夏休みの初めは忙しい。特に、受験の山場ともいわれる高校三年生の夏は。夏季講習に長期休暇用の課題、近く行なわれる部活動の全国大会に向けた練習、それからもちろん、店の手伝いも。
水無月呉服店は、来月半ばに控えた祭りのための売り出しや準備にてんやわんやだ。浴衣や祭用の法被の売れ行きは徐々にあがり(法被は使いまわす人が増えたために年単位では売れ行きが下がっているが)、随時行なっている着付け教室は生徒が増加する。祭り当日に着付けを引き受けるための下準備も進めなくてはならない。
季節柄と宣伝のために、従業員は早めに来て夏用の着物か浴衣を着用して接客にあたる。学校での用事を終えて、夕方から店の手伝いに入る和人も、手早く浴衣に着替えていた。急ぎの時は浴衣のほうが楽でいい。閉店前のほんの二、三時間ほどしか動かないということもある。
『和人、帯が曲がってるわ。十八歳でしょう、きちんとしなさいよ』
少しでも不具合があれば、すかさず美和からダメ出しが入る。鏡で確認しながら、和人は慣れた手つきで帯を締め直した。
「わかってるよ。……ほら、これで直った。それじゃ、店に出るよ」
夏の水無月呉服店は、その日が一人息子と人鬼の娘の誕生日であろうと、関係なしに忙しい。

和人と美和は双子だ。同じ胎から産まれたという意味では、間違いなくそうだ。けれども和人は人間として生き延び、美和は生まれてすぐに呼吸と心臓を止めた。
だのにどうして美和がこの世に存在できるかというと、彼女が鬼になったからである。
この町、礼陣には「鬼」と呼ばれる、頭に二本のつのをもち不思議な力を操る人々が、人間とともに存在している。しかしその姿はごく一部の人間にしか視認されず、しかしながらたしかに「いる」ものなのだと誰もに認められている、特殊な存在だ。
美和はその鬼の中でも「人鬼」という部類のもので、いうなれば人間の魂が鬼になろうとする過程のものだ。人鬼でいるあいだは、鬼が見えるはずのごく一部の人間にすら、その存在を見ることはできない――ということになっている。
だが、美和の場合は、同じ胎から時を同じくして生まれた和人にだけは、その姿を見、言葉を交わすことができる。ものに触れたり食事をとったりすることはできないが、和人といれば彼を通じて人間の世界に踏み入ることができるのだった。
そして和人も、美和の助言のおかげで、実家である水無月呉服店の手伝いに入ったり、本当は苦手とする対人関係の構築や存続をスムーズに行なうことができている。和人には美和が、美和には和人が、互いに必要な存在になっているのだ。彼らはそういう双子なのだった。

そんな二人の誕生日――母の胎より産まれた日が今日、七月二十二日なのだ。けれどもそのことは、誰かに改めて言われなければ忘れてしまいそうなくらい、和人も美和も忙しかった。
正確には、和人が受験勉強や夏休みの宿題、高校最後の剣道の全国大会に挑む準備に追われている。美和はそれについていくだけなのだが、そうしなければ人間との繋がりはほとんど絶たれてしまう。鬼仲間たちとならばいつでも話ができるのだが、今年はできるだけ和人の傍で、人間に近い生活をしたいと思っていた。今年が、それができる最後の年だからだ。和人は隣県の大学に通うために、来年には礼陣を出ていく予定なので、和人を通じて人間とやりとりをすることができるのはそれまでなのだ。
美和が、人鬼のままでいる限りは。
そういうわけで、さっき和人と美和が学校から帰ってきたときに、店の手伝いに入っていてくれた親友が「誕生日おめでとう」と言ってくれなければ、今日がその日だということなどすっかり忘れていたところだった。つい四日前、自分から彼に「その日にはおめでとうって言ってね」などと嘯いたばかりなのに。
「母さん、今から僕も入るから」
『私のヘルプ付きでね』
「助かるわ。流君と一緒に、学生さんの浴衣選びを手伝ってあげてね」
もちろん声は母には聞こえていないが、美和はまるで自然に会話をしているかのように言葉を挟む。そして和人が女学生たちと、彼女らに囲まれている親友のところへいくと、その仲間に加わっているかのように傍らに立つのだ。頭に二本のつのがあり、白く丈の短い襦袢のような着物を纏っているので、普通の人間とは違うのだが、女学生と並ぶとさほど大差なく見える。
