友達と呼べる人はいなかった。これからもずっとできないのだろうと思っていた。
私は他の子とは違うから。誰かの興味の対象にはなっても、好意の対象にはならないのだと、幼い頃から気がついていた。
私をわかってくれるのは家族だけ。五つ違いの兄と、七つ下の小さな弟。海外出張の多い両親には、心配をかけたくないから、友達がいないことは黙っていた。とうとう言わずじまいだった。もしかして知っていたとしても、それを追及されるようなことはことはなかった。自分で自分の世界を作ることができるのならそれで良いと、それが両親の教育方針だったことは、あとで兄から聞いて知った。それは私に、とても合っていたのだろう。
小学六年生になる直前に引っ越しをして、暮らす環境ががらりと変わった。住む町、通う学校、毎日顔を合わせる人たち。今までと違うことに戸惑った。一番妙だったのは、それまで私が他人と違うと思っていた要素がなくなったことだった。
後になくなったのではなく、この礼陣という町においては、特別なフィルターがかかるだけなのだとわかるのだが。
私には異形が見える。ひとならざるもの、生きているとはとても思えないようなもの、奇妙なかたちをしたものたちを、この目に映すことができる。私には、異能があった。

「一力さん、おはよう。ここにはもう慣れた?」
にこやかに話しかけてくるクラスメイトに、私はぎこちなく「おはよう」と返す。転校してくる前はあまりに人を避けすぎていて、誰かと会話をすることがすっかり苦手になっていた。
「まだ、あんまり慣れない……かな。家の片付けも終わってないの」
「そっかあ。時間ができたらさ、クラブ活動のこととかも考えてみてね。ちなみにあたしはバドミントンやってるの。一力さんはスポーツ得意?」
「得意ではない……かな。体力測定も、そんなに結果良くなかったの」
「ふうん、運動できそうに見えるんだけどな。なんか意外」
私が会話を苦手としていても、クラスメイトは私によく話しかけてくる。転校生に対する興味なのか、仲良くしたいと思ってくれているのか、今のところははかりかねている。人付き合いには慎重にならなければ。いくらこの町に来てから異形が見えなくなったからといって、ぼろが出ればたちまちに、人の態度というものは変わってしまうものだから。
嘘つき呼ばわりも、おかしい子だと遠巻きにされるのも、もうこりごりだ。それなら最初から近づかずに、適度に離れていたほうが楽だろう。それが小学生の私が辿り着いた処世術だった。
それなのに、クラスメイトはまだ話しかけ続けて……しかも人数がだんだん増えてくる。
「おはよ、リョウコ、一力さん。算数の宿題なんだけどさ、授業の前に答え合わせしない?」
「みんなー、おはよう。一力さんさ、昨日商店街で買い物してた? 社台高校の制服着た人、あれってもしかしてお兄さん? すっごくかっこよかったね!」
「うそ、そんなにかっこいいお兄さんいるの? 紹介してよ、一力さん」
「あの……ええと。たしかにそれは兄だけど……
引っ越してきてからずっと思っていることだけれど、この町の人たちはまるで遠慮というものがないようだ。子供だけじゃない、大人もそう。向かいの家に住んでいる皆倉さんは、奥さんが外国人ということもあって習慣的なものがあるのかなと思っていたけれど、そうではないはずの人たちまであまりに……そう、言ってしまえば馴れ馴れしかった。
商店街を歩いていても、知らない人が親し気に声をかけてくる。近所の人たちもまるで私たちがずっとここに住んでいたかのように、当たり前の顔をしてお惣菜なんかを渡してくる。
きわめつけはこれだ。
――
この町は鬼に守られているからね。安心して暮らしなさい。
いい大人が、「鬼」なんて非現実的な存在を持ち出して、安心しろと無責任なことを言う。私の知っている鬼は人に取り憑いて悪意を助長させるものだったから、守られているなんてとても信じられなかった。
何も知らないくせに、変なことを言わないでほしい。私みたいに、異形が見えるわけでもないのに。
