学校も、図書館も、そして飲食店も。どこにいっても受験生がいる。海と同じ、受験生が。センター試験を目前に、最後の総仕上げをしている。
礼陣には個人塾がいくつかあるが、それで足りなければ、隣町の有名進学塾や予備校に通う者もいる。かと思えば、全て自力で進路に向かっていく者もこの町には多い。海も、塾や予備校には通わずに受験に挑む一人だった。
センター試験は、志望校へ挑む第一歩となる。なんとしてもここで必要な点数を取らなければ。理数系科目は得意だが、文系科目は並だと自覚しているので、直前である今は伸ばしやすい数学に重点を置いている。そういうわけで、ここ最近の海は頭の中が数式や図形で満ちた状態だ。
……
などということを休憩がてらの雑談で話すと、サトがいかにもという顔で言った。
「気持ち悪いな、お前の頭……
「失礼だな」
夏で部活を引退し、それから勉強に集中するようになったサトは、試験直前の現在も苦手を潰しきれないでいた。得意な野球に関してはいくらでも伸びるのに、勉強にだけはどうしても不器用さが出てしまうらしい。
一応は休憩中である今も、彼の片手には単語帳がある。それには政治経済科目の用語とその簡単な説明がびっしりと書かれていた。
「サトは数学いいのか? ちょっと解けるようになれば応用でなんでもいけるから、直前に伸ばすにはいいと思うけど」
「いや、数学はそこそこできればいいや。今一番やばいの、暗記だし」
「今更暗記って……
本当に大丈夫かこいつ、などと人の心配をしている場合ではない。サトにはサトの、海には海の、それぞれ「今必要なもの」があるのだ。
そろそろ休憩を切り上げて、また問題に戻ろうかと思った頃。客が来たことを知らせるチャイムが鳴った。誰が来たかは、見なくてもわかる。さっきメールで呼んでおいたのだから。立ち上がって玄関に行き、文句を準備して戸を開ける。
「黒哉、遅い。バイトとっくに終わってる時間だろ……って、」
そこで、海はわざわざ文句を用意したことを後悔した。そこにはたしかにその言葉を受ける人物もいたが、もう一人、予想外の客がいたのだ。
「遅かったのは、コイツ駅まで迎えに行ってたからだよ」
「急だったから、黒哉には手間をかけさせてしまった」
「連さん、来るなら来るって言ってくださいよ! どうしよう、良い和菓子の一つでも用意しとくんだった……
「買ってきたから心配するな」
連が右手に持っていた紙袋を差し出す。進道家に来る際には必ずといっていいほど持参してくれる、和菓子屋「御仁屋」のものだ。海はそれを「ありがとうございます」と受け取って、連と黒哉を家の中へ通した。
もともと、センター試験が受験の第一関門になる海とサト、黒哉だけで集まって勉強をする予定だった。すでに推薦で大学進学が決まっていた連も来てくれるとは、全くの想定外だったのだ。それを海が正直に話すと、連は苦笑して返した。
「センター試験は俺も受けるぞ。だから受験は一緒だ」
「それに、文系科目得意な奴がほしかったんだろ。オレは自分ので手いっぱいだから、連に訊けよ」
黒哉は居間に座るなり、さっそく鞄から英語の問題集を取り出した。みんな取り組む科目はバラバラだ。ただ、理数系を中心としているのは海だけだった。
「数学伸ばしやすいのに……
「と、言いながらオレに漢文教えろってメールしてきたのはお前だろ。国語なら連のほうが得意だから、たっぷり教えてもらえよ」
黒哉が言うと、連は「そうなのか」と言って漢文のテキストを取り出し始めた。数学は一旦置いておかなければならないらしい。……古典漢文の類は特に苦手なので、できれば捨ててしまいたかったのだが。
「これで進道もこっち側の人間だな。その気持ち悪い頭、一回洗い流せ」
「洗い流しちゃ駄目だろ。……まあ、いいか。よろしくお願いします、連さん」
「定期テストや模試のとき、海には数学で世話になったからな。その恩返しができるといいが」
かくして勉強再開と相成った四人。あとに響くのは、質問とその答え、ペンとテーブルがぶつかる音。
……
ばかりと思いきや、またも客がやってきた。これ以上来る予定はなかったはずだ。
