役場の蛍光灯を換えていたら、ちょうどその場面に出くわした。妹と、自分の大学の同級生だった男が、連れ添って窓口にやってくる。そういえば今朝、両親と話していた。遅番だから、書類を出してから職場に向かうと。
つい凝視していたら、妹たちがこちらに気づいた。それぞれに呆れたような、困ったような顔をして、脚立に足をかけている自分を見ている。
「桜、あっし、おめでとう!」
思い切って声をかけたら、恥ずかしそうにしていた。妹に至っては、兄に向かって「馬鹿」と言う始末。周りの職員は今誕生した一組の夫婦とその兄を、微笑ましそうに眺めていた。

流が役場に勤め始めて、ひと月以上が経った。今は臨時職員だが、社会人枠で本採用試験も受けたので、うまくいけば来年には正職員になれるかもしれない。結局、親がかつて望んだコースに乗ろうとしているのかと思うと、少々悔しくはある。しかしこれが今できる最善手だった。
大学を卒業してからしばらく海外にいたが、ここ最近の世界情勢の危うさに、周囲からの多大な心配が寄せられていた。加えて実家で飼っていた犬の具合が悪くなっていたのと(八月の下旬にとうとう虹の橋を渡ってしまった)、その他諸々の事情が重なって、生まれ育った町に帰ることを決めた。犬の見送りができたことと、妹たちの門出を祝えたことで、選択は間違っていなかったと思える。
一緒に国外に出ていた和人は、実家に戻って家業を手伝っている。都合よく戻って大丈夫だろうか、と本人は案じていたが、予想以上に彼の帰還は歓迎された。両親はもとより、店で働くパート従業員らが大喜びだった。さすがは礼陣駅裏商店街のアイドルだ。現在も奥様方や後輩たちに大人気である。
お互い、しばらくは故郷で地道に暮らして、落ち着いたらもう一度海外に出ようと約束はしている。それがいつになるかは、今のところわからないのだけれど。
とにかくまずはしっかり働いて、元手を稼がなければ。何も金は、海外渡航のためだけに必要なわけではないのだ。家族や知人の祝い事も、これからどんどん増える予定だった。
そういうわけで、ずっと一緒に暮らしてきた二人は、今は別々に生活している。

役場の臨時職員は定刻に帰るようにいわれている。余計な経費をかけたくないのだそうだ。とはいえ給料は安くはないので、こちらも余計なことをしなければ余暇を楽しむだけの余裕を持てる。本日の仕事を終えた流は、そのまま帰宅はせずに駅裏商店街へ寄り道し、酒屋でビールを二缶買った。日本人の好きなキンキンに冷えたものではなく、少しぬるめのもの。季節柄を考えても、こちらのほうがいいだろう。
そうして向かったのは、商店街の東寄りに位置する水無月呉服店。和人の実家だ。まだ営業中で、店内には客がいた。表から入るのはまずいと判断し、建物の隙間から裏にまわる。
呼び鈴を鳴らすと、優しげな返事とともに足音が聞こえる。裏口、と誰もが呼んでいるこの家の玄関から出てきたのは、着物姿の婦人だった。微笑んだ顔と髪質が和人に似ている。
「あら、流君。お仕事お疲れさま」
「お疲れさまです、おばさん。和人は店ですか?」
「今ちょうど接客中なの。あがって待っててくれるかしら」
「おじゃまします。あ、手伝いとかは必要ですか」
「お仕事終わったんだから、ゆっくりしててちょうだい」
もう少しどこかで時間を潰してから来るんだった、と思う。閉店の頃に来れば、片付けの手伝いができた。学生時代に慣れた掃除なら、今でも役に立てるだろう。
流を居間に残して、和人の母は再び店に戻っていった。呪文のように淀みなく流れる言葉を忘れずに。
「菓子鉢は食器棚、飲み物は冷蔵庫。テレビ番組も好きなのをどうぞ。雑誌と新聞はテーブルの脇よ」
ようは勝手にしていいということで、どうやら大人になった今でも許されるらしかった。それでも子供の頃のように甘える気にはなれず、静かになった部屋でスマートフォンを弄る。毎日何かしらの動きがあるメッセージアプリのタイムラインは、妹が婿を迎えたことで盛り上がっていた。
そう、婿なのだ。一応はこの町の名士である野下家に、妹の夫は籍を置くことになった。それもこれも、流が家を継がないせいだった。継がないつもりで出たのに戻ってきたから、実は今、生家はあまり居心地の良い場所ではなくなっている。父からの小言も煩わしい。
だったら独り暮らしでもすればいい。頭ではわかっているのに、行動が伴わない。愛犬の死を引きずっているということもあるし、帰ってきたときに変に喜ばれてしまったからというのもある。それだけ心配されていたのだ。学生時代まで使っていた部屋も、そのままきれいに整えられていた。
居心地が悪いのは、流の心持ちのせいだ。
「あのね、流。来るなら来るで、役場を出たあたりで連絡くれないと」
出かけた溜息は、その声で引っ込んだ。いつの間に仕事が済んだのか、いやそれともわざわざ切り上げてくれたのか、着物姿の和人が居間の戸口に立っていた。
「や、お疲れ」
「お疲れ、じゃないよ。まだ仕事残ってるんだから」
「片付けなら手伝う。どうせ今日は家に帰れないし」
「帰れないんじゃなく、帰らないんでしょう。手伝ってくれるなら、ジャケット脱いで掛けてきて」
いつもと変わらない対応に、おや、と思った。もしや和人は、妹のことをまだ知らないのではないか。事情を知っていたら帰るように促すだろう。
それならそれで、と言われた通りにジャケットを掛け、すでに表を閉めた店に出る。和人の父が事務仕事をしていたので、挨拶をした。
「おじゃましてます」
「いらっしゃい。ゆっくりしていて良かったのに」
「ここに来たら動きたくなるんですよ」
本当のことだ。黙って待っているのは性に合わない。和人の指示通りに店内を掃除し、ごみをまとめて捨てに行くのが、ここでの自分の仕事だった。
一通り終わる頃に、母屋からふわりと香る味噌の匂い。
「今日の具、何だろうな」
「茸じゃない? 平木のおじいさんが持ってきてくれたから」
「あのじいさん、まだ茸採り行ってるのか」
「らしいよ。僕もびっくりしたんだけどね。さて、着替えてご飯にしよう」
着替えるのに自室へ向かった和人を、流は鴨の子のように追う。ごく自然に室内に一緒に入り、昔から少しも変わらない、しかし今は自分の部屋よりも居心地のいいそこに腰を落ち着ける。和人はかまわずに帯を解いて、着物を脱ぐ。こちらに帰ってきてから、着替えの習慣がついた。以前は洋装にエプロンだけをかけて店に出ていたから、もっと支度が楽だった。
「着物、慣れたか?」
「とっくに。そっちこそどうなの、スーツ」
「さすがに慣れた。クールビズも終わったし」
「だね。ちゃんとしなきゃ、またおじさんに叱られるだろうし」
和人の言うおじさんとは、つまり流の父で、役場では直属ではなくとも上司にあたる。誰にでも厳しい人ではあるが、息子である流には特に容赦がない。もしかするとそんなふうに感じるのは流だけかもしれないけれど。家での小言のほうが印象が強いから。
……ちゃんとしてても、おじさんに叱られるね」
昨夜の小言を思い出しかけていたら、和人が溜息交じりに言った。気がつけば彼の手にはスマートフォンがあって、画面には見慣れたタイムラインが表示されていた。
「桜ちゃんたち、今日結婚したんだ。てことは、今夜は流の家はご馳走なんじゃないの」
「別に俺がいる必要はないだろ。桜のことなんだし」
「桜ちゃんにとっては、流は唯一のお兄さんでしょう。あっし君だって友達なんだから、お祝いした方がいいんじゃない」
「役場でおめでとうって言った」
そう、とだけ返事があった。これ以上は何を言っても無意味だと察したのかもしれない。部屋を出ようとしたので立ち上がり、また後ろについていく。
居間に行くと、すでに流を含めた分の食事が用意してあった。

