礼陣高校の特別教室棟に、社会科準備室はひっそりと存在している。その部屋を訪れるのは社会科科目の授業について質問がある生徒や、ここを主に使用している社会科教師に用事のある教員たち。
それから、毎週金曜日の放課後に活動する、「礼陣歴史愛好会」の会員生徒。
礼陣歴史愛好会とは、礼陣の町の歴史や伝承について語り合うために、社会科教師平野頼子が創設したものだ。会員生徒はたったの一人、春にこの町へやってきた一年生の男子生徒日暮黒哉のみ。
彼らはたった二人で、この町のあらゆることについて考察や議論を交わしている。そう、たとえば、この町に伝わる少し不思議な話なども。
黒哉が社会科準備室に入ると、いつもと変わらない、書籍や用途不明の物品が雑多に置かれている机に向かった頼子が、何か書き物をしていた。
「先生、仕事中ですか」
「まあ、ある意味仕事中ね。私自身のライフワークだから」
そういう言い方をするということは、彼女がしているのはどうやら教師としての仕事ではない。趣味として扱っている、礼陣の歴史に関わる何かを書いていたのだろう。
そうなると愛好会の活動にもかかわることなので、黒哉は何の躊躇いもなく頼子の手もとを覗いた。
覗いてから、一瞬ぎょっとした。そこにはいったいいくつ書いたのか、同じ字ばかりがごちゃごちゃとひしめいていたのだ。虫のようだ、という感想を抱きながら、黒哉は字から目を離した。
「先生、これは何ですか?」
眉を顰めながら尋ねる黒哉に、頼子はそれとは対照的な、嬉しそうな表情で答えた。
「何だと思う?」
いや、尋ね返した。意味が分からないから訊いたのに、訊き返した。黒哉は仕方なく、もう一度黒い虫がひしめきあっているような紙の上を見た。
やはり同じ字が何度も書かれている、と一度は思った。けれどもよく確かめてみると、字はどうやら二種類あるようだ。どちらもきっと、読み方は同じなのだろうが。
一つは「礼陣」。この町の名前であり、この学校や神社、駅などにも同じ名前がつけられている。すっかり見慣れた字だ。
しかしもう一つはめったに目にすることのないものだ。「霊陣」――「れい」の字が違う。こちらのほうが、何やら得体のしれない雰囲気を持っている。
「これはどちらも“れいじん”に見えます。正しいのはこっちの“礼陣”だと思いますが」
黒哉が言うと、頼子は待ってましたとばかりの笑みを浮かべる。そしてわざとらしく人差し指を振りながら、「違うんだなあ」と言った。
「どちらも正しいし、もしかするとどちらも間違っているかもしれない。……今日のテーマは、この町の地名についてよ」
ここで一つ、前提として語っておかねばならない事実がある。
礼陣には「鬼」がいる。頭に二本のつのを持ち、不思議な力を使うことのできる人々だ。彼らはさまざまな姿形をしているが、普通は人間の目には見えない。
しかし、「鬼の子」と呼ばれる一部の特別な人間にだけは、その存在を知覚することができる。黒哉は、その「鬼の子」だ。
普通の人間である頼子と、鬼たちを見、接することのできる黒哉では、鬼に対する考え方に差異がある。しかし、存在しているということについては、この町の誰もが疑ってはいない。
この町は、そういう場所なのだ。
さて、そんな礼陣の地名だが、この由来には諸説あるのだと頼子は言う。
「この名がついたのは武士が活躍し始めた世のことだったといわれているの。鎌倉時代の、山に囲まれた小さな里。そこにやってきたものが三つあったのよ」
黒哉にノートを広げて見せながら、頼子は説明を始める。このノートは彼女が大学生だった時分からまとめているのだという、彼女と礼陣の歴史が詰まったノートだ。
そこに、頼子のいう「もの」のうち二つが記されてあった。
「一つは権力。もう一つは飢饉。悪いことに、この二つが訪れた時期は重なってしまったらしいわ」
権力は、山の向こうからやってきた。多くの土地を自らのものとしようとした者が、ここに存在していた小さな里をも襲おうとしたのだ。特に何をしたというわけでもない、人々が静かに暮らしていた里だった。だが、名をあげた武士たちに分け与えるための土地がどうしても必要だった当時の権力者の一部が、この場所を手に入れようと躍起になったのだった。
「けれども、里の人だって丸腰だったわけじゃない。時代の流れは山を越えて伝え聞いていたし、何が必要になってくるのかも考えていた。……そういう思考と判断のできるリーダーが、この里に存在していたの」
里のものは首長に忠義を尽くすと決めていた。そう心に決められるほどに、この首長には才があった。
彼がこの里を守るためにしたこと。それは、礼儀をもって外から来た者たちを迎えること。傷つけず、傷つかずして、屈しもせずに、この里の平和を維持しようとしたのだった。首長を信じていた里のものたちは、当然のようにこれに従った。
「けれども、問題が起こった。里に酷い飢饉が起こってしまったの。外から来た者を迎えるなんて余裕は当然なくなってしまった。だって、山も畑も何もとれないし、そこの遠川だってろくに水が流れないんだから。大人も子供も飢えて、人間は次々に死んでいった……」
首長は、悩み、考え抜いた。どうすれば里の危機を救えるか。しかし天からの恵みでもなければ、飢饉など解決しようがなかった。
そう、もしも、あのときの助けがなければ、里は滅んでいたかもしれない。
「ここからは、君なら真相を聞くことができるかもしれない。でも、私には伝承をそのまま口にすることしかできない……」
