これほど「夏」が似合う人はいないだろうと、そう言われるのはしょっちゅうだ。この暑くて熱い季節と「礼陣のお祭男」野下流は、生まれたときから相性がいいのかもしれない。――流の誕生日は、七月十八日。いよいよ真夏を迎えようとする頃だった。
代々礼陣の名家の一つとして地元に貢献してきた野下家にとって、流は待望の跡継ぎだった。この土地を流れる、満々と水を湛える川が何より好きな祖父が、彼に名前をつけた。遠川の流れのように、力強くかつ優しくあれという、願いの込められた名前だ。
「響きがいいよね。りゅう、って。呼びやすいし、きれいだ」
小学校に入ってからずっと一緒にいる親友がそう言ってくれてから、流は自分の名前がもっと好きになった。この世に、この国に、この土地に生まれて、この名前をもらって良かったと思った。
それから幾年か経って、流は今年も親友の隣でその日を過ごせることになった。土曜日で、学校は休みだったけれど、親友はちゃんと野下家を訪ねてきてくれた。
「遅くなってごめん。御仁屋の生菓子かフェアリーリングのケーキか、直前になって迷っちゃって」
そう言った親友――和人の手には、御仁屋の紙袋があった。結局、見た目に涼しいものを選んだらしい。居間に行って広げた中身は、つるりとした葛餅だった。
「俺、これ好きなんだよな。サンキュー、和人」
「どういたしまして。黄粉にする? 黒蜜にする? 両方でもいいよ」
部活が終わってから、すぐに商店街へ行って菓子を選んで、そうしてここに来たのだろう。流は和人の汗ばんだ肌に思わず目をやってしまい、視線に気づかれる前に逸らした。
「もっとゆっくり食べようぜ。お茶の準備するからさ。どうせなら泊まっていくといい」
「そうだね、おじさんたちが許してくれるならそうしようかな」
家族はきっと許す。和人のことは、全員一致で歓迎している。こうして来てくれることも、ときどき泊まっていくことも、断ったためしがない。まるで一家の一員であるかのように扱っている。幼い頃はいつまでも時間を共にしたくて、本当に家族だったらいいのにと言い合ったこともあった。
時が経つごとに、何もかもが懐かしくなっていく。一つ年をとるごとに、少しずつできることとできないことがわかってきた。
そしてどうやら、流は和人に抱いてはいけない想いを抱いてしまったことと、それが叶わぬものであるということがわかってしまった。その気持ちはたぶん、まだ和人には気づかれていない。
「ただいまー。あ、和人さん、いらっしゃい!」
「おかえり、桜ちゃん。葛餅あるよ、食べる?」
図書館へ行っていたらしい妹が帰ってきた声が、流のいる台所まで聞こえた。母が買い物から戻り、出かけている祖父母と父が揃えば、家の中はもっと賑やかになるだろう。流の誕生日を祝うために、いつもより少しだけ豪華な食事を用意して、晩餐を楽しむのだろう。毎年そうしているように。
「和人、麦茶で良かったか? 桜も」
「ありがとう。やっぱり麦茶とお菓子が揃うと、いよいよ夏って感じがするね」
「私の分まで持ってきてくれたんだ。十八歳にもなれば気が利くじゃないの、お兄ちゃん」
「タイミングよく帰ってきたからな」
麦茶が注がれたグラスをテーブルの上に置いてから、流も床に腰をおろす。一息ついたところで、和人が蓋を開けてくれた葛餅に手を伸ばした。楊枝の先を押し当てると、わずかな抵抗感があって、それからゆっくりと沈んでいった。昔はそんなことはまるで考えなかったのだが、今はその感触にどことなく官能的なものを感じて、思わず呻きが漏れた。「どうしたの」と和人が尋ねたが、正直に答えられるわけがない。「まだ黒蜜か黄粉か迷ってるんだ」と言い訳してから、一つ目を口に運んだ。何もかかっていない、そのままのものでも、御仁屋の葛餅はほのかに甘みがあって美味しかった。

夜は予想していた通り、宴会とまではいかないが、豪華といっていい食卓を家族と和人とで囲むことになった。母と祖母が拵えたメニューは、流の誕生日だからというよりも、和人が泊りに来てくれたからそうしたのだという要素が大きいように思えた。その証拠に、流の苦手なものも皿の上にきれいに並んでいる。
「母さん、誕生日くらいピーマン抜きにしてくれよ」
「何を言っているの。十八歳になったんだから、好き嫌いはよしなさい。ちょっと昔ならもう大人なのよ」
「おばさんの言う通りだよ、流。せっかく肉詰めにしてくれてるんだから食べなよ」
野下家のピーマンの肉詰めは、小ぶりのピーマンをへたの部分だけ切り取って中身を抜き、そこにひき肉を練ったタネを詰めて揚げたものだ。ピーマンはその形をほぼ保っているので、それが苦手な流にはいささかグロテスクにも見える。
けれども和人に促され、仕方なく皿にとっておいた。「熱いうちの方が苦味がないよ」と言われたが、なかなか口に運ぶ勇気は出なかった。いくら一つ年をとったからといって、苦手が簡単に克服できるというわけではない。
「まだまだ子供だな、流。図体は人よりでかいくせに、そういうところはなかなか成長せん。和人のほうが後に生まれたのに、追い越されてるんじゃないか?」
祖父がかっかと笑い、まだまだ達者な歯でスティック状の生人参を噛み切っていた。礼陣の議会の長を務めるこの人は、いつになっても元気だ。流はよくこの祖父に似ていると言われるが、それは「似ていてほしい」「同じ道を歩んでほしい」という期待も込められたものだ。時々それを重く感じる。
「和人のほうが後っていうけど、たった四日の違いだろ。ピーマン食えなくたって死なないし」
