昼間よりもほんの少しだけ涼しくなった風が、汗ばむ肌をなでていく。
部活帰りの学生たちががやがやと校門を出ていき、それぞれ帰路についたり、買い食いをしようとして商店街や駅前の大通りへと向かったりしている。
山に囲まれた礼陣の夏の夕方は、多分、他の地域よりも爽やかだといえる。気候が、という意味でも、子供が元気だ、という意味でも。週末は特にそうだ。
「海、今帰りか?」
同じく部活を終えてきたらしい連に呼び止められ、海は振り返る。その表情は苦笑だ。だが、どこか楽しそうにも見える。そんな曖昧なものだった。
「お疲れさまです、連さん。帰りといえば帰りですし、帰れないといえば帰れないんですよね」
「何かあったのか?」
その答えもまた煮え切らないもので、連もつられて困ったような顔になってしまう。それを見て慌てたのか、海は少しだけ早口に言った。
「実はちょっと約束がありまして、これから門市まで行かなくちゃならないんです。それがちょっと面倒で……」
「これからか? もう遅いぞ」
「晩御飯をご馳走してくれるそうです。ついでに泊まってきます」
海がそんな付き合いをする相手で、今現在隣町である門市にいる人物は、連には一人しか思い当たらない。まず間違いなく、大助のところに行くのだろう。
大助は高校卒業後、門市にある会社に就職した。現在はその会社が持っている寮で、独り暮らしをしている。そろそろ新しい生活にも慣れてきた頃かもしれない。
少しずつ余裕が出てきたそんなときだからこそ、人恋しくなったのだろうか。海をわざわざ呼びつけるだなんて。
「面倒だとは言うが、本当は少し楽しみだろう」
連が笑みを浮かべて言うと、海はやっと素直に頷いた。
「そうですね。……あの人と会うと、結構面白いですから」
なんだかんだと言いつつも、海はやはり大助の後輩なのだ。
礼陣駅から二駅先の、大きなビルと一体になっている門駅は、人を捜すには少しばかり苦労する広さだ。待ち合わせによく利用されるのは、駅広場にある奇妙なオブジェで、たくさんの窓がついた高層ビルのようにも見えなくはないので「ビル像」と何の捻りもなく呼ばれている。
そのビル像の前に見慣れた金髪女性を見つけて、海は走り寄った。像の前に到着する前に女性はこちらに気づいてくれ、振り向いて手を振った。
「海、よく来たね」
「こんばんは、亜子さん。迎えに来てくれてありがとうございます」
大助と同じく海の先輩である亜子も、一足先に門市に来ていた。呼び出されたはいいが、海は大助の住んでいる寮の場所を知らない。なにしろ、行くのは初めてなのだ。だから頻繁に大助のもとへ通っている亜子が、海を迎えにきたというわけだ。
金髪で美人の部類に入る亜子と並んで歩くと、人の多い門市でもいくらかは目立つようだ。すれ違う人々が、ちらちらとこちらを見てくるのがわかる。礼陣と違うのは、それが人間の視線だけだということくらいだろう。礼陣はもっと人間が少ない代わりに、たくさんの鬼たちも住んでいて、視線を向けてくる。それがないというだけで、海にとっては新鮮なことだった。
「もう、ご飯作って置いてきたんだ。ついたらすぐに食べられるよ」
「亜子さん、いつもそうやって大助さんのところに通っては食事の支度をしてるんですか? いいかげん、あの人も自分で簡単な料理くらいできるようにならないと、生活していけないんじゃ……」
「ああ、だめだめ。大助に調理器具と食材持たせると、ろくなことないから」
独り暮らしをしているとはいえ、大助に生活能力が備わっているかといえば、けっしてそうではない。こうして亜子が足繁く通って世話をしているおかげで暮らせているといっても、過言ではない。少なくとも海はそう思っている。
どれだけ大助の「偽独り暮らし」が酷いかを話しながら歩いていると、それほど経たないうちに寮に辿り着いた。亜子が躊躇なくドアを開け、「ただいま」と言うと、久しぶりに聞く声で「おかえり」が返ってくる。だが、室内は海の知らないにおいがした。
「おじゃまします」
「お、よく来たな、海」
