切ろうとしていた。

夏祭り当日は浴衣の着付けサービスを受けに来る客が多く、従業員は総出で応対する。去年は和人も美和の助けを借りながら手伝いをし、ときどき休憩をもらっては、出店やイベントを覗きに行っていた。

だが、今年は勝手が違った。いよいよ明日は祭り当日というその日、母が和人に言ったのだ。

「今年はお店のほうはいいから、流君とお祭を見てきなさいな。高校生活も最後で、剣道の大会もやっと終わったことだし、たまには遊んでらっしゃい」

その言葉に、和人は店の掃除をしていた手を止めた。目を見開いて母を見たのは、美和がそうしたのと同時だった。

「でも、着付けとか忙しいんじゃ……」

「着付けを頼んでくるお客さんはほとんど女性の方だし、男性のお客さんがいらっしゃってもお父さんたちが対応してくれるわ。気兼ねなんかしないで、気分転換してきなさい」

多分に、母は高校最後の剣道の全国大会で、惜しくも入賞には至らず帰ってきた和人を、労う気持ちで言ってくれたのだろう。いや、それだけではない。ここ最近ずっと忙しくさせてしまった息子を、祭りの日くらいは解放してやりたかったのだ。

その思いは十分に伝わった。だから、思いだけで良い。いつものように店を手伝わせてほしいと、そう返そうとしたときだった。

『いいじゃない、たまには。店番を忘れてお祭を楽しめるのも、今年が最後かもしれないんだから』

先に口を開いたのは美和だった。この声は母には聞こえないが、偶然にも「今年が最後かもしれないんだから」という台詞が重なり、和人には二重に聞こえた。

「……最後にはならないよ。大学に行っても、祭りの時期には帰省してるだろうし」

「和人のためだけじゃないのよ。流君だって、和人と高校生活の思い出作りたいでしょう」

ねえ? と母が笑いかけたその先には、今日もアルバイトをしてくれていた幼馴染の姿があった。ちょうどゴミを捨てに行ってくれていたところだったので、話はきっと今の部分しか聞こえていない。

「ああ、思い出は作れるといいなって思ってます。なあ、和人」

「あのね、流。明日の話をしてるんだよ。僕に店を手伝わないで流と遊んで来いって、母は言ってるんだ」

「ん、そうなのか。そうしちゃって良いんですか?」

「良いわよ。何年かぶりに、和人と一緒にお祭を満喫してきちゃってちょうだいな」

「やった! よし、行こうぜ、和人!」

幼馴染であり親友である野下流は、母の提案にのった。もとより機を見て和人を連れ出す予定だったのが、丸一日一緒に祭りを楽しめることになりそうで、本当に喜んでいた。その笑顔が、今の和人には眩しすぎる。

「……どうする、美和? 君は店にいたい?」

誰にも聞こえないよう、心の中で美和に話しかける。すると、和人にしか聞こえない声で答えが返ってくる。

『だから、祭りに行けばいいじゃないの。私だって、久しぶりに一日中遊んでみたいわ。お母さんから許しが出たなら、気兼ねなく楽しめるじゃない』

「まさか君が仕事より遊びをとるとは思わなかったよ」

『そう? 私、あんたが勉強してる間とか、結構遊んでるわよ』

一心同体ともいえる美和がそう言うので、和人は息を吐いた。呆れではなく、本当にそうしてしまっても良いんだという、安堵から出た吐息だった。

昔から、美和の望みは和人の望みで、和人の望みは美和の望みだ。きっとそれが、和人の本心なのだと、和人自身が思っている。大会で負けてしまった悔しさや、受験勉強の重圧や、店の一員として働くという義務感なんかを、全部放り出す時間が欲しかったのは事実だ。一日もあれば十分すぎるくらいだった。

「わかった。それじゃ、明日は流と祭りを見てくるよ。店のほうは本当に大丈夫なんだよね?」

「だから大丈夫だって言ってるじゃないの。あなたが中学生のときまでは、ずっとそうしてきたんだから」

「そういえばそうだな。久しぶりにたっぷり遊ぼうぜ、和人」

流がにかっと笑って言う。この笑顔にはいつも勝てないなと思いながら、和人は頷いた。すると美和が両手を上に挙げて、明るく叫んだ。

『やったあ! 仕事も好きだけど、流と遊ぶのはもっと好きよ! お祭も大好き!』

このはしゃぎようを見られるのは和人だけなのに、美和は全身で喜びを表現していた。ここで大っぴらに喜ぶことができない和人の代わりのように、美和はあちこち跳ねまわる。それだけで、和人もなんだか嬉しくなった。

