雲行きがあやしいな、とは思っていた。空を灰色が埋め尽くしていくその下で、千花は商店街を歩いていた。ぽつり、ぽつりと滴が落ちてきたのは、ちょうど酒屋の前を通りがかったときだった。

それは瞬く間に強い雨になり、千花は慌てて酒屋の軒先に飛び込んだ。それから鞄を開けて中を探ったが、そこではたと思い出した。いつも鞄に入れているはずの折りたたみ傘は、昨日も雨が降っていたために、家で乾かして置きっぱなしにしてきてしまっていたのだ。

「どうしよう……」

今朝の自分のドジを恨みながら、千花は薄暗い空を見上げた。大きな雨粒は地面を叩き、連続した音を響かせている。地面から立ち上る土埃の湿った匂いが、心細さをかきたてた。

「あら、千花ちゃん。傘ないの? ちょっと雨宿りしていきなさいな」

救いは、酒屋の奥さんが声をかけてくれたことだった。この店にはよく、しょうゆやみりんや酢といった調味料を買いに来るので、店の人とは顔なじみだ。ありがたく甘えることにして、千花は礼を言ってから、また軒先から商店街を見つめた。

きちんと傘を準備してきた人たちが、目の前を通り過ぎていく。時折、鞄やカーディガンを頭の上に掲げながら走っていく学生がいた。何もかも、雨のカーテンに遮られて、ぼやけて見える。それを感じながら、千花はあいている手でそっと胸を押さえた。

雨の日は、胸がざわざわする。そのことに気が付いたのは、いつのことだっただろうか。幼い頃はそれが怖くて、泣いて父親に縋っていたこともある。今ではそんなことはなくなったので、それなりに成長はしているんだなと、千花はぼんやりと考えていた。

黒い傘が目に入ってきたのは、そんなときだった。お客さんが来たのかと思って退けようとして、傘の下にあった顔が見えた。それは、覚えのある人物だった。

「海先輩?」

思わずその名前を口にすると、相手は傘を閉じながら千花を見た。

「……ええと、千花ちゃん、だっけ? 春の友達で、莉那さんの後輩の」

曖昧でごめんね、と困ったように笑うその人は、千花の通う学校の男子の制服を着ている。彼のことを、千花は友人や先輩を通して知っていた。

進道海――千花の友人である春の幼馴染であり、幼い頃から仲の良い一つ上の先輩である莉那の同級生。二人から、よく話は聞いていた。

海は傘をたたんで、戸の傍に立てかけた。それから千花の横を通り過ぎると、店の中に入っていった。どうやら調味料を買いに来たらしいことが、店の奥さんとの会話から分かった。いつもこの店を利用している、常連だということも。

「またすぐ来ると思います。近いうちに酢もなくなりそうなので」

「はいはい、いつもありがとうね。はじめ先生にもよろしく」

そのやりとりを、千花は無意識に見つめてしまっていた。それに気づいた奥さんが、何を勘違いしたのか、にんまりと笑いながら言う。

「海君、やっぱりモテるんだね」

「え?」

海は首をかしげるが、千花にはその言葉の意味がすぐに分かってしまった。ぶんぶんと手を振りながら、それを必死で否定する。

「ち、違います! あの、別に私、そういうんじゃないですから!」

「あらそう? それはともかくとして、海君。あの子、傘持ってないのよ。知り合いなら入れて行ってあげて」

「いいです、いいです! 私、いざとなったら走りますから!」

しかし、雨音はその言葉をかき消すように、さらに強くなった。うるさいくらいになった音が、千花の耳を容赦なく襲う。胸のざわつきが、いっそう大きくなった気がした。

その脇を海が過ぎ、傘を手に取る。そしてそれを雨の商店街に向かって開くと、千花に振り返った。

「この雨の中、傘なしじゃ風邪をひくよ。もしそれが春や莉那さんに知れたら、俺が怒られる。家まで送るから、一緒に行こう」

にこ、と微笑んだ海を、千花は拒むことができなかった。背中に酒屋の奥さんの「仲良くねー」という台詞を受けながら、二人は一つの傘の中に並んで、店から離れた。

千花には男の子と並んで、まして同じ傘に入って歩くなどという経験は、これまでなかった。そのせいか緊張してしまう。何とかして話題を絞り出そうとして、頭をフル回転させる。そうしてやっと思いついた言葉を、身長差のせいで少し見上げて口にした。

「こ、この天気じゃ、春ちゃんは部活できないですよね。どうするんだろ……」

「陸上部は中止だろうね。体育館はバスケ部が使ってるし、切り上げて帰ったと思うよ」

共通の知り合いを出して、ぎこちなく会話をしながらも、千花は気づく。海は千花の歩幅に合わせ、迷いなく千花の家の方向へと歩いていた。おそらくは莉那から「お隣の千花ちゃん」について聞いていたのだろう。莉那の家さえ知っていれば、千花の帰り道もわかるのだ。

「千花ちゃん? は、部活やってないの?」

千花が考えを巡らせていると、今度は海から話しかけてきた。呼び方にまだ自信がなさそうで、そういえば自分たちはまだ互いにきちんと自己紹介をしていなかったのだということに思い当たる。こちらは海のことを知っていたが、向こうは千花をよく知らないかもしれないのだ。