亜子の後についてあがりこんだ海を、大助が笑顔で迎えてくれる。学生時代と何も変わらない、慣れ親しんだその姿にホッとした。暮らしは変わっても、大助は大助のままなのだ。
「急に呼び出して悪かったな」
「はい、本当に。明日も部活あるんですからね」
「大会前だっけか。調子はどうだ?」
たわいもない話をして、土産代わりにと持ってきた御仁屋のまんじゅうの詰め合わせを渡す。礼陣を離れてしまった者には、一番喜ばれる品だ。
部活の話に、学校でのこと、礼陣で話題になっている様々な出来事を話しながら、亜子が夕飯の支度をするのを手伝った。大助が食器を出している間に、おかずを温めなおしたり、炊飯器からほかほかのご飯をよそったりする。海にとっては、いつもしていることと何ら変わりのないことだ。
全てが揃ったら、手を合わせて「いただきます」を言い、食事を始める。亜子の作った食事は和のものできちんと整えられていて、素朴ながら豊かな味がした。海の家のものとは違うが、美味しい。
最近の大助にとっては、これが「家庭の味」になっているのだろう。
「さっき亜子さんとも話してたんですけど、大助さんも料理をちょっとはできたほうがいいですよ。亜子さんが来られないときはどうしてるんですか?」
「職場の先輩に奢ってもらったり、コンビニで買ってきたりだな」
「……独り暮らしするの、早まったんじゃないですか? 今度礼陣に帰ってきたときは、もっと愛さんからいろいろ教わってくるといいです」
大助のあっけらかんとした答えに呆れながらも、彼らしいなと思い、海はつい笑ってしまう。そして自然に「帰ってきたとき」と言った自分に気づいて、やはりこの人が帰る場所は礼陣なんだと考えてしまう。
どんなに生活の場が変わっても、大助の本当の居場所は礼陣であってほしい。それがきっと、海自身の願いなのだ。
「別に、全く飯を作らねえわけじゃないんだぜ。ただ、亜子が台所のものに触らせてくれねえんだ」
「あんたがやると食べられるものも食べられなくなっちゃうからね。おかずの作り方もちゃんとわかってないくせに、色々突っ込もうとするからだめなんだよ」
それから、どこかで亜子から少し離れてほしいとも思っている。二人は付き合っているのだから、それは無理な話かもしれないし、海が口を出すことではないのだろう。でも、海が兄のように慕う大助の姿は、強くて自分の足でしっかりと立ち、ときどきは海をも叱ってくれるような、そんな人物像なのだ。女性である亜子に頼りきりになっているのではなく、彼女を体を張って守るような、男らしさを長所としているのが、海の思う大助なのだ。
「大助さんは、仕事は順調なんですか?」
少しでもそんな人物像を感じたくて、尋ねてみる。けれども返ってきた答えは、期待したものとは違った。
「毎日失敗ばかりだよ。まだ全部を覚えたわけじゃねえし、同じヘマをしては注意されてる」
どこか自信なさげでおとなしい、およそ大助らしくない声。てっきり「うまくやってるぜ」と元気に答えてくれるものだと思っていたから、海は拍子抜けしてしまった。
「そう簡単にはうまくいかねえんだ。仕事して生活していく大変さを実感してる」
たとえ大変でも、大助は強がるだろうと海は考えていた。いつも後輩の前では自分の痛みを見せまいとしてきた大助だから、弱音なんか吐かないだろうと、吐いてはくれないだろうと、心のどこかで思っていた。しかし大助はこうして、「大変」だと、「うまくいかない」と、正直なところを話してくれている。
「仕事が大変なのに、部屋に帰って一人なのは、辛くないですか」
ぽつりと海が呟くと、大助はにかっと笑った。
「寂しくはある。だから亜子を呼んだり、お前に来てくれるよう頼んだりしてるんだ。俺はまだ、礼陣での生活が忘れられねえんだよな」
自分で選んだ生活だ。けれども、ようやく慣れ始めたという忙しく重圧もあるこの生活に、全く辛さを覚えないわけがない。
「わたしも大助が向かいの家に住んでない生活になかなか慣れないから、こうやって来てはご飯を作ったり掃除をしたりしてるんだよね。わたしたち、かなり寂しがり屋なのかも」
