書き文字は人の性格を表すという。それは多分に真に近いのだろうと、井藤幸介はしみじみ感じていた。

今現在、机の上にあるのは数学の問題プリントである。教師になって初めて問題を作らせてもらった、それなりに思い入れのあるプリントだ。それに生徒たちが答えを書きこんでいる。そこに踊る文字は、見事なものだった。

解答欄いっぱいに大きな字を書く者、すでに日本語かどうか判別することも難しくなっているほど乱暴に書きなぐる者、定規をあてたように几帳面で真っ直ぐな字を書く者、丸くて転がりそうな字で可愛さをせいいっぱいアピールしている者。まだ生徒と関わりを持つようになって間もないが、それぞれの字がその人となりをわかりやすく示してくれている。

また、その字で書かれる解答もユニークなものがちらほらと見られる。単純に答えがわからないから空欄にしておくのではなく、何やら絵を描く者や、国語担当の教諭でも読み解くのは難しそうな文章を書き連ねている者もいる。

それらがあまりに面白いので、井藤は職員室で声をあげて笑った。

「どうしたの、井藤先生。採点楽しい?」

数学主任の吉住教諭が、手元を不思議そうに覗き込んでくる。教員一年生である井藤を指導してくれる存在でもある、このベテラン教師も、プリントに書かれた字を見てにやりと笑った。

「……はあ、これはこれは。三年生、よくもまあこんな余裕があるなあ」

「俺もそう思います。一応受験生なのに、この切羽詰ってない感じが実に良い。小テストだからってなめきってますね」

そう言いながらも、井藤は嬉しそうに笑う。真面目だろうがふざけていようが、丹精込めて作ったプリントに、向き合ってもらえたというだけで良かった。吉住教諭もうんうんと頷きながら、井藤の気持ちと、生徒の思いを汲んでいた。

「僕が思いっきり宣伝しといたからね。これは井藤先生が作って採点する小テスト第一号なんだって。みんな盛り上がって解いてたよ」

「小テストで盛り上がるって……変な光景でしょうね」

「うん、変。でもね、それだけみんなが井藤先生に期待してるってことだから」

なめてるわけじゃないよ、井藤先生を笑わせたいんだよ。そう言って、吉住教諭は大きなお腹を抱えて自分の席に戻っていった。

だとしたら、生徒たちの目論見は当たったことになる。プリントの問題が解けた者も、そうではなかった者も、井藤を十分に喜ばせてくれた。採点をしている間中、井藤の頬は緩みっぱなしだった。

「服部先生。今、暇?」

この状況をとにかく自慢したくて、同期で英語担当の服部俊也を呼んだ。服部はちょうど一年生の英語の授業で使うプリントを用意し終え、一息ついていた。

「何か?」

「暇なら三年生のプリント見ろよ、これ。数学なのに英文書いてあるんだぞ」

服部が井藤の示したプリントを見ると、たしかに解答欄には『この問題は難しすぎる』と訳せる英文が書かれていた。それだけではない。なぜかそのあと会話文調になっていて、『Really?』が出てきたときにはついに服部もふきだした。

「文法は合ってるし、ちゃんと話になってる……これを数学でやったのか、この生徒は」

「三年A組の逢坂だ。社台高校志望だったかな、でも数学が苦手で英語が大得意なんだ」

「井藤先生は生徒をちゃんと憶えてるんだな」

「三年生はいろんな意味でキャラが濃いから、すぐ憶えられた。それとこれが高畑。この元気のいい字は、他の生徒にはなかなか真似できないよな」

解答欄を隙間なく埋め尽くすように書かれた大きな字は、しかし誤答だった。元気の良さに免じて丸をやりたいところだが、生憎そこまで甘くはできない。

一枚一枚を丁寧に見て、ときどき笑わせられながら、採点を進めていく。その中で一際きれいな字を見つけて、井藤と服部は感心した。

「うわ、いい字だな。ペン習字でもやってるのか?」

「誰だ、その生徒は。……野下?」

名前を確認すると、そこには解答と同じ整った字で「野下流」と書かれていた。この名前は生徒と教師の全てによく知られている。彼はこの学校の生徒会長を務めているのだ。同級生や後輩からの信頼は厚く、中学校という小さな社会を上手にまとめているという印象を、井藤や服部を含む教師陣も持っていた。

