手には買い物用の、取っ手のついたかごを持つ。その中には財布と、買うものを書いたメモ用紙。そうして誇らしげに「いってきます」を言った、小さな二つの背中を見送った。
ここ遠川地区から、駅裏にある商店街までは、五つかそこらの子供には少し遠い。車の多い大通りも渡らなくてはならない。けれども、彼らが自分達だけで行きたいと言ったから、任せることにした。
「神社まで僕とよく行ってますから、大丈夫だとは思うんですけれど」
はじめはそう自分に言い聞かせる。我が子として育てている海を、何度も商店街やさらに向こうの神社まで連れ出していたが、こうして子供だけで買い物に行かせるのは初めてのことだ。海はその歳にしてはしっかりした子供ではあるが、万が一事故に合わないか、事件に巻き込まれないか、そんな心配はいくらでも湧いてくる。
「海は大丈夫だろう。問題は春だ。変なところではぐれてしまわなければよいが……」
須藤翁は孫である春の落ち着きのなさを思い、溜息を吐いた。一緒に近所を散歩していても、ちょっとしたことに気をとられて、そちらへ行ってしまうような子だ。子供だけで使いに出して、問題はないだろうかとはらはらしている。
つまり、可愛い子供を「はじめてのおつかい」に出した二人は、非常に不安だった。
「……はじめよ。うちで茶でも飲んで待つか」
「はい。気を揉んでいても仕方ないですよね。ついでに智貴と千秋さんにも挨拶をさせてください」
二人の大人は後ろ髪を引かれる思いで、家の中へと引っ込んでいく。外からはまだ、子供たちの高い声が聞こえてくるようだった。
進道家と須藤家は、昔から家族ぐるみで付き合いのある、仲の良い家だ。現在、進道家には家主であるはじめとその子供の海、須藤家には町の人々から尊敬を込めて「須藤翁」と呼ばれる老人とその孫の春が、それぞれ生活をしている。
どちらの家も少々複雑な事情を抱えてはいるが、小さな子供が一人いるという点では同じだ。はじめと須藤翁は協力して子育てをしている。
今回のこともその一環だ。子供達に買い物を任せ、目的をしっかりと遂げさせて、帰ってきてもらう。そんな経験が、当の子供達にも、自分たちにも、必要なことだった。
なにしろ親役一人子一人の暮らしだ。いつまでも同伴で行動していたら、その日の仕事が終わらない。子供達には自立を、自分たちには子離れを、促さなければならない。
「どうか、どうか海と春ちゃんに、何事もないように見守って……」
仏壇に手を合わせながら、はじめはぶつぶつと呟く。その様子を見て、須藤翁は苦笑する。
「たかがおつかいで大袈裟だな、はじめ。見守るだけなら鬼たちもやってくれとるぞ」
「自分でもわかっています。でも、子供だけで行かせるのは初めてですし、鬼は人間の生活に過干渉しませんから……」
わかっていても心配なものは仕方がなく、いつまでたっても進まない時計の針を見ては、溜息を吐くばかりだ。子供達がいつになったら帰ってくるのか、無事に自分たちのところへ戻ってきてくれるのか、そればかりを考えてしまう。
はじめにとっての海は、そして須藤翁にとっての春は、いろいろな意味で「特別な子供」だ。我が子同然に育てている、大切な「預かりもの」なのだ。その子達を守り助けるのが自分たちの役目なのだと、二人は思っている。そこには彼らが将来立派に生きていけるように育てるということも、もちろんのこと含まれている。
だから過剰な心配は毒になる。それをわかっていながら、そわそわするのを止められない。
「智貴なら、もっと大きく構えていたでしょうか。春ちゃんをおつかいに出すのも、平気だったでしょうか」
仏壇から離れて、少し大きめにあつらえられたちゃぶ台に向かい、はじめはぽつりとそう洩らした。須藤翁はそれを聞いて一瞬目を丸くしたが、すぐに豪快に笑いだした。
「平気なわけなかろう。大事な一人娘を、一瞬といえど外に放すんだぞ。智貴より千秋さんのほうが落ち着いているだろうな」
