むかし、むかし。里に仲のよいととさまとかかさまが住んでいた。
かかさまの腹にはややがいて、もうすぐにでもうまれそうだった。
ととさまはかかさまとややのために、毎日山で働いていた。
ちょうど里の人々は、大きなお社を作ろうとしているところだった。ととさまはお社を建てるために使う木を、山で切っては運ぶ仕事をしていた。
ととさまはかかさまとやや、それから自分の仕事を、とても大切に思っていた。
ある日、かかさまがととさまを仕事に送りだしてから、とうとうややがうまれそうになった。かかさまは近所の人々と、それから里に住む鬼たちの手を借りて、ややをうもうとした。
ととさまが帰ってきたらびっくりするだろな、と思いながら、うんうんうなってがんばった。
ところがそのころ、ととさまは山で大けがをして動けなくなっていた。まわりにはだれもおらず、ひとりでとほうにくれていた。遠くでととさまをよぶ声が聞こえたが、返事をすることもできなかった。
おおい、ここだ。心の中で叫ぶばかりのととさまに、だれも気付かなかった。
もうだめだ。あきらめかけたととさまの前に、ぬっとでてきたものがあった。それは頭にりっぱなつのがある、この里を守る大鬼様だった。
大鬼様はととさまに、優しい声で言った。
ややがうまれた。かかさまもややも元気だ。なんにも心配はいらない。
それをきいたととさまはほっとしたけれども、かかさまとややに一目でも会いたいと願った。体はもう動かない、声も出せないととさまには、もうできないことだった。
かわいそうに思った大鬼様は、ととさまにまじないをかけた。人間だったととさまを、鬼にするまじないだった。頭につののある鬼になったととさまは、すっくと立ち上がり、大鬼様にお礼を言って、それからびゅーんと山を駆け下りた。かかさまとややが待つ家へすっとんでいった。
帰ってきたととさまを見て、かかさまはびっくりした。頭のつのはどうしたんだとたずねると、ととさまはただただにっこり笑った。
元気なかかさまと、元気なややに会えたことが、ととさまには何よりもうれしいことだった。
鬼になったととさまは、それからかかさまとややを守るようになった。山に入る仕事はもうできないけれど、かわりにとても強い力を手に入れた。
ややが大きく育つまで、鬼のととさまは、家を幸せにし続けたんだと。
礼陣の昔話には、必ずといっていいほど鬼が出てくる。鬼と呼ばれる存在と、人々が密接であることが、物語の数々からわかる。
鬼は実際に存在する。多くの人には見えないが、今でも一部の子供には見えるものだし、かつては見えたと主張する大人たちがいる。ある学者はこれを集団ヒステリーだ、伝承をもとにした幻覚だと言ったが、それだけでは説明のつかないことも頻繁に起こっている。
この土地の現象と伝承を研究し続けている頼子の周りにも、よそから見れば奇妙だが内側には「あたりまえ」のことが、ごく自然に発生していた。義妹、義弟、教え子の一部は、礼陣の持つ秘密にとても近いところにいる。
全てを暴いて広める気はないが、納得はしておきたい。それが頼子の研究目的だ。知ってどうすると言われたら、そう答える。
そうして集めることができた礼陣の昔話は、現在、息子である紅葉の子守唄になっている。
「話を間違えたり飛ばしたりしたら怒るんだよ、ちがうって。内容を暗記してるんだね。これも頼子の教育の賜物というか……」
悪く言えば毒されているか。そこまでは言わなかったが、話をせがまれる方としては、たぶんに厄介なのだろう。それでもどこか嬉しそうなのは、我が子の成長を喜ぶ方が大きいからか。
兄、恵が話すその横で、彼の子であり大助にとっての甥である紅葉は、パズルで遊んでいた。プラスチックの大きなピース同士を真剣に組み合わせて、絵を完成に近づけている。もう二歳、生まれたときに比べればずいぶん大きくなった。
「兄ちゃんと頼子さんのおかげで、頭良さそうだもんな。紅葉、お菓子食べるか?」
一歳になるかならないかの頃から、紅葉はどんどん言葉を吸収して使おうとするようになった。母である頼子が日頃から難しい単語ばかり発しているせいか、最近ではときどきこちらも意味を正しく覚えているかどうかわからないようなことを言う。
普段あまり言葉遣いがきれいではない大助も、紅葉に変な言葉を覚えられないよう、この子の前では少しだけ口調が丁寧になる。もし紅葉が乱暴なことを言えば、それは自分のせいだ。恵も頼子も穏やかな人なのだから。
