女の子は毬つきが大好きでした。
ぽーん。ぽーん。
その日も家の前で、お気に入りのボールをついて遊んでいました。
ぽーん。ぽーん。
ところがあまりに夢中になっていて、気がつかなかったのです。
ぽーん。ぽーん。
ハンドルを切り損ねたトラックが、女の子のほうに向かってきていたことに。
どーん、ぐしゃっ。
女の子は家の壁とトラックのあいだで、潰れて死んでしまいました。
家は直されましたが、壁には女の子の姿が浮かび上がるようになりました。何度塗り直しても、黒い染みとなって現れるので、とうとう家ごと取り壊されることになりました。
けれども今でも、その場所を訪れた人には聞こえるのです。
ぽーん。ぽーん。
何もないのに、誰もいないのに、ボールが弾む音が。
「……で、そこでボールで遊んでると、出るんだってさ。女の子の幽霊」
声を低くして、しかし顔はにやついたままだった。終始そんな調子で話すものだから、疲れないのかな、と海は欠伸を一つした。
大学剣道部の合宿でのことである。夜中なのだから寝ればいいのに――ただでさえ朝は早いのだ――部員の数名がそんな話を始めたせいで、眠れなくなってしまった者もいた。こういうのは怖いと思う人には本当に怖いし、好きな人は悪趣味なくらい好きなものだ。
「現場、この近くなんだよね。オレ地元だからさ、昔から何遍もこの話聞いたの」
じゃあ今更するなよ、と思ったが言わない。寝てしまいたかったが、彼らがうるさくて眠れないので、とりあえず話を聞いていた次第である。これなら地元の先輩が好きで見ていた、海外のホラー映画のほうがよほど怖い。たしかあれは、厳密にはサイコスリラーとかそういう類のものだったような気もするが。
「今から行かね? すぐ近くだしさ」
「マジかよ、もう日付変わったぞ」
「二時くらいに行くのはどうよ。丑三つ時っての?」
馬鹿馬鹿しい、変にパニックになって稽古に身が入らなかったら迷惑だ。知らないふりをして寝ようと思ったら、布団を捲られた。
「進道、行くよな? お前たしか霊感あるんだよな」
そんな大層なものではない。誰がそんなこと言ったんだ。そう言おうとしたその前に、周りが口々に囃し立てる。
「そうなの? 進道って見えちゃう人なの?」
「たしかコイツの出身地がさ、変な噂で有名なとこなの。鬼がいるとかなんとか。某県の山の中らしいんだけど」
「怖がるような話は何もない」
「ほら、怖くないんだもん、コイツ。慣れてるんだって」
勝手な解釈をされては困る。というより、鬱陶しい。けれども布団を取り返すほどの気力も残っていないので、そのまま背を向けて無視しようとした。
「なあ、進道が一緒に行ってくれたら安心するんだって。行こうぜ」
行かないほうがよほど安心だと思うのだが。
結局引きずり出されるようなかたちで、外に出てしまった。音楽プレーヤーを家に忘れてきたのは本当に痛手だ。あれさえあれば、保存しておいたラジオ番組を聴いてやり過ごせたのに。
「あそこらへんに家があったんだ。柵で囲ってあるだろ。マジで見たとか聞いたとかそういう話がありまくって、とりあえず閉鎖したんだって」
人の敷地に興味本位で入ってくる輩が大勢いれば、そりゃあ閉鎖もするだろう。自分も今その輩の一員になろうとしているという事実が、海にはとても不快だった。
「進道、行ってみろよ」
「嫌だよ。なんで連れてこられた俺が先に行かなきゃならないの」
「だって霊感あるんだろ」
あったからどうだというのだ。幽霊とやらを説き伏せたり祓ったりできると、本気で勘違いされているのだろうか。それは心霊特番と漫画とアニメの見すぎだろう。
ない、とはっきり否定しないのは、嘘を吐くのが面倒だからだ。一旦吐けば重ねて塗りつぶさなければならなくなる。つまりは霊感ともしかしたら呼べるかもしれないものが、あるにはあるのだ。しかし海の場合、それは地元でのみ働くはずの感覚である。
