森谷連は礼陣高校の生徒だが、礼陣の住人ではない。隣町、御旗に住んでいる。
御旗は礼陣から二駅離れた高級住宅街がメインの土地で、このあたりの大きな町である門市に職場を持つ人々が多く存在している。連もそういった家庭で生まれ育ち、中学までは御旗の学生としてごく普通に生活していたつもりだった。
何が悪かったのかはわからない。もしかすると早生まれで体が小さいことなども、関係があったかもしれない。理由は定かではないが、連は小学生の時分から一部の同級生に軽んじられることがあった。それは中学生になってからエスカレートし、暴力や盗難といったひどい虐めに発展していった。
精神だけでもそれに負けないようにと思い、町の弓道団体に入って成績を伸ばした。天才少年ともてはやされ、雑誌の取材を受けるまでにもなった。しかしそれは結局、相手を逆なでする要素になってしまった。
この状況から抜け出すためには、御旗から離れるしかない。そう考えた連が選んだ道が、高校は隣町にあるところに行くというものだった。その選択は多分に正しかったのだと、高校生になった今なら思える。今は少なくとも、学校に来れば味方がいるのだから。
「連さん、おはようございます!」
教室に入った連をいつも真っ先に見止めるのは、入学初日から声をかけてきた進道海だ。尊敬に値する人間には丁寧語で話すらしい彼に、初めこそ違和感があったが、もう慣れてしまった。なにより、久しぶりにできた「友達」に話しかけてもらえることが嬉しかった。
「おはよう、海」
……あれ、今日はなんだかいつもより元気ないですね。何かありました?」
だからいつもと変わらず振る舞っている、振る舞えているはずだったのだが、海はそう思わなかったらしい。心配そうに顔を覗き込んできた。
「いや、何も。それより、今度の週末にうちに来たいと言っていたな。それ、だめになりそうなんだ。すまないな」
これ以上内心を覚られまいとして、連は海から目を逸らす。ばれてはいけない。御旗に帰った自分が、海に尊敬を向けられるような人間ではないなんて。
「そうですか。残念ですけど、連さんがそう言うならしかたないですね。貸したい本、たくさんあるんですけど……少しずつ学校に持ってきた方がいいですか?」
「申し訳ないが、頼んでいいか」
本来ならば、今週末に海が連の家に本を届けてくれる予定だった。「俺が連さんの家まで持って行って、読み終わったら引き取りに行きますよ」という気前の良さには感謝していたが、やはり御旗でのことに巻き込むわけにはいかない。それを昨日の夕方、御旗駅に帰り着いたときに実感していた。
連が帰ってくるのを待っていたかのように駅に屯していた、中学時代の同級生たち。古川という少年をリーダーとした数人の男子学生は、かつて連に拳を浴びせ蹴りを入れ、ときには金を奪うこともした者たちだ。彼らが行かないような隣町の高校に行ってしまえば会うこともないだろうと思っていたのだが、それが今になってまた接触してきた。
昨日は小遣いを少しとられるだけで済んだが、またいつ暴力的な手段に出てくるかもわからない。そんなことに、この人の好さそうな友人を巻き込めるわけがない。最悪、被害者が増えるだけだ。
「じゃあ、明日から本は持ってきますね。リクエストはありますか? 作家とか作品名とか」
「お前の家は図書館か。……そうだな、ジャンルでいうなら純文学がいい」
「任せてください、うちにはいっぱいありますよ」
「そーそー、進道の家の蔵書量は半端じゃないからな。何でも頼むといいよ、森谷君」
横から口を挟んできたのは、教室に入ってきたばかりの里隆良だ。海とは小学生の頃からの友人らしく、連にも気さくに声をかけてくれる。そのたびに海に「サト、うるさい」と言われているが、そのやり取りが楽しそうで、連にとっては羨ましい。
いつものやりとりが交わされたあと、サトは連にそのままの笑顔で言った。
「本のことだけじゃなく、進道には何でも言うといいよ。喧嘩のことでもいいぞ。なにしろこいつ、中学時代の呼び名が狂犬……
「サト、それ言ったら叩く」
喧嘩――その言葉は、なかなか目の前の海とは結び付かない。人と摩擦を起こすような人間にはとても見えないし、寧ろどんな人間でも受け入れてくれそうだ。
たとえば、連が虐めを受けていることを言ったとしても、離れていこうとはしないのだろう。出会ってまださほど経っていないが、海はそういう人間なのだと感じていた。