和人の成長とともに、美和の姿も年相応に変化している。和人が幼かった頃は、幼い姿の少女だった。小学校の高学年になる頃には、和人より少し背が高かったが、平均的な小学生女子のそれと同じくらいだった。中学二年の初夏頃だっただろうか、そのあたりでようやく和人は美和の身長を超えた。今では美和のほうが八センチほど小さいが、体つきは人間の女子高生よりほんの少しスタイルが良いくらいだ。
和人の目には、女学生の脇に立って彼女らを観察している美和が映っている。比べるのは失礼なことだとは思ったが、集まっている女学生の誰よりも、美和は美少女に見えた。
だが、そんなことに気をとられている場合ではない。店に入ったからには、仕事をしなければ。まずは女学生たちに取り巻かれて身動きが取れなくなっている親友を助けるところからはじめる。
「いらっしゃいませ。浴衣をお探しですか?」
「お、和人。ちょうど良かった、この子たちが祭りで着る浴衣か、女の子用の甚平が欲しいって言っててさ」
声をかけると、親友――流が振り向き、縋るような目でこちらを見た。普段からよくモテるこの友人が店に立つと、特に若い子がたくさん来る入学準備の時期と祭り前の時期は、こうして女の子に取り囲まれてしまうことがよくある。夏は他の店員と同じように浴衣姿で、大柄な彼にはよく映えるので、ことさら注目されるのだ。
そこへ和人が登場すると、女の子たちの反応は二種類ある。一つは和人のきちんとした和装にも目を見張り、感嘆するというもの。もう一つは「せっかくかっこいい店員さんと話してたのに邪魔しないでよ」という恨みがましいもの。和人も見た目は決して悪くなく、むしろ整った顔立ちをしていて、傍目には好意を寄せられそうなのだが、良い意味で男らしい親友と並ぶと、どうしてもその引き立て役になってしまうのだった。
『このお客さんたちはみんな良い子ね。和人にもきらきらした目を向けてる』
美和がにやりと笑って言った通り、今回やってきた女学生たちは、突然現れた和人にも見惚れていた。「こっちも美形じゃない?」「水無月さんよ、剣道が強いっていう」などという囁き声もする。
和人が営業用の笑顔で「浴衣か甚平ですね」と答えると、彼女らは頷きながら「予算はそんなにないんですけど」だの「帯って自分で結ばなくちゃだめなんですか?」だのと一斉に要望や質問を投げかけてきた。もちろん全部を正確に拾うことは和人でも難しいので、ここで美和に手伝ってもらう。
『ポイントは低予算で可愛い柄ね。学生向けのリーズナブルなものをまとめておいたでしょう、それを紹介しなさい。それから帯だけど、作り帯を薦めるのもいいけれど、それだと単色ばかりになっちゃうから、ちょうど良いのを選んだ上で、着付け教室と当日の着付けサービスのことも教えてあげて』
要領を得なかった女の子たちの話を簡単にまとめ、さらに営業までさせようとする。こういうとき、美和が人間だったらなあ、と和人は心から思うのだった。そうすれば、もっと効率よくかつ相手の希望に合わせた仕事ができただろう。
「こちらがリーズナブルにお求めいただける商品になっております。帯はお気に召された浴衣の柄に合わせてご案内しますので、お申し付けください。すでに結んだ形を装着するだけの帯もございますが、やはり浴衣に合わせて選んだほうが良いですから。ご自分で帯を結ぶのが難しい場合は、お召しになる当日にいらしていただければ、当店で着付けのサービスも行っております。自分で挑戦してみたいと思われましたら、着付け教室も行なっていますよ」
美和に言われたとおりのことを、和人はゆっくりと流れるように、女学生に案内する。そのあいだにも美和はもう次のこと考えていて、ここ数年で流行りだした女性向けの甚平のコーナーに目を向けていた。
浴衣を着たいという女の子たちが商品を見始めたのを見計らって、すぐに和人に言う。
『女性向け甚平は、うちにはあんまり置いていないから、選んでもらうのは難しいかも。他のがいいって言われたら、仕方がないけど駅前にあるティーンズ向けの店を薦めてあげて。悔しいけど、あっちのほうが品揃えがいいから。いい? 他店を紹介するときはお客の反応をちゃんと見てからだからね?』
ときどき鬼仲間と町中を歩き回っているらしい美和は、他店の状況もよく知っている。和人ではとても入れないような、いかにも女の子向けの店などにも寄るらしい。和人が利用できる情報のほとんどは、美和が仕入れてくるものだ。
