時は冬。礼陣神社の御神木の下に、三つ編みおさげの女学生が立っていた。
彼女がそうしているのは珍しいことではない。むしろ、ほぼ毎日のことだ。ここは彼女の定位置だった。
おかげで彼女は、町の人々からこう認識されている。――「礼陣神社の三橋さん」。まるで都市伝説か、妖怪のようだ。本人はそれを、なぜかいたく気に入っているようだったが。

礼陣神社は、この礼陣の町に昔からある、由緒ある神社だ。祀っているのは、「鬼」。この町を守るのは、そこに住むたくさんの鬼たちと、それを束ねる「大鬼様」だ。
この町には鬼がいる。人間と同じように町を闊歩し、しかしながら多くの人間にはその姿を見ることのできない、不思議な存在だ。
「礼陣神社の三橋さん」こと三橋初音にも、鬼たちを視認することはできない。しかし、彼女は深くこの町と神社を愛しているために、鬼たちから愛されていた。彼女を想う鬼は多く、その中には「大鬼様」もいた。
「初音さん、こんにちは。今日はお一人ですか」
「あら、神主さん。こんにちは」
長い髪を束ね、袴を穿いた、若そうに見える男性。彼はこの神社に住む「神主」と呼ばれる者だ。しかしその正体は、神社に祀られている「大鬼様」そのものである。もう何百年という時を、この土地で、この姿で生きている。頭につのは見えないが、唯一誰にでも見え、接することのできる鬼として、ここに存在していた。
「寒いのに、毎日通ってくれてありがたいです。元旦のお手伝いもしてくれましたし……
「とんでもないです。私は好きでやっているだけなんですから。来月の節分も、ぜひお手伝いさせてくださいね」
もちろん初音は、神主のことも尊敬し、親しんでいた。彼の、そして神社の手伝いができることを、心から喜んでいた。
彼が初音に恋焦がれていることなど、露も知らずに。
神主はそんな初音の思いを理解すると同時に、自分の生きる時間が彼女とあまりにも違いすぎることを意識して、自分の想いを打ち明けてはいなかった。彼女には同じ人間と一緒になって幸せになってほしいと、切に願っていた。
初音は礼陣の町が好きな人間。神主は初音たち礼陣の人間が好きな鬼。二人は同じものを愛している、友人のような間柄だ。今までも、これからも。

