曇天を見上げながら、鞄の中を探る。今日はちゃんと、折り畳み傘が入っていた。千花はほうっと息を吐いて、家の中に向かって告げた。
「いってきます」
父はとうに仕事に出ていて、母は幼い頃に亡くした。誰もいない場所に言葉を投げかけるのは寂しいけれど、もう慣れてしまった。それが長いこと、千花にとっての「当たり前」になっていた。それに、一歩外へ出れば、寂しさは忘れられるのだ。
「千花ちゃん、おはよう」
隣の家に住む、一つ上の先輩――莉那が、一緒にいてくれるからだ。昔からよく千花の世話を焼いてくれる、何でもできるきれいなお姉さん。
「おはようございます、莉那さん」
「今日、天気悪いね。からっと晴れてくれたら気持ちいいんだけどな」
少し困ったような顔で、うーんと伸びをするその姿も、莉那だとなんだかモデルや女優のように見える。千花と同じ普通の高校生なのに、彼女はいつもきらきらと輝いているようだった。千花はそんな莉那に憧れていて、その妹分であることに誇りと、ほんの少しの引け目も感じていた。
一緒に登校しながら、たわいもないことを話すのが、千花の、そして莉那の楽しみだ。昨日はこんなことがあったとか、今日はこんな予定があるだとか、何でもないことを笑いながら語り合うのが日課になっている。去年は千花がまだ中学生だったので、一年間それができなかった。そのかわりに莉那の妹である玲那と、同じような時間を過ごしていた。それも楽しかったけれど、憧れの莉那とともに同じ場所へ行けるというのは、また別の嬉しさがある。
「あ、そういえば。莉那さんに言おうと思ってたことがあったんです」
「どうしたの?」
まだ地面に残る水溜りを避けるように歩きながら、千花は先日のことを思い出していた。莉那に報告して、間接的にでも改めて礼を言いたいと思っていたことを。
「昨日、私、傘を家に忘れてきちゃって。酒屋さんで雨宿りしてたんです」
「え、あの雨の中? 大変だったね。濡れなかった?」
「はい。海先輩がちょうどおつかいに来て、私を家まで送ってくれたんです。だから、ありがとうございましたって伝えておいてほしくて」
千花が話すと、莉那は「へえ」と感心したように声を漏らした。大きな目は、さらに丸く見開かれている。何故だろう、驚いているようだった。
「あの海君が、女の子をねえ……」
「優しい人ですよね」
「うん、基本的にはね。でも、女の子にはあんまり優しくないよ」
莉那がさらりと口にした言葉に、千花は首を傾げた。莉那が何を言っているのかわからないだなんて、初めての経験だ。あんなに自分に気を遣ってくれた海が、女の子に優しくないだなんて、信じられない。しかもそれを言うのが、誰にでも親しく接する莉那だなんて。
「それ、どういうことですか?」
思わず身をのりだすように質問した千花に、莉那は頷いて返してくれた。
「海君、女の子が苦手なのよね。去年同じクラスだったし、共通の知り合いがいたから、私から距離を詰めていったんだけれど、近づこうとすれば引いていくの。最終的には私が勝ったけれど」
「何の勝負ですか……」
苦笑しながら、千花はますます疑問を深める。同じ傘に入れてくれた海が、女の子を苦手だなんて、少しも思えなかった。そんな態度はちっとも見せなかったし、酒屋の奥さんにからかわれたときも動じていなかった。
「とにかく、千花ちゃんが傘を持ってなかったってことは相合傘よね? 海君、そういうことしなさそうだけど……」
「でも、そうするのが当たり前みたいに傘に入れてくれましたよ。……っていうか、相合傘って表現されると恥ずかしいです……」
「うふふ。千花ちゃん、顔赤いよ。可愛い」
「からかわないでください……」
頬が火照るのを感じながら、千花は考えを巡らせる。莉那の言うことが本当なら、千花を送ってくれたのは、女の子として意識していなかったからではないか。だって千花は、彼の同級生である莉那の後輩であり幼馴染で、さらには彼の後輩で幼馴染だという春の友人なのだから。間接的な関係ではあるが、あの場で放っておくわけにはいかなかったのだろう。それなら話がうまく通る。海自身が言っていた通りの理由で、千花は彼の親切にあやかれたのだ。
「海先輩、言ってましたよ。送っていかなかったことが知れたら、莉那さんや春ちゃんに怒られるって。だから私を送ってくれたんですよ」
「私をだしに使ったの? 海君ってば、私を何だと思ってるのかしら。……うーん、でも、私は信じたいな。海君が女の子を苦手に思わなくなってきたからだって」
そもそも、どうして海は「女の子が苦手」なのだろうか。あんなに紳士的に振る舞える人が、どうして人を苦手とするのだろう。それとも、苦手だからこそ、そう振る舞えるようにしてきたのだろうか。千花は海に、知らず知らずのうちに送らせる以上の負担をかけていたのだろうか。