 

礼陣の夏祭りは、神輿行列から始まる。神社の蔵から大人達の担ぐ神輿が出ていき、各地域の子供神輿と合流しながら町中を練り歩く。そうしてまた神社へ戻ってくるのだ。

和人と流、そして美和は、行列の先頭をゆく大神輿を追いかけた。礼陣の祭りで多くの人が着用する揃いの法被を、和人と流も着ている。人間のものに着替えられない美和はいつもの白い単姿だが、気にしていないようだった。

「久しぶりに追いかけたけど、やっぱり大神輿はすごいね。掛け声も近くで聞くと迫力が違う」

『良い響きね。声とお囃子の音が胸にずんっとくる感じ、たまらないわ』

「だよな。俺も来年こそは担ぎ手やろうかな」

美和は流と和人の会話に自然に入り込んでくる。まるで流が二人の言葉に同意しているかのように聞こえるが、それは和人にだけ感じられることだ。本当のところは、流は和人としか会話をしていない。ここに美和がいるということが、彼にはわからない。

「でも流、担ぎ手やるなら太鼓は? 神社で鳴らす大太鼓、ずっとやりたがってたよね」

「ああ、それは今年やるから」

「やるの?! そんなこと、今までひとことも言ってなかったじゃないか。だいたい、いつ練習してたの?」

『本当に器用よね。夏季講習に出つつ、うちの店の手伝いもして、太鼓の練習もしてたってことじゃないの』

「それはまあ、隙を見て。学祭でも大太鼓やってるから、慣れてたし」

見えないはずなのに、聞こえないはずなのに、美和はたしかにここにいる。和人と一緒に祭りを見て、流との会話を楽しんでいる。笑って、驚いて、感心して、また笑う。和人と同じ、けれども幾分か女の子らしい表情をしている。人間として生きていれば、他の人ともたくさんお喋りをして、祭りの賑やかさの中に加わっていただろう。

大神輿が神社に向かい始めたところで、流は急いで先回りをし、境内へ続く石段を駆けあがっていった。和人もその後を追って走る。美和もぴったりと並んでついてきた。境内には大太鼓が用意してあり、打手が既に揃っていた。「やっと来たか、野下のボウズ」「和人君も一緒か」などと声をかけられるので、簡単に挨拶をしてまわった。

かけられる言葉の中に、美和の名前は一度も出ない。それでも、美和は楽しそうだった。近くで迎えの太鼓を見られることに興奮しているようで、姿が見えないのをいいことに太鼓の傍まで行ったりもしていた。

「そろそろ大神輿が来るぞー!」

その声で美和は和人の隣に控え、和人は太鼓に向かう流を見た。打手頭の声に合わせて、ばちが振り下ろされる。街を包むかと思われるほどの音が、腹の底から響いてきた。それが近付いてくる神輿の担ぎ手たちの掛け声と重なっていく。これが礼陣の夏祭りの始まりだ。

『沁みるね』

「……うん」

和人と美和は、実に数年ぶりに祭りの始めの合図を見た。いつもは店で音を聴くだけだったものを、こうして目で見ることができている。流が太鼓を叩いている姿を、美和と並んで見ているのが、なんだか不思議だった。

『お母さん、流が太鼓打ちに参加するの知ってたのかも。だから今日、和人を自由にしてくれたんじゃないの?』

「僕だけじゃないよ。君もだよ、美和」

青い青い空に、清々しい響きが吸い込まれていく。

 

神輿行列が終われば、いよいよ縁日が本格的に動き出す。太鼓打ちの役目を終えた流は、それでもまだ体力があり余っているようで、和人の手を引いて出店をまわってくれた。

「和人、かき氷あるぞ。食う?」

「先に炭水化物とりたいな。たこ焼き出てない? それか焼きそば」

『食べられるのが羨ましいわよ。私は見てるだけだもの』

美和は人間の食べ物を食べることができない。触れることができないのだから、必然的にそうなる。けれども和人はそれをわかっていて、昔から「分けられるもの」を選ぶ癖があった。結局一人か、流や他の友達と分けて食べることになるのに、どうしても美和の存在を意識してしまうのだ。

今買った六個入りのたこ焼きも、自然と「流と美和と僕で二つずつだな」と考えながら手にしている。それを読み取った美和が『私は食べられないから、あんたと流で三つずつでしょ』と言って、はじめてその考えが生まれる。そういえばそうか、と。