ビールを片手に着信をチェックし、どう返信したものかと考えているあいだに、和人が風呂から戻ってくる。もう一缶を渡すと、ありがとう、のあとに呆れた言葉が続いた。
「迷うくらいなら帰ればいいのに」
「帰ったところでアウェーだからなあ。オオカミももういないし」
「アウェーなんじゃなく、流が寂しいんでしょう。しばらくこっちに顔出さなかったから大丈夫かなって思ってたんだけど、そうでもないんだね」
缶を開けて一口飲んでから、和人がちょっと顔を顰める。風呂上りは冷たいほうが良かったらしい。文句は言わなかったけれど、察することはできた。
「オオカミが死んでから、どこにいても身の置き場がない気がして。時間が経てばそのうち慣れるかと思ったけど、なかなかそうはいかないな。桜にはあっしがいるからもう大丈夫だろうって考えたら、いよいよ取り残されたような感じがしてさ」
「気のせいだよ。誰も君を置いていったりなんかしてない。勝手に立ち止まって置いていかれたって思うのは、桜ちゃんたちも心外だと思うけど」
「わかってるよ。……今までこんなことなかったのにな。寂しいっていうのが初めてで、どうしていいのかわからない」
ぬるいビールを飲みほして、メッセージを入力することを諦めたスマートフォンを放り出し、敷いてあった布団に寝転ぶ。今更帰ったところで情けないのは変わらないので、今日はここを動かないことにした。言い訳は明日すればいい。
そうやって逃げても、きっと胸に溜まり続ける冷たいものは、離れてくれはしない。
「流」
名前を呼ぶ声と、温まった手が、耳を撫でた。
「たぶん、だけど。今の君は、大学時代の僕に似ているんだよ」
「そっか、こういう気持ちか。どうしたらいい?」
「どうも何も、流が会いに来てくれたんだよ。そうか、僕が会いに行けばよかったね」
ごめんね、と言われそうだったので、その前に起き上がって、和人を抱きしめた。そのせいなのか、それ以上は何も言わなかった。
言わない代わりに、背中を優しく叩かれた。子供にするみたいに。いつか流が和人にそうしたように。

ああ、まだ、抜け出せそうにないな。それまで日々を過ごすしかないな。
なんとか大人のふりをして。