しかし、彼の性格とこのきれいな字は、なかなか結び付かなかった。どちらかといえば、解答欄からはみ出すくらいに豪快な字を書きそうな人物なのだ。校内だけでなく、町の人々から「お祭男」と称されるほどの人物である彼に、こんな字が書けたとは。井藤と服部は、正直なところ驚いていた。

「ああ、野下君は本当に習字やってたはずよ。あのお家、お祖父さんが議長でお父さんが役場の上の人なのよね。子供にはきちんとした字を書くように躾けてるんですって」

国語担当の幕内教諭が、いつの間に話を聞いていたのか、そう教えてくれた。度々生徒に書かせる作文などで彼の字をよく見ているという彼女は、「あの性格にこの字のギャップがいいのよね」とにんまり笑う。

「へえ、あの野下がねえ……。俺のことを『井藤ちゃん』なんて呼び出したのもあいつだったのにな」

「俺のことも『服部さん』っていう。こっちの緊張をほぐしてくれるんだよな」

教師と生徒の線引きはきちんとしなければならない、と普段から言っている服部だが、野下流のペースには巻き込まれてしまうようだ。もっとも、授業や真面目な話をしているときなどは、彼もちゃんと井藤や服部を「先生」と呼ぶ。彼には彼の線引きの仕方があるらしい。

そんな野下流の解答は、整然とした字の割には間違いが多かった。そこに彼らしさを見ながら、井藤は採点を続ける。

少しして、また整った、けれども少し小さく頼りなげな字が現れた。生徒の名前は、「水無月和人」。野下流を支える、生徒会副会長だ。

「水無月は水無月らしいな。一文字一文字が丁寧で、でも野下の影を貫いているこの感じがまさにそうだ」

「でもさ、服部先生。水無月が剣道やってるの知ってるか? なんでも道場最強らしい」

「……見かけによらないな」

水無月和人は、普段は野下流が目立ちすぎているのであまり表に立たないイメージがある生徒だ。しかし、聞こえてくる噂はどれも感心させられるものばかりなのだった。井藤が知っているだけでも、町の剣道場に通う子供たちの中で一番の成績を誇っているだとか、老舗の呉服店の一人息子であるだとか、そもそも勉学の面でも校内トップレベルだとか。そんな超優等生といってもいい話ばかりがある。

「きっと野下の影になっているのはあえてのことなんだろうな。あの二人、昔から仲が良いって言ってたし」

「誰が?」

「本人たちが。小学一年生のときから、クラスが別々になったことがないらしい」

野下流と水無月和人の字は、どことなく似ていた。ただ、片方の字が堂々とした美しさを持っているのに対して、もう片方は控えめに静かにそこにあるような、そんな違いがある。そんな二人だからこそ、これまで、そしてこれからも、うまくやっているのだろう。

「同じ学校受けるって言ってた。礼陣高校だってさ」

「水無月なら社台でもいいくらいなのに」

「野下と一緒にいたいのかもしれないな。あいつは完全に礼高一本だから」

水無月和人の解答用紙に丸をつけ終え、井藤は次に手を伸ばす。一枚一枚に、解答者の思いが宿っていて、解答者自身を表現している。目立つ生徒も、おとなしくしている生徒も、井藤はちゃんと心に留めていた。彼らは、自分の教員生活で一番最初に送り出すことになる生徒たちだ。せっかく出会えたのだから、しっかり憶えていたい。

時折解答に笑いを堪えられなくなりながら、全てに目を通す。一人一人の顔を思い浮かべて、井藤は思う。自分もまた、彼らに教師として印象に残るような人物になりたいと。

それを服部に話すと、もうなってるんじゃないか、と返ってきた。

「少なくとも、そのプリントを返却したらもう忘れられないだろうな。全部にコメントつけてるんだから。まったく、よくそんな暇があるな。字もあまり上手くはないのに」

「うるさいなー、服部。……あ、学校にいる間は先生って呼ばなきゃいけないんだっけ」

井藤が初めて作成し採点したプリントには、一枚ごとに生徒への一言が書かれている。こだわりを持ちつつも相手を受け止め許容する、井藤らしいおおらかな字で。これからもよろしくな、という意味も込めて。

受け取った生徒たちは、井藤をどう見るだろうか。