馬鹿は風邪をひかないだとか、夏風邪をひくのは馬鹿だとか、しばしば馬鹿と風邪は結び付けられる。いや、しばしばというほどたくさんの言葉はないか。それともわたしが知らないのか。
それはともかくとして、目の前の馬鹿(というに相応しいだろう。冷えた空気の中を、上着を脱いで暴れまわった上、汗も拭かずにいたのだから)は風邪で寝込んでいる。幸いにして食欲はあるようで、先ほども彼のお姉さんが愛情を込めて作ったおかゆをぺろりと完食したらしい。
わたしはといえば、向かいに住む幼馴染というよしみでお見舞いに来たのだが。彼が薬を飲みたがらないので、ほとほと困っていた。でかいなりをして、中身は子供なのである。
「大助、風邪薬飲まないと楽にならないよ」
彼のお姉さんから預かった薬と水は、未だに手も口もつけられていない。いい加減にしてほしいものである。
「大助ってば」
「うるせえな。あとで飲むから置いとけばいいだろ」
「そう言って飲まないから言ってるんでしょうが」
わたしが薬の袋を押し付けると、彼は渋い顔をしてそれを受け取った。そして袋をしばらく見つめると、あろうことか放り投げようとした。
「ばか、何やってんの」
慌てて止めると、彼はがらがらになった声でぽつりと言った。
「これ、不味いやつだろ」
ああ、呆れるほど子供なのだ、この人は。
「良薬は苦いものでしょう」
「苦いのとも違うんだよ。なんというか……薬臭い?」
「薬なんだから当たり前じゃない」
もう一度袋を押し付けてやると、彼は観念したのか、包みを開けた。そしてじっと見つめたあと、顆粒を一気に口の中へ流し込んだ。
が、すぐに咳とともに噴き出した。
「あ、ばか!」
そこら中に飛び散る顆粒。布団も床も薬まみれだ。そして彼は、口の中に残っている味が嫌なようで、必死に水へ手を伸ばしていた。
とりあえずはコップを渡し、水を飲ませ、背中をさすってやる。よほど苦手な味なのか、それとも咳のせいなのか、彼は涙目になっていた。
「亜子、悪い。散らばったの片付けて」
「しかたないな。布団に散ったのも掃うから、一回起きてよ」
勝手知ったる人の家。掃除機と布団用ノズルを持ってきて、彼が飲みきれなかった顆粒を片付ける。それをぼうっと立ったまま見つめる彼は、まだ薬の味を感じているのか、終始眉根を寄せていた。
手早く掃除を済ませて、また彼を寝かせ、水を片付けようとした。すると彼はわたしを呼び止める。
「亜子、口直しするから何か持ってきて」
「はいはい」
「キスでも良いや」
「意味わかんないんだけど、風邪で頭やられた?」
さらりとかわして、コップの乗ったお盆を持って部屋の外へ。それから、
……今のどういうことよ」
やっぱりかわせていなかったことに気づいて、顔を火照らせる。
風邪がうつって熱が上がってしまったのかもしれない。きっとそうだ。だってわたしたちは、ただの幼馴染なんだから。
そう、ただの、向かい同士の幼馴染だ。それ以上の期待はしてはいけない。
「そうだよ、だいたい風邪ひいてるのに粘膜接触とかありえないし。わたしだって苦いのはいやだし」
してはいけないのに、零れる言葉は嘘をつけない。
いつまでこのもやもやは続くのだろう。彼の風邪が治ったら? いや、そんなに早く晴れるものなら、とっくに晴らしている。
まだまだ、今の関係を壊したくない。幼い頃から築いてきた距離を保っていたい。
薬を飲んだわけでもないのに、口の中に苦い感じが広がった。そういえば、恋も風邪みたいなものだって言うんだっけ。なんて長引く風邪なんだ。十年以上続いているじゃないか。
きっともう、これは単なる風邪じゃない。対症療法なんか知るか。