「たべない。おわってない」
「終わってからじゃないと食べないのかよ」
「目の前のことをちゃんと片付けないと、気になるんだよ。頼子と同じだ」
「兄ちゃんともな」
笑っていると、何の話よー、と奥から声が聞こえてくる。先ほどから紅葉のお古を、頼子と亜子が漁っているのだった。そのあいだの子守は父親たちの仕事。今は眠っているが、大助もずっと自分の子供の大樹を抱いている。
もうじき生まれて半年、大樹は最近、あーだのうーだのと意味のない音をよく発している。本人にとっては意味があるのかもしれないが、大人にはそれがわからないので、適当に返事をしたり、こちらで勝手に意味づけをする。
「おわった。……だい、ねてる?」
パズルの絵――頼子のセンスなのか、現れたのは日本画風の猫だった――ができあがって、紅葉は満足したらしい。大助の横に来て、大樹の顔を覗き込んだ。
「大樹はまだ寝てるな」
「おきたら、むかしばなししてあげるのに」
大樹を弟分だと思っている紅葉の、最近のブーム。恵や頼子が話して聞かせ、もうすっかり覚えたという話を、大樹の傍で延々と唱える。相手が聞いていようといまいと関係なく、紅葉がそれをしたいのだ。まだおぼつかない口調で、両親の真似をしたいのだ。
「昔話か。新しい話してもらったか? おじさんに聞かせてみ」
「あたらしいの、ないよ。いっつもおんなじの。でもしてあげる」
おんなじの、という紅葉はちょっと拗ねているようだった。もっとたくさん、別の話が聞きたいのだろうが、かといって一般の幼児向けの話は、紅葉の好みじゃないという。この子が聞きたいのは、礼陣の伝承だ。頼子が収集した、この町の人間が語り継いできた話だ。――そのほとんど全てに、鬼が絡む。
「むかしむかし、さとになかのよいととさまとかかさまがすんでいた。かかさまの……」
そして伝承は、実際の出来事から派生したものが何種類かあって、微妙に違う複数の物語となっている。まとめればやはり同じ話ばかりになるだろう。
紅葉が覚えて話した、山で怪我をした男が鬼になって家に帰り、生まれたばかりの子供に会うという話。大助が知る限り、それも同じ設定でいくつも違う流れや結末がある。実際、大助が知っている話と紅葉が昔話として聞かされている話は内容が異なる。
男が大鬼様の力で鬼になる、というところは、大助が知る話では男の死が明確になっている。人間として死ななければ、鬼として復活することができない。また、男が鬼になるタイミングも違う。男は鬼になって山をおりるのではなく、魂だけ山をおりてから妻と子の姿を見て、この世に未練が残って鬼となる。
鬼が見える「鬼の子」だった大助が思うに、おそらくは自分の知っている話のほうが真実に近い。この町に住む「鬼」は、人間の未練と秘めていた力によって成るものだ。いわば強力だがほんの少し自由のきく地縛霊である。
頼子は礼陣の研究をして伝承を事細かに収集しているので、大助が知っているパターンも当然記録済みだろう。紅葉が聞かされている話は、数多いパターンの中でおそらく最もマイルドなものだ。死を省き愛を誇張した、幼い子供のための構成。あるいは、礼陣を奇異の目から避けるための。
「……いえをしあわせにしつづけたんだと。おしまい。おじさん、きいてた?」
「聞いてた。よく覚えたな。難しくないのか」
「ぜんぜん」
それでも紅葉なら、そのうちこの話一つをとっても数多くの派生があることに気がつくだろう。そこに暗い闇を見つけることになるだろう。この子は聡い。
「じゃあ、これは覚えたか? 里を治める殿様に仕えた、剣の達人の話。そいつは鬼と仲が良くてな」
「しらない! なに、おしえて」
「大助、ちゃんと整理して話してくれないと、あとで僕らがせがまれたときにできないからね。メモしないと……」
「どうせ頼子さん知ってるよ。大丈夫だって」
礼陣に関わることは鬼に関わること。紅葉も、そしてそのうち大樹も、この町の常識の中で生きていく。いつかはそれが一般の常識とは異なることに気づき、うまく折り合いをつけることになる。
頼子が伝承をマイルドにして聞かせるのは、常識の差異を曖昧にするためでもあるかもしれない。そういうことにはよく気がつく人だから。
でもいつかは、自分で。礼陣の持つ物語と、この子らも付き合うことになる。物事を読み取るのは自らで、解釈し受け入れるのも自らなのだ。