薄く雪の降り積もった境内に、大助の姿があった。
いつもならば、幼馴染の亜子や、後輩の海、姉の愛と一緒にいることが多い。けれども、今は一人だった。たった一人で、拝殿前に立っていた。どこかぼんやりしているような、それとも何か考えているのか、傍から見ているだけではわからない。いや、彼には考え事をしているときに頭を掻く癖があるので、ただそこにいるだけなのかもしれない。
大助は拝殿を見つめていた。鈴を鳴らすための太い綱が下がっているだけで、他には何もない。人間もいなければ、鬼の姿もなかった。たしかに神社には鬼たちが屯していたが、大助が見つめるそこには一人も存在していなかった。
「大助君、どうかしましたか?」
不思議に思った神主が近づいて、声をかけた。社務所からしばらく様子を見ていたのだが、やはり気になったのだろう。鬼たちも同じことを思っていたので、大助の答えを聞こうとそちらへ注目した。
大助は神主を見ると、頭を掻いて笑った。何と答えようか、やっと考え出したようだ。
……たまには、俺も一人になりたいときがあるってことっすよ」
しかし、ごまかすような言葉は何も思い浮かばなかったらしい。それがわかると、神主は、そして鬼たちは、ほっとしたように笑みを漏らした。誰にも言えないような悩みを抱えているわけではないと、悩みがあるならそれをきっと話してくれるだろうと、確信したからだ。
「一人になりたいなんて、何かあったんですか?」
「いや、何もねえんだけど。……本当だぜ? ただちょっと、静かな場所に行きたいと思って、ここにいるだけだ」
街は賑やかだった。十二月の末になると人間は、ここ数十年では鬼も、浮足立つようになる。クリスマスに大晦日、そして元旦と、イベントが続くからだ。特にクリスマスは、楽しげな音楽や装飾に彩られ、とても明るい雰囲気が街中を包んでいる。
人間たちが幸せそうだと、鬼も幸せな気持ちになる。この時期は、夏祭りの次くらいに幸福感に満ちている。そんな中、大助が一人になりたがるなんて。静かな場所を求めるだなんて。
『賑やかなのは、嫌いではないはずだろう』
大助は何もないというが、私は気になっている。思わず出ていって、口を挟むくらいには。
すると大助は、ほんの一瞬だけ困ったような顔をした。けれどもそれを私に覚られることのないようにしたのか、すぐにいつもどおりの優しい笑顔になって、言った。
「そうだな、賑やかなのは好きだ。祭りも、年末に盛り上がる街も、俺はすごく好きなんだが、……ときどき、その音や光から離れたくなるときもあるんだ。思い出すことも、色々あるからな」
私は鬼として情けないことに、ここでようやく、大助が何も考えずに拝殿を眺めていた理由に気付いたのだった。
何も考えていなかったのではない。何も考えたくなかったのだ。
大助は、強い。おそらくはどの鬼の子よりも。喪った親にさほど未練を持たず、呪い鬼が出現すればまっすぐに立ち向かっていくような人間だ。けれどもそれは、大助が親と一緒に過ごした記憶を持たないからだ。自分はできることをやるしかないのだと、割り切っているからだ。
けれども、毎日そうして生きていけるほどには、人間は強くはできていないのだ。途方もなく長い年月を生きる鬼ですら、心を痛め、壊すことがあるのだ。大助が説明のできない寂しさを抱えていたとしても、おかしいことなんか何もない。
私が妙な表情をしていたから、大助がそっと私の頭に手を伸ばす。そして、髪がぐしゃぐしゃになるくらい、乱暴に撫でてくれた。
「たまにだよ、たまに。いつもそんなに辛気臭いわけじゃねえ。だから、そんな困った顔するな」
それは私が大助に言ってやらなければならない言葉だったのに。やはり、大助は強かった。強くて弱い、私たちが大好きな人間だった。
『困った顔などしていないぞ。それより、一人になりたいのだったら、私たちはいないほうがいいか?』
私が髪を直しながら尋ねると、大助は首を横に振った。
「いいや、もう一人で静かにはやめだ。やっぱり、性に合わねえや。それにどうせ、お前たち鬼が、いつもそばにいるからな。一人になんてなれねえよ。……今度は、亜子たちも連れてくる」
そのほうが楽しいもんな、と大助は笑う。私も、そうだな、と笑う。それを見ていた他の鬼たちや神主も、あたたかな微笑みを浮かべていた。
「それにしても、ここから見る景色は最高だな。町がクリスマス一色になってるのがよく見えるぜ」
大助は参道のほうを向いて、手を額にかざした。私もそのまねをして、礼陣の町を眺めてみた。
ああ、みんな幸せそうだ。子供のためにクリスマスのプレゼントを用意することができたのか、おもちゃ屋の袋を持ったほくほく顔の大人が歩いている。ケーキの予約をしてきたらしい親子が、ケーキ屋からにこにこしながら出てきた。サンタクロースの服を着たアルバイトの少年が、客に労いの言葉をかけてもらって、嬉しそうにしている。
それらの光景を、町のいたる所で鬼が見ている。心に温かな灯をともして、人間の幸せを喜んでいる。今日はもう、呪い鬼は出ないだろう。
「大助君は、今年も亜子さん一家とクリスマスを過ごすんですか?」
神主が尋ねる。わざわざ訊かなくとも、すでに愛から話をされて知っているというのに。
「そう、うちの兄弟みんなで呼ばれてる。今年もシュトーレン作って待ってるからって」
「それはいいですね。楽しんできてください」
それじゃ、また。そう言って大助は私たちから離れていった。大きく手を振って、元気に。
その姿を見送りながら、神主がぽつりと言った。
……もう、大助君には見えなくなってきたんでしょうね。彼も大人になってきたんですね」
鬼の子には鬼が見える。けれども、それは特別な場合を除き、本人が子供であるときまで。心が成長して、鬼の助けが必要なくなれば、次第に鬼を見ることはできなくなっていく。
神社にいた鬼のうち、大助が見ることのできた数は、いったい何人になってしまっただろう。もしかして、それを確かめるためにも、神社に来たのだろうか。
「見えなくなっても、そばにいるからって。私たちは君の家族ですよって、言ってあげたら良かったのでしょうか。彼は町の鬼たちがぼやけていくのを見て、人間の家族がクリスマスを楽しみにしている姿を見て、何を思っていたでしょうね……
神主は石段を下り終えた大助を、まだ見つめていた。私は少しだけ考えて、そしてやはり大助の後姿を目で追いながら、返した。
『言わなくても、わかってるさ。大助は鬼の子の中でも、特に優秀だ。こちらの思うことも、きっと汲み取ってくれているだろう』
だから笑顔で帰って行ったんだ。私はそう思う。思いたい。
……あなたがそう言うなら、そうでしょうね。きっと大助君のことは、あなたのほうがよくわかっているでしょうから」
神主が言ってくれた言葉を信じて、私はもう小さくなってしまったあの背中を、見えなくなるまで眺めていた。