礼陣神社の境内の、隅にひっそり御神木。
そのすぐそばに佇むは、みつあみおさげの女の子。不思議な雰囲気、穏やか笑顔。目にする人を魅了する。人間も鬼も彼女を見ると、足を止められ動けない。
彼女の名前は三橋初音。神社が好きな女学生。
人は彼女をこう呼んだ。「礼陣神社の三橋さん」。
それを耳にした彼女は言った。
「まるで妖怪か都市伝説ね」

 秋になると、礼陣を囲む山々は鮮やかに色づく。四方どちらを見ても、赤や黄色で満ちている。この景色を見慣れた住人たちも、初めてこの町で秋を迎える人々も、ほう、と恍惚の溜息を漏らすほどに美しい。
 暖色にぐるりと取り巻かれているのに、町に吹き込む風は冷たい。盆地状になっているこの土地は、季節ごと時間ごとの寒暖差が大きいのだ。朝晩は上着をしっかり着込まなければならないが、昼間は天気が良ければぐっと気温が上がるために、薄着でも外を歩けることがある。
 秋の夕方は、コートを羽織らなければ寒いが、かといってしっかり着込んでしまうと暑くも感じる。そんな微妙な温度の中を、学校帰りの学生たちが行き交っていた。
 そのまま家に帰る者もあれば、部活で走りこんでいる者もある。甘味屋や喫茶店に寄り道をする集団や、本屋で立ち読みをする個人の姿も見える。だが進道はじめは、そのどれにも当てはまらない。彼が向かうのは、町に古くからある神社だった。
 礼陣神社、またの名を「鬼神社」。そう呼ばれるように、ここで祀られているものは鬼だった。ただし、この町の鬼は神のように崇められる一方で、人間と同じように生活を営む住人でもある。鬼たちは一部の人間にしか姿は見えないが、確かに存在しているのだ。
 はじめは鬼たちを見ることのできる「鬼の子」だった。礼陣では、鬼が見える人間――それは主に子供に分類される年齢の者だ――のことを、そう呼ぶのである。人間として生きながら鬼と接することもできる彼らの視界は、普通の人間とはほんの少しだけ違っていた。
 一見、静かで人の少ない神社の境内も、鬼の子が見れば賑やかなものだ。多くの鬼たちが輪を作り頭をつきあわせ、楽しげに会話や遊びに興じている。はじめの目にも、その姿が当たり前に見えていた。そして当たり前に、彼らと挨拶を交わすのだった。
 しかし、はじめが神社を訪れる目的は、鬼たちと触れ合うことだけではなかった。彼は毎日、ある人物に会いにきていたのだ。
 鬼だらけの境内に、ぽつんと人間の少女が佇んでいる。彼女はいつも御神木のそばに立ち、風にざわめく枝葉を見上げていた。穏やかな笑顔を浮かべ、ただそこに存在していた。その光景だけを切り取ることができるのなら、きっと美しい絵になるに違いない。はじめだけではなく、多数の人間や鬼がそう思っていた。
 その「絵」を崩したくなくて、はじめは自分から彼女に声をかけることを控えている。彼女がこちらに気付くまで、離れたところから姿を見ているのだった。
「まあ、進道君。こんにちは」
 しばらくすると、彼女はこちらに視線をくれる。そうして、見た目と同様に上品な声で名前を呼ぶのだ。はじめにとって、それは至福の時だった。
「こんにちは、三橋さん」
 彼女の声を聞いてから、挨拶を返す。すると鬼たちがこちらを注視するのがわかった。これもいつものことだ。鬼たちは、彼女と言葉を交わすことのできるはじめを羨ましくも微笑ましくも思っているのだった。
 彼女――三橋初音は、普通の人間だ。鬼を見ることはできない。だが、この町の多くの人間がそうであるように、彼女も鬼の存在は信じていた。だから、鬼の子であるはじめに会うと、決まって問うのだ。
「今日は、鬼さんたちは元気?」
「はい、元気ですよ。みんな三橋さんと話がしたくてたまらないようです」
「ふふ、そう。それは嬉しいわ」
 彼女ははじめの返事を聞くと、心底喜んで目を細める。その表情が、はじめは、そして鬼たちは、とても好きだった。胸が高鳴り、少しだけ焦ってしまうほどに。
「ああ、そうだ。三橋さんに借りていた本を返そうと思っていたんです。とても面白い本でした」
