祭りも、休みも、過ぎて終わった。まだ暑い日は続くものの、朝方や夜はだんだんと涼しくなってくる。礼陣の町は静かに秋を迎えようとしていた。
御仁屋も夏のメニューを下げ、秋限定の菓子を出し始めた。果物が美味しいこの季節は、自然とそれらを使ったもの、かたどったものが多くなる。
それを眺めつつも、海は定番のおにまんじゅうを頼んだ。今、彼の目の前には、放課後のおやつに悩むよりももっと大事なことがあった。
「礼大に進もうかとも思ったんですけど、あんまり興味がわかないんですよね」
白紙の進路志望調査票をテーブルの上に置いて、正面に座る大助と亜子に、そうぼやいた。
海は今年、礼陣高校の一年生になった。和人のいる学校で、和人と剣道をやりたい。その思いだけで選んだ進路だった。
その和人は現在高校三年生であり、来年の春には卒業する。そうして向かうところは、なんと隣県の国立大学だという。彼は礼陣を出て行くことを選んだのだ。
和人が決めたことならば、応援して送り出さなければならない。そう思っていた海にも、進路を決めなければならない時はやってきた。
二年生からは進路に即した選択授業が主となる礼陣高校では、一年生の秋にはこの先のことをほぼ確定させなければならない。だが、これまで和人を追いかけるだけだった海にとって、それは難しいことだった。
だったらまた追いかければいいのでは、とも思った。だが、それでは礼陣を離れることになってしまう。そうしたら、進道家にははじめ一人が残されることになる。いまだ葵鬼が封じられ続けているあの家に、たった一人で。
ならば地元の礼陣大学へ進学しようかとも考えた。ここには文学部と経済学部、社会学部がある。だが、海はそのどれにも興味を持てなかった。どちらかといえば理数系科目の方が好きで、勉強するならそっちがいいと思っていた。
「じゃあ、北市女学院大にでも進む?」
亜子がいたずらめいた問いを投げかけると、海はぶんぶんと首を横に振った。たしかに北市女学院大学は地元にあって、理数系の学部もある。だが、その名のとおり女子大だ。行けるわけがないし、行きたくもない。
「就職は? 考えてねえの?」
今度は大助が尋ねる。海は低くうなってから、「考えました」と言った。
「就職するなら医療関係がいいなって。祖父がそうだったので」
「じゃあ専門学校か大学行ったほうがいいんじゃねえ? ここにはねえけどよ」
「そうなんですよね……」
酷い我侭だと、海も思っている。進路の話をすれば、父も担任教師も応援してくれるだろう。やりたいようにやりなさいと、必要な準備も手伝ってくれるだろう。
礼陣を出ると言えば、笑顔で送り出してくれるだろう。
「……大助さんは、就職するんでしたっけ」
思わず自分の話から目を逸らした。進路の話だから、全くの方向転換ではない。
「ああ、大学に進学するつもりは最初からなかったし。それに早く家出ないと、兄ちゃんが結婚できねえからな」
大助の兄である恵は「大助が独立したら結婚する」という誓いを立てているらしく、もう何年も付き合っている彼女を待たせていた。だが、進学しない直接の原因はそれではない。兄と姉に、育ててくれた恩返しをできるだけ早くしたかったのだ。
「だから俺は参考にならねえぞ。お前の進路は自分で決めろ、海」
海が話をごまかそうとしたことはばれていた。さすがに付き合いが長くなると、浅い考えなどすぐに見抜かれてしまう。
「別に、礼陣を出ることは悪いことじゃねえんだから」
海が家を離れることに躊躇しているのは、葵のことがあるからだ。
呪い鬼として家に封じられているから、というだけではない。かつて彼女が人間だった頃、礼陣を出て、遠い町へ行った。それと同じことをするのが嫌だったのだ。
状況はまるで違うのに、行動が重なってしまうことを、ただ恐れていた。
「俺の進路、か……」
自室で呟きながら、進路指導担当からもらったパンフレットを見る。他県にある、医療関係の学校のものだ。自分から欲しいといったくせに、まだ迷っているふりをしている。そんな自分に苛立ちを覚える。
進路志望調査票の提出期限は迫っている。学校の名前を書いても、白紙で出しても、いずれは父の知るところとなる。
海はさんざんうなった挙句、パンフレットを丸めて握りしめると、部屋を出た。
数日後、海は大助と二人で、神社の境内にいた。
神社では鬼たちが、いつものようにのんびりと世間話をしている。だがそれがはっきりと見えるのは、もう海だけだ。大助には、その姿をぼんやりと捉えることしかできないらしい。鬼の子としての力が弱まってきているのだ。
「大助さん。俺、進学します」
見慣れた礼陣の光景を眺めながら、海は言った。
「瀬川先生に、学校のパンフレットをもらってたんです。でも、なかなか踏み切れませんでした。礼陣から出る覚悟がなかったので」
「……おう。それで?」
「父に思い切って相談して、正直な気持ちを全部言いました。そうしたら……行きなさいって、即答されました」
やりたいようにやりなさい、程度の答えは予想していた。けれども、ここまではっきりと言われるとは、思っていなかった。
だから驚いたけれど、一方で、とてもすっきりした。
「俺、よそに行きます。礼陣から離れて、俺のやりたいことをやります」
目指しているところに行くことになれば、六年は礼陣を離れることになる。それをわかっていて、覚悟して、進路を決めた。
「でも、その先も決めてるんです。俺はここに帰ってきますよ。勉強もしたいけど、道場も継ぎたいんです。どっちもやってやります!」
一度決めたら、真っ直ぐに。それは海の性分だ。後輩にうつってしまうほどの、強い性質だ。
大助はうなずいてくれた。そして、海の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。三年前から変わらない、乱暴な撫で方だった。
「頑張れ、海」
『がんばれー』
『勉強いっぱいしろよー』
大助の声に続くように、鬼たちが声をかけてくれた。彼らもまた、海の背中を押してくれるようだ。
「はい。頑張ります」
遠くに行くことを頑張るのではない。自分の人生を歩むために頑張るのだ。
進路志望調査票の提出締切日がやってきた。多くの生徒はこの日までじっくり悩んだようで、一斉に記入済みの調査票を取り出していた。
「ん? 進道、そんな遠いとこ行くの?」
サトが海の調査票を覗き込んで言った。それにつられるようにして、もう一人も覗いてきた。高校に入ってからの友人、連だ。
「本当だ、結構遠いな。海は道場があるからと、礼陣を離れずにいるかと思ったが」
「連さん、鋭いですね。ちょっと前まではそのつもりでした。……でも」
もう、悩んでなんかいない。あとは前に向かって進むのみ。
「ちょっと外からこの町を眺めるのも、いいかなって思って」