「とにかく、海君には千花ちゃんが感謝してたって言っておくね」
「はい、お願いします」
礼は莉那に託しておく。海が女の子を苦手とするなら、これ以上の接触はたぶんないだろうから。もう二度と、あんな出来事は起こらないだろう。彼に負担をかけることはないだろう。
少しだけ、ほんの少しだけ、それが寂しいと感じたけれど。
教室の窓から見える空は、一向に晴れる気配を見せない。昨日は少し陽が射したが、今日はそれもなさそうだった。
ぼんやりと雲に覆われた天を見ていると、ぽん、と肩を叩かれる。
「千花、何ぼーっとしてんの。次、視聴覚室だよ。男子たちと春は先生を手伝うって先に行った」
「あ、そうだっけ。ありがとう、詩絵ちゃん」
中学からの友人である詩絵は、普段から物思いに耽りがちな千花をよく気にかけてくれる。中学生の頃もよく助けられた。
詩絵と並んで廊下を歩きながら、千花はまだ空を見ていた。廊下の窓からも、外の様子はよく見えた。景色は変わらず灰色だ。
「どうしたの、さっきから。外ばっかり見ちゃって」
怪訝な顔で詩絵が尋ねる。千花はあわてて空から目を離し、「なんでもないよ」と首を横に振った。
「天気良くないなって思ってただけ」
「そうだね。ここのところじめじめして、嫌だよね。昨日もすごい雨が降ったじゃない? あれのせいで部活も中止になってさ、帰って店の手伝いを余儀なくされちゃって」
まいったね、と笑う詩絵に、千花も笑顔で返す。詩絵の家はパン屋をしていて、彼女もよく手伝っているのだ。明るく元気な詩絵が店に立つと、客も気持ちが良くなるのを、千花は知っている。
「千花は? 昨日、合唱部なかったじゃん。雨にあたらなかった?」
「あ、私は……」
大丈夫、と言おうとして、千花はそれをのみこんだ。正面からこちらへ歩いてくる男子生徒が目に入ったからだった。向こうも友人と一緒に談笑していたが、千花には気づいたようだ。目がしっかり合ってしまった。
「こんにちはー。先輩たち、教室に戻るところですか?」
詩絵が少しの躊躇もなく彼らに話しかける。誰にでもそうするように、元気に。すると四人いた男子生徒のうちの一人が「そうだけど」と返事をした。
「そっちはこれから特別教室か?」
「はい、視聴覚室です。黒哉先輩、しばらくはうちのシフト問題ないからって母が言ってました」
詩絵と話していた彼は、どうやら彼女の家でバイトをしているらしい。千花もその名前を何度か莉那から聞いている。海と喧嘩ばかりしているという「黒哉君」で間違いないだろう。その割には、海と一緒に行動しているようだが。
そう思って海に目を向けると、彼は微笑んで、少し首を傾げた。それから思い出したように、「千花ちゃん」と声をかけてきた。
「風邪とかひいてない?」
昨日のことが気がかりだったのだろう。気にかけていてくれたのだろう。女の子が苦手なはずなのに。――つまり、やっぱり、千花のことは女の子としては見ていないのだ。きっと。
「大丈夫です。昨日は本当にありがとうございました」
「うん、莉那さんから聞いた。そんなに気にしなくてもいいよ」
その短い会話を、その場に居合わせた者たちは聞き逃さなかった。詩絵は千花と海を交互に見てから、「どういうこと?」と詰め寄ってくる。海と一緒だった男子生徒たちも、「何かあったのか」と尋ねていた。
「その話はあとで。次の授業に遅れる」
「そうだよ、詩絵ちゃん。私たちも急がなくちゃ」
千花と海は、それぞれ友人を引っ張って、その場から連れて行った。昨日のことが、その一瞬だけ二人だけの秘密になったようで、千花はなんだかこそばゆい感じを覚える。けれども結局、視聴覚室に着いてから、春たち友人も交えて全部話してしまった。
「やっぱり海先輩ってかっこいいなあ。そういうことをさらっとできちゃうのが素敵!」
事情を聞いた詩絵は、手を祈るように組んで、うっとりとしていた。どうやら彼女はこの学校に入学して海を見かけたとき以来、彼に憧れを抱いているらしい。春から情報を聞き出しては「やっぱりかっこいい」という台詞を言うのがお決まりになっていた。
「森谷先輩の友達なら、それくらいのことはさらっとやっちゃうんだろうな。オレも見習うべき……いや、やっぱり相合傘は春としたいな」
「新、何言ってるの」
海の友人の後輩である新は、感心しつつ本題から外れたことを言って、春に教科書で頭をぺんと叩かれた。そして春はというと、少しのあいだ何かを考えていたかと思うと、たった一言だけコメントをした。
「でも海にいにしては珍しいよ、それ」
