子供の健やかな成長を祝う、こどもの日。礼陣の鬼達は、子供を守る者として、彼らの育ちを見届ける。

「今年もいい天気になったな。風の塩梅もちょうど良い」

町にある神社の境内で、幼い少女が伸びをしながら呟いた。こんな姿をしているが、彼女は百五十年を生きる子鬼である。おかっぱ頭には二本の白いつのが生え、陽の光を受けてつやつやと輝いている。

彼女はこれまでに、何人もの子供達が年毎に成長していくのを見てきた。生まれてから今まで、ずっと。

町議長の孫と商店街の呉服屋の子が、仲良く紙の兜を作りかぶっていた日も。

両親を失った少年が、兄と姉の愛情を受けて明るく笑いながら、鯉のぼりを掲げていた日も。

不動産屋の子が、立派な五月人形を出してもらって、目を輝かせていた日も。

剣道場の息子として育てられた子が、幼馴染と並んで柏餅を頬張っていた日も。

他にもたくさん、見守り、憶えている。彼らがどんなふうにこの町で大きくなってきたのか、親のように知っているのだ。

元気に駆け回り、あるいは静かに、たくさんの物事に興味を持った幼い少年少女が、少しずつ背丈も心も大人のそれに近づこうとしていく姿が愛おしい。彼らがいつしか町を出て行くことになっても、いつまでも支えていきたいと思う。思っている。

別れは寂しくない。そんなことも忘れてしまうほど、もう十分に経験してきた。他所へ学びや仕事のために出ていく者、逃れられぬ時代の流れにさらわれてしまう者、若くして命を落としてしまう者。いずれの時も、それを願いとともに見送った。いってらっしゃい、頑張っておいでと背中を押した。どうか生きて、またこの場所に戻っておいでと手に触れた。お疲れ様、お休みなさいと冷たい肌を撫でた。

子供は、子供達は、いつだってたくさんのものにぶつかりながら、それでも前へ進もうとする。それがどんな結果になろうとも、向かう先はいずれも未来なのだ。

だから子供達は美しいと、子鬼は、鬼達は、思うのだ。この美しくきらめくものを、この手で守りたいと、自らの力を使うのだ。

そうしていつか大人になった彼らを、新しい世代を育てていく彼らを見たい。長い寿命だ、最期までしっかりと見届けることが、きっと礼陣の町に住まう鬼としての責務なのだと、胸を張りたい。

そうでなければ、この長すぎる生を、どのようにして過ごしていけば良いのか。たった百五十年しか生きていない子鬼でも、そう考えてしまうほど、この命はなかなか尽きることがない。

あとどれくらい、この鯉のぼりが何尾も悠々と泳ぐ空を見られるだろうか。子供達が成長していく様を見ていられるだろうか。どうかいつまでもその子らが笑顔であるようにと、願いを持ち続けられるだろうか。

それこそ永劫であるといい。愛しい街は、愛しい我が子。全てを包み込むように守っていけたならと、子鬼は今日も街を駆ける。