たこ焼きをつまみながら歩いていると、不意に流が「懐かしいな」と呟いた。

「小学生の頃は小遣いが少なくて、たこ焼き一舟買うのにも値切った上に割り勘だったよな。で、値切るのは和人が一番上手かった」

「そんなこともあったね。……あれは、僕が値切り上手だったからじゃないんだけど」

和人が値切ったのは事実だが、実際に交渉の仕方を隣で囁いてくれていたのは美和だった。いつだって、美和のいう通りにしていればうまくいったのだ。値切り交渉から、自分の家の店の接客まで。和人は美和に頼りっぱなしだった。

同級生に声をかけるのも、剣道を始めたのも、先輩然として振る舞えるようになったのも、店番の役割をこなせるようになったのも。全部、美和が隣にいて背中を押してくれたからだ。『こうすればいい』『ああすればきっと良くなる』と助言をくれたあとに、いつも微笑んでくれた。

『大丈夫。私がついててあげるから』

そうして美和が手を差し伸べてくれるのも、きっと今年が最後だ。来年には、和人はこの町を離れるのだから。町を出ていくと、美和は和人についていけない。礼陣の鬼は、たとえ人と鬼の狭間の中途半端な存在――人鬼であっても、礼陣から出ることはできないのだ。

「和人、次は何食う? 焼きそば食いたいって言ってたっけ」

「そうだね。それから焼鳥、六本もあればいいかな。あと御仁屋の鈴カステラも欠かせないよね。それから……」

『ちょっと、どれだけ食べる気してるのよ』

「食べるとなったら結構食うよな、和人は。よし、それじゃ俺が焼きそば買ってるあいだに、焼鳥買っておいてくれ」

祭りの熱気に煽られているせいか、それとも突然与えられた自由の使い方が食欲に傾いているのか。いや、きっと和人の思いは、それとはまた別のところにあった。

「たとえ美和がものを食べられなくったって、お祭の雰囲気は感じ取れるでしょう?」

焼きそばの屋台へ向かう流を見送って、和人は小さな声で言う。

「こういう特別なときの食べ物がすごく美味しいように、美和にとっても特別な空気は嬉しいんじゃないかって思うんだ。来年の今頃もきっと僕はここに戻って来ているけれど、今年の僕がここにいて、こうして過ごしているのは、美和がいてくれたおかげだ。美和がいなきゃ、僕は幼い頃の、臆病で泣き虫な奴のままだった」

『そうかしら。……たしかに昔のあんたは弱虫だったけど、ちゃんと変わってこられたじゃない。それは私がいようといまいと、訪れる変化だったと思う。だって、流がいるんだもの』

「そうかな。流と親友になれたのだって、美和のおかげだと僕は思ってるよ」

触れられないはずなのに、和人は美和と手を繋ごうとする。やはり何の感触もなく、するりと透けてしまって、和人は寂しそうに笑った。

「……やっぱり、無理か」

『無理じゃなくても、私はあんたと手を繋ぐ気なんかないわよ。もうそんな歳じゃないもの』

二人で並んで、成長してきた。同じ分だけ歳を数えて、背丈が伸びて、いよいよ道は別れようとしていた。和人はまだ美和がいない未来なんて想像できないし、美和もまた和人なしで存在できるかどうかという不安を抱えている。それでもその時は、確実に近づいているのだ。

『ねえ。焼鳥の数、また私を勘定して考えたでしょう。鈴カステラだって、一袋にたくさん入っているから選んでるでしょう。和人が買おうとしているたくさんの食べ物は、全部私ありきだわ』

「そうだね。美和がいて当然だと思って、僕は行動しているね」

『そんなんで、独り暮らしなんかできるの? よそへ行って、生活できるの? 私はそれが心配でしかたないのよ』

表情に出さないようにしていても、美和の考えていることは、和人にはわかってしまう。和人の考えが美和にお見通しであるように。美和の『できるの?』は、『今のままでは駄目だ』ということだ。

それでも和人は、笑みを浮かべる。今は笑っていたいと思う。今日一日だけ店のことなどを忘れてもいいなら、未来の不安も考えずにいたい。

「今はここに美和がいる。だから、それでいいじゃないか」

お願いだから、そうさせて。和人がそう言っているのが、美和にははっきりと聞こえていた。

 

