商店街はいつも通りに賑わっている。八百屋で野菜をおまけしてもらい、肉屋で今夜のおかずの材料を入手し、今日も買い物は順調だ。海はエコバッグを手に提げ、日曜日の昼下がりの街を歩いていた。

五月ももう中旬だ。街路樹や植え込みの緑が輝いていて、爽やかな風が吹いている。散歩にはちょうど良い日だなと、真っ青な空を見上げて思う。今日がごく普通の日ならば、とても気分が良かったものを。

先月の下旬から、あちこちの店に貼ってあるポスターが目に入る。「母の日の贈り物に」――そんな言葉で、どの店も商品を売り出している。花屋などは特に顕著だ。赤いカーネーションが、店の軒先に主役然として並んでいる。

海には、それを贈る相手がいない。母など、自分にはいないのだと思っている。海を産んだ人間は、すぐに子供を捨てて、後にその子を殺そうとする呪い鬼になった。感謝など、しようとはとても思えなかった。

幼い頃からそうだ。保育園で「お母さんの絵を描きましょう」などと言われても、そんなふうに思えないので描きようがなかった。画用紙はいつまでたっても真っ白で、だから大人は海に「どんなお母さんだったか、想像で描いてもいいのよ」だとか、「お父さんの絵でもいいよ」と言っていた。後者の方が楽だったけれど、やはり他の絵と並ぶと浮いてしまっていて、居心地は良くなかった。母の日なんていらないのにと、毎年思っていた。

それでも、きっと自分以外の多くの人にとっては素晴らしい日なのだろうと思って、何も言わずにいた。何も言えるはずがなかった。「母」なんてものを、自分は知らないのだから、言う権利などないと思っていた。

ほんの少しだけ憂鬱になりながら、花屋の前を通り過ぎようとしたときだった。見知った顔が、花屋の扉を開けて現れた。

「お、海。夕飯の買い出しか?」

「……大助さん。こんにちは」

大助の腕には、カーネーションの花束が二つ抱えられていた。一つは赤だけ、もう一つは白だけのものだ。二つもどうする気だろう、と海は思った。この人には、今日カーネーションを贈るような人はいなかったはずだ。彼の母は、すでに他界しているのだから。

「あの、それ」

思わず、花束を指さしてしまった。そうしてから、失礼なことだったと思い直して、慌てて弁解しようとした。けれども、その必要はなかった。

「ああ、これな。今日、母の日だろ。赤いのは姉ちゃんに。俺の母親みたいなもんだからな」

大助は何も特別なことはないというふうに、海の疑問を汲み取って話してくれた。

「白いのは母さんに供えるヤツ。毎年、兄ちゃんが注文して俺が引き取りに来てる」

帰り道は、途中まで同じだ。商店街を抜け、大通りを渡り、遠川地区に入って、それぞれ東と西に別れるまで。その道すがら、海と大助は並んで話を続けた。

「海は、母の日にカーネーションを贈るようになったルーツって知ってるか?」

「いいえ、知りません。興味もありませんでした」

普段は喧嘩ばかりしている大助に、花束はとても似合わなかった。話題も彼らしくない。それでも海は、相槌だけは打っておくべきだろうと返事をしていた。そんな思いは大助には筒抜けで、けれどもそれを口にはしない。そのまま彼は、話を続けた。

「もともとは、アメリカかどっかの人が、母親の命日に白いカーネーションを供えたことが始まりなんだってよ。兄ちゃんはそれを何かで知ってたらしくて、母さんが死んでからは、うちの母の日のカーネーションは赤から白になった。同時に姉ちゃんの日ができて、赤いカーネーションを贈るようにもなった」

「ああ、恵さんの発案だったんですか。大助さんにはあんまりこういうの似合いませんし、変に思ってたんです」

「うるせえ、ほっとけ」

軽口を叩きながら、海は大助の言葉を頭の中で繰り返す。母の日のルーツは、命日。花は死者への手向け。そう考えると、一力家のしていることは正しいのだ。そしてさらに、母が死んで以来その役をつとめている姉にも感謝を伝えている。どうやら感謝や記念日といったものを、一力家の人々は重要視しているらしい。