地元、某県門郡礼陣町には、鬼にまつわるたくさんの伝承と、本物の鬼がいる。それは本当のことで、けれどもわざわざ他人に話したりはしていないはずだった。
ただ、出身地を言ったら、調べられた。それだけだ。ネット上に転がっている噂の中には、自分の家のことであろうものも混じっていた。町の剣道場には鬼が住んでいる、と。誰だ、こんなことを書きこんだのは。根も葉もないと言いきれない分、余計に厄介だ。
「じゃあ、ちょっと行って写真撮ってきてくれるだけでいいから。写メって送ってくれればさ」
「だけ、じゃないだろ。勝手にやること増やすな」
ノリの悪い奴と思われてもいいから、布団に張り付いておくのだった。後悔しながら、結局柵に囲まれた場所へ向かうのだった。
その「心霊スポット」は、手入れが行き届いていた。柵もきれいで、暗い中だが落書きなどは見受けられない。周囲も草が刈られていて、荒れている様子はない。変な噂がある場所は往々にして荒らされるものだが、積極的にきれいにしておくことで、そういうことをする輩に手出しをさせないようにしているのだろう。土地の管理者の行動は正しい。
柵は木製、高さは海の胸くらい。向こう側を覗けるが、何もないようだった。柵で囲ってあるのに中身がないから、変な噂を呼んでいるのかもしれない。人間というものはある程度の想像力があって、ドラマが大好きなのである。それも自分の損にならない都合の良いドラマが。
とりあえず何もないことを証明しようと携帯電話のカメラアプリを起動し、かざす。カシャ、という電子音が響いて、画面に撮ったばかりの画像が表示された。
やはり何もない。でもこれでいいだろう、言われたことはやった。海は柵に背を向け、戻ろうとした。
途端、何かがぞわりと背中を撫でた。とても冷たい何かで。
振り向いても、何もない。ぽっかりと暗闇があって、柵がぼうっと浮かんでいる。その向こうもまた闇だ。さっきまでそうだったのだから、当たり前だろう。
何も感じなかったことにして、また歩みを進めようとした。しかし今度は、Tシャツの裾を引っ張るものがある。目をやると、手までちゃんと見えた。白くて小さい手だ。
無視できなくなってしまった。子供に優しい町礼陣出身、小さいものには弱いのだ。ことに実家の剣道場で小中学生の相手をしてきたおかげで、海は年下に気を配るのが当たり前になってしまっている。――その人柄にもよるので、優しくするのは当然ではない。
「……何」
囁くように声を投げてみる。すると細く高い声が返ってきた。
「にげないの?」
あの怪談話が事実かどうかはさておき、女の子がここにいるのは間違いない。
「逃げないから、用があるなら言ってごらん」
聞く耳を持つかどうかは別として。
もし無理な頼みでもされたら、聞かなかったことにしてすぐに逃げよう。そう思っていたのがわかったのか、裾を掴む手にきゅっと力が入った気がした。
「ボールがないの」
「ボール?」
怪談話の、あのボールか。女の子が死の間際まで遊んでいたという。そういえば、ボールがどうなったかまでは話に含まれていなかった。
ただ、ここを訪れるとボールの弾む音が聞こえるという話だったが、ないというのはどういうことだ。
「なくしちゃったの」
「どうして」
「わかんない」
生じた矛盾が気になって、逃げ損ねた。小さく細い声が、はっきりと聞こえた。
「おにいちゃん、さがして?」
幽霊を説き伏せたり祓ったりした経験はない。だからそれができると思われるのは勘違いだ。だが、海は人ならざるものと対話し、ときにそれが持つ「呪い」と対峙したことがあった。中学生のときはそれで三年間をほぼ潰したようなものだ。いや、もっと遡れば一歳のときからそういうものに振り回され続けてきた。家に厄介なものがいるのは本当のことだ。