頼子は息を吐き、それから黒哉を真っ直ぐに見た。
「……恵みは、あった。彼は山の向こうから先だって訪れた使者だったのかもしれない。それとも伝説にあるように、突然舞い降りてきたのかもしれない。とにかく、この状況を救った者……神がこの地にやってきたのよ」
彼は、首長の前に突然現れた。そうして、尋ねたという。
『私にできることはありますか』
首長は一本の藁にでさえすがりたい気持ちで、こう答えた。
「里のものを、全員とは言いません、せめて子供たちを救ってください。この飢饉と、いずれ外からやってくる乱暴なものから、守ってやりたいのです」
うわごとのように呟いた首長の言葉を、彼は受け止めた。
『わかりました。救いましょう』
そこから先は、まるで夢物語のよう。彼――神が天を高く指すと、しばらく降らなかった雨が里と山に降り注ぎ、枯れかけていた川が水を満々と湛えた。木々や草花、畑の作物はみるみるうちに元気を取り戻し、まるで時があっという間に進んだかのように実をつけ、葉を茂らせた。
死にかけていた者たちは、子供から先に、続いて大人たちというように、回復していった。
残念ながら死んでしまった者たちのうち、この世に強く未練を残したものは、神の眷属となった。神が頭に持つのと同じ、二本のつのを生やして。そうして神のする救いのわざを手伝ったという。
復活を遂げた里は、首長が思い描いていた通りに、山の向こうからやってきた者たちを迎えることができた。あくまで礼儀を尽くし、長く話し合って、この土地を守り切った。
「礼陣とは、礼儀を尽くした人々の住まう場所。礼で戦った人々を讃える呼び名。そして霊陣とは、人間の力では起こせない奇跡が及んだ場所。頭に二本のつのを持つ神の、その力が及んだ範囲を示す言葉」
頼子がにこっと笑った。黒哉は目を丸くして、開いた口を塞ぐこともできず、ただその言葉を聞いていた。
いや、考えていた。わかっていた。その神とやらが、今のこの町を作っているものなのだと。その眷属たちが、普通の人間には見えない形でまだ存在しているかもしれないことを。
突然の天変地異。首長の機転。外から来た医学や農学の知識のある人物の存在。説明する材料は多々あれど、人々はそれを神の起こした奇跡と信じて、今日までその神と共に暮らしている。
実際、当時の技術や知識では説明できないこともある。だがそれをどこまで、より多くの人が納得できる現実として語ることができるか。それを考えることも、頼子のいうところのライフワークだ。
だが、この話に関しては、これ以上の言及はなかった。できなかったのかもしれない。でも、できなくても会話の中で追及していくことが、この礼陣歴史愛好会の意義ではなかったか。
「あの、先生。いいんですか? ここに昔鬼がやってきて、奇跡を起こし、人々は幸せになりました……なんて話で」
黒哉は、この話に納得できる。鬼が存在していて、それらのことをやってのけるくらいの力を持っていることを、知っているからだ。
けれども頼子は違う。全てを鬼の奇跡で片付けてしまえるほど、彼女は素直ではない。鬼を見ることもできないのだから。
「日暮君、これは土地の名前の由来よ。物語でもいいの。本当は権力者の襲来も大飢饉も起こっていなくて、全く別の理由があって礼陣という名が残されたのかもしれない。それでもこんな話が残っているのは、何故だと思う?」
まさか、と黒哉は思う。ここまでの全てが、本題に入るための、長い長い前置きだったというのか。
「これが作り話だったなら、こんな話を残して得をするのは、ときの首長よ。神は首長の願いを聞き届けたのだもの。賢い首長一族は、山の向こうの人間ではなく、自分たちこそこの土地の権力者だと知らしめたかったのかもしれない」
「……意地の悪い想像ですね」
ああ、やっぱりいつもの頼子だ。別の可能性を、捨てずにとっておいている。全てが虚構だという言い分を。
「土地の名前の由来も、鬼の存在も、そのあとの礼陣神社の成り立ちすらも説明できるし。これ以上ない、もっともらしい話だわ。そんな話を作れるとしたら、やっぱり首長一族……野下家の人々は、人を惹きつける才があるのかもしれない」
それだけは認めましょう、と頼子は頷きながら言った。黒哉は苦笑して、それから、時計を見た。
もっともっと、頼子には語り足りないことがあるに違いない。今の物語では、まだ説明のできていないことがある。この町の全ては、まだ語られてはいないのだ。
でも、時間だ。続きはまた今度、金曜日の放課後に。もっとも、その頃には、頼子はまた別のテーマを用意しているかもしれないのだが。
「先生、オレはとりあえず、その物語を信じてみます。鬼にでも聞いて、真相を探ってみます」
「このことを知っている鬼がいるかしらね。可愛い義妹の話では、どうやら鬼も代替わりみたいなことをしているらしいから」
「う……」
頼子は普通の人間の視点から。黒哉は鬼と接するものの視点から。それぞれの考えを語り合い、こちらもまた新たな物語を作りだしている。
礼陣歴史愛好会は、そういう集まりなのだ。
「とにかく、またその話はしましょう。オレ、そのときまでに情報を集めておいて、先生と議論できるようにしておきますから!」
「うん、待ってるよ。私も鬼の話は聞きたいからね」
黒哉が席をたって、頼子がノートを閉じる。きっと今使っている新しいノートに、今日の話が書き加えられるのだろう。
礼陣の歴史は重ねられる。物語はこれからも増えていく。全てを知るのは、それこそ神のみ。