その言葉の意味するところは、たぶん莉那と同じだった。海と付き合いの長い春は、当然海が女の子を苦手としていることを知っているだろう。それが一つの傘の下で一緒に歩くだなんてことは、春からすれば意外なことだったのかもしれない。
授業が終わってから、春は改めて千花に言った。
「海にい、基本的に女の子苦手なんだよね。私や道場の門下生みたいに妹同然だったり、よほど身近な人じゃなければ、できる限り関わらないの」
「うん、それは莉那さんからも聞いたよ。だからね、昨日のはきっと、逃げ場がなかったのと、いたたまれなくなったから、送ってくれたんだと思うの」
「あ、ごめん。私、そういうつもりで言ったんじゃないの」
春はあわてた様子で手を顔の前で振って、それからぽつりと呟いた。
「……“鬼の子”って、やっぱりひかれあうものなのかな」
鬼の子。親を亡くし、礼陣の町に住む鬼たちが見えるようになった子供達。母を亡くした千花も、両親を亡くした春も、そして海もこの「鬼の子」だ。他にもこの町にはそんな子供がいるのだが、どういうわけかほとんどが互いを知っている。ここが狭い町だからというのもあるが、つながりができやすいのだ。
「そうかもしれないね。鬼の子同士じゃないと共有できない感覚とかもあるし」
千花が答えると、「あるいは」と春が重ねた。
「海にいがやっと女の子を好きになろうとしてるのか」
「え?! そ、それはないんじゃないかなっ!」
「わかんないよ。千花ちゃん、可愛いもん」
悪戯をした子供のように春が笑い、千花は顔を赤くする。そんなことを言われたら、変に意識してしまう。相手は親友詩絵の憧れの人で、女子が苦手で、春の言うようなことはないはずなのに。
「千花ちゃんから見て、海にいはどう?」
「私から? ……うーん……」
戸惑いながら、千花は考え、小さな声で言った。
「……お父さんみたい、かな」
「進道から女子に声かけるなんて珍しいな。しかもすっげえ可愛い子」
教室へ戻る前に、サトがからかうように言った。というよりは、そう聞こえるように言った。海は眉間にしわを寄せかけたが、傍に連がいるので抑えて、応えた。
「千花ちゃんは春の友だちだよ。莉那さんの後輩でもある。別に声かけたって、おかしいことなんかないだろ」
たとえそうでも、声をかけるのが海ならおかしいことになるのだ。それを小学生時代から一緒にいてよく知っているサトは、曖昧に笑った。
しかし、連がそこへ無意識に追い討ちをかける。
「海、前に女子は苦手だって言っていただろう。知人の友達なら大丈夫なのか?」
「そんなことはいいじゃないですか、連さん。……俺は女子が苦手ですって言って、春たちの友人関係に影響があったら嫌なので」
だったら自分から話しかけることすらしないのが、いつもの海なのだが。やはりそこが不思議で、サトと連は顔を見合わせた。
「じゃあ、なんで自分から声かけたんだよ。影響が嫌なら、自分が応えるだけで十分だろ」
それを言ってしまったのが黒哉だ。サトが「あっ」と思ったときは、もう遅かった。海は、黒哉相手になら睨みもするし声を荒げもするのだ。
「それがお前に関係あるのかよ、黒哉? おかしいことなんか何もない。一切ない。あの子が春や莉那さんの友達じゃなかったら、昨日だって無視してた」
「昨日?」
感情的になりすぎて、余計なことまで言ってしまった。女の子を自分の傘に入れたなんて、知らせる気はなかったのに。口をつぐんで下を向いてしまった海の肩を、サトが叩いた。
「まあ、何があったかは話さなくていいからさ。ちょっと落ち着こうぜ、進道。森谷君びっくりしてるから」
「いや、俺は平気だが。でも里の言う通りではあるな。俺も悪かった」
「そこまでかっとなるとは思わなかった」
口々に言われ、海は決まりが悪そうに苦笑した。苦味の方が強い、微かな笑みだった。
「……誰も悪くないです。ちょっと過剰反応しすぎました」
自分でもわかっているのだ。影響があるのが嫌ならば、自分から関わろうとしなければ良いのだと。けれども、どうしてだろうか。「鬼の子」同士だから、その本能がそうさせるのだろうか。海はたしかに、千花を放っておけないと思ったのだ。昨日も、今日も。雨が降っていたからだとか、莉那に言われたからだとか、そんなことは二の次で。
――どこまでも厄介だな、鬼の子って。
あの子も母を亡くしたと言っていた。でも、あの子はきっと、母が好きだっただろう。産んだ人間を憎悪している自分と違って。
『似てますね、私たち』
千花の言葉が頭によみがえる。そのたびに「似てないよ」と心の中で返す。それなのにどうして、「何かあったらおいで」と、「できるだけ助けるから」と、言ってしまったのだろう。どうして彼女に声をかけてしまったのだろう。
自分でも処理しきれない感情を抱きながら、海はいつも通りに振る舞おうとした。