だから、言えない。彼らには絶対に、虐めのことを覚られてはいけないのだ。
「何かあったら相談する。今はまず、本を頼む」
「了解です。連さんなら多少難しそうなのでもすらすらっと読めてしまいそうですね」
自分なんかのことで、この笑顔を奪ってはいけない。それが連の出した答えだった。

連が御旗へ帰ると、今日も彼らは待っていた。昨日のことで味を占めたのか、古川をはじめとする男子学生の一団は、すぐに連の姿を見つけて近づいてきた。
「森谷君、おかえりー。ほらな、この時間に待ってれば会えるんだよ」
御旗の駅にはちゃんと人がいるのだが、きっとこの光景は、仲の良い友人を待っていた少年たちに見えるのだろう。連はあっけなく駅裏に連れて行かれてしまった。
「森谷、金。俺たち、昨日の分はもう使っちゃってさー」
……昨日、持って行っただろ」
「いやいや、残しておいてやったじゃん? あれ、分割払いのためだから。それに親から小遣い追加してもらってんじゃないの?」
そんな事実はない。だが、これ以上抵抗して、暴力でも振るわれたら。海やサトは、絶対に怪我の原因を訊いてくるだろう。連は渋々と財布を出し、古川に渡した。
「はい、どーも。……なんだよ、昨日と変わってねえじゃん。どこに持ってんの?」
「それ以上はない」
「はあ? 何しらばっくれちゃってんの。嘘ついたらどうするんだっけ? 指切りげんまんの『げんまん』って、拳骨一万回のことだったような気がするなー」
前髪を掴まれながら見たのは、中学時代に何度もぶつけられた拳。それだけは回避しようと思ったのに、失敗したようだった。
じゃあ、どうすれば良かったんだ。――ずっと考えている問いの答えは、また得られなかった。

家族からの追及をかわすのは、以前から慣れている。けれども、やはりごまかしというのは効く相手とそうでない相手とがいるのだ。
「連さん、その顔どうしたんですか」
海は連の顔にできた痣を見るなり、眉を寄せた。いつもならまず「おはようございます」が先にくるのに、それすらない。
「おはよう、海。家の近くで転んでな。気にするな」
「いや、転んでできるようなものじゃないでしょう。誰にやられたんですか?」
一目で痣が人為的なものであると見抜かれた。ふと、サトの昨日の言葉が脳裏によみがえる。――何でも言うといい。喧嘩のことでも。多分それは、海がそれを見抜けるからなのだ。
「誰でもない。本当に、転んだだけなんだ」
連は海から目を逸らす。しかしその行動は、海に何か確信を持たせたらしかった。彼はこれまでに連が見たことのない厳しい表情で、一旦自分の席に戻り、それから大きな袋を持って戻ってきた。
「本、持ってきました。結局俺じゃ選べなかったので、この中から好きなのを選んでもらおうと思ったんですけど、やめました」
袋は海の手から、重そうに下がっていた。これだけの量を家から持って来るだけでも大変だっただろう。だが、海はそれを少しも厭わないのだ。
「今日の放課後、連さんの家まで持って行きますから。部活が終わったら、連さんと一緒に御旗に行きます」
「そんな、急に……
「届けるだけです、お邪魔はしません。何が連さんを『転ばせた』のか、確認もしたいので」
連が答えに迷っていると、横からサトが口を出してくる。
「あーあ、こうなったら進道はきかないよ」
今日は、海が言い返すことはなかった。サトがそう言うからには、きっとどれだけ避けたところで、海は考えを改めることはないのだろう。それに、せっかくできた友人を避けるようなことは、連もしたくはない。
そのあと、同じクラスの女子生徒である莉那にも痣を見止められ、心配された。さっきと同じように「転んだだけだ」と返すも、彼女もまた納得がいかないような表情をしていた。
「言いたくないなら、私はこれ以上訊きませんけど。……でももし、何か辛いことを抱えているのなら、海君には話してみてくださいね」
「どうして海なんだ? 里も海には話せと言うんだが」
「きっと一番心配性だから。それに、一番力になれるかもしれませんよ。だって海君、この町の有名人ですから」
にこ、と莉那は笑う。それから、耳慣れない言葉を口にした。
「遠川狂犬ブラザーズって、聞いたことあります?」

連は部活が終わってから、こっそり校門に向かった。海に見つからないようにして、明日は「忘れていた」と言い訳をしようと思っていた。
しかし、そんな考えもとうに見透かされていたようだ。
「お疲れ様です、連さん」
海はすでに、門で待っていた。
……お疲れさま」
