壇上で涙をこぼす彼女を見て、胸が締め付けられた。柄にもなく、もらい泣きするところだった。来年、自分たちのときには、もしかすると頬を濡らしてしまうかもしれないなと思った。

卒業生の多くが涙した送辞に対して、答辞は実に静かで、淡々としたものだったけれど、それが彼の強がりであるということを、その弟や友人たちは知っていた。

礼陣高校の卒業式は、今年もつつがなく終了した。

 

部活の先輩たちに色紙や花を贈り、「あとは頼んだ」と頭をなでられ、ぐしゃぐしゃになった髪を直しながら教室に戻った。在校生は式が終わり次第解散していいことになっていたのだが、海たちは学校に残っていた。

「あれ、莉那ちゃんは?」

サトがきょろきょろと、無人の教室を見回した。

「在のところじゃねーの。ほら、送辞で泣いたから」

黒哉は式中の出来事を思い出す。生徒会長を継いだ莉那が、送辞を読みながら泣いていたのだ。そのあとに前会長として答辞を読み上げた在は、冷静に見えたが、おそらく内心では必死だっただろう。自分の彼女が泣いて、動揺しないような人間ではない。弟である黒哉にはよくわかっている。

「そうか、送辞答辞、カップルでやってたんだな。……常田先輩と莉那、遠距離恋愛になるのか」

しみじみと連が言う。彼が他人の恋愛関係について言及するのは珍しいので、サトと黒哉は少しだけ驚いた。一方で海は、そんなことはどうでもいいというように話題を変える。

「在先輩の行く学校って、和人さんと同じなんだよな。いいなあ、同じ学校行けて」

「お前も行けばいいじゃねーか。医学部もあるぞ、あの学校」

「だって、薬学に力入れてないだろ。俺は薬学部に進みたいんだよ」

外からはまだ、先輩と後輩、あるいは卒業生同士が、別れを惜しむ声が聞こえてくる。静かな教室には、一際響いていた。

こうして先輩たちとの別れをほとんど済ませてしまった自分たちも、来年は送られる側になる。まだうまく想像できないが、何か大事故でも起きない限りは、ほぼ確定した未来だ。

「進道と日暮、さっき剣道部の人たちにめっちゃ撫でまわされてたよな。進道なんか、頼んだぞ主将、とか言われてさ」

「野球部も同じ状態だっただろ、サト。……連さんたちはきちんとしてましたよね。まだ式が続いてるみたいでしたよ」

「弓道部はそれが毎年の伝統らしい。来年もああだろうな」

「オレたちが送られる側になるけどな」

もう二年、この学校を巣立っていく人々を見送った。

一年目は卒業生があの「お祭り男」野下流だったので、笑いの溢れる卒業式だった。それでも彼がいなくなることは惜しまれていたから、最後には涙があったけれども。剣道部の水無月和人は、礼陣最強と呼ばれただけあって、卒業してこの町を離れることは、後輩たちに衝撃を与えた。

二年目が今年。学校一の美少女の送辞と、彼女を射止めた生徒会長の答辞という、公式の場でのやりとりに泣く者が続出した。その二人は今、生徒会室で学校生活を静かに締めくくっているのだろう。

三年目はこちらが去る番だ。後輩たちは、どんな顔をして送ってくれるだろうか。

「連さんは新や飛鳥に慕われてるから、きっと感動的な卒業になるんでしょうね」

「来年のことなんかわからない。……まだ、考えたくないな。今が楽しすぎる」

「あー、森谷君のいうこと、すっげえわかる! この学校居心地いいから、卒業するってあんまり考えたくないんだよな!」

「じゃあサトは留年でもすればいいよ」

「進道酷い! 留年は嫌なの! どうせ卒業するならみんなと一緒がいい!」

「一個下にも良い奴たくさんいるだろ。留年するなら、卒業式には見に行ってやる」

「日暮も酷い!」

サトをいじりながら、海と黒哉、そして連も、今は遠い未来のことにしておきたい来年を考えてしまう。送られる卒業生を見たときから、ずっと思っていた。別れは必ずやってくる。自分たちの進路もばらばらになって、後輩たちをこの町に残し、巣立っていくのだ。