「大助さんは、いいですよね。感謝できるような母親がいたんですから」

大通りにかかる歩道橋の上で、海はぽつりと呟いた。そんなこと、言うつもりなんか全くなかった。だのに、それはぽろりと零れ落ちてしまった。

失言だったと気づくまでに、間があった。口を押えても、もう遅い。今日はこんなことばかりだ。どうかしている。背中がさっと冷たくなっていく心地がして、海は立ち止まり、俯いた。

「海、お前」

「いや、違うんです。今のは、その、言うべきじゃありませんでした。ごめんなさい」

今更そんな言葉を重ねたって、言ってしまったという事実は変わらない。ちゃんと産んで育ててくれた母親がいて、その人が死んでしまったという境遇にある大助を、きっと傷つけてしまった。家族を失った人の痛みをよみがえらせ、傷を抉るような真似をしてしまった。

そう思っていたら、大助が肩をぽんと叩いた。

「兄ちゃんや姉ちゃんは、そうだったかもしれねえな。父さんと母さんに、感謝できるくらいの時間があったかもしれねえ。……でも、俺はほとんどねえんだよ」

「え?」

逆光を受けて陰になっている大助の表情は、けれども、よく見えた。片手に二つの花束を抱えて、困ったような笑みを浮かべる彼を、海は顔をあげて見つめ返す。

「うちの親、海外での仕事が多かった上に、俺がまだ小さい頃に死んだから。俺は両親に育てられた記憶なんかほとんどねえよ。何をどう感謝したらいいのか、正直なところわかんねえ。しいて言うなら、産んでくれたことと、日本に帰ってきたときに土産をたくさん持ってきてくれたことくらいか。……だからこんな花も、俺にとっちゃ形だけだ」

形だけ、と彼は言う。けれども、形にできるほどには、彼は。

それを思うと、もう海は止まれなかった。

「それでも、愛されてたじゃないですか。お土産持って帰ってくるくらい、大助さんは親に愛されてたじゃないですか。産んだ女にいらないって言われて、殺されかけた俺とは違う」

それとも、産んでくれたことくらいは感謝すべきだというだろうか。時折そう言う人がいたが、そのたびに海の胸は酷く軋んで、痛んだ。大助も、そういう人間だろうか。

「あー……そうだな、違う。まあでも、お前にも感謝する相手くらいいるんじゃねえか?」

「まさか、産んでくれたことくらいとか言うんじゃないでしょうね」

「お前にそんな余裕ねえだろ。そうじゃなくて、この町には、お前の母親も父親もたくさんいるだろうが」

ふわ、と風が吹いた。それにつられるようにして、海はふと歩道橋の下を見る。町は人間と、鬼たちであふれていた。礼陣の町の、海の目に映る、いつもの光景が広がっている。

「……鬼、ですか」

「鬼の子だからな、俺たち。それだけは忘れんな」

ばん、と背中を叩かれる。提げていたエコバッグを落としそうになるが、背筋は伸びた。

それを愛というのかどうかはわからないが、海のことを想ってくれている人はいる。きっと「母のように」と表現していいくらいには、包み込んでくれるように守ってくれる人がいる。それは人間である父や大助たちであり、いつだって周りにいてくれる鬼たちだ。

話をうまくすり替えられたな、と思う。けれども、悪い気はしない。自分には母親がいないと拗ねかけていた海を、支えてくれている人たちがいるということがわかったから。

「大助さん。大助さんは鬼たちに何かするんですか?」

「菓子をばらまく。いつもと大して変わんねえな」

「そうですか。……じゃ、俺もそうしてみようかな」

「わらわら寄ってくるから、ちょっとじゃ足りねえぞ」

母の日なんかいらないと、思っていた。今もそう思っている。ずっとそう思ってきたことを、そう簡単に覆すことはできない。

自分を想ってくれる人を「母」と呼んでいいのなら、今日に限らず、いつだって気が付いたときに感謝を伝えよう。誰かが自分のために何かをしてくれるなら、自分も誰かに何かを返そう。それが海のやりかただ。

「それにしても、鬼たちは本当に花より団子ですね」

「だよな。いちいち花を買うよりも楽でいいけどよ」

どんな日だって、この町には変わらず、たくさんの母親がいる。