「さあ、駅に行きましょうか。御旗への列車、乗り遅れちゃいますよ」
爽やかで、礼儀正しくて、一緒にいて楽しく、明るくなれる人物だと思っていた。けれどもそれも、進道海という人間の一部分にすぎない。まだ出会ってからそれほど時間は経っていないのだ。彼の全てを知ることなど、到底無理な話だった。
その知らなかった部分を見ることが、怖いような、少しだけ期待してしまうような、そんな連がいる。高校に入ってできた最初の友人のことを、もっとよく知りたい。ここまできたら、そう思うしかなかった。
いつも通り列車に乗り込んだが、いつもとは違って、隣に海がいる。御旗駅に到着するまで、たわいもない話をする。それだけで十分救われた。これ以上が、本当にあるのだろうか。
御旗駅には、今日も男子学生たちがいた。
「森谷君、おかえりー」
「あれ、今日はお友だちも一緒? 中学の時はいなかったのに!」
連たちを見つけた古川たちは、げらげらと笑っていた。その言葉を海に聴かせるのが、この光景を見せるのが、ひどく恥ずかしかった。
連は俯いていたから、そして古川たちは連ばかり見ていたから、気が付かなかった。海が本の入った袋を床に置き、携帯電話を少しだけ操作したことに。
「でさ、森谷君。こっち来ようか。今日も俺たち、ちょっと困ってるんだよねー」
「お友だち君も一緒に来てよ」
連は海をちらりと見やった。海は携帯電話をポケットに突っ込み、本の袋をまた持って、微笑んだ。
「いいですよ。行きましょうか、連さん」
これから起こることを知ってもまだ、彼は笑ってくれるだろうか。
莉那の話が確かなら、きっと。
連は意を決して、古川たちに囲まれながら、駅裏へ向かった。
「で、今日はお小遣い貰ってきてくれた? もしかして、そのかわりのお友だち?」
「なんでもいいけどさ。俺たちに金さえ渡してくれれば」
古川が手を出す。連は鞄の中から財布を出そうとした。だが、その手を海に止められた。
「そうやって、昨日も連さんからお金を巻き上げようと?」
その声は静かだった。
「巻き上げるなんて人聞き悪いなあ。俺たちは森谷君からちょっとお小遣いを分けてもらってるんだって」
「それができなきゃ、暴力を?」
「暴力って大げさだなー」
「ちょっとじゃれただけだよ。……こんなふうに、さ!」
男子学生の一人が、海に向かって拳を振り上げる。海は何の抵抗もせず、それを顔面で受けた。
「海!」
「やっぱ森谷のお友だちか。全然避けられないのな!」
爆笑する古川たちを、連は睨む。それに気づいた古川が、馬鹿にしたような顔のままで連に手を伸ばした。
「森谷、俺たちにそんな眼できる立場だっけ?」
またいつものように前髪を掴まれて、殴られるんだろう。半ば諦めて、そう思ったときだった。
「俺のことはいくら殴ってくれてもいいけど、連さんには手を出すな」
古川の手は、連に届く前に止められていた。海がその腕をがっしりと掴んでいたからだ。
「何言ってんの、お前……
頬をひきつらせ、それだけしか返さなかった古川が思ったことは、きっと連と同じだった。これ以上のものは見たことがないくらいに、冷たい眼。海がそうして古川たちを見ていることに、連はぞっとしていた。
「手を出すなって、ふざけてんの?」
「もしかして、お友だちじゃなくてガードマンのつもり? ていうか連さんって何?」
そう言って笑おうとする男子学生たちの声は震えていた。海がいることで、たしかに昨日までここにあったはずの状況は変わっていた。何を言われても動じることのない海に、古川も人を見下すような笑みをなくした。
「てめえ、離せよ! ざけんな!」
「二度と連さんに手を出さないって誓ったらな」
「てめえには関係ねえだろうが!」
「あるよ。一回俺を殴っただろ。それとケータイで、お前たちの発言は録音したから。やってることは犯罪なんだから、警察と学校に連絡したらどうなるかわかるよな」
「録音?!」
こんなことは初めてである連にもわかる。海は、この状況に慣れているのだ。莉那から聞いた通りに。
「でもてめえは礼陣の奴なんだろ。俺たちが森谷に何をしようと、いつでもこうやって来られるわけじゃねえよな。ケーサツとか学校にチクったら、森谷がもっと酷い目に合うかもしれないとは思わねえの?」
「もっと酷い目に合わせる気なのか? 今の発言も録音されてるけど」
「おい、こいつからケータイ奪え! ぶっ壊せ!」
古川の命令で、男子学生たちが動き出す。連がそれを止めようとしたが、海はぽつりと言った。