礼陣の町には大学が二つとたくさんの中小企業、そして大企業の支社がぽつぽつとある。一生この町で暮らしていくこともできるが、今や大多数の若者は、少なくとも一度はこの町を離れる。町の外のほうが、より進路の選択肢が多いからだ。

昨年卒業していった流はこの町の大学に進んだが、和人は隣県の大学へ行った。今年の卒業生も、外へ行く者が多い。町に女子大があるために女子は留まりやすいのだが、進学組の男子で特に理系の者は、町を出ざるを得ない状況がある。

就職するにも、より条件のいいところや高卒の新人をしっかり教育して育ててくれるような企業を選び、内定をもらおうと思うと、隣町へ行ったほうがずっといい。

そうして若者は、この町からも卒業していくのだった。

「……そういえば、大助さん何やってんだろ。人に待ってろって言って、遅いな」

海がぽつりと言う。今年の卒業生は、海が和人の次に兄のように慕っていた先輩だった。その彼が「部活の先輩を見送った後、教室に残ってろ」と言ったので、こうしてここで待っているのだ。ところが、当の本人が一向に現れない。

「一力先輩は皆倉先輩と一緒じゃないのか?」

サトの言う通りだった。実際、黒哉はそれを当人から聞いて知っている。

「大助なら、亜子に告白するって息巻いてたぞ。今更すぎ」

「え、一力先輩と皆倉先輩って付き合ってたんじゃないのか?」

驚いたのは連だ。あまりにも一緒にいることの多い二人のことだから、てっきりすでに恋愛関係にあるものだと思っていた。連だけではなく、彼らを知っている人は、誰でもそう思う。

「まだ付き合ってねーよ。二週間前にやっと亜子から告白したらしい。でも大助が『自分から言いたいから卒業式の日に仕切り直す』って言って、保留になってたんだとよ」

「日暮、詳しいなー……。進道はこのこと知ってた?」

「どうでもいいなと思って気にしてなかった。あの幼馴染、五歳の頃から付き合ってるようなもんだろ。何を今更、告白だの付き合うだの……あーあ、くだらない」

「海は相変わらず、こういうことには辛辣だな」

あくまで「恋愛なんてくだらない」と主張し続ける海に、連は苦笑する。このスタンスは、卒業するまで変わらないのだろうか。これからの一年で何か変化があって、来年の今頃には考え方が180度違うものになってしまっていることもありうる。未来はまだまだ、わからない。

さて、噂をすれば影が差すという。そんな話をしていたら、教室の戸が開いた。話題に上っていた本人の登場だ。

「悪い、待たせたな」

「大助さん、遅いです」

先ほど送ったはずの卒業生、一力大助がやってきた。いつもと変わらない調子で、けれどもその手にはしっかりと卒業証書の入った筒があって、彼はもうこの学校の生徒ではなくなるのだなと実感させられる。

就職組である大助は、隣町の門市の企業で働くために、もうすぐこの町から出ていくことになっていた。とはいえ列車で二駅ほどしか離れていないので、休みの日にでも予定を合わせれば会える。だが、彼の姿が礼陣の町からなくなるというのは、中学からの付き合いである海とサトにとっては少し寂しかった。

「一力先輩、卒業おめでとうございます! ……でも、引っ越してほしくないっす」

素直にそう言ったサトの頭を、大助はぐしゃぐしゃと撫でる。せっかく部活の先輩たちにやられたのを直したところだったのに、サトの髪は再び形が崩れてしまった。そんなことはもう、気にならなかったが。

「仕方ないだろ。俺が出てかなきゃ、兄貴と頼子さんが結婚できねえんだから」

「そうか、大助が卒業するってことは、平野先生がとうとう結婚するんだな。義弟が独り立ちしたら結婚するとか言ってたし」

大助の兄と、礼陣高校社会科教師の平野頼子は、ずっと婚約関係にあった。大助が独立したら結婚すると誓っている、という話は、頼子が自慢げに話すので生徒間では有名だった。

