赤い自転車を脇に停めて、三か月に一度訪れる、その扉を開く。
「こんにちはー!」
やつこの元気な声に振り向いた女性は、にっこりと笑っていた。傍らには櫛やハサミ、ドライヤーなどが積まれたカート。この町の人々の気分を変える、魔法の道具が揃っている。
彼女は美容師という名の、魔法使いだ。
「やっこちゃん、こんにちは。髪伸びたね」
「伸びたから来たんだよ。いつもの感じでお願いします」
「はいはい、かしこまりました」
礼陣の商店街にある、小さな美容室。数年前に彼女、ひろ子さんが入ってから、やつこはその魔法にかかっている。
ひろ子さんは専門学校を卒業してから、生まれ育った家の、この仕事をするようになった。彼女が仕事を初めたばかりの頃は、この店のメインはひろ子さんのお母さんだった。ひろ子さんは幼い頃からお母さんの仕事ぶりを見ていて、自分も美容師を目指すようになったのだと、以前やつこに話してくれた。
礼陣には駅前にも、大きな美容院がある。スタッフがたくさんいて、いかにもスタイリッシュを売りにしていますといった、とてもおしゃれな佇まいの店だ。礼陣の特に若い人々は、そちらのほうに馴染みの美容師がいる。
けれどもやつこは、ひろ子さんのいるこの店「美容室こいずみ」に通う。小さな頃からおばあちゃんに連れられて、かつてはひろ子さんのお母さんに、そして今はひろ子さんに髪を切ってもらっている。やつこに一番似合う髪型を、美容室こいずみの人々はきれいに整えてくれるのだ。
「一応もう一度確認するけれど、いつものでいいのね? 中学生になったから、雰囲気を変えてもいいんじゃないかと思ったんだけれど。あ、入学おめでとうってまだ言ってなかったね」
「ありがとう。うん、いつものでいいんだ。中学生になったっていっても、そう大きく変化があったわけじゃないし。あんまり突然変わっても、先輩から睨まれちゃう」
やつこを椅子に座らせながら、ひろ子さんが慣れた手つきで魔法道具を操り始める。まずはタオルをやつこの首まわりに巻いて、さらさらとしたケープを着せてもらう。流れるような仕草に、ひろ子さんの明るい声が重なった。
「遠川中って、先輩が厳しいんだっけ。でもやっこちゃんなら、そんなの平気なんじゃない? 剣道も強いし、みんなから頼られてるでしょう?」
「心道館門下生や、遠川小出身の人なら、親しんでくれるんだけど。西小から来た人で、ほとんど会ったこともないような人たちには、生意気だと思われてるみたい。平気といえば平気だけど、いつも視線がちくちく刺さって痛いんだ」
「それは大変だね」
会話をしながら、ひろ子さんはやつこの髪を丁寧に上げて、留めていく。店に入ったばかりの一年目に比べると、動作から随分と緊張が抜けた。今やすっかりベテランの魔法使いだ。ずっとここに通い続けてきたやつこには、それがよくわかる。
髪を触るひろ子さんの手は、いつも優しい。梳いて、ハサミを入れるときも迷いがない。なくなった。頭の中に思い描いているやつこの姿を、ひろ子さんは見事に現実のものにすることができる。だからやつこは、ひろ子さんという魔法使いを、とても信頼しているのだった。
やつこが美容室こいずみに通い続ける理由は、もう一つある。それが、店内に流れているラジオの音だった。ここに来れば、いつでもFM放送が聴ける。礼陣よりも少し都会の隣町、門市のラジオ局から発信されている音を、ここのラジオはとても良い質で拾ってくれるのだ。
ひろ子さんも、そのお母さんも、さらにそのまたお母さんも、ラジオ番組が好きなのだという。離れた場所にいるたくさんの人の声を、音楽を、リアルタイムで聴けるのがいいのだそうだ。いつもラジオを聴いているひろ子さんは、番組が流す様々な時代の音楽をジャンルを問わずに聴いているので、色々な歌を知っていた。
ときどきはラジオの音に合わせて、鼻歌まじりに手を動かしている。やつこは、そんなときに「今日もここに来て良かったなあ」と思う。
『……ここでメールを一通ご紹介しましょう。ラジオネーム、とこやのひろちゃんさんから。……』
「あら、これ私のメール。嬉しいな、読んでもらっちゃった」
髪を少しずつ下ろしては梳いて切るということを繰り返していた、ひろ子さんが嬉しそうに言った。喜んでいるのは声だけで、手はしっかりと動き続けている。
いや、鏡に映ったひろ子さんの顔は、頬がほんのり染まって、少女のように可愛らしい笑顔になっていた。
「『とこやのひろちゃん』なの? 美容室なのに?」
綺麗な声で読み上げられるひろ子さんのメールを聴きながら、やつこは不思議に思ったことを尋ねた。ひろ子さんは頷いて、目を細めた。
「今でこそ美容室こいずみだけど、このお店を始めたときは床屋小泉だったの。おじいちゃんが理容師で、おばあちゃんがその手伝いをしていた、夫婦のお店だったのよ。それをお母さんが美容師として引き継いで、ここは美容室こいずみになったの。昔ながらのお客さんが、もう引退したはずのおじいちゃんを指名するのは、そういうわけ。おじいちゃんじゃないと、顔剃りができないからね」
私もできるようになろうかな、とひろ子さんは言う。昔から店に親しんでくれるお客さんたちと、もっともっと触れ合いたい。いろんな話をしたい。読み上げられたメールと同じことを、やつこはひろ子さんの声で聴いた。
「練習すればできるものなの?」
「資格がいるのよ。だからまた勉強しなくちゃね。礼陣の人たちに、この店がいつまでも親しんでもらえるように」
「そっか。ひろ子さん、このお店が大好きなんだね」
ひろ子さんが魔法を使えるのは、その力の源が、この店を好きだという気持ちだからなのだろうと、やつこは思う。店が、そしてこの町が、ひろ子さんにとってとても大切なものなのだ。その気持ちは、やつこも同じだ。
この町が、この店が、ひろ子さんが大好きだから、美容室こいずみに通い続ける。
「……さて、ちょっと流して乾かして、全体のバランスを見てみようか」
「はーい」
そろそろ魔法の仕上げにかかるらしい。今回も、きっとやつこらしくなれる髪型ができあがるだろう。
『今日も聴いてくれてるかな、とこやのひろちゃんさん。こんなふうに楽しくお仕事ができるって、とっても素晴らしいことだと私は思います。町のみんなの幸せのために、頑張ってくださいね』
ラジオから流れてきたエールに、小さく「はーい」と返事をしながら、ひろ子さんはやつこの髪を流す準備に取り掛かった。