いつの頃からだろうか。誕生日といえば、コーヒーゼリーだ。ケーキではなく、母が作って冷蔵庫に入れておくコーヒーゼリーが、その日の定番となっていた。
母が死んでから、半年が経った。生まれて初めて、母のいない誕生日を迎えたが、コーヒーゼリーは自分で作ってみた。そういうわけで例年のように、冷蔵庫には二個のゼリーが控えている。

「そういえば、今日は黒哉君の誕生日だね」
アルバイト先のコンビニには気のいい人が多く、店長も従業員のことをよく覚えていた。履歴書に書いたきりの生年月日をしっかりおさえ、当日の仕事上がりにはケーキを奢ってくれる。廃棄の処分なんかではなく、ポケットマネーで買ってくれるのだ。
黒哉も、いかにも甘そうなチョコレートケーキをもらった。トッピング、クリーム、スポンジと全てチョコレート味という、好きな人にはたまらない品だ。テレビ番組でも紹介された人気商品で、よく売り切れている。
「ありがとうございます」
店長からケーキを受け取り、黒哉は丁寧に頭を下げた。自分を雇ってくれている上に誕生日のプレゼントまで確保してくれたことが嬉しかった。しかしその分、甘いものが苦手であることが申し訳なかった。
甘いもの全てが食べられないわけではない。現に御仁屋の和菓子は好きだし、自分で菓子を作ることもある。だがこのチョコレートケーキは、できれば他の誰かに譲りたいくらいに甘さがくどそうだった。
どうしたものかと悩みながら家に帰ると、玄関先に小さな人影が見えた。だが、人間ではない。子供のようなシルエットは、頭に二つのつのを持っている。この町には当たり前にいる、鬼に間違いなかった。
「子鬼、待ってたのか」
黒哉が声をかけると、その小さな影はこちらに駆け寄って来た。ぱあっと咲いた笑顔は、夜なのに随分と明るく見える。
『うむ、そろそろ帰ってくる頃だと思ってな。黒哉と一緒の夕餉を楽しみにしていた』
「独り暮らしにたかるなよ……」
そう言いつつも、黒哉は子鬼を部屋へ招き入れる。いつもと変わらぬ行動だ。
ケーキの袋をテーブルに置き、まずは台所に向かった。作り置きのおかずと、タイマーをかけて炊いておいた米を二人分用意し、盆にのせて居間に運ぶ。子鬼は目を輝かせながら、夕食を待っていた。
「ほら、食うぞ」
『黒哉の作る食事はいつも美味そうだな! これが楽しみで通ってるんだ』
そう言われるのは、悪い気がしない。だから黒哉も、子鬼と囲む食卓を楽しんでいた。加えて今夜は都合がいい。
テーブルに置いた袋をちらりと見る。くれた人の気持ちはとてもありがたいが、食べるのに難儀しそうなケーキ。これをデザートとして子鬼にやれば、悩みは解決しそうだ。
「飯のあとで、この袋の中身を食ってほしい」
『これか? くれるというならもらうが、いいのか?』
「ああ、オレは食いきれないから」
黒哉が言うと、子鬼は少し困った顔をした。いつもは大喜びで受け取るのに、と思っていると、すぐにその理由は明かされた。
『今日は黒哉の誕生日だろう。私がこれを食べてしまったら、黒哉のお祝いにならないのではないか?』
どうやら子鬼も、今日が何の日であるか知っていたようだ。気を使う彼女に、黒哉は微笑みを浮かべて返した。
「これはオレには甘すぎるんだ。食えるやつが食ったほうがいい。それにオレは、誕生日にはケーキじゃないものを食う」
『ほう、そうなのか。何を食べるんだ?』
興味深げに尋ねる子鬼に、後でな、と言って、黒哉は夕飯を食べ始めた。子鬼もそれに続いて『いただきます』と言った。

食後、テーブルの上には二種類の菓子が並んだ。一つは黒哉がバイト先でもらったチョコレートケーキ。もう一つは冷蔵庫で冷やし固めておいたコーヒーゼリー。
