礼陣の北市地区に、高い煙突を持つ建物がある。いつも煙をもくもくと吐き出していて、山からも確認できるそれは、昔ながらの佇まいを残す銭湯の煙突だった。
この町には神社に商店街と、どこか懐かしい雰囲気を持つものが多く存在している。銭湯「幸の湯」も、その一つだ。
狭い集合住宅にすら風呂があることが当たり前になった現代だ。わざわざ銭湯に行くような人間は減ってしまったが、それでも幸の湯はそこに存在し続けてきた。客がまったくいなくなってしまったわけではないからだ。長い付き合いの常連客や、町の大学に通う学生たちなど、毎日誰かしらここにやってくる。番頭をしている老夫婦は、そういった人々を迎えるために、風呂場をきれいに磨き上げて準備をしているのだった。
さて、今日の幸の湯には、若い客がわらわらと来ていた。冷たい風が町を吹きぬける今日この頃、人々が求めるのは温もりである。商店街の和菓子屋で温かいほうじ茶を飲むのも良いが、たまには湯船に浸かって全身を温めるのもいいものだ。そんなことを、町のお祭り男とも称される野下流が提唱したのだった。
「幸の湯は名前のとおり、幸せを呼ぶ銭湯なんだ。俺は小さい頃からじいちゃんと一緒に通ってたから、とても幸せな毎日を送っている」
「そうだな、お前は本当に毎日おめでたい頭してるよな」
みんなで風呂に入るというだけでご機嫌な様子の流に、大助は呆れて言い捨てる。「おめでたいってなんだよー」と流が言い返すと、今度は黒哉がじとりと睨んだ。
「人と一緒に風呂に入りたがるとか、お前はおかしい」
「そうか? 修学旅行みたいで楽しいと思うぞ」
「オレは修学旅行が楽しかった覚えなんてない」
そうは言いながらも、黒哉はそこから出て行こうとはしなかった。古めかしい雰囲気の漂う銭湯に、歴史や文化が好きな彼が興味を持たないはずははない。流と、そして和人は、それをわかっていて誘ったのだ。
「楽しかった覚えがないなら、今日を楽しめばいいよ。在もね」
「はい。僕は黒哉と来られたので、すでに楽しいですよ」
「やめろよ、気持ち悪い……
たとえ腹違いの兄と兄弟ごっこをしなければならないとしても、幸の湯のもつ魅力には抗えなかった。

礼陣の人々は、お互いのことをよく知っている。それは幸の湯の番頭や客たちも例外ではなく、黒哉たちが中に入るなり声をかけてきた。
「流ちゃん、和人ちゃん、久しぶりだねえ! 今日は友達をたくさん連れてきたんだな」
「でっかい風呂はみんなで入ったほうが楽しいからな!」
「半ば無理やり連れてきたんですけど、きっと幸の湯を気に入ってくれると思って」
昔から足繁く来ていた流と和人は、番頭とも楽しそうに話している。常連客たちもこちらを見ると、嬉しそうに笑うのだった。
「おや、常田のぼっちゃんじゃないか。このあいだはどうもね」
「いえいえ、祖父がお役に立てたのなら嬉しいです」
「一力のボウズ、まーたけんかしたらしいな!」
「うるせえ、こっちだってしたくてしたわけじゃねえよ」
在と大助も、ちゃんと知られている。二人の受け答えも慣れたものだ。黒哉が感心しながら見ていると、こちらにも優しげな老人がやってきた。
「日暮君だね。礼陣にはもう慣れたかい?」
「あ、はい。半年経ったので、だいぶ……
黒哉にとって彼は初対面だが、相手は黒哉が今年になって礼陣に来たことや、一人暮らしをしていることを知っていた。一時期不本意にも有名になってしまったということもあるだろう。だが、老人はそんなことなど気にしていないというように接してくれた。
「黒哉はもう幸せそうだね」
在に言われて、頬が緩んでいたことに気づく。慌てて口を結んでも、もう遅かった。一緒に来ていた彼らは、みんなこっちを見てにやにやしている。
「そうそう、黒哉のそういう表情が見たかったんだ」
「やめてください、主将」
「お前もかわいいとこあるじゃねえか」
「大助はマジでやめろ。こっち見んな」
だが、一度恥ずかしい思いをしてしまえば、もう怖いものはなかった。服は脱いでたたみ、棚に置いてある籠に入れる。浴場への戸を開けると、湯気がもうもうと溢れてきた。
体を洗いながら、ちらりと他の人を見ると、普段の生活が垣間見える。
流と和人は自然にシャンプーの貸し借りをしている。大助は髪も体もさっさと洗ってしまう。そして在は。
「黒哉、背中流そうか?」
どうやら黒哉の世話を焼きたくて仕方がないらしい。
「いらねーよ。この年になってそれは引く」
「え、そう? 大助君、兄弟ってそういうものじゃないの?」
「俺は参考にならねえぞ。兄貴と年離れてるから」
そういう問題ではない。とにかくさっさと済ませてしまわなければ、在がうるさそうだ。
体を流して、やっと湯船に浸かる。熱めの湯が広い湯船いっぱいに張ってあって、体を沈めると思わず息が漏れた。
「やっぱり大きいお風呂っていいよね。心道館にも大浴場があって、中学までは稽古後にみんなで入ったりしたよ」
「じゃあ、主将はこういうの慣れてるんですか」
「うん。思わず人に背中流そうかって訊いちゃうくらいには。引く?」
さっきの在との会話を聞いていたらしい。黒哉はばつが悪くなり、返事ができなかった。だが和人はそれを楽しそうに見ている。どうやら後輩の反応で遊びたかったようだ。
のんびりと湯に浸かって、たわいもない話をする。ときどきは他の客とも言葉を交わして、町の情報も入手できる。
のぼせる前にあがって、シメには瓶牛乳。ここまでくれば、なるほど、「幸の湯」の名前も実感できる。ただ風呂に入るだけなのに、この充実感はなんだろう。
「黒哉、どう? 今、幸せ?」
……まあな」
兄の言葉にも素直に答えられるくらいには、幸せだ。