「ああ、たしかに千秋さんはそうかもしれないですね。『私の娘なんだから大丈夫』って言って、子供達が帰ってきたときのおやつでも作っていそうだ」
その光景を想像して、はじめも笑った。何事もなければ、今、ここにあるはずだった光景だ。おろおろしているはじめと須藤翁、そして智貴を尻目に、寒天菓子か何かをこしらえている千秋。
昨年の飛行機事故が起こっていなければ、この場所で繰り広げられていたであろうやりとりだった。
須藤翁の息子で、春の父であるところの智貴は、妻であり春の母であるところの千秋とともに、飛行機の事故で命を落とした。昨年の夏のことだった。
智貴と千秋ははじめの友人でもあったために、彼は須藤翁と悲しみを分かち合った。
両親をいっぺんに喪った春は、祖父と、幼馴染である海に慰められ、ようやく笑顔を取り戻せた。それどころか、祖父に気を遣って「海にいといっしょにおつかいしてくる」とまで言うようになった。
案外、子供のほうが、大人より逞しいのかもしれない。須藤翁はそう思い、春に頷いた。
春を実の妹のように可愛がっている海は、はじめの実子ではない。だが、それを幼くもわかっていて、海ははじめを「父」と呼ぶ。いつも世話になっている父の助けになりたいと、「春を連れておつかいに行ってくる」と申し出た。
自分が思うよりも子供は強く賢いのかもしれない。はじめはそう感じ、海につとめを託した。
海と春は、買い物用のかごを持って、仲良く並んで出かけて行った。商店街へ向かって、まっしぐらに走っていった。転ぶことなく、歩調を合わせて。
あの事故がなかったら、今、子供達はどうしていただろうか。――きっと、わずかな違いこそあれど、強く逞しく育っていただろう。いつか大人たちの手を離れていけるように。
あの子たちは、それが他の子よりもほんの少しだけ早くなるかもしれないというだけのことなのだ。
しばらくして、海と春は手を繋いで帰ってきた。海が持っているかごには、ちゃんと頼んだものが入っている。おつかいは完璧だった。
「ただいま、おじいちゃん! あのね、鬼のみんながね、ぜんぶ買えたかどうか見てくれたの!」
「おとうさん、ただいま。お店の人も、ちょっとおまけしてくれたよ」
無事に帰ってきた子供達を、はじめと須藤翁は抱きしめて迎えたかった。けれどもそれをぐっと我慢して、その小さな頭を撫でてやるだけに留めた。思い切り褒めてやりたい気持ちは、どちらでも変わらない。
「おかえり、春。ちゃんとおつかいできたな。偉いぞ」
「海、よく頑張ったね。これからは時々、海に用事を頼もうかな」
祖父と父の言葉に、子供達は顔を見合わせて、得意げに笑った。こんな笑顔が見られるなら、旅にだって出してやってもいい。……いや、それはまだ先のことだ。まだ、大人のほうが我慢できない。
買ってきてもらったものを使って、今日は須藤邸で夕飯を作って食べてしまおうという話になった。こうして一緒に食事をすることは、海と春にとっても楽しいらしく、喜んで手伝ってくれる。
食器をちゃぶ台に置き、料理の準備が整ったところで、海と春はなにやらこそこそと話を始めた。「いつにする?」「今でいい?」などという会話を、はじめと須藤翁が不思議に思って見ていると。
「おじいちゃん、はい!」
「おとうさん、これ、どうぞ」
子供達が小さな手に花を持って、こちらへ差し出した。紙テープや布を組み合わせて作った造花だった。
「お店の人が、今日は父の日だから、あげるといいって」
「おじいちゃんはおとうさんじゃなくておじいちゃんだけど、おとうさんとおんなじだから、あげるね!」
店のおまけとは、どうやら品物の数量や値段だけではなかったらしい。この子供達の境遇をよく知っている町の人々が、気を利かせてくれたようだった。
はじめと須藤翁は顔を見合わせ、それから、子供達と同じ顔で笑った。
「ありがとう、海」
「こりゃあ枯れないから、一生大事にできるな」
どうやら自分たちは、この子達の親として認められているらしい。それが嬉しくて、思わず泣きたくなるのを我慢しながら、今度こそ子供達を抱きしめた。