礼陣高校の特別教室棟に、ひっそりと存在する社会科準備室。そこを占拠しているのは、一人の女性教諭。教材のほかに大量に並べられている資料の中で、日々考えを巡らせている。その内容は、もっぱらこの町の歴史や伝承についてだ。
彼女を訪ねるのは、担当する授業への質問がある生徒や、なにかしらの用事がある教員。そして、彼女が顧問を務める「礼陣歴史愛好会」の会員生徒。この愛好会の会員は、たったの一名である。

「鬼っていうのは、礼陣というコミュニティのために作り上げられたシステムだと思うのよ」
これが女性教諭、平野頼子の持論である。
礼陣には人間のほかに「鬼」と呼ばれる人々がいる。彼らは頭につのを持つだけでなく、不思議な力を使うことができる。例外を除いては一部の人間にしかその姿を視認することはできない。その性質から、礼陣の人間たちは鬼を神のように扱い、彼らを祀る神社も建立されている。
しかし、頼子にとってもっとも重要なのはこの事実ではない。鬼について人間が語る伝承や、その背景にある歴史が、彼女の興味の対象だ。
頼子には鬼を見ることができない。だからこそ資料や人々の語りからわかることをもとに、鬼について推測している。
「作り上げられた、って……鬼は想像や妄想じゃないんですよ。実在しているんです」
一方こちらが、会員生徒である日暮黒哉の言い分である。
彼は鬼が見える「一部の人間」だ。礼陣ではそういった人間を「鬼の子」と呼んでいる。なぜなら「一部の人間」はほぼ共通して片親あるいは両親を亡くしており、鬼が彼らの親代わりとなるのだと、礼陣の人々は考えているのだ。黒哉は唯一の身寄りであった母親を殺人事件で喪い、以来鬼の姿を視認し、接することができるようになった。
鬼とのやりとりが可能な黒哉からしてみれば、頼子の推測は的外れに思えることもある。だが、重要なのは答え合わせではない。まだ礼陣に来てから数ヶ月しか経っておらず、鬼の子になって日が浅い黒哉にとっては、自分に起きたことの意味や理由を考えるということこそが大切だった。
ともに考え、知的好奇心を満たし、疑問を解決していく。その過程で新たな疑問が生まれたなら、今度はそれに取り組む。それが礼陣歴史愛好会の活動だ。
もちろん十年近く礼陣を研究している頼子と、礼陣に来て間もない黒哉では、知識に差がある。加えて鬼が見えるか見えないかといったところでも、認識や考え方に違いがでてくる。
だが、それが二人にとってちょうどいいことだった。差や違いがなければ、そもそも話し合いをする必要などないのだ。目線が、思考が、違うからこそ研究の必要性が生まれ、それを楽しむことができる。
毎週金曜日の放課後、二人は互いに考えや知識をやりとりし、礼陣という大きく手ごわいパズルを解いているのだ。

テーマは大抵頼子が決める。ときどきは黒哉が何か情報を仕入れてきて、それについて話をしたり、知識として確認をしたりすることもあるが、多くの場合は頼子の興味に従うのだった。
今回は「鬼はシステム」というところから始めるらしい。
「鬼が実在していることは私も承知しているわ。だから私が言っているのは、鬼を視認できない人間が思う鬼のこと。人間が鬼について語ることや思うことが、礼陣の町で暮らす上でのシステムになっているのだと考えているの」
「よくわからないんで、具体例をお願いします」
黒哉は腕組みをして眉根を寄せる。一見怒っているようだが、彼はただ頼子の言葉を理解しようと一生懸命考えているだけだ。
それをわかっている頼子は、口の端を持ち上げて優雅に微笑むと、組まれた黒哉の腕を人差し指でとんと突いた。
「具体例は君よ、日暮君」
「オレ?」
ますます眉間の皺を深くする黒哉に対し、頼子は表情を変えずうなずく。
「そう、鬼の子が一番わかりやすいわ。鬼が親代わりになるという考え方をすることによって、孤独な子供を作らないシステム。鬼を束ねる大鬼様だと考えられている、礼陣神社の神主さんが遺された子供の面倒を見るというシステム。大鬼様のすることならば正しいはずだと考えて、地域全体が遺児を気にかけるというシステム。それが鬼の子なんじゃない?」
礼陣の人々の行動を作り上げている「鬼」というもの。彼らは実在するが、多くの人間にはその姿が見えない。しかしながら、存在するものだと信じ込んでいる。「子供が寂しさのために作り出した想像上のもの」という捉え方は、礼陣に長く住んでいる人々はしない。そう切り捨てれば、子供は孤立してしまう。
礼陣の人々は「鬼」を受け入れることによって、子供の健やかな成長を願い、助けている。それが頼子の考えだ。
「日暮君はどう? 普段の生活の中で、周囲に何か感じている?」
「オレは……
黒哉はこれまでのことを思い返す。母を喪い、代わりに人間とは違うものを見るようになってからのことを。
異形のものが見える、ということを、初めは誰にも言えなかった。自分が狂ってしまったのかと思ったからだ。
しかし、思い切って他人に打ち明けてみれば、なんということはなかった。周囲の人間はみな、口をそろえて言うのだ。「それは君が鬼の子になったからだ、だから何もおかしいことはない」と。
肉親を喪って孤独を感じていた黒哉は、「おかしいことはない」という一言に、ほんの少しだが救われた。
「礼陣の人は、親を喪った子供に対して、可哀想とは思わないんだなと感じています。鬼がいるから大丈夫、孤独を抱え続けることはない。鬼を信じる自分たちも、精一杯サポートしていく。そんなふうに思っているんだということは、なんとなくわかります」
「そうそう、このあたりの人って過剰な同情をしないのよ。……それも歴史的に見れば、飢饉なんかで家族を亡くす人があまりに多かったから、いちいち同情なんかしていられなかったのかもしれないけれど。同情じゃ食べていけない、協力していかなくちゃ生きていけないっていうのが、礼陣の根底にあるのかもね」
他にも同じ考え方と思われる言い伝えはたくさんある、と頼子は言う。そのひとつひとつを、黒哉はここで確認していく。確かめてはまた考えて、接する人に対してさまざまな思いで向き合うようになる。
「さあ、今日はここまでにしましょう。日暮君、バイトの時間は大丈夫?」
「はい。ちょうどいい時間です」
知るということは、どんな形であれ認めるということ。そのようなものがあるということを、意識すること。
頼子と黒哉は礼陣を知ることで、この土地に住む人々を、考え方を、認めて理解しようとしている。
毎週金曜日の放課後に行われる、二人だけの活動。それは周囲を知ることで、同時に自分自身のあり方を作り上げていくものでもある。