「私の名前、園邑千花です。……えっと、部活は、合唱部です。でも今日は先生の都合でお休みになって……」

「そうなんだ。俺は剣道部なんだけど、うちも今日は休みになっちゃってさ」

海の表情に、ほっとしたような色が見えた。きっと「そうなんだ」には、千花の返答への相槌だけではなく、名前をきちんと把握できたという意味も込められていたのだろう。

「あ、俺は進道海。……って、今更か。きっと春や莉那さんから聞いてるだろうし」

「はい。春ちゃんはよく、海兄がどうしたって話してくれますし、莉那さんからは、ええと、いつも黒哉先輩って人と喧嘩してるって」

「うわ、莉那さんは余計なことを……。その名前は忘れていいよ」

困ったような、あるいは少しだけ苦々しそうなふうはときどき見せるけれど、海はずっと笑顔だった。その表情に、千花はなぜか懐かしさを覚えた。

どこか、父に似ているからだろうか。仕事が忙しいらしく、もう何日もまともに顔を合わせていない父に。千花より先に家を出て、千花が寝てから帰宅する父は、本当はとても優しい人だ。千花を育てるために一人で頑張ってくれている、笑顔の温かな人なのだ。海の表情は、そんな父に重なって見えた。

だからこそ、もう緊張が解けてきたのかと、いつの間にかこの人の隣にいることで安心しているのかと、千花は思っていた。

商店街を抜け、千花の家がある中央地区の分譲地に入ろうとした頃だった。雨が少し弱まり、水溜りを蹴るような音もはっきり聞こえるようになった。もうそろそろ走って家に帰っても問題ないだろうというところで、千花は「もう大丈夫ですから」と言おうとした。

けれども、それは一文字も声に出さないうちに遮られた。ぱしゃりと一番近い水溜りから音がしたので、千花と海は同時にそこを見た。

そこには、おかっぱ頭に白装束の幼い少女がいた。けれども人間とは違う。そっくりな姿をしてはいるが、彼女の頭には二本のつのがあった。

「子鬼ちゃん」

千花が思わずその呼称を口に出すと、海は驚いたような顔をして、視線を千花へと変えた。

「見えるの?」

その問いに、千花は頷く。

「私も鬼の子なので」

この町では、親のどちらか、あるいは両方を亡くした子供をそう呼ぶ。そういった子供たちには、この町にいる「鬼」と呼ばれる人々が親代わりをすることになっているのだ。だから子供たちは「鬼の子」という。

本来鬼たちは人間に姿を見られないようにしているのだが、鬼の子には多少見え方や見える期間に差はあれど、視認することができるのだ。

裏を返せば、それができるということは、親を亡くした子供であるという証明になる。

千花は海が鬼の子であるということは知っていた。この町で唯一の剣道場の一人息子である海のことは有名であったし、同じく鬼の子である春からも聞いていたからだ。

けれども海の方は、千花もそうであるということを知らなかったのだろう。

「じゃあ、千花ちゃんは」

「私はお母さんがいないんです。今はお父さんと二人暮らしです」

世間話のように海が言うと、なんでもないことのように千花が答える。すると子鬼が頷き、二人を見上げた。

『そういうことだ、海。しかし、千花と一緒とは珍しい組み合わせだな?』

この子鬼はよく鬼の子たちの前に現れる。千花と海も、彼女のことはよく知っていた。そして子鬼も、鬼の子たちのことは当然把握している。海と千花に、これまで接点がありそうでなかったことも、もちろん承知のようだった。

「傘を家に忘れちゃって、困ってたら海先輩が助けてくれたの」

「子鬼も傘に入る? 小さいから入れるだろ」

海が誘うが、子鬼は首を横に振った。にい、と笑って、平気なふうを見せる。

『私は鬼の力で濡れないようにしているから、全く問題はないぞ。それより海、千花をしっかり送ってやれ。鬼の子同士の繋がりは大切にな』

「わかってるよ。……それじゃ、また今度」

「またね、子鬼ちゃん。たまには遊びにおいでよ」

二人が別れを告げると、子鬼は手を振りながらふわりと飛び上がって、姿を消した。

子鬼の出現によって、互いに鬼の子であることを実感したせいか、千花は海との距離が近くなったような気がした。たしか海にも母親がいなかったはずだ。父との二人暮らしという境遇は、よく似ていた。

「……俺も、父さんと二人暮らしなんだ」

海も同じことを思ったのか、千花にそう言って、微笑んだ。

「知ってます。似てますね、私たち」

「うーん……まあ、そうかな。父子家庭の鬼の子って点ではそうかも」

微笑んだけれど、どこか憂いも含んでいるようなその表情に、千花はやはり懐かしさを感じた。先ほどとは違って、それがどこから来るものなのかはわからなかったが。

子鬼に言われた通り、海は千花をきちんと家まで送ってくれた。家に入る直前まで傘を差し掛けてくれたおかげで、千花は濡れずに済んだ。

「あの、ありがとうございました。風邪はひかずに済みそうなので、海先輩も春ちゃんや莉那さんに怒られるようなことはないと思います」

「それは良かった。……まあ、鬼の子同士の縁だし、何かあったら春を通してでもおいで。力になれることなら、できるだけ助けるから」

雨はもうすぐ止みそうだった。雲間から光が差している。千花は心からの笑顔で、海に頭を下げた。

「はい。これからもよろしくお願いしますね、先輩」

雨の日にいつも感じる、胸のざわつきも消えた。ドアを閉めてしまうのが惜しくて、千花は帰っていく海の傘と背中を見えなくなるまで見送っていた。

きっとこれからは雨が降るたびに、今日の出会いのことを思い出す。それがきっと、胸のざわつきを落ち着かせてくれる。

父のおかげで、雨の日に泣かなくなったように。