海が不審に思いながら立とうとすると、「俺が行く」と連が玄関へ向かってくれた。その間に手もとの問題を解いておけ、ということらしい。
連が玄関に行って間もなく、元気な声が響いた。
「こんにちはー。みんな、捗ってる?」
莉那だった。彼女も連と同じく、すでに推薦で進路が決定している。なので海からは声をかけていないのだが、それなのに来るということは。
「ああ、呼んだのオレ。英語見てもらおうと思って」
「黒哉、勝手に人増やすな。ここ俺の家だから!」
しかし来てしまった者を追い返すようなことはできない。それにどうせ、英語が得意な人員は必要だった。黒哉だけでなく、サトにも。
「差し入れも持ってきたよ。カフェ・シエロのスペシャルブレンド。海君の家、コーヒーミルあったよね」
「フィルターも含めて台所に一式あります。場所は……
「前も淹れたからわかるよ、大丈夫。待っててね、目が覚めるような美味しいコーヒー淹れてあげるから」
冗談ではなく、莉那のコーヒー豆のチョイスとそれを挽いて淹れる腕は確かだ。勉強のおともは、おにまんじゅうとコーヒーという商店街内コラボレーションになるらしい。試験直前だというのに、随分と贅沢なお茶の時間だな、と海は苦笑した。
するとサトが、ニッと笑って言った。
「地元みんなの応援だな。頑張れ受験生! って」
そう考えると嬉しいが、なにしろここは片田舎だ。大学は二つあるが、文系の小さな学校と女子校という、理系男子にはあまりやさしくない状態。
「受かれば地元を出ていくのに、何か皮肉だな」
「それでも応援してくれるんだから、良い土地だろ。しっかり受かって学校行って、卒業したら凱旋しようぜ」
「そう言いつつ、一番合格危ないのサトだけどな」
「それ言うなよー! オレだって必死なんだよ!」
人が集まると、自然と騒がしくなる。かといって勉強が進まないわけでもない。喋りながら考え、手を動かせるようになったのは、明らかにこの三年間のおかげだった。とにかく騒がしくて、楽しかった。
センター試験の後は、間もなくして自由登校になる。学校でこのメンバーが集まることは、もうなくなるかもしれない。各学校の試験前には、きっとお互いに遠慮して、誰かの家に集まるということもなくなるのだろう。
そのあとは、みんながそれぞれの道を行くことになる。
「莉那、コーヒーまだか? 聞きたいとこあるんだけど」
「はーい、ちょっと待ってね」
「莉那さんもセンター受けるんじゃないんですか? お茶の準備とかいいのに……
「やりたくてやってるからいいの。海君とサト君は、英語大丈夫?」
「オレやばい! 莉那ちゃんに教えてもらったらすっげーわかる気がするなー!」
「サト、お前はもう全科目教えてもらえよ」
……海、たぶんそれ間違ってると思う」
……すみません、おバカなサトと自分勝手な黒哉のせいです」
「オレかよ」
「人のせいにするなよなー」
こんなやりとりができるのも、残りわずかだ。

勝負の土日が終わり、自己採点も終了した、月曜日の放課後。とはいえこれから講習を受ける生徒もいるし、下級生はまだ授業中だ。
わずかな時間の合間に、五人は息をついていた。
……終わったねー」
「いや、俺たちはまだこれからです」
「でも、三人とも志望校変えずに済みそうなんだろう?」
「まあ、なんとかなー。これでダメなら地元の草野球チームに入る」
「これから前期日程まで、気が抜けねーな。奨学金のこととか考えると、浪人なんかできねーし」
これであとは進学の準備をするだけとなった連と莉那。
各校の前期日程に向けて勉強を続ける海、黒哉、サト。
道が分かれるときが来た。
「そろそろ生物の講習始まるんで、俺行きますね」
「おう。頑張れよ、進道」
「またあとで、英語の講習でな」
……俺は、帰る。ちょうど列車の時間が近い」
「あ、私も。それじゃ、海君、黒哉君、サト君。頑張ってね!」
一つ一つ、終わっていく。こうしてこの町でみんなで過ごす時間が、過ぎていく。
自分の道を行くことは、嬉しくもあり、寂しくもあり。
……そうだ、センターのりきれたこと、神社に報告に行こう」
それでも決めたことだから、このまま前に進んでいく。
春が来るまで、あと少し。