甚平を見たいと言っていた女の子たちをそちらへ案内すると、幸いにも気に入ってくれたようで、結局他店を薦めるようなことにはならなかった。そういう子たちは大抵「可愛いもの」が好きなので、彼女らのようなタイプの子が気に入りそうな柄のものを、和人が父に言って事前に仕入れてもらっている。もちろんそれも美和の助言があってのことだ。
「さすが和人だな。俺じゃ全然あの子たちの相手できなくて」
女の子たちがみんな商品に夢中になったところで、流が和人の肩を叩いた。ずっと囲まれていたのか、少し疲れているように見える。和人は苦笑いを浮かべながら返した。
「僕だって、教えてもらってやっとだよ。若い子向けの商品の展開なんてここ何年かで始めたことだし、正直、僕だけじゃどうにもならない」
「でも、実際できてたじゃないか。案内をすらすらっとやっちゃう和人は、やっぱりすごいよ」
本当にすごいのは美和だよ、と言いたくなるのを、和人はぐっとこらえる。美和の存在は、人間では和人以外の誰にもわからないので、親にすら言えないのだ。いや、親には特に言えない。かつて喪った子供のことを思うのは辛いだろうから。
流には、言えば信じてもらえるかもしれない。和人の言うことなら無条件に受け止めてくれる彼なら、美和のことを話してもいいかもしれない。和人は何回かそう思って美和に提案したのだが、いつも首を横に振られた。「余計なことは言わなくていいの」と、眉を寄せてそう言った彼女の声は、少しだけ震えていた。
以来、美和のことは和人だけの秘密になっている。「本当にすごいのは僕じゃなくて美和なのに」ともどかしさや悔しさを感じることはしょっちゅうだが、それでも言わずにおいている。
『ほら、浴衣決まったみたいよ。帯も可愛くてそんなに高くないのがあるから、そっちを見せてあげなさい。あの色と柄なら、たしかちょうどいいのが……
てきぱきと動き、和人に接客と生地や色合いの指南をする美和の姿は、他の誰にも見えない。見えないけれど、和人がそのとおりに動けるということは、たしかに彼女がここにいるという証拠なのだ。
そうやって、十八歳の誕生日である今日までやってきたのだ。

客が幸せそうな笑顔で帰り、ちょうど店じまいの時間になった。表のシャッターを下ろし、商品棚にカバーをかけ、店内を掃除する。流はいつも最後までいて、片づけのときには接客時よりも活躍してくれる。そんな役割を彼自身もわかっているようで、ここぞとばかりに動き回ってくれるのだ。
「和人、こっち済んだぞ」
「ありがとう。こっちも掃き終ったから、ゴミ捨て行ってくれる?」
流と和人が片づけをしている間に、和人の両親は今日の出納の確認や品物の在庫のチェックをしている。美和はものに触れることができないので、この時間は専ら両親の仕事の観察をしていた。そしてあとで、その様子を和人に報告してくれるのだ。
美和自身が仕事を好きなのもあるが、将来和人がこの店を継ぐときに支障がないようにという配慮もある。和人が店を継ぐことを迷っているのを知っていて。だからこそ隣県の、家の仕事にあまり関係のない大学、学部を選んだのをわかっていて。それでもいつか店を選んだら、真っ当にその道を進めるように。
美和にはそれができないから。いつか人鬼ではなく本当の鬼になってしまったら、和人には自分の姿が見えなくなってしまうから。今のうちに、できることを全てやっておきたいのだ。
和人はそんな美和の気持ちを知っている。知っているから、一旦は家を離れることを選びながらも、普段の手伝いは欠かさない。美和の言葉も受け入れる。
互いに、できる限りのことをしようとしていた。出会った日から、双子として互いを認識した日から、ずっと。
「和人? どうした、ぼーっとして」
……流。ごめん、僕、そんなにぼーっとしてたかな……
「ああ。おじさんとおばさんのほう見たまま、動かなかった」
本当はそこにいる美和を見ていたのだが、流にはそれがわからない。和人は曖昧に笑って、「疲れたからかな」と返した。
「夏バテもあるかも。気にしないで、ぐっすり眠ればもう大丈夫だから」
「そうか?」
怪訝な表情の流に頷いてから、和人は美和をもう一度、一瞬だけ目の端で見た。こちらを向いて『ばか』と言っていた。
『私のことは気づかれないようにしなさいって、いつも言ってるでしょう』
声が聞こえる。この声も、和人にしか聞こえない。そう思うと、作った笑顔も崩れてしまいそうになる。この先どうすればいいのかという迷いが濃くなってしまう。