買ってきた食べ物はすっかりなくなり、食べ歩いている間に後輩たちなどたくさんの知人と会い、祭りの時間は過ぎていく。夕方になるころにはすっかり歩き疲れ、和人と流は神社の石段の傍に腰をおろした。本当は御仁屋に入って休みたかったのだが、さすがに祭りの日はよそから来た客で満杯になっていた。

美和は和人の横に立つ。仮にも鬼だからなのだろうか、疲れ知らずのようだ。平気な顔をして、通り過ぎていく人々を眺めていた。その中には鬼もいたのかもしれないが、ただの人間である和人には窺い知れない。本来なら、美和が見えること自体が特殊なことなのだ。

「こんなに遊び歩いたの、久しぶりだよ。楽しかった」

「たまにはこういうのもいいだろ。そうだ、明日もステージの時間には抜けてこいよ。俺がギター弾くから、和人が歌ってくれ」

夏祭りの二日目には、中央地区の大広場に設けられたステージで、町の人々やよそから来たゲストが何かしらの発表をする時間がある。飛び入り参加も大歓迎で、流は毎年エントリーしては「お祭男」の本領を発揮していた。ときどきは和人も付き合って、壇上でパフォーマンスをしている。――それも、半分は美和に『やりなさい』と言われてのことだ。

「僕が歌うの? 練習なんかしてないよ」

「練習しなくても和人は上手いだろ」

『私がまた合わせてあげるから、やりなさいよ』

美和が合わせてくれても、その声は聞こえない。観客には、ギターを弾く流と歌う和人しか見えない。それでもこの双子はやれという。

「……しかたないな」

了承すると、流と美和は同時に大きくガッツポーズをする。もしも美和が人間だったなら、二人で手を叩きあっていそうだ。その光景を想像するたびに、和人は微笑ましくも、寂しくも思う。

「それじゃ、景気づけにかき氷でも食おうか! 和人、味は?」

『今日はイチゴ。明日のステージの後の打ち上げは、御仁屋の氷あずきでね』

「……イチゴにしといて」

流がかき氷の屋台へ走っていく。こちらはこちらで、まだ体力があるようだ。くすりと笑って見送りながら、和人は美和に尋ねる。

「どうしていつも、かき氷の味は指定するの? 他のものは食べられないからって僕に任せるのに」

『あんたの好物で、私の好物でもあるからよ。好きなものを食べてるときの和人、幸せそうなんだもの』

美和は和人と同じ顔で、けれども幾分か艶やかに、口角を上げた。

 

宵闇の中に出店の灯が浮かぶ時間になった頃、流と和人は夕飯代わりになる食べ物を求めて再び屋台を巡り始めた。けれども美和はそこからそっと離れて、神社の境内に向かう。和人にはちゃんと、その旨を伝えてある。

神社には、祭りを楽しむ人間たちと鬼たちがいた。鬼たちの姿は普通の人間には見えないが、境内で宴会を繰り広げる様子は、それは賑やかなものだった。

『お、美和じゃないか。今日は和人が暇をもらったから、ずっとくっついて歩いてたんだろ?』

声をかけてくる鬼に頷きながら、美和は友の姿を捜す。人鬼というものになってから、美和に様々なことを教えてくれ、一番の仲良しになった鬼を。

きょろきょろとあたりを見回していると、向こうからやってきてくれた。

『美和よ、祭りを楽しんでいるか?』

『ああ、牡丹。良かった、会えて』

美和の前に現れたのは、子供の姿をした鬼、子鬼だった。美和はこの少女鬼に「牡丹」と名づけ、親交を深めていた。牡丹は小さいなりながらも、美和とは違って立派な鬼である。鬼と交流できる人間とならば接触することができるし、人間の食べ物も口にすることができる。いつか美和も、人鬼から鬼に転じることができれば、そうなるはずだった。

『祭りは楽しいわよ。三年ぶりに店の手伝いをせずに歩き回ったわ。幸せそうな人間もたくさん見たし、大満足』

『何より、和人と流と三人でいられたことが嬉しかったろう』

『……先に言わないでくれる? せっかく勿体ぶったのに』

境内の片隅に、美和と牡丹は並んで座る。並ぶ出店の灯が、この場所と、美和の顔を照らしだしていた。そこに浮かぶのは、『大満足』『嬉しかった』という言葉とは裏腹のものだ。