「一力さん、商店街に行ったなら、神社にはもう行った?」
クラスメイトの一人が、遠くを指さした。家と街の向こう、小高い丘の上に、黒い大きな鳥居がある。あれはこの町のシンボルだという。祀られているのは――
「神社には、春休みのあいだに一度だけ」
「あそこね、自由に遊びに行っていいんだよ。他の学校の子もたくさん来てるから、友達いっぱいできるよ。でも、鎮守の森には入っちゃいけないの」
ああ、だから一度行ったあのときも、子供が境内を駆けまわっていたのか。あれは許されていることだったのか。曖昧に「そうなんだ」と返事をして、笑って流しておいた。上手く笑えていただろうか。

礼陣神社の鳥居は、近くで見ると黒くはないことがわかる。深い緑色なのだった。
買い物は商店街のほうが得だと皆倉さんに教えられたので、私は毎日のようにおつかいに出されている。住宅街を抜け、大きな道路を渡り、駅の裏に入ったところに東西に軒を連ねる店。歩いていくには少し遠いので、近々新しい自転車を買ってもらえることになった。
神社は商店街の東端、和菓子屋さんの脇にある、石段の先。
引っ越しを随分と皆倉さんたち近所の人々に手伝ってもらってしまったために、お礼をしなければならなかった。和菓子屋さん「御仁屋」で、小さな箱詰めを四つ買う。少し重い。それなのに店の人は、「おまけだ」と言って小さなお饅頭を二つもくれたのだった。
大きな袋と小さな紙袋で両手が塞がり、うんざりする。お饅頭は、兄……は部活を決めなければならないとかでまだ帰ってこないだろうから、弟と皆倉さんの娘さんにあげよう。弟と娘さんは同い年で、並ぶととても可愛いのだ。
急いで帰ろうとして、けれども視線が石段の上へ向いた。鳥居があって、その先には境内がある。一度だけ来たときは子供が駆けまわる賑やかな場所だったけれど、今日はあまり声が聞こえない。では、今は誰もいないのだろうか。
ふらり、と足が石段に向いた。手にかかる重さは忘れていた。一段ずつ上っていくと、次第に境内が見えてくる。一番上に辿り着くと、そこは鳥居の真下で、脇に灯篭、手水舎、真正面に拝殿。少し離れたところにあるのが社務所のようだ。お守りなどの授与所も兼ねているようで、窓口がある。前に来たときにはじっくり見られなかったところが、今日はよく見えた。
来てしまったのだから参拝はするべきだろうと、手水舎へ向かう。ああでも両手が塞がっていたんだった、どうしよう……と途方に暮れかけたとき。
「おや、こんにちは。また来てくれたんですね」
頭の上から、声が降ってきた。穏やかで優しい、ふわりと吹く風のような声だった。
見上げると男の人が、笑顔を浮かべていた。にっこり、というには薄く、かといって無理に作ったような顔でもない。このうっすらとした微笑みが、おそらくはその人の笑い方なのだろう。
長い髪は束ねられ、浅葱色の袴を穿いている。あまり偉い人ではなさそうだけれど、神社の関係者だろうと予想がついた。
……こんにちは」
やっとのことで挨拶をして、ふと気がついた。「また」ということは、初めて来たときの私を知っているのだろうか。
その疑問を口にしてはいないのに、そのひとはまるで問いを掬い取るようにして言った。
「春休み、引っ越してきたばかりの頃にいらしてくれたときは、きちんとご挨拶ができませんでしたね。私はここの者です。町の人は『神主さん』と呼んでくれますよ」
「神主さん……
この人が? という言葉を呑みこむ。そういうからには、この神社の代表なのだろう。たしかに、他に関係者らしき人は見当たらない。
戸惑う私を、このひとは次の台詞でさらに混乱させた。
「一力愛さん、でしょう」
どうして私の名前を知っているのだ。息を呑んだけれど、逃げだすことはおろか、後退ることもできなかった。その場に足を縫い付けられたかのように、少しも動くことができない。おまけに目まで、「神主さん」から離せなかった。――優し気な眼差しが、ほんの少し赤く光ったように見えた。
そのひとはさらに目を細め、続けた。