「お兄ちゃん、小学生みたいなこと言わないの」
妹にまで冷たい視線を向けられてしまったので、流は溜息を吐いて、皿の上で待っていたピーマンに箸をつけた。噛り付くと、肉の脂とともに独特の苦みが口の中に広がった。幼い頃から、こればかりはなかなか好きになれない。しかし一個を丸々食べきったあとに和人をちらりと見ると、笑顔でこちらを眺めていたその目が合った。
「偉いね、流。ちゃんと食べられたじゃない」
子供に向けるようなまなざしだとわかっている。けれども、それにすら愛しさを感じ、胸が高鳴るようになったのはいつからだっただろうか。
……食べたけど、これで勘弁してくれ」
「本当に好き嫌いが直らないね。仕方ないなあ」
和人の屈託のない笑みが眩しくて、胸の中まで苦くなった。それをかき消そうとして、茶碗に残った飯を思い切りかきこむと、父に「行儀が悪い」と叱られた。

食事も風呂も、寝る支度も済ませてしまってから、流と和人は二階の八畳間――流の部屋で寛いでいた。布団を二つ並べて敷いてその上に座り、たわいもない話をするのが、何年も続いた定番だ。
「こんなふうに過ごせるのも、今年が最後だな」
無理やり笑顔を作って、流は言う。そう、こんなに賑やかな誕生日は、きっと今年で終わりだった。現在高校三年生である流と和人は、来年には離れ離れになる予定だった。流は地元の公立大に進学するつもりだが、和人は山を越えて、隣県の国立大へ進むことを希望している。一度礼陣を離れて、外から町を見直してみたいと、進路の話をしたときに言っていた。
来年の今頃、和人はここにいない。今日のように野下一家と食卓を囲むことはない。
「まだわからないよ。もしかしたら大学に受からないかもしれないし、気が変わって別の進路を選ぶかもしれない」
「和人がそういう奴じゃないってことは、俺が一番よくわかってるつもりだけど」
和人はきっと意志を曲げることなく、希望する大学に合格し、この町を出ていく。流を残して行ってしまう。これは予想ではなく、確信だ。
和人が、ふう、と短く息を吐いた。少し困ったように眉を下げ、けれども目と口元は微笑んだまま、流をまっすぐに見つめている。流が何かまずいことをしでかしたときに、いつもそうするように。
「ねえ、流。最後じゃないよ。僕は大学に行っても、休みにはちゃんと礼陣に戻ってくるし、流のことはいつも気にしているよ。それにここにはまだ、たくさんの友達や、先輩たちに後輩たち、町の人たちがいるじゃない。何をそんなに寂しがっているのさ?」
和人の「気にしている」は、流の想いとは違う。そのことを和人は知らない。知らないままでいい。だから寂しさや苦しさは押し込めておかなければならないのに、流はそれができるほどクールではない。嘘やごまかしが下手だから、明るい部分を前面にして可能な限り自分をさらけだす。だから「お祭男」でいられるのだ。
本当はからっとした梅雨明けではなく、雨の続くじめじめとした夏のほうが自分らしいと、流は思っている。そういう意味で、自分はやはり夏が似合うのだと思う。
……和人が隣にいる時間が長すぎたんだ。十一年以上一緒にいると、別れがたくもなるさ。でも、和人が自分で決めた道を進むのを応援したいのも本当だ。絶対に別れるってわかってるから、こうやって感傷的になるんだよ」
言葉にできるだけはしてみた。奥底にまだ気持ちを隠しておいて、しかしたしかに本当の想いであることを告げる。和人は流を見据えたまま、それを黙って聴いていてくれた。
いつだって、大切なことはこうして何も言わずに受け止めてくれるのだ。この穏やかで優しく、それでいて芯の強い親友は。
そうしてから、自らの答えを示してくれるのだ。
「今日みたいに、流の家族と過ごす賑やかな誕生日は、もうしばらくはないかもしれないね。でも、完全にその可能性が消えてしまうわけじゃない。やろうと思えばできるし、流ならやろうとするだろう。僕の知っている野下流は、自分で祭りを盛り上げる天才だ。今日みたいにできなくても、他の方法で絶対に楽しい時間をつくるだろう。そこのところは、僕が誰よりもわかっているつもりだけど」
さっきのお返しだというように、和人は言う。穏やかだけれど、どこか不敵な笑みを浮かべて。それは流の好きな表情の一つだった。
「だからね、最後じゃないよ。元気出して、流」
……和人が言うなら、そうなんだな。俺は来年も、その次の年も、和人と一緒に年をとるんだな」
心に沈んでいた澱が、やっと少し掬われた。掬ってくれるのは、いつだって和人だ。だから流は、和人のことを好きになった。愛しているといってもいい。流にとっての和人は、それくらい大切な存在なのだ。
「やっぱり俺、和人がいないとだめだな。来年からどうしようかなー」
「どうにかするでしょう。流なんだから」
布団に寝転びながら、顔を見合わせて笑う。いつまでもこの時が続かないのなら、一瞬一瞬を大切にしよう。こうして二人でいる時を、ずっと憶えていよう。そうして来年のことは、来年になったら考えればいい。
来年の事を言えば鬼が笑う――礼陣に住むという鬼たちも、このやり取りを聞いて笑っているのだろうか。そんなことを考えても仕方がないぞと、言ってくれるだろうか。
「とにかくだ。十八歳おめでとう、流。四日後は僕にも言ってよね」
「もちろん。店の手伝いに行きがてら、祝ってやるよ」
この世に、この国に、この土地に生まれて良かった。和人と一緒にいられて良かった。
隣で笑顔を浮かべる彼も、自分と一緒で良かったと、思ってくれているだろうか。もしもそうなら、それ以上に幸福な誕生日の祝いはない。