『牡丹、私はいつまで人鬼なのかしら』

喧騒の中では聞き取りにくいはずの美和のつぶやきを、しかしながら牡丹は一瞬たりとも聞き逃さない。

『未練が断ち切れないことには、鬼にはなりきれん。美和は普通の人鬼だからな』

美和は度々、同じ問いを牡丹に投げかけていた。いや、単なる独り言のつもりでも、口にするたびに牡丹が拾い上げていた。

強い力を持つ魂は、人鬼という段階を経ずとも鬼となることがあるそうだ。だが、美和はごく普通の人間の魂が鬼になろうとしているだけの、つまりは並の人鬼だった。鬼となるためには、人間としての未練を全てなくさなければならないという。

美和には思い当たる未練が山ほどあった。水無月呉服店を盛り立てたいという気持ちもその一つだ。だから和人を通して店に関わり続けている。

けれども、それも和人自身が店を守ると決め、人と関わっていくことをよしとすればいいだけの話だ。それ以外でも、和人への心配事はたくさんある。――要するに、美和の未練は和人に集約されるのだった。

美和は和人が自分に依存していることをわかっていて、自分も和人に依存している。だからいつまでも鬼になれない。そのことは、とうにわかっていたはずなのに、どうしても断ち切ることができないのだ。

『今日一日、和人の傍にいてわかったの。やっぱり和人には、流達のような人間との関係を考えることが必要だわ。私のことなんか忘れて、ちゃんと人間としての生活をするべきなのよ。……だから』

美和はすっと立ち上がり、境内を、そしてそこから見える礼陣の町を一望した。和人が町を離れると決めたのなら、そうさせてやらなければならない。美和は礼陣を離れることができないのだから、それでも生きていけるようにしなければ。

『私、少しずつでも和人から距離を置こうと思う。和人のいない日々に、慣れていこうと思うの。大丈夫よ。和人には流が、人間の仲間がいるんだから』

たとえそれが、美和に残された「人間に関われる手段」を奪うことになっても。和人と美和は互いのために、今の関係を終わらせていかなければならないのだ。

牡丹はその宣言を、ただ黙って聞いていた。

 

美和が傍を離れた後、和人は流と二人で出店を巡り、昼間と同じように買ったものを食べ歩いていた。けれども、和人がどれもほんの少しずつ残しておくので、荷物はどんどん増えていった。

「和人、少し持とうか?」

「ううん、大丈夫。僕が家に帰ってから食べる分だから、流は気にしないで」

家に帰れば、美和と合流できるだろう。もしかしたら、その前にこちらに追いついてくれるかもしれない。美和と一緒でなければ、残したものを片付けることはできないのだ。

「お祭が終わったら、夏も終わりだね」

「まだ終わってないぞ。明日もあるからな」

「夏が終わったら、いよいよ本格的に受験生しなくちゃね」

「やめてくれよー……まだ俺の夏は終わってない!」

喚く流に笑いながら、和人はすでに夏の終わりのことを考えていた。来年に向かう準備をすること――それは、礼陣を離れる準備をするということ。美和と離れるということを、考えなくてはいけないということ。

進学するのを辞めたとしても、大学を出てから店を継ぐとしても、そこに美和がいてくれるとは限らない。礼陣では、鬼は子供の時分にしか見えないものとされている。いつかは美和も、和人の前から姿を消してしまうかもしれない。

そのとき、和人は自分の力で生きていけるだろうか。美和の助けを借りずに、なんでも一人でできるようになっているだろうか。

――今のままじゃ、多分、無理だな。

美和が隣にいないだけで、こんなにも抱えなくていい荷物を増やしてしまうのだから。

手に持った袋には、少しずつ残した食べ物のパックが詰まっている。どうせ自分一人で食べるのに。こんなふうに、他の色々なものやことを、和人は美和を気にして残しているのだろう。

そんなことを考えていたら、不意に手から重さが消えた。流がさりげなく、ひょいと荷物をとりあげたのだ。和人が驚いて、背の高い彼を見上げると、いつもどおりの明るい笑顔が出店の灯に照らされていた。

「和人、明日は思いっきり歌えよ。夏が終わるっていうなら、最後にすっげえ盛り上げてやる!」

多分、だが。この笑顔は「いつか消えてしまう」なんてことはないだろうと思った。もしそのときが来るとしても、美和に別れを告げるよりはずっと先のことだろうと思えた。――何の根拠も、ないけれど。

「そうだね。君のことだから、きっと学祭でもやるんだろうけど」

「ああ、学祭は他の奴も巻き込もうぜ。夏は終わっても、俺たちの高校生活はまだ終わらないんだからな!」

もう少しだけは今のままでもいいか。和人はそう心の中で呟いて、礼陣の賑やかな夜の中を歩いた。