「町の人の顔と名前なら、すぐに憶えられますよ。貴方は愛さん。お兄さんの名前は恵君、弟さんの名前は大助君。春休みにこの礼陣の町の、遠川地区西側に越してきた。あのあたりは洋通りとも呼ばれているんですよ」
「そうなんですか」
流れるような声に、私は自然と相槌を打っていた。それから片手の小さな紙袋を、目の前の相手に、初めて顔を合わせて話をしたそのひとに向かって差し出していた。
「よかったら、どうぞ」
弟たちにあげようと思っていたお饅頭。けれどもそのひとにあげたら、とても喜びそうだと思った。
「これは……! 御仁屋のおにまんじゅうではないですか。私の大好物です」
中身を見ずにそれと当てたのは、袋のせいなのか、それとも他に何か要素があったのか。当時の私にはわからなくて、ただただ頷いているだけだった。
「こんな素敵なものをいただいてもいいんですか?」
「はい。両手が塞がって困っていたので、いいんです」
「ありがとうございます」
そのひと、神主さんは、私の手から丁寧に袋を受け取った。そうして中身を一つ取り出し、私に返した。
「二個入っていますから、これは今、貴方が食べてください。美味しいですよ」
「は、はい……
おずおずとお饅頭を受け取って、そのまま口に運んだ。どうしてもこのひとの目の前で食べてみせなければいけないような気がしていたのかもしれない。
結局のところ、それは正解だった。齧ったお饅頭は甘く、けれども口の中で餡子がさらりと溶けて、ちょうどいい塩梅だった。今まで食べたことのない美味しさだったのだ。
「わあ、本当に美味しい」
「でしょう? 昔からいい仕事をするんですよ、御仁屋の人々は」
神主さんもお饅頭を頬張って、今度はにこにこしていた。微笑みが地顔で、こっちが笑顔なのかもしれないと、思い至ったのはずっと後のことだ。
……ここには、貴方を脅かすものはありませんよ」
夢中でお饅頭を食べていた私に、神主さんは何の脈絡もなく言った。
「貴方が見聞きするものを、信じるも疑うも自由です。人に話したっていい。誰もそれを咎めません」
口に物が入っていて、返事ができなかった。そのあいだに神主さんは手を振ってこの場から離れ、社務所の方へと歩き出していた。
「この町で、貴方が幸せを感じられますように」
その声が遠く聞こえた。最後まで柔らかな響きだった。


それから数年が経ち、私は社務所で神主さんにお茶を淹れている。
その数年の間にいろいろあって、私は神主さんと随分親しくなった。相変わらず人間の友達は少ないけれど、人と話すことは昔ほど苦ではなくなった。たぶん、慣れたのだろう。この町では、誰かの協力なしには生きられないと実感させられることが多いから。
今、幸せを感じられているかと問われれば、そうだと答えられる。人付き合いを避けようとしていた女の子はもういなくて、かわりに人と、そしてひとならざるものたちと関わっていくことを選んだ私がいる。
この町に引き込まれて、この町の食べ物を口にした。その瞬間から私はこの町の人間として生きることとなり、きっと縛られてしまったのだ。けれども嫌じゃなく、むしろ心地がいい。
「愛さん、今日のお茶請けは最中にしましょう。ちょうどいただきものがあるんです」
「根代さんが持ってきた最中なら、さっき鬼たちが食べてましたよ。残ってます?」
「ええ? ……ああ、ちょうど二個だけ。私たちのために残しておいてくれたんですね」
好意が向けられることはないだろうと思っていた私に、今は親しくしてくれる人がいる。私を想ってくれ、お菓子を残しておいてくれるような、そんなひとたちがいる。一緒にお菓子を食べようと、誘ってくれる人がいる。
私には異能がある。この町に来てしばらくしてから、その異能が役に立ち始めた。誰に疎まれることもなく、思う存分発揮して、それが多くのひとの助けになっている。
こんな未来があるんだということを、私は昔の私に教えてあげたい。そうしたらもっと、素直に可愛く笑うだろうか。
今の私が、きっとそうできているように。