亜子も恥ずかしそうに笑う。
これは独り暮らしではない、と海は思った。大助のもとに亜子が通う、二人暮らしなのだ。この生活は、二人で一つなのだろう。
そこに今日、自分が訪れたのだ。客は亜子と海ではなく、海だけだった。
「……本当に俺、お邪魔みたいですけど。泊まっていっていいんですか?」
「ああ、泊まっていけよ。お前の分の布団は用意してあるから」
自分を招いてくれたことに対する嬉しさもあるが、やはり自分は大助にとって「客」なのだと思い知らされる悔しさもある。もう、礼陣を一緒に駆け回っていた日々には戻れないのだ。大助も、亜子も、海の知らない「大人」になっていく。弱みをさらけ出せるような、さらけ出すことで世の中を渡っていける強さを持った、「大人」に。
たった一年の差は、一生追いつけない。――かつて剣道の先輩である和人が礼陣を離れたときも、同じようなことを考えた。所詮自分は「後輩」なのだと。
「どうした、海? 嫌いなもんでも入ってたか」
「大助と違って好き嫌いはないはずだよね? それとも、美味しくなかったかな?」
先輩二人が顔を覗き込んでくる。だから海は無理やりにでも笑顔を作って、「いいえ」と答える。
「美味しいですよ、とても。うちの味付けに負けないくらい美味いです」
「じゃあ、その作り笑顔は必要ねえだろ。……もしかして、俺が何かお前の期待に沿えないことでも言ったか」
でも、そんなものはすぐに見抜かれる。
「そうですね。社会人の現実を叩きつけられた感じです」
見抜かれたら、正直に言う。でも、少しだけ濁す。そんな海だけが、中学生の時から変わっていないようで、自分の気持ちで自分の胸を痛めた。
けれども、それすらも祓ってくれる言葉を、大助はちゃんと持っていた。
「正直なところを話せる奴なんて、お前と亜子くらいだぜ? 兄ちゃんと姉ちゃんには心配かけたくねえから、大変だなんて言えやしない。オヤジには鼻で笑われそうな気がするから言いたくねえ。流や和人に知れたら情けねえし、黒哉は働くってことに関しては俺より真っ直ぐだからこんな弱音は吐けない。その点、お前はいつも俺の隣にいたから、どんなに強がったところで見抜かれるだろ。だから素直に返事したんだ」
海よりもずっと身近にいるはずの人間や、いつも周りにいた人々を挙げて、そんなことを言う。海が隣にいたということを、ちゃんと憶えていてくれる。そして今でも、隣に置こうとしてくれている。こんな、「子供」の自分を。
それがわかって、海は心がふっと軽くなった。鬼で言うなら、「呪いが祓われた」というところだろうか。大助はやはり「礼陣の鬼の子」なのだと実感すると、海にもやっと自然な笑みが戻った。
「……大変ですね、弱音を吐く相手が少なくて」
「おう。だからお前が必要なんだ」
「男の人のことは、わたしじゃ理解できないことも多いしね。そのへんは海が聞いてやってよ」
たとえ距離が離れても、一生追いつくことのない差があっても、この縁が切れることはない。それが確認できたことに、海は安心したのだ。
翌朝、海は礼陣行きの始発列車に揺られながら、眠い目をこすっていた。
昨夜はとても熟睡できるような状態ではなかった。他人の家という場に慣れなかったというだけではない。たしかに大助が用意してくれた布団に入ることはできたのだが、当の家主は隣で堂々と彼女と同衾していて、それが気になってなかなか寝付けなかったのだ。幸いにもというか、海に気を遣ってなのか、何事もなかったのだが。
こういうことにはまだまだ、大助との思考の距離を感じる。けれどもそこは、大助は大助、海は海だ。相手の全てを理解できるなんてことはない。だから気にしないでいたいのだけれど。
「……もう、亜子さんがいるときに泊まりに行くのはやめよう……」
呟いてから、これではもう二度と泊まることはない気がするなと思った。
部活のためにそのまま学校へ向かって、同じく部活のあった連に会い、目の下の真っ黒なくまを心配されるまで、あと一時間弱。