この町と神社を愛するために、節分の行事も手伝ってくれるという初音に、しかし神主は困ったように笑って言った。
「初音さん、節分なんですが。ここ十年で、豆を撒くことがはやり、神社までいらしてくれる方々は年々少なくなっています。それほどお手伝いしていただくようなことはないかと」
「でも、いらっしゃる方の邪気祓いはするのでしょう。それに、夕方からは町を歩いて、鬼たちの様子を見回ることになっているんでしょう。神主さんは忙しくなるでしょうから、お手伝いはしたいです。鬼が見えない私にも、いらっしゃる方々に甘酒を配ることくらいはできますよ」
ここ十年で、礼陣の節分の様相は随分と変化していた。よそと同じように家庭で豆まきをするようになってから、邪気祓いのために神社に来るような人々は減り続けていた。
人々が鬼に親しみ、この町から邪気を祓いたいという気持ちは変わっていない。だが、そのために神社まで来るよりは、商店街で豆を買い、家庭で撒いて願う方が、簡単なことだった。
ここに人間たちが来なくなるのは寂しいが、これも時代の流れだと思い、神主は静かに見守っていようと思っていた。
「ここまで来る人間の方は、今年も減るでしょう。その分私は、鬼たちの見回りに時間を割きたいと思います。ですから初音さんにお手伝いできることは、とても少なくなるかと」
……そうですね。私には、鬼が見えませんから。神主さんの大事なお役目を、お手伝いすることはできませんね」
初音は目を伏せ、俯いた。彼女を落胆させてしまったかと、神主は継げる言葉を探した。彼女を元気づけられるような気の利いたひとことを言えないかと、焦った。
だが、彼女はすぐに顔をあげた。その表情は、ちっとも落ち込んでなんかいなかった。
「では、私もみなさんと一緒に、この町に春を迎えます。神社にも来ますが、家でもこの町に良い春が訪れるよう願います。人間にも、鬼にも、温かな春が来るように」
願う気持ちが変わらないのなら、どんなに行為が変わっても、きっと思いは届くはずだ。節分という行事が、この町に春を迎えるためのものであることはたしかなのだ。それなら初音も、その手伝いをしよう。大好きなものたちのために、強く願おう。
神主はそんな初音の思いが嬉しかった。彼女がこの町を、自分と同じように、心から愛していることを喜んだ。
「初音さんはいつも前向きですね。……私は、みなさんがここに来てくれなくなることに、少しだけ拗ねていたかもしれません。ここには鬼もいて、みなさんの思いも変わらないのに、ただ会いに来てくれないということを寂しく思っていました」
神主がそう打ち明けると、初音はふわりと微笑んだ。まるでそこに春風が吹いたかのような、優しい笑顔だった。
「どうか寂しがらないでくださいな。みんな、神主さんのことが、この町のことが、大好きです。豆を撒き始めたのだって、この町をもっと賑やかにしたいからでしょう。ここに良い春を迎えたいという気持ちは、いつの時代も変わっていません。……それに」
初音がくるりと、可憐に回る。彼女の大好きな、この神社を見渡すように。
「私はいつでもここに来ます。この命の続く限り、毎日足を運びます」
神に誓ったのだから、彼女がそれを破ることはない。この先、初音が年を重ね、誰かと結ばれ、新しい命を生み、育んでいっても。それが終わり、寿命が近づくばかりになっても。きっとここに来てくれるだろう。
彼女は、「礼陣神社の三橋さん」なのだから。
「そうですね。初音さんが来てくださるのなら、寂しいことはありませんね。……初音さんがここにいれば、はじめ君たちも来てくれるでしょうし。あなたたちがいつかお子さんを持つことになったら、きっと彼らもこの場所を好きになってくれるでしょう。そう考えると、まだまだ寂しがっている暇はありませんね」
「そうですよ。ずっと、ずーっと、この町の人間は、神社を、鬼たちを、あなたを大切にし続けます。そうして毎年、ここに春を迎えるでしょう」
そう言ってから、初音はおもむろに歌いだした。童謡の「春よ来い」だった。
「はーるよ、こい。はーやく、こい」
それからふと歌うのをやめると、その目を明るく輝かせた。
「ねえ、神主さん。豆まきのときに、こう言えば良いんじゃないでしょうか。せっかくの春を迎える行事ですもの、それらしい言葉とともに豆を撒けば、きっと早く春が来てくれます」
今、町の人たちは「鬼も内、福も内」という、よそからやってきた言葉をもじった掛け声とともに豆を撒いている。この町は鬼の町なので、「鬼は外」とは言えないだろう、と思ってのことだった。
けれども「春よ来い」なら、鬼たちへの遠慮もなく、人間本位にもならず、誰でも素直に春を迎えようとする思いを込められそうだ。「内」に福を迎え入れるだけでなく、もっと広く「春」が来るように。そんな気持ちを表現できそうだった。
神主は、笑顔で頷いた。
「春よ、来い。良いですね。これをぜひ、みなさんにも広めましょう。今年の節分には、みんなでこの言葉を唱えましょう。人間も、鬼も、一斉にです」
「まあ、素敵! この町に住む人々が、気持ちを一つにできますね!」
その日から、神主と初音による「春よ来い」普及活動が始まった。おそらくは、礼陣の節分の準備で、これがもっとも重要なことだった。
商店街はこの言葉を即採用し、その年から節分商品の売り文句にした。そして買い物客たちも、今年からはそう言って豆まきをしようと思った。
その年、町の人々が、人間も鬼も区別なく一致して、春を迎えようとしていた。そしてそれ以降も、「春よ来い」は人々に浸透していくこととなった。

それから二十年ほどが経った。初音は商店街のパン屋に嫁ぎ、すでに大きな子供を二人抱えている。
忙しい毎日だが、神社へ行くことは欠かしていない。暇を見つけて、足を運んだ。そのたびに神主は、嬉しそうに初音を迎えた。
そうして、今年も節分がやってくる。商店街は「春よ来い」の掛け声で賑わっていた。
「ねえ、なんで豆を撒きながら『春よ来い』って言うんだろうね。私、この時期になるといつもからかわれたなあ」
初音の娘の友人、たしか名前は春といったか。パン屋を訪れてくれた彼女が、店を手伝っていた娘にそんなことを言った。娘の詩絵は、それに苦笑しながら答えた。
「あー、それ、うちのお母さんのせい。昔、神主さんに提案したんだってさ。そうしたら商店街に広まって、礼陣全体の定番になっちゃったんだとか」
「そうなんだ。おばさん、すごいですね! 礼陣の歴史をつくっちゃったんだ!」
あの言葉のせいでからかわれたというのに、春という少女は笑顔でそう言った。初音はにっこり笑って、「そうね」と答えた。
「まさかここまではやるとは思わなかったけれど。町のみんなのおかげね」
「お母さん。もっとそこんとこ、宣伝してもいいんじゃない? 『春よ来い』のパン屋、加藤パン店をどうぞよろしく、ってさ」
「あらやだ。これはみんなの言葉よ、詩絵。みんなで町に春を迎えるんだから」
人間も、鬼も、一緒に春を迎える日。みんなでみんなの幸せを願う日。それが礼陣の節分だ。
神主が、初音が、この町の誰もが愛する、礼陣の町のならいなのだ。