「それに俺も、ちゃんと金稼いで、兄貴と姉貴に恩返ししつつ、亜子を養っていけるようにならなくちゃいけねえ」

「大助さん、気が早くないですか?」

「その言い方はうまくいったのか。良かったな。何て言ったんだよ」

そして大助のほうも、どうやら亜子への告白とやらが思った通りにできたらしい。実に機嫌が良さそうに笑っていた。

「大学卒業したら結婚してくれって言った」

「一力先輩すげえ! それでオーケーする皆倉先輩もすげえ!」

「先輩。実際問題、四年で結婚できるんですか?」

「勢いでなんとかする。高卒だし、そんなに稼げるわけでもねえけど、約束しちまったからな」

「……かっこいいこと言ってるように聞こえるけど、なんにも考えてないですよね、大助さん」

「そこは海に同意だな。大助、お前やっぱりバカだろ」

後輩たちからの辛辣かつ現実的な言葉は、しかし大助には効果がないようだった。いや、この男なら本気で実行してしまうかもしれない。なににせよ、今は幸せに浸らせておいてやろうと、彼をよく知る後輩たちは思うのだった。

「それで、亜子さんは?」

「在と莉那捕まえて、何か話してる」

「あ、やっぱり莉那ちゃん、常田先輩といたんだ」

などと話しているうちに、また教室の戸が開いた。入ってきたのは三人。在校生代表と、卒業生二人だ。

「どうも、在校生諸君。本日はわたしたちの卒業式にお集まりいただき、ありがとうございました!」

卒業生、皆倉亜子はこちらもご機嫌だ。大助からの「プロポーズ」がよほど嬉しかったのだろう。ただ、頭の中は、大助よりも現実的な考えに満ちているだろうが。

「卒業おめでとうございます、亜子さん」

「うん。ありがとう、海」

「在、やっとお前がこの学校からいなくなると思うと清々するぜ」

「遠まわしなお祝いありがとう、黒哉」

もう一人、卒業生代表を務めた常田在は、弟の素直じゃない言葉をうまく受け取った。この兄弟は万事この調子だ。

「莉那ちゃんは送辞お疲れ! ……なに、まだ泣いてんの? 目赤いぞ」

「だって、先輩たちとお別れしなくちゃいけないんだって思ったら、止まらなくなっちゃって……。もっとしっかりしなくちゃ、来年も泣くかもしれない」

在校生代表を涙ながらに務めあげた莉那は、まだ目を潤ませていた。在の前で思い切り泣き直したのかもしれない。

「来年も泣けばいい。そしてあまり泣きそうにない奴も道連れにしてやれ」

「連さん……。うん、そうしようかな」

恥ずかしそうに笑って、莉那はまた目に浮かび出した涙を拭った。彼女が落ち着いたのを見計らってか、亜子が「それでは」と切り出す。

「君たちをこれから、わたしたちの卒業祝いと、莉那ちゃんの頑張りを讃える会に連行します! 場所はもちろん御仁屋ね。席は一年生たちにとっておいてもらってるから」

「そのために俺たちを待たせてたんですか」

今ここにいるメンバーに後輩たちを加えるとなると、あの広くはない店内をほぼ占拠するかたちになる。これだけのことをするということは、前もって準備していたのだろう。企画力は、おそらく「お祭り男」譲りだ。先輩たちが残したものは確実に受け継がれ、そして、さらに自分たちがそれを受け継いでいく。来年にはそのバトンが、今度は後輩たちに渡るのだ。

「先輩たち、謝恩会とかは……」

「夜にやることになってるんだよ。昼間は後輩たちとの別れを惜しむ時間」

「どうせほとんどの人が部活の後輩たちに囲まれて、身動き取れないから、時間通りに集まれないし。だからそれまで時間潰しに付き合ってね」

「ほら、行くぞ。春たち待たせてんだから」

まるでこれが別れなどではないように、普段と変わらず笑う卒業生たち。彼らも進路は分かれるはずなのに、新年度からもまた同じ場所で会えるかのようだ。

自分たちもそうなれるだろうか。笑顔でこの場所から卒業することができるだろうか。

「海、早く来い」

「あ、はい!」

たぶん、そうする。きっと、そうなる。また莉那は泣くかもしれないし、連や黒哉、サトにもそれが伝染するかもしれない。海だって、今日は抑えたけれど、自分が卒業するときは一筋くらいは涙を流すかもしれない。

けれども、式が終わった後は、こうして笑っていたいものだ。

「写真、一緒に撮ってね。大助と在に持たせるから」

「はいはい」

ひとまず、今年は、お祝いを。別れを惜しむのではなく、新たな門出の見送りを。

ご卒業、おめでとうございます。あなたの新しい生活が、幸多きものでありますように。