私がまだ、ほんの子犬だった頃の話である。
正確には、私はこの町の生まれではない。産まれてまもなく兄弟たちから引き離され、知らない土地の木陰に置いていかれてしまった。つまりは、捨て犬であった。
母を飼っていた人間の、せめてもの情けというものだったのだろうか。幾分か丈夫な箱に、ふわふわした布が詰められていた。私のしばらくの住処は、そういう場所だった。
だが、屋外に放置された箱や布がそういつまでも丈夫でふわふわなわけはなく、まもなくしてそれはぐにゃぐにゃのごわごわに変質した。なれない匂いと、心地よいとはとてもいえない感触に、非常に切ない思いをしたことをぼんやりと憶えている。
腹も減り、頭はぼうっとし、しかしながら生きる術など得ていない私が、その数日生きていたことは奇跡だったのだと、今にして思う。

さて、そんな私がこうして思い出を語れるほどに生き延びているのは、やはり転機があったからに他ならない。人間は「捨てる神あれば拾う神あり」などという言葉を使うそうだが、私にとってはそのままのことが起こったのだった。
「うわ、犬だ」
その声とともに、体がひょいと持ち上げられた。この頃の私は、なにしろ子犬だった故、簡単に持ち上げられてしまう大きさだったのだ。
体が宙に浮き、しかしながらきちんと支えられ、いったい今の自分はどのような状況になっているのかと混乱はした。けれども、目の前にあった顔を見て、そんなことはどうでもよくなった。
私を抱き上げたのは、人間の子供だった。あとで知ったことだが、当時は小学生という位にあったらしい。彼は私を抱いたまま、後方にいた別の子供に声をかけた。
「和人、犬いる。まだ子犬だ」
「あ、本当だ。捨てられちゃったのかな、可哀想に」
あとからやってきた子供は、私の頭を丁寧に撫でた。それから「どうする?」と言った。
「このまま置いておくわけにはいかないよね。このあいだみたいに、獣医さんに連れていこうか?」
「そうだな、風邪ひいてるといけないし。それから飼い主募集のポスター作って……
彼らは「小学生」という位の人間にしては、妙に手際が良かった。こんなことには慣れているといったように、私をその場所から連れ出した。そして、たくさんの動物の気配がするところへ運んでいったのだった。

二度目に彼らに会ったとき、私は随分元気になっていたように思う。栄養もしっかり摂ることができ、暖かな寝床でゆっくり休むことができたためだろう。
そんな私を見て、子供二人は目をきらきらさせていた。
「この子、こんなに真っ白だったんだね。可愛いなあ」
「元気になってよかったな、お前。……環境変わっても、大丈夫かな」
子供のうち、ほんの少しだけ背の高いほうは、どこか不安げにそう言った。
すると私の世話をしてくれた人間の大人が、「大丈夫」と口にした。
「流君がしっかり世話をするなら、きっと家でも元気にしてくれるよ。……それにしても二週間連続で動物を引き取ろうとするなんて、相変わらず野下さんは気前が良いというか……
「母さんと桜とばあちゃんは猫好きだけど、父さんとじいちゃんは犬のほうが好きらしいから。俺はどっちも好きだけどさ」
「一応飼い主募集のポスターも作ったんですけど、流のおじいちゃんがそれを見て、引き取ってきなさいって即決したんです」
このときは彼らが何を言っているのかわからなかったが、今なら全て理解できる。これは、私の新しい住まいが決まった瞬間だったのだ。
かくして私は、子供の家もとい野下家に引き取られることとなったのだった。

ところで私の新しい家には、人間以外の先住者がいた。子猫である。どうやら私よりも一週間早く救われ、この家の仲間となっていたらしい。
「小さい頃から一緒なら、仲良くなるかな。けんかとかしないといいけど」
私を拾った子供たちよりも小さな子供が、その猫を膝に載せながら言った。
「けんかしないようにって教えたらいい。桜はトラに、俺はこいつに」
「うまくできるかなあ……
子供たちはまだまだ心配しているようだったが、私としてはそんなものは無用だという思いだった。私は助けてくれた人間のいうことならきこうと、幼心に考えていたのだ。
だから、この子猫とけんかとやらはしない。教えられたとおりにしていこうと決めた。
だが、まもなくしてこの子猫のほうがなかなかの曲者であったと、気づくこととなるのであった。
「そういえばお兄ちゃん、犬の名前は? トラのときみたいに、安易な名前つけないでよ」
「安易っていいながら、結局トラって呼んでるだろ。……よし、決めた」
子供は私を抱き上げる。見ているだけでこちらも体が温かくなるような顔をして、私に向かってこう言った。
「お前はオオカミ。でっかく強くなれよ!」
「ほら、やっぱり安易!」
以来、私はオオカミと呼ばれるようになった。野下オオカミの誕生である。
のちに主の希望通り、大きくは育った。だが、強くなったかどうかは自分でも甚だ疑問である。
先ほども言ったが、子猫のほうが曲者であった。気位の高いトラという名の猫はその後、常に私よりも上位にいようとし、強さを誇示していくのだった。
それはまた、別の話。