このまま礼陣を離れて大学に行くか、それとも進路を変えて、ここに残って店を継ぐための準備をするか。
美和とずっと一緒にいるか、それとも、ここに残していくか。
「おい、和人。本当に具合悪そうだぞ。ここは片付いたし、奥で休もう」
……うん」
和人は流に支えられながら、家の居間へと向かった。美和がそっと、後からついてきた。

和人が居間で足をのばして座り、一息ついたところで、流が台所から麦茶と箱を持ってきた。和人の隣にぺたんと座った美和が、『何あれ』と呟く。
「勝手に冷蔵庫開けてごめんな」
「いつものことだから、それはかまわないけど。その箱、何?」
美和の疑問は和人の疑問でもある。尋ねると、流は麦茶のグラスをテーブルに置いてから、箱を和人の目の前でそっと開いた。ひやりとした空気が、肌に触れた。
……ケーキ?」
箱の中には、数種類のカットケーキが入っていた。だが、クリームのケーキとは違って、見た目が少し硬そうだ。和人と美和が首を傾げると、流がにやりと笑ってネタばらしをした。
「ちょっと違う。これはアイスケーキだ。駅前のアイス屋でやってるだろ」
「ああ、そういえばそんなのがあったっけ……
駅前には、和人の家がある商店街とは違って、全国区の店がいくつか建ち並んでいる。最近になって礼陣に進出してきた店だ。アイスクリーム店もその一つで、よく学生が屯する場所の一つになっている。
和人は昔からアイスクリームが好きだが、駅前の店には行ったことがない。食べたいときには商店街のなじみの店か、コンビニやスーパーで買う。だからアイスケーキを実際に見たのは初めてだった。
「今日来たときに、冷凍庫借りてたんだ。おじさんとおばさんの仕事が終わってから出そうと思ってたんだけど、和人が疲れてそうだから、先に食べてようかと思って」
……わざわざ、用意してくれたの?」
和人は流と箱の中身を交互に見ていたが、自然と美和がどんな表情をしているかもわかった。和人と同じように、目を丸くしている。
箱の中のアイスケーキは、流が自分で食べることを想定した分を合わせても、一人分多かった。和人と、流と、父と母と、それから――
「だって、和人と妹の誕生日だろ」
流には、美和が人鬼として存在していることは言っていなかったが、「双子の妹がいた」ということは昔から教えていた。今ここに、人間の女の子として存在しているはずだったということを、何度も話していた。ここ何年かはそんな話はしていなかったのに、流はちゃんとそれを憶えていたのだ。
「前は、すごく大切なことみたいに話してくれたよな。最近忙しくなって、全然聞いてなかったけど。でも和人にとっては、大事な人だろうから……妹の美和ちゃんの分も用意した」
あまり言ったことのないはずの、名前まで。
「流、君って人は……
誰も知らない存在がいる。その子はこの町にたくさんいるらしい鬼の一人で、けれども半分はまだ人間の魂だから、鬼が見えるはずの特別な人間にも見えない。和人だけがその姿をとらえて、言葉を交わすことができる。
けれども彼女がこの世界に産まれたことは、流も、和人たちの両親も知っている。
「そうねえ、今日は和人と美和の誕生日だものね。一仕事終えたし、お祝いしましょうか」
「流君、先に夕飯にするから、一度それ戻してきなさい。食べていくつもりだったんだろう?」
母と父も仕事を終えて、居間にやってきた。母はそのまま台所に立ち、父は食器類を出すように指示を出して、流がそれに従った。和人と美和の目の前で、祝いの席が作られていく。
……笑っちゃうわね。私の分だって。私、食べられないのに。それに私、妹じゃなくて姉よ』
そう言った美和の表情は、和人によく似た、穏やかで嬉しそうな微笑みだった。
「僕が代わりに食べるよ。僕は君で、君は僕だから」
『何それ、ずるい』
和人も同じ顔で、母が料理を並べるのを手伝った。美和はその後ろに立って、やれ和人の盛り付けがどうの、彩りがどうのと口を出してくる。和人の目には、賑やかな四人家族と親友が映っている。
来年の今頃、和人はここにはいないかもしれない。大学に行って、一人で誕生日を過ごすことになるかもしれない。
でも、この光景はきっと忘れない。家族と、大切な親友と、一緒に過ごした今日のことは。
眩しいくらいの美和の笑顔は、たとえいつか彼女が見えなくなったとしても、一生忘れられそうにない。