礼陣高校の特別教室棟に、社会科準備室はひっそりと存在している。外から見れば他の科目の準備室と同じ、ごく普通の小部屋だ。しかしその内側は、一人の教員によって占拠されている。
社会科教諭、平野頼子。まだ若く、科目主任でもないが、その押しの強さでこの部屋を手に入れた。資料棚には授業用の資料集や関連書籍だけでなく、彼女の趣味に関するものも多々並んでいる。とはいえ、一見他の史料とそう変わらない。
頼子の趣味は、この礼陣の町の歴史や文化を研究することだ。彼女は大学時代にこの町を訪れてからというもの、その魅力にどっぷりと嵌ってしまったのだという。礼陣で働きながら趣味を楽しめるというのは、理想の状況だろう。
その理想が高じて、彼女はこの学校に、勝手に部活動を作り上げた。それが「礼陣歴史愛好会」である。もっとも彼女の情熱についてこられるような生徒はほとんどおらず、会員は一年生男子が一人だけだが。
普段は毎週金曜日の放課後のみ活動しているが、今日は特別。たった一人の会員生徒を呼び出し、ソイラテまで振る舞って。この日を全力で趣味一色に染め上げようとしていた。
「日暮君、今日は何の日だかわかってるわね?」
非常に楽しそうな頼子を見て、唯一の会員生徒、日暮黒哉は呆れつつ答えた。
「……節分、です」
「そう、節分! 邪気を祓い春を迎える、素晴らしい日よ! 多くの土地では邪気と鬼が結び付けられて、『鬼は外、福は内』なんて掛け声とともに豆を撒いたりするけれど、礼陣は違うわ! なにしろ鬼が神様なんだもの、外に出すわけにはいかないわよね。そもそも節分に豆を撒くということ自体が礼陣では新しいことであって」
「先生ストップ! オレ、ついていけてないです!」
早口でまくしたてる頼子を、黒哉は必死で止める。この不可思議な愛好会に入会してしまってから七か月ほど経つが、その間に彼女を落ち着かせる術は心得てきたつもりだった。だが、今日の興奮ぶりはどうしたことだろう。いつも暴走気味ではあるが、それ以上だ。
「これくらいついてきてよ。日暮君、私の生徒でしょ?」
「無理です。先週から思ってましたが、節分ってだけでどうしてそんなに盛り上がるんですか? 鰯やら柊やらを玄関に置いて、豆撒いて年の数だけ食って、最近は恵方巻なんてのも出てきてますけど、それだけじゃないですか」
黒哉が言うと、頼子はやれやれというように、深い溜息を吐きながら首を横に振った。
「それだけ? 君ね、どれだけ私の生徒やってるのよ。わかってないなあ」
「まだ入学してから一年経ってません。で、先生がそこまで節分にこだわる理由は?」
改めて問い直すと、頼子はにんまり笑って答えた。
「礼陣は鬼の町。……鬼の町だからこそ、一般的とされている節分とは一線を画す。非常に興味深いテーマだと思わない?」
ここ、礼陣は「鬼の町」と呼ばれている。それというのも、この町には「鬼」がいるのだ。比喩でも何でもなく、そのままの意味で。
鬼は人間と共に、この町で生活を営んでいる。頭には二本のつのを持ち、人間では簡単に成し得ないような不思議な力を持っている。姿形は妖怪じみたものから人間とほとんど変わらないようなものまで様々だ。
しかし彼らの姿を、普通の人間は捉えることができない。鬼たちは人間の生活に過干渉しないよう、自らの姿を見えないようにしているからだ。当然ながら頼子にも、鬼を視認することはできない。
だが、「鬼の子」と呼ばれる特別な人間は、そんな鬼たちを見、接触することが可能だ。黒哉はあることをきっかけに「鬼の子」となった、鬼と交流できる者である。
礼陣の歴史や文化を語るには欠かせない「鬼」。頼子はその存在に興味を持つが、それを見ることができない。黒哉は彼らと触れあうことができるが、礼陣に来てまだ一年にも満たず、歴史や文化に関する知識が浅い。
礼陣歴史愛好会は、そんな二人が情報交換と議論をするための場であった。
さて、「鬼の町」礼陣では、節分の風習がよそのそれとは違う。鬼と邪気を結びつける「一般的」な節分行事は、鬼のいる礼陣にはそぐわない。
鬼はその力などから、この町では格の高い神として扱われているほどだ。町のシンボルともなっている礼陣神社では、鬼を束ねる「大鬼様」を最高位の神として祀っている。
そんな彼らを「邪気」として「外へ出す」など、この地ではとんでもないことだった。
「そもそも、節分に豆を撒くということ自体が、ここ二、三十年で行なわれるようになったことなのよ。それまでは神社で邪気祓いをしておしまいだったの」
「ああ、さっき言いかけてましたね。そうか、鬼イコール邪気にならないのか。『鬼は外、福は内』なんてとんでもないんですね」
「そうよ。だってこの町は、鬼が福を運んできてくれるんだもの。日暮君だって、この町の鬼にはかなり助けられているでしょう?」