『誕生日はコーヒーゼリーなのか』
「親が生きてた頃は、昼間のうちにゼリー液を作っておいて、晩に食べられるようにしてくれていたんだ。今年は自分でやってみた」
黒哉の唯一の身内であった母は、我が子のために朝な夕な働いていた。合間に用意ができるゼリーは、この家では果物に続く定番のおやつだった。特にコーヒーゼリーは、母の、そして黒哉の好物なのだ。
「多分、これを作るのは今年で最後だ。自分で作ってたら、なんか色々と思い出しちまったからな」
死んでしまった母との記憶が、今朝、ゼリー液を作っているときによみがえってきた。二人分にしてしまったのは、そのせいだ。もういない人のことを考えてしまうのは、切なく苦しいことだった。
だから、今年でコーヒーゼリーは最後にしようと思った。自分で自分のために作るなんて、虚しいだけだ。
子鬼は何か言いたげに、黒哉とコーヒーゼリーを見ていた。だが、言葉を紡ぐことはなかった。
辛気臭い話をしてしまったな、と思い、黒哉が子鬼にケーキとゼリーを勧めようとしたときだった。来客を知らせるチャイムが鳴り、外から声が聞こえてきた。
「黒哉、帰ってきてる?」
それは腹違いの兄、在の声だった。こんな時間に何の用かと、黒哉は呆れ気味に玄関へ向かった。
「なんだよ、いきなり来るんじゃねーよ……」
文句を言いながら戸を開けると、在のへらりとした笑顔が見えた。それから、彼の持つ包みも。
「ハッピーバースデイ、黒哉。これ、僕と母から」
差し出されたそれは丁寧にラッピングが施されていて、解くのがもったいないほどだった。黒哉のためにと特別に用意したであろうことは明白だ。
ただ受け取って帰すのもばつが悪い。少しだけ迷ってから、黒哉は在を部屋に招いた。
「わざわざそんなもん持ってくるんじゃねーよ」
きちんと在が座れるスペースを用意し、余っていたケーキと、子鬼にやっていない二つ目のゼリーを置いた。驚いたようにこちらを見る在に、黒哉はなんでもないように言う。
「トリックオアトリート。菓子をやらなきゃ、悪戯されるんだろ」
「ああ、今日はハロウィンでもあったね。でも黒哉の誕生日なんだから、僕に気を遣わなくてもいいのに」
「食いきれねーから押し付けてんだよ」
くすくすと笑う在と、にやにやしながらとこちらを眺めている子鬼。二人から目を逸らしながら「早く食え」と言うと、「いただきます」の声が重なった。
「わあ、美味しいね。このゼリーは黒哉のお手製?」
コーヒーゼリーを一口食べた在は、表情をほころばせた。子鬼も黙ってはいるが、ゼリーを口に含んで幸せそうな笑顔を浮かべている。
「……一応、手作り」
「そっか。亜子さんや大助君、それから先輩たちにも食べさせてあげたいくらい美味しいよ。今度、また作ってよ」
『私もまた食べたいぞ。誕生日だけの特別なら、来年を待つ』
コーヒーゼリーを作るのは、これが最後だと思っていた。けれども、そうはさせてくれないらしい。こんなに嬉しそうな表情を見てしまったら、負ける。
「……わかった、また来年な」
『やった!』
「来年? どうして来年なの?」
在は不思議そうにしているが、来年は来年なのだ。これは誕生日のためのコーヒーゼリーなのだから。
ただ来年からは、自分のためだけではなく、他の誰かのためにも作る。誕生日を祝ってくれたことへの礼と、日頃の感謝を込めて。
それを思えば、きっと苦しくはなくなる。母もそうだったはずだから。
「あ、黒哉。プレゼント開けてみてよ。気に入るかどうかわからないし」
「え、お前の目の前で開けたくねー……」
今度はもっと、たくさん作ろう。二つだけでは足りないし、自分の分がなくなってしまう。
とりあえず今年は、バイト先に持っていく分を追加で作ろう。