 はじめは慌てて、鞄から一冊の文庫本を取り出した。可愛らしい柄の包装紙をカバー代わりにしたそれは、はじめが数日前に彼女から借りていたものだった。
「もう読んでしまったの? 進道君は読むのが早いわね。私はまだ、あなたに借りた本を読み終わっていないの。ごめんなさい」
「いいえ、ゆっくり読んでください。僕は人よりもちょっとだけ、文字を追うのが早いだけです。友人にも、お前は本当に内容をわかって読んでいるのかと言われてしまいました」
「実際のところは?」
「ちゃんとわかっています。この作品は、時間が穏やかに流れているようで、読んでいてとても気持ちが落ち着きました」
 話しているあいだにも、心臓の音と鬼たちのざわめきが頭に響くようだった。彼女がにこりと微笑むたびに、鼓動が大きくなり、鬼たちが囃し立てるのだ。
 しばらく本の話をしていると、はじめの耳に足音が届いた。こちらへ近づいてくるそれが誰のものなのかは、すぐにわかった。これもまた、神社へ来た日の常なのだ。
「はじめ君、初音さん。相変わらず楽しそうですね」
 声をかけたのは、この神社に住む「神主」と呼ばれる者だった。この町の誰もが彼をそう呼ぶのだが、本当の名前は誰も知らない。さらにいえば、彼は人間でもなかった。町で唯一の、普通の人間にもその姿を視認することのできる、鬼なのだ。もう何百年も、現在の姿を保って生きているのだという。
「まあ、神主さん。こんにちは」
「こんにちは。神主さんも一緒にどうですか? 三橋さんから借りた本の話をしていたんです」
 不思議な存在ではあるが、町の人々はみんな神主に親しんでいた。それははじめや彼女も例外ではなく、彼の言葉にこうして気軽に応える。
「それでは私も仲間に入れてもらいましょう。どんな本なのですか?」
「青春小説です。友情や恋愛が、緩急ありながらも穏やかに描かれているんですよ。私が最近読んだ中では一番面白かったので、進道君にも読んでもらったんです」
 みんなが神主と接し、神主もみんなと接している。しかし、彼女と話すときの彼は、特別優しげで嬉しそうだった。おそらくは自分や幾人かの鬼たちが抱えている感情と同じものを、神主も持っているのだろうと、はじめは思っていた。
「初音さんが好む作品ですから、きっと素敵なんでしょうね。どうでしたか、はじめ君?」
 そして神主もまた、はじめの気持ちを知っているに違いなかった。知っていて、二人ともその想いを口にしない。はじめは神主や鬼たちに遠慮し、神主は自らの人生の長さを壁とし、鬼たちは彼女と触れ合うことすらできないのだ。それでも、みんな彼女を好きだった。彼女の笑顔に、纏う空気に、強く惹かれていた。
 それをきっと知らないで、彼女は神社に通っている。「礼陣神社の三橋さん」と表されるほどに、足繁く訪れている。彼女はこの場所が好きだったのだ。
「登場人物の一人である女子生徒が、三橋さんによく似ているんです。その、微笑がきれいな人で……
「それはそれは。今度私も読んでみたいですね」
「あら、では次は神主さんにお貸ししましょうか? 進道君はもう読み終わってしまったそうなので」
 場所だけではない。彼女ははじめも、神主も、彼らの思惑とは違う意味で好きだった。この町の全てが、彼女にとっては抱きしめたいほど愛しいものなのだ。だから誰も、彼女へ想いを告げようとはしなかった。

誰もが彼女をこう呼んでいる。「礼陣神社の三橋さん」。
それは彼女に惹かれるから。彼女が人をとらえるから。
彼女はみんなの宝物。その意味もこめてこの呼び名。「礼陣神社の三橋さん」。
けれどもいつかはそれも終わり。彼女も誰かを想うだろう。
それならその名と過去だけが、この場所に残り続けるのだ。
「まるで妖怪か都市伝説ね」
きっと彼女のいうとおり、伝説となり語られる。町を愛してやまない少女。人を愛してやまない少女。人間と鬼に愛されて、幸せな笑みを浮かべる彼女。
人間も鬼も呼び続ける。「礼陣神社の三橋さん」。