「連さんは何もしないでください」
その次の瞬間、古川が倒れた。海に腕を引き倒されたのだとわかったときには、他の学生も地面に伏せていた。同い年の男子数名を相手にしても、海は一人で、かなりの余裕を持ってそれをいなしていた。
「もう一度言う。連さんには二度と手を出すな。……何か用事があるなら、礼陣の心道館道場まで来い」
軽く制服についた砂埃を払ってから、海は携帯電話のボタンを押した。本の入った袋を持ち、困ったように笑いながら言う。
「行きましょう、連さん」
そんなふうにも笑うんだな、と連はぼんやりと思った。

御旗駅から離れたところで、海はまだ曖昧な笑顔を浮かべていた。そうして連の方を見ないまま、ぽつぽつと話しだした。
「連さん、引きました? サトもちょっと言ってた通り、俺、結構平気でこういうことしちゃうんです。中学時代は喧嘩もたくさんしました」
……いや、実は、知ってたんだ。人伝に聞いて……
「あー……そう、ですか。そうなんです、そういう奴なんです」
莉那が言っていた。中学時代までの海は、別の中学だった莉那も噂に聞くほどに、よく喧嘩をしていたのだと。同じ中学だった先輩と組んで、その名を町中に知らしめていたのだと。
「でも、海から仕掛けたことはないんだろう? 道場の門下生や知人に手を出そうとした奴に立ち向かったって聞いた」
「そう言えば聞こえはいいかもしれませんけど。本当は、そういうのって駄目なんですよ。道場の評判にも関わるし、俺も気分のいいものじゃないです。……説得力ないですけど、さっきのだって、連さんにはあまり見られたくなかった。嫌われるかもしれないって思ってましたから」
それでも、海は連を助けようとした。今後の古川たちの動向を抑えるための道具まで用意した。たしかに少し怖いとも思ったが、あれを見てどうして彼を嫌いになどなるだろう。
「嫌いになんかならない。海は、俺を助けてくれたんだ。俺だって、海にあんな格好悪いところ見られたくなかった。でも、海はあの俺を見て、俺を嫌いになったか?」
「なりませんよ! 寧ろ、今までよりもっと尊敬してます。よくあんなのに耐えてましたね。連さんは、やっぱり、すごいと思います」
……そうか」
そこでまだ「尊敬」なんて言葉が出てくる方がすごいと、連は思う。莉那は「海君は礼陣のヒーローなんだよ」と言っていたが、彼は連にとってもヒーローだった。
「やっぱり格好良いな。遠川狂犬ブラザーズ」
「え、その呼び名まで聞いたんですか?! やめてくださいよ、その恥ずかしい呼び名は忘れてください!」
「そうか? 俺は本当に格好良いと思ってるんだが」
「連さん、それは感覚が変です。ばれたら笑われると思ったから、サトにも口止めしたのに……
怒ったり、落ち込んだり、恥ずかしがったり。今日は色々な表情の海が見られる日だ。彼が友達で、本当に良かった。そう思って、連は少し笑った。
「あ、やっぱりおかしいと思ってるんじゃないですか」
「そうじゃない。これは、そういう意味じゃないんだ」
「じゃあどういう意味ですか」
こうして友と一緒に家までの道を歩けることが、どんなに幸せなことか。それを深く、感じていた。

翌日、連は驚きを通り越して唖然とすることになる。
「御旗の知り合いに事情話しておいたから、今頃森谷君をカツアゲしてた奴らは肩身の狭い思いをしてると思うぞ」
サトはそう言って、ニヤリと笑った。
あの後、海はサトと連絡をとり、更なる保険をかけておいたらしい。本当にもう二度と連があんな目に合わないよう、顔の広いサトに頼んで情報を流してもらったのだという。
海もすごいが、その周囲もすごいのだった。
「万が一、今日も絡まれたら、すぐに連絡ください。証拠品はいつでも提出できますので」
昨日の連とおそろいに、顔に痣をつくった海が言う。自分も証拠の一部となるために、手当てはそこそこにしていた。
「まず自分が殴られるってやり方、一力先輩に似てるな。さすが狂犬ブラザーズ弟」
「サト、やっぱりそれ連さんにばらしたのお前か!」
「え、オレ今初めてちゃんと言ったけど」
この賑やかさの中に、自分がいられることが嬉しい。そう思っていたのが顔に出ていたのか、こちらの様子を見ていた莉那がそっと囁いた。
「ね、頼りになるでしょう? 連さんが嬉しそうで何よりです」
……ああ、そうだな」
ここに来て、彼らと出会えて良かった。たとえこの先何があっても、きっと乗り越えていける。今度は、自分の力で。