黒哉はこくりと頷く。鬼の子になってからというもの、鬼たちとの交流のなかで、黒哉は礼陣での暮らしを豊かなものにすることができた。鬼が見えなければ、頼子とこうした話をすることもなかっただろう。なんだかんだありつつも、黒哉はこの町と礼陣歴史愛好会を気に入っていた。
頼子はにっこり笑うと、言葉を継いだ。
「礼陣の節分はね、そんな鬼たちと共に、この地に春を迎えるものなの。春分の前日に、溜まりやすくなる邪気を祓う。そのコンセプトはそもそもの節分と一緒よ。この土地ではそれを鬼と共に行なうの。人々は鬼を祀る神社に詣でて、神社では邪気払いをする。それが三十年ほど前までの、礼陣の節分の光景だったってわけ」
そこへ、山の向こうから「豆を撒く」という行為の文化が入ってきた。商業的な理由が大きいが、「目に見える何かをしたい」という庶民の考えを表したものでもある。礼陣では撒く豆の種類が決まっていないが、これも「豆を撒く」という行為がそれだけ先行して入ってきた、新しい文化であるためだ。
「場所によっては生産品や貴重品の関係で決まっているところもあるけれど、ここは豆なら何でもよくなってるわね。撒くもよし、食べるもよし。そうそう、御仁屋の節分豆シリーズ、とっても美味しいのよ。特撰おにまんじゅうなんか最高で、良質な北海道産小豆を惜しみなく使って作った餡が中にぎっしりでね」
「先生、話が逸れています」
頼子の話が横道に逸れたり、おかしな方向に飛んだりするのはよくあることだ。これには黒哉もすっかり慣れた。そして、今日の帰りに商店街の和菓子屋「御仁屋」に行ってみようと思った。まだ、その特撰おにまんじゅうとやらはあるだろうか。
「……そうね、元に戻さなきゃ。そうして豆まきをするようになった礼陣だけれど、困ったのが掛け声なのよね。黙って豆を撒いてもつまらないじゃない? しばらくは鬼たちを気にしつつ、『鬼も内、福も内』なんて言っていたようだけれど」
「今は違いますよね。商店街で教わりました。『春よ、来い』って」
普段商店街などでアルバイトをしている黒哉は、このことだけはちゃんと教わっていた。礼陣での豆まきの掛け声は、「春よ、来い」なのだ。商店街でもそれを文句に、節分関連商品を売り出している。
「この言葉って、いつからのものなんですか?」
「良い質問ね、待ってたわ。これは今から二十年ほど前、当時の女学生が礼陣神社の神主さんに提案したものなのよ。『せっかく春を迎える行事なんですから、それらしい言葉にしたらいいんじゃないですか』って」
神主はすぐにそれを気に入った。そして、神社へ来る人々に呼びかけたという。「今年から、『春よ、来い』と言いながら豆を撒いてみませんか」と。
礼陣神社の神主は、実はそこで祀られている大鬼様そのものなのではないかと言われている。頼子が確認した限りでは、もう何十年も姿形が変わっておらず、さらに年配者からは「じいさんばあさんの代も同じ姿だったそうだ」という証言を得ている。そして黒哉は鬼から聞いて、神主が大鬼様そのものであることを知っている。当の神主もそう言っていた。
その真偽はともかくとして、そういわれるほどに町の名士となっている神主の言葉を、町の人々が無視するわけはなかった。特に商店街の人々が、これを「売り文句」として採用したことが大きく働き、「春よ、来い」は瞬く間に礼陣に広まった。
「それが今の礼陣の節分を作っている要素。古くからの精神を受け継ぎ、新しい文化が生まれ、さらにそれが引き継がれていく。素晴らしい流れだと思わない?」
きっと遠い未来、礼陣の人々は、この文化を「伝統」として扱い、継承していくのだろう。それは今を生きている黒哉たちにとって、不思議で、しかしとても面白いことだ。その時代を見ることができたなら、感慨深く思うだろう。
「……そうですね。今オレたちが伝統だと思っているものも、生まれた当時は新しいものだったんだ。同じように礼陣の節分が伝わっていくと思うと、面白い」
「でしょう?! だから私は歴史や文化が好きなのよ」
頼子は心から楽しそうに言う。黒哉もつられて、笑みを浮かべた。
ソイラテのカップも空になった帰り際、頼子は黒哉にあるものを手渡した。
「金曜日でもないのに、話に付き合ってくれたお礼。他の生徒には内緒にしてね」
手のひらにのせられたそれは、金粉を散らした和紙にくるまれていた。包み紙には「特撰おにまんじゅう」と印刷されている。
「え、これ」
「本当に美味しいのよ。ぜひ濃い目の緑茶と召し上がれ」
頼子がウィンクしながら言うので、黒哉は戸惑いながらも頷いた。
「ありがとうございます。……本当に、今日は機嫌がいいんですね」
「心の中に春を呼び込むのも、節分よ。あとはこの場所にも春が来てくれるといいんだけどなー! 今年は新入会員、増やすわよ!」
なにしろ頼子がこの調子なので、入ってくれる人が現れるかはさておき。黒哉も心の中で、「春よ、来い」と呟いてみた。礼陣歴史愛好会に、良い春が訪れることを願って。