それらと同じようなものなら対応できるだろうかと、小さな手を掴んで振り向いた。それと真正面から向き合うかたちになるが、屈んでみても、子供らしい姿はなかった。どうやらこれは手と声だけの存在のようだ。
「あのさ、探すなら昼間のほうが良いよ。夜は見えないから」
「おひるはおそとにでられないもん」
「普段はどこにいるんだ?」
「おうち」
「お家はどこ?」
「……」
ここに出るのだから、近くではあるのだろう。ここにかつてあったという家ではなさそうだ。なぜなら話が違うから。
この近辺には民家がある。そのどれかがこの子の家だ。手を掴んでいるから指し示すことができないのだと気がついて、放してやった。
小さな手の、小さな指が、ある家を指した。ビンゴ。
「わかった。昼間に、俺がボールを探して届けてあげるから」
「そとであそんだのばれちゃう」
「ばれたほうが良いんだ、この場合。とにかく今日はもう戻れ」
戸惑っているのか、手だけがしばらく彷徨っていた。しかしそのうち、ふっと消えた。いうことを聞いてくれただろうか。そうであれば、まだ何とかなるかもしれない。
携帯電話の画面、柵の向こうを撮ったその端に、丸いものが小さく写っていた。
「進道だけ感謝されてんじゃねえよ。偶然ボール見つけただけのくせに」
合宿のときに怪談話をしていた奴が文句を言った。冗談じゃない、先に行かせたのはそっちだろう。
あの翌日、昼食返上で合宿所を抜け出した海は、ボールを拾って目的の家に向かった。家の中からは薄汚れたパーカーに擦り切れてぼろぼろになったジーンズといったいでたちの女が出てきて、海の持ってきたボールを汚いものを見るように睨んだ。が、その視線は無視して、家に入り込んだ。ともすれば犯罪者として通報されかねなかったが、そんなことはまるで考えていなかった。
ただ、家の奥にいた女の子を。汚れた服を着て、体中痣だらけになり、痩せこけたその子をどうにかしなければと、それだけを考えていた。
礼陣という特殊な土地で特殊な育ち方をしたせいなのか、虐待をしていたのが母親だったからなのか、海の勘はすでに勘ではなく、確信だった。あの小さな手の主はまだ生きていて、けれども確実に死に近づいているということが、はっきりとわかった。実体ではない手を握って、話をするだけで。
間違いなら間違いでいい。子供が普通の生活をしているのなら、虐げられていないのなら、それで良かった。けれども確信は外れてくれなくて、結局、女の子は保護された。そう経たないうちに親戚に連絡がつき、ひとまずそちらに引き取られることになった。しかしそれで完全に解決、とはならないだろう。
地元では、子供を虐げた大人には人ならざる者たちの裁きがある。普通は起こりえないことが当たり前になっていて、だから人々の考えも「世間一般の当たり前ではない」。そのため自分の行動が、衝動的だったそれが正しかったのか、海にはわからない。
ただ、届いた手紙が。「お兄ちゃん、ボールありがとう」と書かれたそれが、あの子の生存報告であることは、きっと間違いない。偽物ならすぐわかる。
女の子の生霊らしきものと会ったことは、誰にも話していない。ただボールを見つけて持ち主を探していたら、偶然その家に行きあたったのだと説明した。貫き通せば嘘やごまかしも真実になるのだなと、身をもって知ることとなった。
「偶然ボール見つけられたのは、お前のおかげだよ。俺から感謝しておく」
「お……おう。そうか?」
怪談話を無視できなかったこと、あの場所に行くのを断れなかったこと。本当に全てが偶然だったのか、今更考えてもわからない。子供がこれからどうなるのかは少し気になるが、あの母親がどうなったのかはどうでもいい。
手紙には返事を書こうと、それだけを留めた。